文化と芸術: 2019年1月アーカイブ

もうすぐ東京での会期が終了することに気付いたので、慌てて昨日上上野の森美術館に観に行ってきました。

 

初めての時間枠予約制でしたが、いいですね。平日昼間とはいえ、観客が殺到するのは明らかなので、予約制は安心感があります。私は13時入場枠を購入。14時半まで入場可能で、その次は15時入場。入替制ではありません。

私は待ち時間なしで14時くらいに入りました。ロッカーの空きもあり、まあまあの時間だったでしょうか。

 

入場すると同時にイヤホンガイド渡し場所。普段はイヤホンガイドは借りないのですが、それも代金込み(2500円)なのでつい借りてしまいました。また、全展示作品の紹介文が記載された小冊子も、全員に配られました。これも代金込み。正直、あまり大したことはかかれておらず、ほとんど見ませんでした。フジサンケイグループが主催すると、こういう展覧会になるのだなと、妙に納得。絵画好きというよりも、フェルメールの名前につられてくる方を主な対象としているのがありあり。フェルメール作品をこれだけ持ってくるには相当の費用が掛かったでしょうから、こういった方式で入場者を増やすのは合理的と言えば合理的。でも、絵画好きにとってはちょっと複雑な心境。

 

さて、展示全49作品中39作品は、同時代オランダ作家の作品。それらが展示された5部屋を通り過ぎて、やっとフェルメール作品だけの部屋に辿り着く。驚いたのは、最初の5部屋も人だかりができていたこと。皆さん、イヤホンガイドと小冊子で、絵画の読み取りに専念のご様子。私はさっさと、人だかりを抜けて一目散に最後のフェルメール部屋に直行。フェルメールの8作品が一堂に会した部屋は、さすがにすごかった。(「赤い帽子の娘」だけは12/20で展示終了。代わりに、「取り持ち女」が1/9から展示。数年前にドレスデンで見た作品でした。)フェルメールの作品は、全世界で35作品しか発見されていないのに、そのうちの9作品を日本でみられるのは、確かに画期的なことです。

 

フェルメール作品は物語を感じさせます。観る者の想像力を刺激し、各々が勝手に自分でストーリーを思い描かせる力が、ものすごく強いですね。

 

wain.jpg

例えば、「ワイングラス」ではグラスをまさに開けようとする女性をじっと見つめる男性。片手は既にワインボトルに。早く注ぎたくてしかたない風情。リュートやステンドグラス。少しだけ乱れた卓上が意味深です。あと、床の市松模様が微妙に歪んでいます。手前の市松は奥のそれにくらべて、上から見た確度で描かれています。つまり、奥に比べて手前の床が少し落ち込んで見える。遠近法として不自然です。なぜ、あえてフェルメールはそんなふうに表現したのか。そこの想像力を刺激されます。ワインを飲む女性が、酔っていることの表現か、はたまた女性が「堕ちていく」ことの暗示か。空間がゆがんでいるのです。

 

歪んでいるのは空間だけではありません。時間も歪んでいる。ワイングラスは、ほぼ飲み干されており空に見えます。であれば、もっと女性はグラスを傾けている(120度くらい?)はずです。でも、そうはなっておらず、75度くらの角度しかついておらず、不自然です。女性は、空になっているにも関わらず、グラスを口から離したくない。離すと男性から注がれてしまうからか。必死の抵抗に見えなくもない。そういった女性の気持ちが、あるはずのないワイングラスの確度に表現され、また女性がいやで長く感じる時間をも描いているように、私には思えます。

 

有名な「牛乳を注ぐ女」の牛乳の流れと壷の角度のズレも、フェルメール

300px-Johannes_Vermeer_-_De_melkmeid.jpg

の意図を感じます。本来、壷の底に少しでも牛乳が見えていないとおかしい。観る人は、その微妙なずれに視点を集中してしまう。その時に脳の中で傾く壷と牛乳の流れが動き出す。私は動きを感じました。つまり、フェルメールは絵画でありながら動画を観るような効果をつくりだしたように思えるのです。

 

他の作品についても、いろいろ想像が膨らみますが、このくらいにしておきます。ホンモノの作品は、やはりすごい!!イヤホンガイドや小冊子に頼ると、こうした想像力がはたらかなくなってしまわないか心配です。それは、本当にもったいないことです。

名画の誉れ高くても、なぜか観てない映画があるものです。「ディア・ハンター」は、私にとってその筆頭でした。1978年製作なので、当時は中学生か高校生。アカデミー賞受賞も評判は聞いていましたが、きっとその重さに食指が動かなかったのでしょう。ベトナム戦争の余韻がまだ残っていた時代でもあります。

 

その後、やはりその重さと地味さゆえ映画館でのリバイバル上映もほとんどなかったのではないでしょうか。そのためこの齢になるまで、観ていませんでした。

 

しかし、最近4K版での再映が始まっており、満を持して観てきました。三時間を超える上映時間があっというまに経ってしまった印象です。この名画を4Kで復活させてくれたこと、感謝に堪えません。

 

主演マイケル役のロバートデニーロが、とにかくカッコ良い。高倉健を意識したのではと思うくらい、しぶくて優しく、でも女性には弱い、そんな人物像を見事に演じています。また、製鉄所の仕事仲間でいっしょにベトナム戦争に徴兵された、ニック役のクリストファー・ウォーケン、同じくスティーブ役のジョン・サベージ、ふたりとも狂喜と狂気と哀切をきめこまやかな演技で表現しています。また、若きメリル・ストリープが本当にきれい!今の恰幅よい貫録はまったく想像できません。

 

4Kゆえ映像もとても鮮明で素晴らしい。炎が飛び交う溶鉱炉、結婚披露パーティで踊り狂う群衆、一転して静寂の鹿狩りを行う山地、そしてベトナムの怪しい貧民街、どれも4Kだから鮮明に奥行きを感じることができるでしょう。(比較してないので想像ですが)

 

さて、2019年の現時点に観ることによる感慨です。

・アメリカの製鉄会社も活気があり、そこで働く労働者には固い結束があった。トランプ支持のラストベルト地帯は、こういう時代を懐かしんでいるのだろう

・労働者でも、休日には山小屋を拠点にして鹿狩りができるほどの余裕がある。そんな豊かなアメリカがあった

・主人公らはロシア系の移民末裔のようで、それに強いプライドを持っている。現在はどうなっているのだろうか?

・こういった地方では、ベトナム戦争に反対する運動は目立つことはないようだ。裕福な大学生は戦争反対が大勢だが、労働者は怖れながらも国のために戦地に向かう若者を、敬意を持って送り出している

 

そういった今観ての感慨はともかく、この映画の普遍性は時代を超えるものであることは間違いありません。

 

製鉄所の街でともに働き遊ぶ、おそらく幼馴染の三人。この三人の友情と心情の変化がメインストリームで流れ、そこにいくつかの話が絡みあっていきます。

 

戦地でいっしょに捕虜になった三人。そこでの恐怖のロシアン・ルーレット体験。やっとの思いで脱出し救援ヘリコプターに救助されたものの、ニックだけが機内に残り、マイケルとスティーブは力尽き、川に落ちてしまう。ここから三人の運命が分かれる。マイケルは、ロシアン・ルーレットの恐怖で頭がおかしくなりさらに落下時に足を骨折したスティーブを南ベトナム軍のジープに任せ、自分はひとり歩いて逃走。

 

その後、助かったニックはサイゴンの米陸軍病院に収容される。特に怪我や病気はないものの精神的に不安定で、米国帰還が許されます。米国に残した恋人リンダ(メリル・ストリープ)の写真だけが生きる支えなのでしょう。彼は米国にかけることができる軍人専用電話からリンダに電話しようとしますが、途中でダイヤルから指を外し、そのまま立ち去る。その後は、他の兵士が電話機を確保しようと争う。そのシーンがとても印象的です。想像するに、一人だけ助かった自分が、恋人に電話することに罪悪感が芽生えたのでしょう。自分を助けてくれたのはマイケルだ。このまま帰国していいものなのか悩む・・・。

 

一人英雄として帰国したマイケルは、ニックの恋人リンダを訪れる。マイケルは、以前からリンダに片思いしていたことが、描かれています。彼も戦地でリンダの写真を持ち続けていた。そして、行方不明のニックの代わりにリンダを手に入れる。マイケルはそこに罪悪感を抱くが、気持ちを押さえることはできなかった。マイケルは、スティーブが既に帰国しているが家族とは暮らしていないことを知り、彼がいる病院を訪ねます。スティーブは両足を失い車いす姿で入院しています。家族に迷惑をかけたくない彼は、家に帰りたくないという。マイケルはそれを理解します。

 

スティーブは、サイゴンから定期的に大金が送られてくると話します。誰からかはわからない。それを聞いたマイケルは、気づきます。ニックが生きてサイゴンに留まり、足を失ったスティーブに贖罪の気持ちからお金を送っているのだと。マイケルは三つのことを考えます。ひとつは、ニックの気持ちに応えるためにも、スティーブは家族のもとに戻るべきで自分がそうせるという決意。もうひとつは、ぬくぬくと帰国しニックの恋人であるリンダと幸せを掴もうとする自分への怒り。そして、贖罪の気持ちからも、何があってもニックをベトナムから連れ戻すという決意です。

 

そしてサイゴンで再会したニックは、マイケルだと認識しすらできないような廃人になっていた。必死でマイケルは、故郷の山や木、鹿狩りの話をして思い出させようとする。一瞬、ニックは思い出したかのように微笑する。が、その直後自分で打った小銃の弾丸が頭を貫く・・。

 

きつい仕事をしながらも楽しく暮らしていた若者の人生をこうも変えてしまったのは、戦争です。マイケル・チミノ監督は、戦闘シーンはほとんどなしに、戦争の残酷さ、愚かさを見事に描き切りました。しかし、単なる反戦映画ではありません。

 

なぜ、タイトルが「ディア・ハンター」なのか?戦争にいく直前と、還ってきた直後にマイケルは仲間と鹿狩りにでかけます。行く前のマイケルは、鹿を「一発」で仕留めることが大事だと言います。それは鹿を苦しませないためです。帰還後の鹿狩りでは、大きな牡鹿を追い詰めるものの、ざわと逃がします。ベトナム戦争で、楽しみの為だけに殺される鹿と同じ立場にたったマイケルは、動物や大自然の一部である自分自身に気づいたのではないでしょうか。単なる反戦映画ではなく、人間の傲慢さや愚かさ、しかし一方で仲間を思いやる崇高な心も持つ人間を描いたのです。鹿狩りする山岳シーンは、神の存在を意識させるような荘厳な映像です。


「経済は全体から個をみるが、芸術は個から全体をみる」と言う言葉がありましたが、まさにそんな作品でした。

bg_sec_4.png

http://cinemakadokawa.jp/deerhunter/

このアーカイブについて

このページには、2019年1月以降に書かれたブログ記事のうち文化と芸術カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは文化と芸術: 2018年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1