文化と芸術: 2011年6月アーカイブ

大切な人を失ったとき、人は何によってその欠落感を埋めるのでしょうか。そこに芸術作品が果たす役割はあるのでしょうか。

 

昨日のNHK日曜美術館「記憶に辿りつく絵画」は、その問題に真正面から取り組んだ優れたドキュメンタリーでした。

 

20085月、結婚を一か月後に控えた一人の女性が、ボリビアでの交通事後で亡くなりました。両親は、そこから立ち直ることができず、ある写実画家に娘の肖像画を依頼します。画家にとっては、大変な依頼です。普通断るでしょう。しかし画家、諏訪敦さんは両親の姿にうたれ引き受けます。

 

諏訪さんは徹底した取材に基づき非常に写実的な絵画を仕上げることで有名です。当初の両親の願いは、亡くなった娘をそのまま蘇らせてほしいとの気持ちだったのではないでしょうか。

 

画家は数多くの写真、衣服、持ち物を参考にします。また両親のデッサンも行い、骨格などを体にしみこませます。写真では手のつくりがよくわからないと、京都の義手・義足の工房まで足を運びました。

 

そうして、徐々に絵を仕上げていきます。写真をそのまま絵にするのなら、絵画の意味がありません。あらゆる情報を総合して画家は娘さんの像を自らつくりあげます。さびしげな表情で、両親からプレゼントされた腕時計を外そうとする瞬間の絵です。

 

しかし、両親はそのできかけの絵が不満でした。なぜなら、そこにいる娘は、彼らが知っている勝気で前向きで明るい娘ではないからです。両親の記憶にある娘ではない。画家は苦しみます。芸術作品として描きたいものと、注文主がのぞむものが大きくずれているからです。

 

画家は、決断しほぼ完成していた絵を塗りつぶしました。そうして悩み続け、あるNPO法人を訪ねました。そこは家族を亡くした人たちの精神的ダメージを癒す活動をしています。会員の多くは子供を亡くした母親です。そこで、画家は率直に自分の迷いを語り意見を求めます。そこでの回答は、「決して自分が知っている子供の姿を描いて欲しいのではないと思う。自分が知らなかった、子供の本当の姿を描いて欲しいのではないか」それを聞いて画家は、安堵します。救われたかの表情でした。

諏訪敦.jpg

 

そこから再び画家の創作が始まります。そして、完成。不安げな画家は作品を持って両親の家を訪れます。おそるおそる壁に絵を掛けます。その部屋にも、たくさんの亡くなった娘さんの写真が飾られています。ウェディングドレスを着た写真まで・・・。

 

絵が掛った瞬間、両親は嗚咽しました。父は泣きながらつぶやきます。「恵理子だ、恵理子だ。恵理子がいる」少し間があって母は泣きながら言います。「これで、家に帰ってきて『ただいま』って言える」

 

少し落ち着いてきた父が言った言葉も印象的です。「このポーズは架空だ。こんな姿は見たことない。でも恵理子の存在自体も、もう架空なんだ。でもここには恵理子がいる」

 

画家の描いた絵は、両親を次のステップに押し出しました。なぜあんないい子が死ななければならないのだ、と苦しみ続けてきた両親が、死を受け入れて次に進もうとしているように見えました。

 

母が言った「ただいま、っていえる」という言葉は重いです。きっと娘の写真には、そう語りかけることができなかったのでしょう。なぜか? 存在をそのまま写し取った写真には、想像する余地がありません。ある特定の現実がかつて「そこ」にあったのですから。

 

しかし、絵画には現実がありません。ポーズも架空で、両親が見たこともない姿です。でもそこに真実が描きこまれています。両親はそれを感じとりました。真実があるからこそ想像がうまれる。だから、人は対話しようとする、「ただいま」って語りかけることができる。もちろん返事は返ってきませんが、両親の心には返事が聞こえるはずです。返事はそのときの気分や状況で変わるでしょう。そう、それは絵画が鏡になるからです。(優れた仏像も同じ役割を果たします。)こうした対話の回路をつくりだすことが、欠落感を埋めることなのかもしれません。

 

ここまでの絵を描いた画家の力量はたいしたものです。実物以上の真実を描いたのですから。本人を知るはずもない私までもが、絵を観た瞬間彼女の存在を感じたほどです。これが本当の「写実」です。写真のような絵を描くことが写実ではありません。

 

絵画で真実に到達するにはふたつのルートがあるようです。ひとつは山藤章二の似顔絵のようにデフォルメして真実を切り取る方法。これは抽象といってもいいかもしれませ。もうひとつが諏訪のような徹底した取材に基づいた写実です。ルートは正反対ですが、到達する頂きは同じなのかもしれません。

 

 

今、東北の被災地には、数多くの欠落感で苦しむ人々がいます。芸術の力は、これからますます求められることになるでしょう。

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