2015年8月アーカイブ

先週の土日で、三年ごとに開催される大地の芸術祭・越後妻有トリエンナーレにいってきました。多分最初にいったのが2006年だっと思うので、もう4回目です。今回は、新作に絞ってまわりました。なにしろ会場がだだっぴろい10のエリアに分散しているので、一泊二日ではほんとうに少ししか観ることができません。それでも、22か所をまわりました。(それぞれの会場でパスポートにスタンプを押すのでカウントできます)

回を重ねるごとに、地元の人のコミットが高まっていることがわかります。総合デイレクターの北川フラムさんが、今回は是非うちの集落にも作品を置いてくれといった要望が多くなり困ったと、嬉しい悲鳴を上げておられました。当初の異端視からすれば、隔世の感があることでしょう。

これだけ多くの作品群に対して、作品そのものもさることながら、地元との関わりの中で見えてくる物語性に強く関心を持つようになりました。その観点で1作品のみ紹介したいと思います。

●オリザ (レベッカ・ベルモア作):飛渡集落
正真正銘の山の中の元集落です。2004年の中越地震では道路が寸断され孤立状態が続いたそうです。その被害のため、その三年後最後まで残っていた4戸も移転を決め閉村しました。こんな山の中でも、小さいですがきれいな田んぼがいくつもあり、青々と稲が育っています。

なんとか作品のある小貫諏訪社にたどり着き、石段を上がると境内の端に樹齢800年とされる大杉がそびえ立っています。この社の実質的なご神体なのでしょう。そして、境内にはその大杉に捧げられように、袖に詰め物をした袋のようなものが数多く(樹齢の800だそう)敷き詰められています。この袖は元集落の住民から集めたのですが、住民だけでは集まりきらず近隣の集落にも協力を願ったそうです。

受付にいた地元の方が、説明が書かれた一枚の紙をくれました。その方は、閉村した集落の元住人で、その後も集落のとりまとめ役をしている、中条小貫会代表の庭野武一さんです。その説明用紙は、きっと庭野さんが手作りしたのでしょう。そこには、「小貫大杉の口伝」と「第六回大地の芸術祭のと大杉」の説明が書かれています。

詳細は書きませんが、小貫集落の起源はこの杉と戦後すぐ伐採された欅にあり、集落がなくなっても小貫会を組織し今もこの大杉を保護管理しているそうです。住居はもうありませんが、集落のもと住人は近くの集落に住み、通ってきて田畑の耕作は続けているのです。その核となり求心力となっているのがこの大杉。廃村の暗いイメージとはちょっと違います。庭野さんは、2007年の閉村式の際に作成したという記念誌を誇らしげに見せてくれました。

さて、作品を創ったベルモアさんは、カナダの著名な作家。彼女は先住民の血が流れそれを意識した作品で有名です。庭野さんによると、作品を制作する期間、この近辺には住居がないため少し離れた集落に滞在したのですが、そこから毎日3時間かけ歩いてここ小貫諏訪社まで通ってきていたそうです。彼女がここで作品を創ろうと決めたのは、樹齢800年の大杉と普通の100年程度の杉、そして現在の稲と農民の存在によって、長い時間の流れを同時にここでは感じることができるからだそうです。

そして彼女は、庭野さんにこう言ったそうです。
「私たちカナダの先住民は自分たちの土地を奪われ、差別されてきた。しかし、ここ小貫の人々は800年以上前からここに住み、自分たちの力で生活を続けてきた。これからも、この大杉に代表されるこの土地を皆で守っていくことだろう。それができるあなた方は羨ましい」
庭野さんは、そんなふうに自分たちのことを見る人がいることに驚くとともに、少し誇りのようなものを感じたようでした。表情でわかります。

さらには、彼女の作品をきっかけにして、こんな山の中に都会から人々が訪れ、全員ではないにしてもこの大杉と小貫集落のことに思いを馳せる人が出てくる。暑い中、五人の元住民が交代でこの作品の受付にあたっているそうですが、みな喜んでその役を引き受けているのではないでしょうか。

客観的に見れば、ここはもと限界集落の廃村ですが、実は今も誇らしい歴史を持った豊かな集落なのかもしれません。金銭とは別の次元の豊かさを感ずることのできる、この環境すべてがバリモアさんが意図した作品なのでしょう。

なお、作品名のオリザとはラテン語で稲を意味する言葉。長い時間と大地と自然と人間、それらを結びつけた稲がタイトルというのも、的を射たネーミングだと思います。

 この猛暑のためか、高齢の著名人が立て続けに亡くなっています。

中村政則さん、阿川弘之さん、山口鶴男さん、出口裕之さん、加藤武さん、中邨秀雄さんなど。

 

加藤さんは、俳優としても大好きでした。映画の金田一シリーズの警官役、「釣りバカ日誌」の役員役などが有名ですが、個人的には高峰秀子主演の「放浪記」(1962年)の上野山役が印象に残っています。

katoken.jpg

 

麻布中学・高校の同級生に、フランキー堺、小沢昭一、仲谷昇などがおり、その顔ぶれで想像つくと思いますが、古典芸能にも造詣が深い、大変粋な人でした。

 

昨年引退した文楽の竹本住太夫さんとも親しく、私も行った引退公演で、「住太夫!」と大きな掛け声をかけたのは、間違いなく加藤さんだったと思います。国立劇場でも何度もお見かけしました。

 

加藤さんは、先週の金曜(7/31)に、スポーツジムのサウナで倒れ、そのまま帰らぬ人となったそうです。実は、私もそのスポーツジムに通っており、三回に一回くらいは一緒になりました。(私はその前日と翌日に行きましたが、7/31にはいきませんでした)加藤さんは86歳と高齢にも関わらず、いつも自転車に乗ってこられます。そして、いつもスタジオでエアロビクスやステップをやり、サウナに入って帰られました。サウナを出て水のシャワーを浴びながら、気合の声を発するのが独特でした。

 

現役で舞台に立っている俳優さんですから、そこまで鍛えているのだろうと、いつも感心していました。ある日、サウナで一緒になると、加藤さんのぶつぶつとつぶやく声が聞こえてきます。台詞を覚えているのだろうと思ったのですが、しばらくするとそれが、般若心経だとわかりました。私は挨拶程度のお付き合いですが、非常に腰の低い方でした。

 

昨年、代表を務める文学座の公演「夏の盛りの蝉のように」の演技で、紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞したばかりで、まだまだ円熟の俳優として活躍されることを楽しみにしていたのに、大変残念です。心よりお悔やみ申し上げます。

 


加藤さんが亡くなったその翌日(8/1)に木版画家の立原位貫さんが亡くなったことを、一昨日親しくしているギャラリーの方から聞きました。


tatihara3.jpg

木版画家というより現代の浮世絵師といったほうが正しいでしょう。江戸時代、浮世絵は、絵師、彫り師、刷り師の分業で成り立っていましたが、立原さんはそれらの技術をすべて独学で身に着け、一人で江戸の浮世絵を現代に甦らせることができる、日本唯一の人でした。


私も、浮世絵の本来の鮮やかな色を再現した作品で、初めてかつてゴッホたちが感動した色を見て、フランスの印象派の画家たちが日本に憧れたことが腑に落ちました。

ooatari.jpg

 

今月の29日から萩美術館浦上記念館で、初めての大々的な個展が始まります。その矢先に・・・。

 

昨年11月、ある新聞のインビューでこう語っていました。

 

-浮世絵の復刻は欧米でも評価され、近年は独自の版画制作に力を注ぐ。今後は?

 自分の思う表現を実現できるのは、あと十年ほど。版画しかやれないから、死ぬまで版画家でいる。京都のこの辺は観光地だから、木版画で絵はがきを作って、お店で売ってもらい、今日は一万円売れたなと言って晩ご飯を食べる。これまで得た評価に拘泥せず、絵はがきを売るじいさんになれたら幸せだと思う。

 

下の世代に伝承することもなく、独学で身につけた江戸の技術とともに63歳で逝ってしまいました。日本美術界にとっても大変な損失だと思います。ご冥福をお祈りいたします。

 

合掌

このアーカイブについて

このページには、2015年8月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2015年7月です。

次のアーカイブは2015年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1