2013年10月アーカイブ

今週の日曜、私が稽古している能楽の集まりの二十周年記念発表会がありました。朝から晩まで、弟子が入れ替わり謡ったり、仕舞を舞ったり、中には本格的にプロの囃方やワキ方、地謡を従えてシテ方を一曲フルに演ずる人までいます。また、途中では、何度かプロが模範の仕舞を舞って下さいます。当然ですが、弟子の中にも力の差は歴然としてあります。もちろんプロは、次元が異なります。

 

観ているうちに不思議なことに気付きました。プロの舞台は、これまで何百番も観ていますが、素人の舞台は年に1、2回の発表会でしか観る機会はありません。プロより素人が下手なのは当たり前なのですが、観ていて心を動かされるのは、上手い素人のほうだったのです。普段のプロの公演でも、そうは心に響いてはきません。にもかかわらず、今回は上手い素人の演技に、何度も感銘を受けたのです。これは、なぜなのでしょう。

 

冷静に考えてみると、こんな心理なのかもしれません。プロの完成度が高いのは当たり前なので、期待以上の感動を受けることは滅多にありません。(それでも、年に2,3回はあります)

 

一方、自分と同じ素人弟子の演技については、どうしても自分のレベルと比較して観てしまいます。そうなると、著しく自分より上手な演技(それほど珍しことでありません)には、期待というか想定を大きく上回るため、目を奪われてしまうのです。プロと上手い弟子を、同じモノサシでは観ていないということです。そうなると、観る機会が圧倒的に少ないため、予想とのギャップが大きい上手い素人の方に、感動する傾向がある。

 

もう一つは、どんなに上手いプロの演技を観ても、自分がそれに追いつけるとは考えもしません。しかし、上手い素人の演技なら、もしかしたら自分もあそこまで行けるかもしれない、という勝手な想像を膨らませてくれるようです。

 

自分の成長の可能性をみせてくれることで、人を心地よくさせ、さらに前を向かせようとする人間心理のメカニズムが組み込まれているのかもしれません。私も、上手いお弟子さんの仕舞を観て、今は謡だけ習っていますが、仕舞の稽古を始めようかなという気になりました。どれだけプロの素晴らしい演技を観ても、なかなかそういう気にはなりませんでした。

 

このような心理は、会社組織の中でも同様かもしれません。社内のスーパースター的幹部や上司をみても、すごいとは思うかもしれませんがそこまでです。しかし、同期や同学年にすごい奴がいると、もの凄く刺激を受けます。考えてみれば、不合理です。同期であろうと上司や先輩であろうと、すごい人には刺激を受けて然るべきですが、どうもそうではない。同じレイヤーというか階層に属す仲間の存在が大きな意味を持つのです。タテの序列には従順だが、ヨコのもの同士は熾烈な競争を繰り広げる日本人の特性が、ここにも表れているのです。(例えば、TV業界の高い給与水準は気にしないが、同じ業界内の給与水準にはすごく敏感)

 

いい悪いは別にして、我々日本人にはそういう傾向があります。そうなると、やはり若いうちには、多くの優秀な同期がいる組織に属して刺激を受けることが重要です。企業側も、できるだけそういった採用なり配属をすべきです。

 

失われた20年、多くの日本企業は採用を絞り、「同期」という特殊な集団の形成を自ら放棄してきたように思います。また、反集団主義の考えが広がり、先輩後輩のつながりも薄れてしまった。同期も近い先輩もあまりいない。増えたのは派遣社員やアウトソース先ばかり。それでも目先の仕事は回るし、コスト削減の効果も大きかった。でも、それで自律的成長とか、リーダーシップとか煽られても・・。

 

 

同じような立場で、価値観も似ていて一体感がある、でも自分とは違った凄いものを持っている仲間が集まった集団、そういう集団に属すことで個人が成長し、それが結果として強い組織を実現させてきた、それが日本企業の強みのはず。弱みを克服することに血眼になるのはもうそろそろやめて、本来の強みを思いだし、復活させることが必要だと強く思います。

昔は生しかなかったはずです。しかし、科学の発展とともに再生や複製を可能にする技術が進化、同時に生産性の爆発的向上をもたらし生産コストの低減を実現しました。その結果、それまで一部のお金持ちや特定階層にしか手が届かなかったものを、一般大衆にも行き渡らせることができるようになりました。印刷やラジオ、レコードといったアナログメディアや生産技術の革命。それは空間の拡大をもたらしました。そして、次に開発されたデジタル技術はそれらをさらに推し進めると同時に、情報の高速化と半永久化することに成功しました。つまり時間の拡大。

 

例えば、かつて貴族のサロンで演奏されていた音楽は、レコードに記録され、次にラジオで放送され、遂にCD録音を経てネット配信。今では、誰でもどこでもデジタル化された演奏を聴くことができます。

 

情報の民主化という意味では、行きつくところまで来た。それはいいことでしょう。しかし、その反動か、生やアナログに対する再評価も高まってきている気がします。ただでデジタル情報を配りまくり、稼ぐのは生の場(例えばライブ)で、というモデルです。

 

生、アナログ、デジタルそれぞれの価値を、あらためて考え直す必要があると思われます、

 

例えば、写真の世界。写真家の小林紀晴さんがこんなことを書いています。

 

ただ、いくつもの(銀塩)写真を目の前にして感じたことがある。存在の大きさだ。それを突き詰めて考えれば、撮られたフィルムがひとつだけしかないという点からきている気がする。(中略)だから人は銀塩写真が持つ、儚さやあやうさに惹かれるのではないか。

 

アナログ写真に特有の「あじ」があると言っているわけではありません。(LPレコードには、CDにはない「あじ」があるという人はいますが・・)それ以前の、「存在」に関わるところに価値があると言っているわけです。これは合理的には説明できない感覚でしょう。でも、絶対にある。

 

私が今仕事中に水を飲むために使っているグラスは、吹きガラスでつくったグラスです。普通のグラスは、型に溶けたガラス成分を流し込んでつくるものです。その方が均質で薄くて整った製品を、大量に安く生産できるからです。一方、私の使っているグラスは、職人がひとつずつ溶けてガラスの球に息を吹くことで形をつくるため、少々ぼてっとしていびつでもあります。しかも、少しだけ値が張る。なぜ、それを自分だけのため(他人に見せるためでなく)に使っているかといえば、それをつくった製作者の顔と汗が思い浮かぶからとしかいいようがありません。それは、見栄えや機能とは全く関係のないことです。

 

銀塩写真も吹いてつくったグラスも、理性よりも感性、しかもモノそのものよりもそれが出来上がるまでのプロセス全体への敬意といった感覚が価値の源泉になっている気がします。それを、「モノからコトへ」と表現する人もいるでしょう。

 

マクドナルドよりモスバーガーが好きなのは、カップを使い捨てにしないこともひとつの理由だと思います。効率追求のデジタルよりも、ひと手間かけたアナログに好意を感じる感覚、そう理屈ではなくあくまで感覚。

 

しかし、当たり前ですが、全てがアナログ時代に戻るべきだと考えているわけではありません。それぞれの価値を認識した上で、適材適所で使い分ける、あるいは組み合せることが大切です。つまり、1軸だけで全ての優劣を決めてしまうような偏った見方ではなく、それぞれの良さを認める懐の深さといいますか度量の広さ、これがこれからの時代にはますます重要になってくる気がするのです。

 

部屋で一人静かにCDの音を聴くのもいいですし、コンサートホールで多くの聴衆とともに生の演奏を体験し、時間と場を共有するのもいい。どちらにも、それぞれの喜びがあるということです。(なんだか、当たり前のことを書いてしまった気がします。)


ところで、教育の世界でも、MOOCの登場によってやっとデジタル化が追いついてきたようです。生とアナログとデジタルをどう組み合わせるか、面白くなりそうです。

 

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