2019年7月アーカイブ

内宮神楽殿で御神楽を奉納(初穂料を納め、それによって御神楽を神様に奉納するので、我々が奉納したことになるのだろう)したあとで、いよ

IMG_0204.jpg

いよ天照大御神を祀る正宮(正式名称は皇大神宮)を参拝。2013年に遷宮がなされたので、建築後6年です。建物はもうかなり古びた味わいのようなものを醸し出していました。

 

階段の下からまでしか撮影できないので、右はそこからの写真です。正宮の中心となる正殿は、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重もの垣根で囲われています。一般参拝者は、板垣と外玉垣の間までしか入れません。私たち社中は、玉串料を納めることで、もう一段階内側の内玉垣の外側まで入ることができました。

 

外玉垣の内側には、玉砂利というには大きすぎる、15cm~20cmもあるグレーっぽい丸石が敷き詰められています。そこを歩くのは、かなり大変。正装でなければなりませんが、ヒールのある靴では危険です。興味深いのは、神様に正対する場所の石は、すべて真っ白。これは、全ての別宮も同じ。

seiden.jpg

々は、中重鳥居の後方あたりに整列。代表の観世喜正師が中重鳥の下あたりに進み出て、全員揃って二礼二拍一礼。そして、またしずしずと外玉垣を出ました。

 

お垣内参拝(外玉垣の中に入っての参拝)を終えて、いよいよ参集殿での能楽奉納です。1015分の開始時には、客席は満席で立ち見もでるほど。地元の皇學館大學の学生による仕舞から始まり、観世喜正師による半能「逆鉾」が奉納されました。半能とは、能の後半だけを演じるものです。逆鉾のシテ(主役)は瀧祭明神であり、内宮の別宮である瀧原宮が、その神様を祀っています。先生は舞台を終えた後で参拝してきたそうです。

 

半能の後で、多くのお客さんは帰っていきました。仕方ないでしょう。その後、15時半ごろまで、弟子の舞台が入れ替わり続きます。途中13時頃、大連吟を行いました。大連吟とは大勢が舞台に座り、声を合わせて一斉に謡うものです。40人以上で「絵馬」の最後の部分を謡いました。「絵馬」は、伊勢神宮の斎宮が舞台で、最後には天照大御神と天鈿女命と手力雄命が現れ、天の岩戸隠れの故事を再現するというもの。その部分を大連吟したわけです。とてもアップテンポでついていくのが大変でしたが、要所では後方に座る先生がリードしてくださるので、何とか無事謡い終えることができました。これも得難い経験です。

 

ところで、私の仕舞の出番は最後から三番目。ほとんどの方は、出番を終えて、着替えもすましリラックスしているのに、待たされる私の緊張はずっと続きます。いやなものです。この能舞台での稽古をする時間は一切ないので、床の感触などは本番までわかりません。


私の演目は、「雲林院」です。舞台は京都の雲林院ですが、シテは伊勢物語の主役といわれる在原業平の霊。なぜ伊勢物語と呼ぶかには諸説あるそうですが、現在は第69段の伊勢国を舞台としたエピソード(在原業平と想定される男が、伊勢斎宮を連れだし密通してしまう話)に由来するという説が最も有力視されているとのこと。

 

私が仕舞で舞う部分(クセ)は、在原業平が二条の后を連れだし逃避行する場面です。連れ出すのは斎宮ではありませんが、伊勢神宮で奉納するにはふさわしい曲とも言えそうです。(演目を決めるときは、そこまで考えていませんでした)

 

また、その直前にみた御神楽の人長舞の装束が、ちょうど私が舞うパートで語られる在原業平の装束と似ていたので、イメージが湧きました。

 

そして出番。喜正師と中所先生が地謡で座る前に進みて、片膝座り。「きさらぎや」と、シテ謡いをし、立ち上がりました。舞台では眼鏡を外すので、遠くが見えません。見えない方が、気楽とも言えます。床のすべりが、普段稽古している床と違って滑らないので、なかなかすり足で前に進むのが難しい。でも、出番を終えた方から、その情報を得ていたので焦ることはなく、なんとか大きなミスはなく終えました。終わった時は、汗びっしょり。

 

終演後、バス出発まで1時間くらい余裕があったので、おかげ横丁の赤福

akafukukoori.jpg

へ。その頃には雨が止みかなり蒸し暑くなっていましたから、舞台を終えた解放感も加わり、本当に美味しく赤福氷(赤福餅の入った抹茶かき氷)をいただきました。

毎年恒例の能の発表会、今年は伊勢神宮の内宮参集殿能舞

新規ドキュメント 2019-07-09 13.54.39_page-0001.jpg

台にて、7/7(日)に行いました。我々の先生である観世喜正師が、神様に能楽を奉納するというのが正式な名目であり、その後で素人弟子もついでに奉納という名の発表会を行うというわけです。

なにせ、場所が伊勢神宮ですから、これまでの地方での会とは趣が大いに異なります。これまで、昨年の名古屋能楽堂から溯り、彦根城、佐渡、京都観世会館と場所を変えて実施してきました。いずれも夏だったので浴衣に袴の衣装でよかったのですが、今回が紋付袴です。

 

7/6(土)早朝に東京駅に集合、そこから団体行動です。団体旅行には慣れていないのですが、ここは添乗員付き旅行にどっぷりつかります。総勢40人くらいの団体です。

 

お昼すぎに宇治山田駅に到着、バスでおかげ横丁へ。そこで自由行動となり、各自昼食。てこね寿司を食べに「すし久」へ。おかげ横丁全体もそうなのですが、古い建物を利用しており、いわゆる観光地の「・・・横丁」「・・・通」とは一線を画していました。「すし久」も、江戸時代の旅館の風情を残しており、弥次喜多道中にも出てきそうな雰囲気。

 

その後、バスで外宮へ。伊勢詣ででは、外宮のあとに内宮を参拝するのが決まりだそうです。私は初めての伊勢神宮だったので、少し勉強していきました。

 

伊勢神宮とは、正式名称ではなく、正式には「神宮」です。「The神宮」です。日本全国にあるあまたの神宮は、●●神宮と呼びますが、その総本山である伊勢には●●は不要なのです。皇族に苗字がないのと近いかも・・。

 

その神宮は、内宮と外宮、それから14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社によって構成される一大組織です。もちろんその中核が、皇室の祖先といわれる天照大御神お祀りする内宮です。正式には、皇大神宮といいます。

外宮は別の神様をお祀りしています。それは衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神です。だから正式名称は、豊受大神宮です。

 

内宮と外宮それぞれに正宮があり、20年ごとに遷宮されます。なので、正宮の隣には必ず旧正宮の跡地が更地になっています。

IMG_0201.jpg

 

さて、外宮正宮を参拝し、その後、近隣にある別宮(土宮、風宮、多賀宮)も参拝。どれも正宮の縮小版のようで、遷宮するため隣に更地が残っています。

 

ちなみに、外宮の勾玉池には池にせり出した能舞台があります。以前は、ここで能楽奉納をしていたそうですが、3年前の台風で被害にあい、現在は閉鎖されています。

 

外宮を出たバスは、二見ヶ浦で夫婦岩を拝んだ後、ホテルへ到着。夜の宴会を経て初日日程終了。翌日舞台にも関わらず、結構皆さん羽目を外しておられました。

 

7/7(日)は早朝7時半にホテルを出発し内宮へ。お垣内参拝をしるため、全員礼装に準じた服装です。私は濃紺のスーツにネクタイ。普段着と羽織袴に加え、スーツも持参と、なかなか大変でした。

 

内宮は、五十鈴川に面して配置されており、水との関わりが深いことが感じられます。我々が奉納という名目の発表会を行う、内宮参集殿に荷物を預け、内宮神楽殿に向かいます。そこで、祝詞をあげていただき、そして神楽を拝見するのです。

 

IMG_0203.jpg

神楽殿の中では、全員正座です(畳敷きとはいえ、これが結構つらい)。4人の舞女が、ご神前(奥の台座)に神饌(神様のお食事)を順々においていきます。その後、神職が祝詞を奏上。そして、その後に、いよいよ御神楽が奉納されます。

 

後で知ったのですが、神楽殿で奉納される御神楽は4段階あり、私たちは最上位の特別大大神楽を奉納しました。当然初穂料が異なります。

 ・御神楽        [倭舞]

・大々神楽    [倭舞・人長舞]

・別大々神楽[倭舞・人長舞・舞楽1曲]

・特別大々神楽[倭舞・人長舞・舞楽2曲]

 

 

雅楽の調べとともに、4人の舞女が群舞。その後に、一人ずつ男性が舞い、4人続きます。いずれも、とても鍛え抜かれ、洗練された舞でした。舞を含む雅楽には単調で退屈なイメージを持っていましたが、全く見方が変わりました。厳かな美しさとでもいいましょうか、動きの激しい舞も一部の隙もなく、突き詰められた緊張感が漲りエネルギーを発します。こうした舞楽が、生きたまま千年以上伝わっていることに感動します。とても贅沢な体験でした。

 

それぞれの特徴は、とても私では説明できないので伊勢神宮HPから転載します。

 

倭舞:

倭舞は清和天皇の御代から宮中の儀式で舞われています。本来は男子4人の舞ですが、神宮では明治時代に乙女舞に改められました。舞人は舞女が緋色長袴に、白い千早をつけ、紅梅をさした天冠をいただき、右手に五色の絹をつけた榊の枝を持って、楽師の歌にあわせて舞います。舞振りは優雅で歌に伴奏する和琴、笛ふえ、篳篥、笏拍子の調べは、単調ながらも幽玄な余韻があります。

 

人長舞:

宮中の御神楽の中に「其駒」という曲があり、神楽人の長が舞うので「人長舞」といいます。舞人は葦に千鳥模様を青摺にした小忌衣をつけ、手には御鏡を模した白い輪のついている榊を持ち1人で舞います。舞振りは落ちついた神々しいもので、いわれもめでたい歌舞として尊重されています。倭舞には現代的な華やかさがあるのに対し、人長舞は上代的な幽玄さがあるといえます。

 

舞楽:

雅楽には、日本で古来歌われてきた国風歌舞(くにぶりのうたまい)5世紀から10世紀にかけて中国大陸や朝鮮半島、また林邑ベトナム、天竺インドなどから渡来した外来音楽、11世紀ごろ日本の宮廷で流行した朗詠・催馬楽という3種類の歌曲があります。

国風歌舞には、神楽歌・倭舞・東遊(あずまあそび)などがあり、特徴として歌に舞を伴い、和琴・笏拍子などの楽器を伴奏に用います。

外来音楽は一般に雅楽と呼ばれるもので、中国大陸から渡来したものを唐楽(とうがく)といい、朝鮮半島から伝わったものを高麗楽(こまがく)といいます。唐楽には笙・篳篥・龍笛・羯鼓・太鼓・鉦鼓など、高麗楽には高麗笛・篳篥・太鼓・鉦鼓・三ノ鼓などの楽器があります。唐楽・高麗楽を伴奏とする舞を舞楽といいます。唐楽の舞は左舞と呼ばれ、赤色を基調とする装束を着けて舞うのに対し、高麗楽の舞は右舞といい、青色を基調とする装束で舞います。


このアーカイブについて

このページには、2019年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2019年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1