2010年2月アーカイブ

映画「インビクタス」を観ました。リーダーシップについて考えさせられる、優れた映画だと思います。クリント・イーストウッドにしては、ストレート過ぎる印象はありますが。

 

ネルソン・マンデラ大統領が、いかに南アフリカを一つにまとめ上げていったのかが、よくわかります。私が感銘を受けたのは、白人の象徴だったラグビー代表チーム(一人以外全員白人)を彼が守ったことです。黒人幹部は、チーム名やエンブレムを変更することを全員一致で決定します。そこに、マンデラが乗り込んで、一説ぶってひっくり返すのです。

 

「チームは白人たちにとって宝だ。その宝を奪ったら、彼らはどう思う?我々を恐ろしい存在だと恐れるだけだ。それは、これまで白人がやってきたことだ。我々は、彼らとは違う。赦す大きな心を持っている。それを、彼らに見せてやろうじゃないか。」

 

そして、帰りの専用車の中で、疑問を呈す秘書に言います。

「白人は人口こそ少数だが、警察も軍隊も経済も握っている。彼らを敵に回して、国が維持できるはずがない」

 

白人と黒人の和解という崇高な理想と、超現実主義の両面を兼ね備えているのが、本当のリーダーなのです。

 

 

チーム主将を招いて尋ねます。「どうやって、メンバーの力を引き出すか?」主将は答えます。「まず、自分で模範を見せます。」マンデラは言います。「その通り invictus.jpgだ。自分でできない者の言うことを誰が聞くか。でも、それは、持てる力を100%出させる手段だ。120%以上の力を引き出すにはどうすればいい?」黙る主将に言います。「インスピレーションだ。私は牢獄の中で、詩を読むことでインスピレーションを得、持てる以上の力をもらった。君は、何でそれを得るか?」

 

インスピレーションとは何なんでしょうか?人に持っている以上の力を出させるもの。人が大きな変化を引き起こすとき、そこには、何らかのインスピレーションが引き金になっている。それが、人々の心に火を点けるのです。

 

なんか、もやもやしますが、確かにそれはあるはずだと直観します。

創造性開発は、日本企業にとって永遠のテーマといえるでしょう。先週の日経夕刊の連載されていた「人間発見」、MITメディアラボ副所長石井裕さんの回は、非常に興味深いものでした。

 

NTTで研究していた石井氏は、国際会議で講演した直後、米国の学者に声をかけられる。

「君はメディアラボに行くべきだ。君の美学はメディアラボが求めているものと同じだ」日本で発表しても、製品化にいくらかかるかとか、必要な通信量はどのくらいかだとかしか尋ねられなかったそうです。

 

ここに、日米の研究や創造性に対する考え方の違いが如実に表れていると思います。日本での関心は、製品化の可能性なのにたいして、アメリカ(MIT)では「美学」なのです。本当に創造的なアイデアは、美しいのです。それは、開発者の美学が、アイデアに込められているから。そして、研究機関自体も美学を持っている。創造と美学は、兄弟のような関係なのでしょう。

 

MITメディアラボに移った早々、石井氏は所長からこう言われます。

「MITでは、これまで取り組んできた研究のことは忘れて、全く新しいことをやれ。人生は短い。新しいことに挑戦するのは最高のぜいたくだ。」MB.jpg

MITが石井氏を評価したのは、彼の研究成果ではなく、彼の美学であり、才能なのです。過去の研究成果は、過去の環境におけるものであり、MITメディアラボという最高の環境であれば、もっと優れた研究ができるはずだとの、強烈な自信に基づいての発言なのでしょう。出来上がりを求めるのではなく、成長ののりしろを求める、素晴らしい態度だと思います。

 

 

そこでもまれた石井氏は、こう語ります。

「真の競争は100mを速く駈け抜けることではありません。競技のトラックもストップウォッチも、競技のルールすらない原野をただ一人で孤独に耐えて走り、そこに新たなトラックをつくっていくことにあります。」

なんと、かっこいい発言でしょうか!!こういう美意識を持ちたいものです。

昨日、国立博物館で「土偶展」を観てきました。大英博物館での展示の移動展です。縄文土器はたくさん触れる機会がありまたが、土偶をまとめて観る機会はほとんどありません。想像以上に、素晴らしい展示でした。縄文人の思想やものの見方まで想像できそうな気がしたほどです。

 

数日前の日経文化欄に面白い記事がありました。例のごとくうろ憶えですが。

 

  ラスコー2.jpgラスコー洞窟の壁画は数万年前の人類が牛や馬を描いたものだが、遠近法も使われている。遠近法は空間把握能力と関係がある。子供がよく頭からいきなり足が生えているような絵を描くが、それは言語の能力と関係がある。驚くほどリアルな絵を描いた幼児が、言葉を覚えるに従って幼稚な絵を描くようになってしまうという研究がある。頭から足が生えているような絵だ。そして、その絵の横には、パパと書いてある。つまり、左脳が発達し言語能力が高まることにより、絵は抽象化していくのかもしれない。

 

私なりに解釈すると、人間はふつう成長し空間把握能力が高まればラスコー洞窟画のようなリアリティーのある絵画表現ができるようになる。言語能力が発達すると、リアリティーある絵画表現は不要になり、言葉で置き換えるようになる。(したがって、ラスコー洞窟画時代の人類はまだ言葉を使えなかったかもしれない。)その結果、リアリティー溢れる絵画表現は苦手になり、幼児の絵のように記号化する。また、視覚として見える像をリアルに描くのではなく、自分に「見えた」像を描くようになる。つまり視覚ではなく認識や印象を描くようになる。(デフォルメ、抽象化)さらには、視覚情報とは別の概念を描くようになる。(概念化)それらとは別に、美的感覚が養われ、「美しさ」を描くようになる。近代までの職業的画家は、このような流れに逆らって具象を表現する技術を磨くことにより、敬意を集めた。

 

以上が、その順番で発達するかどうかはわかりません。紀元前2,3千年前の縄文人が製作した土偶には、リアリティーは感じませんが、デフォルメや概念化や美的感覚を感じることができました。例えば、「縄文のビーナス」は女性の身体の特 縄文.jpg徴をデフォルメして見事に表現し、そこには母性への敬意という思想概念を表現しつつ全体のバランスの美しさは見事です。その他の土偶にも、概念化や美的感覚を大いに感じます。縄文人の文化、言語能力は非常に高いものがあったのだと思います。(三本指の人間表現が、縄文土器には多くあります。それは、月を崇拝する当時の信仰を表現しているとの解釈もなされています。)

 

 

ピカソの絵の変遷に代表されるように、具象、抽象、デフォルメなどは一方向の進化ではなく、すべてをバランスよく認識し、保有することが人間にとって自然なのではないかと思います。ようは、どれも大切なのです。晩年のピカソやマチスが、幼児のような絵を描いたことは有名ですが、あそこまで芸術を突き詰めた人間の、自然な姿なのかもしれません。

 

 

現代は、言語に支配されている傾向にあります。つまり左脳社会です。そのバランスを取る意味でも、土偶のような古代人の表現が、イギリスや日本で大きな話題を呼んだのは当然だという気がしました。

 

最近の人材育成では、「ほめて育てる」派が隆盛に見えます。頭ごなしに叱るより、ほめてその気にさせるほうが、育成効果が高いとの判断なのでしょう。

 

逆に、職場で上司が叱ることができないため、研修の場などで外部講師に叱らせることも多いと聞きます。Good copは上司で、Bad copが外部講師というわけでしょうか。

 

ほめることは大切だと思いますが、何をほめるかにより効果は変わってきます。そもそもどんな効果を狙うのか。短期的には、やる気になることを狙い、長期的には成長を狙うのが普通です。

 

 

「二十歳すぎればただの人」という言葉がありますが、それはなぜなのか。頭脳の発育スピードの違いもあるかもしれませんが、別の側面もあるかもしれません。

 

優秀な子は、ほめられることに慣れるでしょう。そううなると、それを維持するプレッシャーを感じます。それがさらなる努力に結びつけばいいのですが、えてして人は失敗します。そうなると、優秀でなければならない自分と、そうでない自分(たまたまかもしれませんが)とのギャップで苦しみます。他者からどう見られるかが、行動基準になります。こうなると、努力は楽しいものではなく、苦しいものになります。努力するのは、自分が劣っているからと思うからです。理想は、試験前日も遊んで満点を取る姿です。

 

一方、それほど優秀でない子でも、少し点数が上がれば達成感や自己効力感を味わい、かつそれをほめられると努力することが楽しくなってきます。一種のゲームです。そうなると、ぐんぐん成長するでしょう。そして、二十歳くらいになると、両者の能力レベルは交差するかもしれません。

 

前者は現在の能力の高さをほめられ、後者は努力をほめられました。これは、大きな違いです。現在をみるか、将来を見るかの違いとも言えます。成長を促すのは、成長すなわち努力をほめることであり、現在の能力の高さをほめることは、場合によっては成長を阻害しかねません。

 

 

社会に出ると、個人の能力の差なんてたいしたことありません。差が大きいのは、成長を望む意思です。その意思が促されるような働きかけを、周囲がしているかどうかです。そういう職場や組織では、ほめようが叱ろうが、人は育っています。

トヨタのリコール問題は、当初の想像以上に波紋を広げています。さまざまなメディアで、多くの意見が湧き上がっています。

トヨタ.jpg 

 

トヨタには、「目立な。道を歩くときは、端をうつむいて歩け」という奥田氏のかつての発言のあるように、突出することを恐れる文化がありました。謙そんの美徳というよりも、トヨタのような田舎者が目立って、調子に乗るとろくでもないことが起きる。華やかさは他社に譲って得だけ取れ、というしたたかな計算に基づくものだったと思います。(私も三河出身なので、その感じよくわかります)

 

しかし、10年くらい前から、最強トヨタという言い方が一般化するのに歩調を合わせて、目立つなという文化が薄まってきたように感じます。

 

 

もうひとつは、業績面ではグローバルリーダーになったものの、中身はそこまで成熟していないことが推測されます。

 

米自動車コンサルタントのマリアン・ケラー氏が、今回の騒動について、流石というコメントを発言しています。

 

それでも、品質問題に関する豊田章男社長の2月初旬の会見が(トヨタがNHTSAにフロアマットの取り外しなど安全対策実施を通知した)昨年10月、いや2週間前でもいい、もっと早く行われていたら、(米国における)トヨタ批判の大合唱はこれほどまでは高まらなかったのではないか。トップが責任を公にすれば、後はメーカーとクルマの所有者とのあいだの問題として収まるからだ。

 だが、それをしなかったうえに、別の経営幹部が要らぬ発言までしてしまった。(トヨタの)佐々木眞一副社長がインディアナ州のCTS社のアクセスペダルを採用した理由について、「現地への貢献を考慮したため」という趣旨の発言をしたのは、はっきり言って、言語道断だ。もちろんCTS社の技術力を評価するという前置きもあったが、あのひと言だけで、まるで現地のために劣った企業と取引したと言っているように聞こえてしまった。

やや厳しいことを言えば、トヨタはグローバル製造企業であっても、真のインターナショナル企業にはなり得ていないということだろう。異なる文化を超えて意図するところが正しく伝わるよう、何らかの助けが必要なのではないか。

Diamond on line 2/15 http://web.diamond.jp/rd/m595094

 

トラブル発生時の社長の出方と、副社長の発言。それぞれトヨタ側にも言い分があるでしょうが、世界ではその言い分では通らないのです。そこが、トヨタがグローバルカンパニーになりきれていないまま、影響力が巨大になってしまった不幸なのだと思います。製造者としては世界的だが、企業としてはそうではないということなのでしょう。

 

このような状況は、トヨタに限ったことはありません。ケラー氏のいう真のインターナショナル企業に近づくため、何が日本企業に必要なのでしょうか。

先週の金曜、Learning Bar@東大 に参加してきました。今回のテーマは、「コミュニケーション不全『職場の孤独を克服せよ!』」です。リクルートエージェントで「ちゑや」店主を務める中村繁さんが講演されました。

 

「ちゑや」とは、社内で人と人を結びつけることを目的とした公式組織です。2006年に中村さんの自発的活動として始めた企画を、会社が2008年から公式組織としたものです。中村さんは専任です。

 

リクルートは、かつて遊びと仕事が一体となったような企業で、活力に満ちていましたそうです。それが、企業規模の拡大とともに徐々に薄れつつあります。それに危機感を持った中村さんが、リクルートエージェントというリクルートグループにおける辺境で、かつての遺伝子を呼び覚まそうと奮闘しているように思えました。

 

リクルートに限らず、職場でのコミュニケーション不全は大きな問題となっています。今後さらに大きくなっていくことも予想されます。一方、情報管理リスクやプロジェクト型業務拡大など、コミュニケーション不全が企業に与えるリスクの大きさは急激に増段しています。そのような文脈で、社内運動会や旅行、社員寮の復活などが話題となっています。でも、古き良き日本企業の慣習に戻ればいいのでしょうか?中村さんの取り組みは、その問いに答えようとしています。

 

いわゆるコミュニケーションの良さと仕事の成果との間に、大きな相関はありそうですが、決して因果関係はない。それは、かつて銀行にいた私の実感です。近頃の論調は、コミュニケーションが良ければ仕事の成果もあがるとの、楽観的なものが目立ちます。コミュニケーションは重要ですが、それはあくまで手段です。

 

コミュニケーションと仕事の関係について、以下のようなマトリクスを考えてみましょう。縦軸に会社の関与度合いをとります。フォーマルとインフォーマルです。横軸には、直接的な目的をとります。コミュニケーション強化(親睦)と仕事成果向上(あえて言えば情報共有)です。

 

フォーマルで仕事成果向上のボックスは、管理職などよるチームマネジメントや営業ノウハウ共有会議などです。フォーマルなコミュニケーション強化は、かつての社内運動会や社員寮などです。インフォーマルなコミュニケーション強化のボックスは、社内サークル活動や同期会などでしょうか。そして、インフォーマルな仕事成果向上のボックスが、「ちゑや」の活動だと思います。インフォーマルに仕事成果向上のための活動を行うことは、ある意味自己矛盾です。悪く解釈すれば、会社による労働強化とも受け取られかねません。そこを、明るく楽しくやるのがリクルート流なのでしょう。中村さんも、そのあたりのジレンマを感じておられるようでした。

 

私は、そのようなインフォーマルな仕事成果創出活動は、今後重要になると考えています。強制ではなく、あくまで任意です。その代わり、そのような活動により組織の生産性が向上したとすれば、その配当が参加者個人になんらかの形でなされるような仕掛けが必要かもしれません。

 

「ちゑや」の取り組みは、これからの企業組織のあり方を考える上でも、とても興味深い事例だと思います。

 

先日、文楽二月公演を観てきました。演目は、ご存じ「曽根崎心中」。見どころは、「天神森の段」道行きの場面です。道行きとは、心中のた道行き.jpgめ死地におもむく男女が、風景の中をひたすら歩く場面です。以下、そこでの語りの一部です。近松門左衛門の名調子、惚れぼれしますね。

 

鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契ていつまでも、我とそなたは女夫星(めおとぼし)。必ず添ふと縋りより、二人が中に降る涙、河の水嵩も勝るべし心も空も影暗く、風しんしんと更くる夜半

 

そもそも道行きという型があること自体が日本的です。会話は多くはなく、風景の中をひたすら歩く。しかし、移動する風景が二人の心情を雄弁に語る。語りも、人と風景が溶け合っているようです。そこに太棹(三味線)がさらに心情を盛り上げる。日本人にとって、風景は切っても切れない深い関係にあるようです。

 

 

話は変わりますが、日経夕刊1/18週に連載されていた元世界銀行副総裁の西水美恵子さんの話がとても面白かったです。特に面白かったのは、キャリアに迷っていた時きっぱり決めた場面です。

 

山の上のスキー場にロープウェイでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら、「何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ」という答えが、すうっと見えてきました。

 

合理的意思決定でも何でもありません。風景が彼女に意思決定させたとも言えます。実は、私も似た様な経験があります。移動中の新幹線の座席で、ノートにふたつの選択肢のプロコンを列記しながら、あることで迷っていました。いくら書いてみても結論はでません。そんな時に、車窓から快晴の空を背景にした富士山が見えたのです。見なれていた富士山ではありますが、その時はちょっと違って見えた気がします。そして、その瞬間迷いが晴れました。

 

非合理な意思決定ではありますが、最後の最後は風景の力が決めるのです。これは、日本人特有なのかどうかはわかりませんが、道行きにしても西水さんにしても、風景と人間の関係について、興味が尽きません。

「これからのビジネスパーソンには、コンセプチャル・スキルが重要だ」とは、いろいろなところで耳にするフレーズだと思います。

 

では、コンセプチャル・スキルって何?という質問に、どれだけの方が答えられるでしょうか?

 

 

「MBA経営辞書」(by Globis)によると以下だと説明されています。

コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも呼ばれ、物事を概念化して捉えたり、抽象的に物事を考えたりする能力とされる。

 

これではよくわかりませんね。グーグルで検索してみましたが、他のサイトでも似たような説明でした。

 

 

「一を聞いて十を知る」という言葉があります。頭の良さの代表的な表現でしょう。なぜ、頭のいい人は十を知ることができるのか。

        仮説1:頭のいい人は、たくさんの知識を持っているので、一に関連する知識をすぐに引っ張りだして、相手が伝えたいことを類推することができるから

        仮説2:頭のいい人は、相手が今この場面で自分に一を言うに至った背景情報を推測し、いいたいことを類推することができるから

        仮説3:頭のいい人は、一の言葉から、自分に役立ちそうな概念を引っ張りだし、それと自分の頭の中にある概念を重ね合わせて、さらにその概念を自分に日常レベルの事象に解釈し直すことができるから

 

どれも理由としてはありえそうな気がします。上記3つの仮説は、重なりあう部分もありますが、私は特に仮説3が学習には重要であり、その能力がコセプチャル・スキルだと考えています。

 

優秀な営業マンは、どんなお客さんとも話を合わせることができるといいます。それは、単に世間話のネタとなる情報を常に収集しているだけでなく、お客さんの話を概念化して、それを膨らませて返せるからではないでしょうか。

 

ベテラン管理職が、最近の若手とは話が合わなく困ると嘆くのも、別に若手がおかしなことばかりを話すからではなく、その管理職のコンセプチャル・スキルが劣っており、概念化して理解することができないからではないでしょうか。

 

最近話題のTVドラマといった、若手と会話するためのネタを集めるのではなく、メタレベルで会話できるように訓練しましょう。(失礼しました・・・)

最近、「ニューノーマル」という言葉を耳にすることが増えました。アメリカ発の言葉です。リーマン・ショック後の不況というトンネルの先には、従来と違う世界が待っているとの見方です。マッキンゼーの世論調査によると、支出を減らした人の過半数が、「景気が回復しても倹約を続ける」と答えたそうです。

 

感覚的には、日本も同様だと思います。私の世代は、物心ついてから三度の大きなバブルとその崩壊を経験しています。最初は、列島改造とオイルショックのセット。小学生だった私も、お菓子の値段が急に上がったことと、TVで観たトイレットペーパーの奪いあいは、強烈な記憶として残っています。

 

次は、ご存じ80年代後半からのバブルとその崩壊。円高不況脱出のために仕組まれたバブルが崩壊するのは必然でした。バブル時は、そもそも若年で貧乏だったのであまり恩恵に与っていませんが、崩壊の影響は人並にかぶりました。

 

そして、小泉改革と円安政策をきっかけにしたミニバブルとリーマン・ショックです。不動産屋が肩で風を切って歩く姿を見て、いつか見た風景だと思ったものです。バブル崩壊が日本だけでなく、世界的だったことが、過去二回とは全く異なります。また、日本の産業構造が、製造業主体からサービス主体にシフトしているため、政府の景気対策は過去二回ほど機能していません。(中国は機能しています)

 

さすがに、三度も、持ち上げておいて突き落される経験を積めば、いやでも学習します。つまり、過大な夢は抱かず、堅実な消費にならざるを得ないというわけです。

 

世代によって多少感じ方が違うとはいえ、これが日本独自の「ニューノーマル」なのではないでしょうか。少子高齢化と相まって、これが今後の日本経済や社会に与える影響は、計り知れないほど大きいのではと危惧します。

 

「ニューノーマル」とは、「Back to basic」だとも言えそうです。基本に帰れ。不況脱出ための小賢しい手練手管ではなく、長期的視点で本当に大切なものや、自分たちがもっとも得意とするもの、仕事や生きることの意味などを見つめ直してみるいい機会かもしれません。そうすれば日本も、もう少し落ち着いた大人の国になることでしょう。

 

企業の新入社員研修については、ほとんど関わったことがありませんが、近年盛んだなという印象は持っていました。先日、新入社員研修の講師を担当されている方のお話しを伺う機会があり、勉強になりました。

 

担当する研修では、論理思考からライティング、コミュニケーション、業務のシミュレーションまで、その内容は、驚くほど豊富。講師を担当する前に、模擬受講したのだが、私でも答えられないような難しさだった。クライアント企業の注文によっては、厳し目の指導もすることもあり、新人がその場で泣いてしまうこともあるよう。

 

研修を受けて配属された現場の先輩や上司は、新人の博学さ?と理屈っぽさで、面食らうことも多いらしい。そりゃ、そうだ。現場の経験が一切ないのに、理屈ばかり頭に詰め込んでも、すぐに役立つはずがない。現場の上司は大変だろうな。

 

その方は、講師を務めながらも、その効果には疑問を感じているようでした。

 

 

10年前のいわゆる企業研修フェアと近年のそれとの最大の違いは、新人や若手向けの研修プログラムの多さだと思います。特に、2004年頃からのミニバブルの大量採用が影響しているのではと思います。

 

新人獲得競争が復活し、学生に魅力ある企業だと思ってもらうには、豊富な新人・若手向け研修もアピーリングだったのかもしれません。また、大量に加わる新人を、現場では教育しきれず、外部研修会社に依存することも増えたのでしょう。OJTは、死語と課しつつありましたし。

 

 

その話を聞いて思い出したのが、私が新卒時に受けた新人研修と、唯一手がけた新人研修のあるプログラムです。

 

私は銀行に入行するとすぐに、2週間の新人研修に送りこまれました。町田郊外の研修所での缶詰合宿です。そこで、教育研修室指導のもとで、札勘(お札を数える)、加算機(大きめの電卓)、そろばん!の基礎技術を徹底的に訓練させられました。他にも財務分析などメニューはいろいろありましたが、よく覚えていません。同期は269名。40人くらいのクラスに分けられ、研修は進みます。クラス内のグループ対抗や、クラス対抗で、競わせることが基本だったと思います。2週間の研修で何を得たかといえば、先の基礎技術と同期の絆だったと思います。今思えば、銀行の意図も、そこにあったのだと思います。銀行でこれから長年いい仕事をしていく上では、同期の絆は、何よりも大事な財産ですから。そういう意味では、新人研修でしかできないことを、してくれたのだと感謝しています。(途中で退職したとはいえ)

 

 

それから、もう15年くらい前になりますが、一度だけクライアント企業に新人研修の1プログラムを開発し、提供しました。某大手通信企業の新人、約250名が対象です。依頼内容は、大学・大学院から社会人になりたての新入社員に、「社会と企業と個人の関係を理解させてほしい」という、今思い出しても難しいテーマでした。ようは、企業で働くうえでの社会人としての自覚を持たせてほしいということです。ここで、プログラム内容は書きませんが、非常に苦労しました。でも、最終的には受講者にもクライアントにも満足頂き、大きな達成感を味わったことを覚えています。

 

 

今年は、採用人数も大幅に絞られ、新入社員研修の形も変わっていくことでしょう。決して、「実施することに意味がある」というようなものには、していただきたくはありません。

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