2009年10月アーカイブ

今年も、東大安田講堂で、ワークプレイスラーニングシンポジウムが開催されました。まずは、このような大掛かりなイベントをボランティアで成功させる中原先生はじめ関係者の皆さんに、敬意を表します。

 

今年は三社の企業から講演がありました。カルチュア・コンビニエンス・クラブ柴田社長、アサヒビール丸山執行役員人事部長、バンダイナムコホールディングス紀伊人事部副部長です。

 

どれも非常に興味深かったのですが、特にCCC柴田さんの話は刺激的でした。柴田さんは、人事コンサルファームのマーサーの社長だった方です。つまり、主に人事制度構築支援をずっと手がけてきたわけです。その柴田さんがCCCの社長になって強力に提示しているメッセージのうち二つは、

        目に見えないものを大切にすること

        「制度」に支配されないこと

 

なのだそうです。どちらも制度を中心としたハードHRへの依存を戒めることだと解釈できます。

 

隣に座っていた某人事系コンサルファームの方が、「柴田さんがそうおっしゃるなんて、今の仕事を否定されているみたいだ」と嘆いておられました。

 

もちろん、全否定しているわけではなく、その企業の成長ステージ、事業特性、経営環境、組織文化、など数多くの変数によって、ハードHRの重要性やソフトHRとのバランスが変わってくるということなのだと思います。正解は一つではないのです。

 

ただ、多くのコンサルファームが、自分が得意とするような企業像をクライアントにあてはめて、自社サービスを提供しようとしていることも事実でしょう。それへの戒めではあると思います。

 

CCCは、社員の自主性を重視する方向に舵を切りました。各自が落とし所を想定している管理された自由や自主性ではなく、真の自主性を尊重した組織になることができるのか、同社のこれからに目が離せません。

 

ところで、今回試行されたリアルタイムドキュメンテーション、すごいです。リアルタイムドキュメンテーションとは、「今、この場でおこっている出来事を、リアルタイムで記録(ドキュメンテーション)し、振り返りに役立てる手法」です。昨日のラップアップでは、もうこれだけのものを見ることができるのですから。もし、手軽にこれができるようになったら学習の形も大きく変わるかもしれません。WPL2009に参加されなかった方は、是非以下から観てください。

 http://product.kobe-du.ac.jp/sowa/infoGuild/HOME/entori/2009/10/31_workshopwakupureisuraningu2009.html

「物の価値を生かすのが経済で、人と物の価値を最大限生かすのが政治」といったのは、田中清玄でした。

 

八ツ場ダムの建設中止問題。詳細は知る由もありませんが、経済と政治の対比を見るのに、これほど適した出来事はないと思います。

 

ご存じのとおり60年以上前に計画されたダムは、激しい建設反対闘ダム.jpg争で知られていました。その結果、工事には延期を繰り返しましたが、今世紀に入りやっと補償問題で妥協が成立し、反対住民も移転を待つばかりとなったつい先月、民主党が政権を奪取し、前原大臣が八ツ場ダム工事中止を真っ先に発表したわけです。

 

60年前に計画したダムが、現在必要かどうか非常にうたがわしいと私も思います。ここは、サンクコスト、機会費用も考慮した経済合理性を基準に、徹底的に調査すべきでしょう。また、激しい建設反対運動で知られたここの住民ですから、いくら合意したとはいえ、本音では建設中止を望むはずだと考えるのも、合理的判断だったかもしれません。

 

ところが、現実はなかなかむずかしい。住民が、いきなり建設中止を決めた政府に噛みついたのです。これには、前原大臣らも驚いたのではないでしょうか。自分たちは、解放軍のつもりで進駐したら、帰れとなじられたようなものです。

 

住民は、心の底では建設中止を喜んだのかもしれません。でも、それを認めると、過去半世紀にも及ぶ住民間の対立の愚かさ、そして泣く泣く建設支持に回った自分の判断の過ち、それらすべて認めることになってしまうのです。長年の対立闘争で疲弊した住民にとって、それに耐えることはもはや無理なのかもしれません。

 

単純に、故郷の土地を守ることができるからと、経済(合理性)で割り切れるものではないのです。物だけではなく人も生かす、すなわち人の心にはたらきかけて、人を動かし、人が物を活かすことこそが政治なのです。だから納得感を得るためのプロセスが大事なのです。

 

どうやら民主党は前のめりになり過ぎているのかもしれません。経済と政治、両面を踏まえて国のマネジメントをお願いしたいものです。企業でも、同じですね。

先日、野中郁次郎氏による賢慮型リーダーの6要件を転記しました。その中に、相互作用を促す「場」をタイムリーに設ける、というものもありました。

 

「場」については、私も関心が高いので、もう少し書いてみます。特に日本で場の概念が注目されるのは、西洋科学の前提となっている「自他分離」に対する違和感があるからだと推測します。

 

さて、私たちは、心身を投げ出しながら、コミュニケーションを行っています。一般に、このように身体性を入れ共創的コミュニケーションを行う「共創の舞台」のことを「場」と呼びます。場の最大のメリットは、コンテンツだけでなくコンテクストを生み出すことです。

 

重要な会議では関係者を参加させ、巻き込んでおこうとするのは、コンテクストを共有させるためです。もちろん、形式的に場を共有するだけではだめです。本来は、自他非分離の状態をつくらなければコンテクストの共有も創造もできません。

 

「場」の例をひとつ挙げてみましょう。

 

私も採用面談を、もう何百回もしてきました。限られた面談時間の中で、その方の能力や人間性を測ることは容易ではありません。もちろん、職歴や学歴などからおよその評価はできます。しかし、これでは本当の力はわかりません。それでは、あくまで「普通名詞」で見ているに過ぎないからです。知りたいのは「固有名詞」です。さまざま経験・歴史を経て今そこにいる世界に一人しかいないその人、つまり固有名詞で認識しなければ採用の判断などできないはずです。なぜなら仕事は固有名詞でするものだからです。

 

では、面接会場でどうやって固有名詞を引っ張りだすか。方法は一つしかありません。こちらが固有名詞としての自分自身を「一人称の経験」を語りながらさらけ出すのです(それに時間をかけすぎ、聞く時間がなくなってしまうという失敗もありましたが)。まず、自分が心を開き、相手が開くのを促すのです。互いに心を開いて相手を受け入れることによって、心が触れ合い自他非分離の状態が生まれます。これをエントレインメント(相互引き込み)といいます。ダイアローグ(対話)も、このプロセスを促す方法のひとつでしょう。このような作用が働いているのが「場」なのです。

 

このような「場」を、あらゆる場面で必要に応じてタイムリーに設けることができたら、なんと素晴らしいことでしょう。組織やコミュニケーションの目指す、一つの方向だと思います。

2003年ごろから昨年までは、企業の新卒採用熱が、バブル期以上に高まったような印象を受けました。人材系のフォーラムでも、採用支援や新卒教育(というより退職回避策)を手がける企業の顔ぶれが、圧倒的に増えたように感じました。

 

特に、4月に一斉入社と同期管理を慣例とする日本企業では、新卒採用の重要性は言うまでもありません。しかし、一方では年功制や終身雇用は維持できないと公言する企業も珍しくありません。

 

そこまで採用に時間とお金を投入しても、社員と会社双方の理由での退職率は高まっているのではないでしょうか。そう考えると、ちょっとおかしな気がします。

 

高い費用をかけて採用した社員への育成投資は、どの程度かけているのでしょうか?相対的には、あまり育成投資にはお金をかけていないのでは。それはなぜでしょうか?

 

        とりあえず採用しておけば、後は何とかなる。できる人間は伸びるし、そうでなければ脱落するまでだ。そもそも社員は育てるものではなく、育つのだ。

        育成投資にお金をかけて、その結果能力が高まったら転職されてしまう。

        採用活動の成果は、採用人数と出身大学名で計測でき、他社とも比較しうる。負けるわけにはいかない。それに対して、育成効果なんて図れない。

        育成は、職場でマネジャーが担う仕事だ。(部下育成もマネジャーの評価項目に入っているし)

 

若手育成は大事だと、常に経営者も人事もいいますが、実は本音にはこんなことがあるかもしれません。

 

人事の方と話していると、採用担当と育成担当は仲が悪いとしばしば聞きますが、そりゃそうですね。 

 

いずれにしろ、このような構造は、世界的に見てもかなり異常だと思います。日本企業のおかれている環境はあらゆる面で激変しているというのに、採用と育成の構造は、変わるどころか、ますます強化されているように思います。(さすがに今年は採用投資を絞るでしょうが)

 

私は多くの企業の研修(若手から経営幹部まで)に関わって、それぞれの社員の能力を肌で感じてきましたが、企業を横断してみた場合、いわゆる学歴と仕事のできは、あまり相関は大きくないと感じています。入り口の優秀さより、入社後の職場での育成環境のほうが遥かに仕事の成果に結びついていると思います。職場での育成環境、それを一言でいうと、「学びを是とするか、指示通り動くことを是とするか」に関する組織としての意思あるいは文化だと思います。

 

同じ条件であれば、競争をくぐり抜けてきた高学歴社員が成果を出すことも多いでしょう。でも、企業によって育成環境という条件は全く異なるのです。そのことがもっと着目されてしかるべきだと思います。

 

現在の世界の最大の特徴は、不確実性ではないでしょうか。あらゆる施策や行動は、不確実性を所与として組み立る必要がありそうです。これは日本においては、ちょっと大げさかもしれませんが、戦国時代以来のことかもしれません。

 

このような時代におけるリーダーのあり方について、一橋大学の野中郁次郎名誉教授が書いておられました。(日経ビジネス09/10/12号)野中さん.jpg

 

■賢慮型リーダーとは

賢慮を備え、絶えず変化する現実に即して仮説の立案と実践による検証を無限に繰り返すプロセスをマネージする。そして、現在よりも良い未来の創出につながるイノベーションを起こす。

 

     賢慮型リーダーに求められる6つの能力

1) 多くの人に受け入れられるコモングラッド(共通善)の達成に結びつくような目的を設定する

2) 知識や知恵を生みだす相互作用を促進する「場」をタイムリーに設ける

3) 変化し続ける現実を凝視し、その背後にある本質を直感的に見抜く洞察力を持つ

4) 直感的に見抜いた本質を概念に転換する

5) 概念を大きな物語に仕立て、それを周囲に語って説得し、実行に移していく政治力を持つ

6) 自分の能力を、実践を通じて組織の中に広げ伝承していく

 

     賢慮型リーダーを育成するには

哲学や歴史、芸術、文学といった幅広い分野の教養を身につけさせる。さらに、限界に挑戦するような修羅場を経験させる。そして、最も重要なのは、手本となる人と体験を共有させること。その立ち振る舞いを体得しつつ、自ら手本を超える職人道の場。そのためには、新しい徒弟制度をつくる必要がある。

 

 

うーん、いずれも深い言葉です。全くもって、納得させられます。ものすごくハードルは高いですが、ひとつ言えることは、日本の伝統に沿ったものだということです。やはり、案外ヒントは身近にあるのかもしれません。

単なるかけ声やスローガンでは、ひとの心を動かせません。

 

「戦争反対」「憲法九条を守れ」とどれだけ叫んでみたところで、残念ながら「自分とは関係ない」と思う人がほとんどではないでしょうか。

 

 

辻井喬さん(堤清二さん)は、その代わりに詩の力を信じているそうです。

辻井さんの本からの引用です。

 

詩はスローガンではありませんからね。そういうとき私が引用するのは「わたしが一番きれいだったとき」という茨木のり子(1926-2006)さんの詩なんですね。その詩を一部引用しますとね、

 

(前略)

わたしが一一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差だけを残して皆発っていった

(後略)

 

ここには、反戦という言葉は一つも使われていません。けれども、辛い戦争時代の自分の心を日常性に即して絞り出すように表現しています。これが本当の反戦詩です。(「ポスト消費社会のゆくえ」上野千鶴子との共著 より)

 

 

情報を伝える言葉と、心を伝える言葉は、どれだけ似て非なるものなんでしょう。本当の言葉の力を思い知らされたような気がします。

先日、NHKニュースで面白い実験映像を見ました。隣接した二つの檻に一匹ずつチンパンジーを入れます。檻の間、肩の高さの位置に、手が入れられる程度の大きさの隙間が空いています。また、片方の檻だけ、外側の面の下のほうには、やはり手だけ出せる程度の隙間があいています。こちらチンパンジ利他.jpgーを太郎としましょう。もう片方は花子です。

 

太郎の檻の外側に果物ジュースのカップが置かれました。杖でもあれば、隙間から杖を使って檻の中に入れて飲むことができます。そこに、花子の檻の中に杖が投げいれられます。ただ、花子にとって杖は何の意味も持ちません。

 

それを見た太郎は、おもむろに間に隙間から手を花子のほうに差し入れます。「杖をくれ」と言っているのでしょう。すると、花子はどうするでしょうか?杖を渡したとことで、花子には何のメリットもありません。この実験を、チンパンジーを代えて繰り返したのです。

 

結果は、ほぼ6割のケースでは、花子は杖を太郎に渡しました。両者が親子の場合は、ほぼ9割が渡したそうです。これは驚くべき結果です。チンパンジーは、自分の得にならなくても(ご褒美なし)、他者のための行動をするということです。つまり利他行動です。人間固有の特性だと考えられていた利他行動を、チンパンジーも取ることがわかったのです。

 

ひるがえって人間は、人間たらしめると考えられていた利他行動から少しずつ離れ、利己的行動に重心が移っているのかもしれません。

 

そもそも経済学では、人間は利己的な行動をとると仮定しています。ほおっておくと自分勝手な行動を取るので、それを抑えるのが国家・政府の役割だという位置づけです。

 

もう一つの概念に、公共性があります。本来公共心が強かった日本人は、国家という共同体を絶対視し、戦争に突入しました。そして、今度はその反動で、戦後はコミュニティーとか公共とか自己犠牲、利他行動などにアレルギーを持ったとも考えられます。(利益追求機関である企業に唯一共同体を求めてきたのが皮肉ですが)

 

そこに、冷戦終結後のアメリカ絶対主義が、政治と経済の両面で日本に押し寄せました。そして、ぬるま湯を許さなくなったバブル崩壊。このトリプルパンチが、近年の日本の社会を形づくっているといえるかもしれません。

 

しかし、昨年のリーマンショック以来、流れが変わりつつあるようです。これから、どっちの方向へ向かっていくのでしょうか。チンパンジーの行動に驚き、あらためて自分と自分が属する社会のことを考えてしまいました。

 

昨日、日本CHO協会主催のセミナー「新・人財開発元年 今、『組織開発』のあり方を問う」に参加してきました。

 

以前も組織開発のテーマで書いたことがありますが、日本企業にとっての「組織開発」は、なかなかわかりにくいものです。大手企業人事の方々と少し対話する時間がありましたが、どの方も社内では組織開発という考え方自体まったくないとのお話しでした。

 

組織開発とは、Organizational Developmentの訳語で、そもそも日本語にはなかった言葉なのでしょう。チームビルディングという言葉と同様。欧米企業では、本社から日本法人へ、ODマネジャーを採用しなさいとの圧力が常にかかるが、日本にはODマネジャーはいないし、そもそもODがないので苦労するとの、中島さん(シティグループ証券常務執行役員人事部長)のコメントが、如実に現状を表していました。

 

そもそも組織観が異なります。欧米を中心とした外資系企業では、「組織」という言葉からは、レポートライン(報告関係)をイメージします。一方、日本企業では、「営業部」「総務部」といった入れ物(Box)をイメージすることでしょう。

    OD2.jpg   

外資系企業では、タテのラインは強固でも、横や箱の中の結合力は、相対的に弱くなっています。だから、集団を効果的なチームに転換するような作業が必要になります。(見えにくいですが赤線の部分)それが、ODのもともとのニーズだと思います。また、当然他の部門とも結合が弱く、さらにM&Aなどのよる組織再編も頻繁に起こるので、プロアクティブに「組織」を開発する必然性があります。

 

日本企業は、共同体としての組織(箱)が確立し、そこに属す個人間の関係性も比較的強く結合力も高いため、あまり「開発」の必要はありません。他部門とも、そこにいる同期とのつながりや、あるいは頻繁な異動でなんらかの人的つながりがあるため、それほどは隔絶されていないのです。

 

ただ、ここでも状況変化はあります。日本企業でも、M&Aなどは珍しくなくなりました。また、個人間の関係性も変わりつつあります。競争激化に伴う成果主義の浸透、組織のフラット化、プレイングマネジャーの常態化などで、かつての結合力、相互依存関係が揺らいでいます。

 

 

だから、今漠然と「組織開発」へのニーズが高まっているのでしょう。ただ、以前も書いたように、単に欧米企業を真似るだけでは、成果主義導入の失敗と同じように、うまくいかないと思います。そこにチャレンジがあるのです。

今週月曜から、いよいよNHK教育TVで、「連続人形活劇 新三銃士」が始まりました。脚色の三谷幸喜さんと同様、「新八犬伝」で育った身としては、思わず力が入ります。

 

 

三谷さんは、この作品で訴えたいことは「関わろうとする力」だと述べていました。しかも、あえて「関わる力ではなく」と前置きして。

三谷.jpg 

私が勝手に解釈するに、「関わる力」とは、「関わることを可能とするのに必要な力」という意味でしょう。具体的には、コミュニケーション能力だったり、情報収集・発信力であったり、相手の考えを読む力、質問力などなど、ビジネス書売り場に行けば、いやというほど積まれている本のタイトルのようなものです。

 

もちろん、こういったスキルはあるに越したことはありません。でも、それ以上に大切なものは、「関わろうとする力」だと三谷さんは言っているのでしょう。

 

どれだけスキルを修得しようと、本を読み漁り、自己啓発系セミナーに通ったところで、得られるものはたかが知れています。(逆にあまりに、期待が大きいと、獲得できない自分を責める傾向があるそうです。アエラ先週号の勝間VS香山対談は必読!)

 

そんな表面的なエネルギーの使い方をするより、「関わろうとする力」を呼び覚ますことのほうが、はるかに重要です。そして、関わろうとするプロセスの中から、否応なく「関わる力」が付いてくるのだと思います。

 

(以前も書いた気がしますが)「凡庸な教師はただ、しゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は、自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に日を点ける。」と、ウィリアム・アーサー・ワードも言っています。

 

 

子供を対象とする人形劇の脚色家としては、とても素晴らしい視点だと思います。でも、どうやら三谷さんは子供の教育的視点というよりも、大人になりきれず「こもっている」若者(いったい何歳まで??)を見据えての発言のようでした。

 

肉体的にはこもっていないとしても、精神的にはこもっている大人はたくさんいることと思います。もしかしたら、自己啓発本の読者もそうかもしれません。

 

 

目先の損得に振り回されず、「新三銃士」でも観て、「関わることの喜び」を体感しようじゃないですか!

一般的な言葉となってきた「人材開発」ですが、Human Resource Developmentの訳語だけに、その定義が意外にあいまいではないでしょうか。

 

ここでは、あくまで私の定義を述べたいと思います。狭義の定義は、「人材が本来もっていた能力を顕在化させること」です。たとえるなら、不動産開発です。

 

数年前まで、東京駅前の一等地には、歴史ある複数のビルが旧丸ビル.gif建っていました。小津安二郎の映画のシーンに出てくるような古式ゆかしいオフィスは、個人的には嫌いではありませんでしたが、あの土地の潜在力を活かしているとはいえませんでした。その後、開発が進み今やオフィスのみならず商業地としても、価値は飛躍的に高まりました。このように、本来持っていた価値を顕在化させることです。

 

 

もう少し広い定義は、「人材に新たな『何か』を付加することにより、本来もっていた価値をさらに増大させること」です。たとえるなら、「村おこし」でしょうか。

 

以前ブログにも書いた越後妻有での  「大地の芸術祭」や直島です。過疎の進んだ山村や島を、現代アートの力を使って再生させています。山村にアートが必要なだけではなく、アートにも山村が必要です。両者の接点に、新たな価値が生まれるのです。

 

次は、ビジネスの事例です。先日お会いさせていただいたあるグローバル企業の人事トップのお話によると、現在最も緊急性の高い人材開発上の課題のひとつは、技術者の交渉スキルだそうです。ちょっと、意外かもしれませんが、グローバルに競争しているメーカーでは、自社の技術だけで完結できることは、ほとんどなくなりつつあります。他社との提携によって、技術を組み合わせ、より付加価値の高い製品を開発していく必要があるからです。

 

その際、その交渉にあたるのは多くの場合、その技術を最も深く理解している技術者にならざるを得ません。しかし、いうまでもありませんが交渉は技術知識だけではできません。その提携が企業経営に及ぼすあらゆる影響を検討しなければなりません。会計や財務、税務、法務などの一定の知識も必要になってきます。そして、何より交渉のスキルが求められます。交渉の巧拙により、数百億円の損害が発生するような可能性も、逆に数百億円の利益を生み出す可能性もあります。

 

したがって、技術の専門性に加え経営全般や交渉スキルといった、新たな「能力」を付加する広義の人材開発が必要なのです。

 

 

狭義の人材開発は、どちらかというと長期・全社視点で取り組むべきものです。広義の人材開発は、より短期的・事業レベルで発生することが多いでしよう。こういった現場でのニーズに効果的に応える機能の強化こそが、企業の潜在能力を最大限発揮させるために、非常に重要なのではないでしょうか。

 

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大手企業X社は、将来の経営を担う人材の育成を目的として、非常にハイレベルのトレーニングプログラムを開発しました。そして、受講者の視野を広げさせるため、異業種他社からの参加も呼びかけることにしたのです。ただし、同じレベルで議論できるように、声をかける企業は、やはり大手企業に絞りました。

 

X社人事部の本企画責任者は、候補企業の人事部・人材開発部にコンタクトを取り、説明に回りましたが、反応はあまりよくありません。どうやら、人事部は全社員の底上げを目的とした階層別研修に手一杯で、一部の社員を対象としたプログラムにまで手が回らないようなのです。

 

しかし、噂を聞きつけた企業の「事業部門」から、直接X社にコンタクトがあり、「是非当社の当部からも参加させてほしい。こういうプログラムをずっと探していたのです。」といった申込みが、複数きたのです。

 

 

これは、実際にあった話に基づいて書いています。最近、このような現場の人材開発に関するニーズに、人事部門が柔軟に対応できていないという話を、よく耳にします。特殊な現場のニーズは、現場で対応してほしいというのが本音なのかもしれません。

 

事業部門の方に、「人事部門に話しても、すごく時間がかかる。スピード感が違う。」という話を伺ったこともあります。

 

一方で、事業部門では、様々な人材開発の新しいニーズが生まれてきています。それを、人事部門で受けてもらえないのであれば、自分で探すしかありません。本ケースのように、情報をキャッチできればよいのですが、ほとんどの企業の事業部門には、外部の人材開発に関する情報はなかなか入ってきません。また、そのための人材を揃えておくこともできません。

 

これは大手企業の話ではありますが、人材開発について、ニーズとサプライの間にギャップが発生しており、それが少しずつ大きくなっているのかもしれません。

 

従来の枠組みの中で人材開発を捉えていると、環境変化に対応できなくなってしまうかもしれないことを認識しておいたほうがいいでしょう。

企業は成長を追及すべきという考え方は、もはや常識かもしれません。成長を期待して株式を購入する投資家に依存する公開企業にとって、成長は義務です。いっぽう、公開していない企業では、必ずしも成長は義務ではありません。ただ、成長を経営目標に掲げる非公開企業は、決して珍しいものではありません。というより、多くはそうかかもしれません。

 

それは、なぜなんでしょうか。いわく、成長によって社員の雇用を維持できる、成長が社員の求心力となる、社会へ貢献するためには規模が必要、成長を止めたら競争に負けて倒れる、などいろいろあるでしょう。ひとことで表せば、ステークホルダーにとって成長が必要であるというロジックです。成長のひとことで求心力にも指針にもなるのですから、経営者にとって便利な言葉です。

 

でも、もしかしたらステークホルダーにとってという言い方をしながら、実は経営者にとって成長が必要なのかもしれません。M&Aを繰り返す企業では、経営者の「少しでも規模の大きな企業を経営したい」という欲求が、M&Aの真のドライバーであるとの研究を読んだことがあります。(アメリカでの研究だったと思いますが)

 

久しぶりに、そんなことを思い出したのは、日経ビジネス921日号の「六花亭製菓 成長より『愛』の異色経営」という記事を読んだからです。

 

「マルセイバター」を、北海道みやげでもらったことのある方は多いのバターサンド.jpgではないでしょうか。それを製造販売している北海道の会社です。入社希望者への会社説明会では、「当社はもう成長しません。」と宣言しています。それは、成長できないのではなく、成長を目的としないとの意味です。成長を目的とした時点で、思うような経営ができなくなるのを恐れるのでしょう。では、成長という求心力を放棄し、何を指針としているのか。それが「愛される会社」です。

 

そのために、まず経営者が社員を愛する必要があります。そして従業員から愛される力を高めた企業は、顧客から愛される力を高めることになり、結果として製品のブランド力も高まるのです。

 

お題目だけのESCSではなく、それを事業の根幹に据えています。経営資源配分のためにキーとする指標は、ROAでもROEでもなく「有給休暇取得率」なんだそうです。詳細は書きませんが、その他ESCSの仕組みが、これでもかと作りこまれています。

 

市場至上主義(ここでの市場とは、株式市場です)の限界があらわになった現在、新しいパラダイムは、身近なところにあるかもしれません。

先週の日曜日、国立劇場で行われた「東大寺 修二会の声明」公演を観てきました。

修二会とは、大仏開眼の年(752年)から一度も休まず毎年続いている東大寺の法会です。「お水取り」の呼称で有名です。

修二会.jpg 

何よりすごいのは、平家による東大寺焼き討ちをはじめとした幾多の危機にも途絶えず、1258回も続いていることです。

 

私も、何度か東大寺二月堂を訪れ、お水取りのお松明を浴びに行ってきましたが、一度だけ内陣で深夜行われている行法を、格子越しに覗いたことがあります。わずかばかりの蝋燭の炎で、かすかに見える僧侶の躍動と、何やらこの世のものと思われぬ声、そして時折聞こえる板を打ちつけるような激しい音、が時空を超えて眼と耳に入ってくるようでした。

 

それを、一部ではありますが、国立劇場の舞台で再現したのです。今回、初めて内陣(再現)を垣間見たわけですが、あらためて音の力に圧倒されました。声を含む音が、人間の感情に作用する力を計算しているのかもしれません。

 

この法会は、たぶん1258年前とほとんど変わっていないと思います。天平の人々の動きと音が、冷凍保存されているかのようです。それが年に一回、必ず解凍されて維持される、その歴史の力のすごさを、舞台を見ながら感じていました。歴史の荒波にもまれながらも「残る」ということは、どんな世界でも驚嘆します。

 

 

伝統とは、常にその時代の新しさを加えていく作業だという考え方が日本にはあると思いますが、「加えない」ということは、もしかしたらそれ以上のパワーを必要とするのかもしれません。

 

とにかく、古代の人間の荒ぶる魂のようなものに直接触れられた得がたい経験でした。フェノロサは薬師寺東塔を「凍れる音楽」と評したそうですが、修二会は「凍れる魂」なのかもしれません。

先日の日経「やさしい経済学」で、こんな記載がありました。

 

米国では学歴として経営学修士(MBA)などの大学院卒が非常に高く評価されているが、日本では少なくとも文系についてはそうとは言えない。日本では、大学院卒はより高い生産性を示すシグナルであると雇い主である企業や組織からはあまり考えられておらず、生産性の高い学生たちが必ずしも大学院に進学しない状況が生じている。(学習院大学教授 神戸伸輔)

 

MBAについては、残念ながら確かにその通りだと思いました。つい最近、あるハーバード・ビジネス・スクールMBAの経営者が、若手ビジネスパーソンから質問されました。「これからビジネススクールに行こうかと考えていますが、MBAは日本の企業でどう評価されるのでしょうか?」

 

回答はこうでした。「日本企業では、MBAが仕事ができるなんて幻想は抱かない。ただ、リスクを取って自分に投資するガッツは評価するかもしれない。」

 

 

このような事例から、MBA(日本・海外問わず)のイメージと実態が乖離している事象が浮かび上がります。

 

個人には根づよいMBA願望があるようです。それは、「MBA=企業から評価される」とのイメージがあるからでしょう。高い留学費用を回収するには、収入が大幅に上がることが前提となります。それを期待しているのです。また同時に、MBAが職業の選択肢を広げると期待しています。

 

かつて、その期待も一部満たされていました。日本に進出した外資系企業が、優秀な日本人社員を確保するために、相対的に高額給与で大量の中途採用をしたからです。そこに、日本人MBAホルダーが吸収されたのです。

 

では、なぜ外資系企業は、あえてMBAホルダーを選んだのか。生産性が高いと判断したのか。もちろん英語力もありますが、MBA以外になかなか優秀な日本人社員を採用できなかったからのようです。ある意味消去法だったのかもしれません。ある外資系企業人事部長がこう言っていました。「MBAホルダーが欲しいんじゃない。優秀な日本人が欲しいんだ」

 

 

さて、今はどうか。受け皿となっていた外資系企業の多くは、人員削減や日本からの撤退を行っています。イメージを支えてきた要因の一つがなくなりつつあるのです。世界経済における日本市場の影響力を考えれば、その傾向は強まりこそすれ弱まることはないでしょう。つまり、イメージがはがれ、実態が表出してきています。

 

 

そもそも日本においてMBAは生産性が高いと評価されないのは、日本でのビジネスへの有効性という面で教育内容に問題があるか、日本企業の体質が特殊だからでしょう。

 

個人の側は、費用対効果に見合う大学院(ビジネススクール)かどうか、教育効果を冷静に見極めなければなりません。あるいは、別の選択肢は、MBAが良いシグナル効果を発揮する日本以外で働くか、自ら起業することです。

 

一方、日本企業で働く可能性の高い日本人を多く抱える国内のビジネススクールは、本当に生産性が向上するような教育内容へと改善しなければなりません。そのためには、何をしたらいいのでしょうか?過当競争に陥りつつある中で。

 

もう一つ考えるべきは、日本企業が(既存カリキュラムの)MBAを評価するような体質に変わっていくかどうかです。少なくとも、欧米ではMBAは高い生産性のシグナルとなっているのですから、不可能ではないでしょう。教育内容が変わるか、企業の体質が変わるか、いずれも困難な道には違いないでしょう。

 

 

もし、あなたが驚くほど美味しく、しかも安いレストランを見つけたとします。その後、どうしますか?たぶん、親しい誰かに教えたくなるでしょう。もしかしたら、その口コミが広がり、その店が有名店になり、予約すら取れなくなる可能性もなくはありません。また、その結果味や値段が変わってしまうこともありえるでしょう。だったら、誰にも教えない方が合理的ではないでしょうか。

 

でも、ほとんどの人は教えたくなるのでしょうか。それはなぜか?多分、人は喜びや感動を誰かと分かち合いたいという気持ちがDNAに埋め込まれているからだと思います。

 

もうひとつは、「誰も知らない凄くいいものを、自分が発見したんだ」という自己効用感を、他者からの反応で確認したいのではないでしょうか。いわゆる「自慢」ですね。自己満足だけでは、なかなか自己効用感は味わえないのです。

 

こういった、人間の特性の実現を、飛躍的に拡張させたのがネットというツールです。でも、自分と大きく志向性が異なる人に伝えたとしても、その反応はかんばしいものではないでしょう。そうすると、似た志向性の人々が集団化する力が働きます。SNSはそれに支えられています。集団の中では、きっと居心地がいいのでしょう。

 

さて、この後はどうなるのでしょうか?ますます集団の細分化が進むのか、それとも、集団と集団をつなぐ方向に力が働くのか。私は、つなぐ方に行ってもらいたいと思います。

 

伝えたいという願望は、知りたいという願望と表裏一体です。なんらかの目的のもとで、集団を超えて伝えたい、そして知りたいという願望を満たし、表現する行為がデザインなのではないかと思います。

 

Wikiによると、デザインとは、「計画を記号に表わす」という意味のラテン語designareが語源で、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現されることだと解されるそうです。まさに、issue drivenで「つなぐ力」ではないでしょうか。

 

これから、(広義の)デザインが力を持ってくるのと思います。

政府から奨学金をもらって、ドイツに一年間滞在していた友人のアーティストが、任期を終え帰国しました。それで、先日、築地のお寿司屋さん(安くてびっくり!)に友人が集まって、帰国祝いをしました。

 

ところが、一ヶ月弱日本にいて、またドイツに戻るそうです。奨学金はもちろんなくなりますが、アーティストビザを取得でき、もう一年残ることに決めたのです。

 

 

それほど、ドイツの生活や制作環境が良いのだそうです。何が、そんなに日本と違うのでしょうか?

 

「ドイツでは、私はゴミじゃないの。日本ではゴミだったけど。」

 

彼女は、奨学金をもらえるくらい、日本でもある程度成功しています。ゴミなんかじゃありません。

 

「日本では、アート関係者以外の人と親しくなればなるほど、いやな思いをする。だんだん親しくなると、『それで生活できるの?』『いい大人が、好きなことをずっと続けていられて羨ましい。(暗に:世の中そんなに甘くない。いつまでも続かないよ)』みたいに、まるで、悪いことをしているように言われるの。もちろん、本人に悪気はないのはわかる。でも、それって、私にお前はゴミだって言っているのと同じ。」

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「ドイツでは違う。アーティストに対して、なんだか敬意みたいなものを感じる。だから、日本と違って、いろんなことがスムーズなの。私は、ここではゴミじゃないから。」

 

確かに、彼女は一年前より生き生きしているように感じました。のびのびと創作活動に集中出来ているのでしょう。それを見ると、どんな障害があっても、ドイツ滞在を延長するのは、当然に思えました。

 

でも、日本人の一人として考えさせられました。こうして、有能な日本人が一人日本から離れていく。

 

彼女が言うように、みんな悪気はないんです。親身に心配しているのです。なぜ、こうなってしまうのでしょうか。

 

私たちはどうしても、無意識に区別して判断してしまう習性があるようです。そして、自分とは違うと判断すると、自分を守るために無意識に修正を迫るか、排除に向かう。

 

 

よく、「多様性を受け入れよう」というスローガンを耳にします。でも、「受け入れる」という行為は、具体的にどういうことなのでしょうか?

 

私は、まず「判断を留保する」ことではないかと思います。でも、それはなかなか簡単ではありません。判断をするのではなく、相手の言動の背景にあるものを推測する。そうすると、何となく相手が理解できるような気がします。

 

 

世の中、「論理的思考力を高め、合理的に判断をできるようにしよう!」という風潮があります。でも、あえて判断を留保することを学ぶことも重要なのではないでしょうか。

 

 

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