2009年8月アーカイブ

 

昨日、サイトウ・キネン・フェスティバル松本にて、小澤征爾指揮「戦争レクイエム」を聴きました。ブリテンによる、第二次世界大戦への鎮魂歌です。

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オーケーストラも大編成の合唱もソプラノも大変素晴らしく、大満足でした。その中でも、演奏終了後最も大きな拍手を受けたのは、ソプラノのクリスティン・ゴーキーでも小澤さんでもなく、地元松本の児童合唱団の子供たちだと感じました。

 

この曲では、一般の合唱は教会の音楽を表し、児童合唱は天使の声を表します。児童合唱団は、地元松本の子供から、オーディションで選ばれた子供たちで編成されているそうです。

 

たぶん児童合唱団は、二階席か三階席から歌っていたのでしょう。私たちは、一階席後方に座っていたので、天使の声のパートの際、天から聞こえてくるようで、よくわからず何度も天井を見上げました。

 

演奏終了後、子供たちが一階舞台脇に降りてきて、初めて気づきました。そして、万籟の拍手。子供たちの、緊張がほぐれて、そして達成感に満ちたはればれとした顔、顔、顔。彼らは、一生この瞬間を忘れないだろうなあ、とこちらも感動しました。

 

このような機会を提供するサイトウ・キネン・フェスティバルは、本当に素晴らしいプロジェクトです。松本に赴任している友人の話によると、小学校の合唱部は練習がハードで、土日も休みなしで練習とのこと。きっと、このフェスティバルが確実に、地元に文化の土壌を根付かせているのでしょう。フェスティバルの運営は、多くの地元ボランティアによって支えられているそうです。

 

数年前、終演後、地元の馬刺しのおいしい店に出かけたところ、さっき演奏していた若手の演奏家たちが、楽しげに打ち上げをしていました。本当に松本の街に溶け込んでいるようすでした。

 

 

芸術家と地元の幸せな関係。これは先日の越後妻有「大地の芸術祭」も同様でした。箱モノではなく、本当に地元住民が誇りにでき、しかもそれに参加できるソフトは、ますます成熟化が進む日本の救世主となるのではないでしょうか。

 

そんな、兆しを感じた夜でした。

某HR系コンサルティングファームが組織変更を行い、これまであった人事制度コンサル部門と、人材育成コンサル部門を統合して、タレント・マネジメント部門としたそうです。

 

「企業の組織力強化のためは、ハードHRとソフトHRを融合して、支援すべきである」との目的の下、総合的タレント・マネジメント・サービスとして、再定義したのです。

 

一見すると、サービス強化の方策に見えますが、果たしてそうでしょうか?これは、稼稼働率が急低下している両部門を統合し、コスト削減することが、どうやら真の目的のようです。

 

社員の首きりを、リストラクチャリングと呼んで美化したのと似たような図式が透けて見えます。こういう場合に、横文字は便利なのです。

 

 

横文字になった時点で、それ以上その意味を深く追求しようという気持ちが薄れてしまうのは、なぜなんでしょうか?

 

まだまだ横文字に弱い日本人のマインドが、思考停止を助長しているような気がしてなりません。

 

 

 

 

リーダー対象の研修を企画する場合、例えば「経営戦略」をメニューに入れたいとの要望があっても、企業によって、その意味合いが全く異なることが多いです。

 

例えば、・・・・・

 

 

    メーカーA

わが社のリーダークラスにもなれば、経営戦略を策定する能力が求められる。したがって、経営戦略を学ばせたい。ちなみに、一日で経営戦略研修をする場合、ラーニングポイントは何ですか?講師は、どのようなステップ(あるいはタイムスケジュール)で進行するのですか?最終的に、受講者に何を持ち帰ってもらうのですか?

 

    商社B

リーダーだから経営戦略を学ぶというわけではない。若いうちから現場で、戦略を作る場面は何度も経験しているのだから。ただ、これまでは、自己流で学んできているので、それが果たして正しいのか?とのもやもや感を抱いている。したがって、研修では、できるだけリアルな事例を踏まえて、彼らの経営戦略に対する見方や思考が、ずれていないかを確認させてほしい。

また、他の受講者がどういう考え方をするのかも、共有させたい。つまり、これまでの彼らの経験に、意味づけを与え、また整理し、概念化させてほしいのです。そうすれば、また勝手に経営戦略でも何でも学んでいくでしょう。

ラーニングポイント?そんなものどうでもいいですよ。必要なら、本を読めばいいんでしょう。

 

 

同じ経営戦略でも、こうれほど違うことは、珍しくありません。それは、プロセスを重視するメーカーと、商売を自分で作る事にこだわる商社という、業界による部分もあるでしょう。しかし、それだけでもない気がします。

夏の高校野球大会は、劇的な幕切れで愛知県代表中京大学中京高校が優勝しました。ちょっと自慢になりますが、中京大中京が愛知県予選決勝であたったのが、我が母校である県立刈谷高校です。

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刈谷高校は、進学校にも関わらずサッカー部と野球部が、結構強いのです。私が中学3年生くらいの年、選抜高校野球大会に出場しています。

 

また、私が高校三年生の年は、夏の予選で準決勝までいきました。ベスト4には、後に巨人で活躍する槙原を擁する大府高校と、いまだに現役で活躍する工藤を擁する名古屋電気高校でした。結構、すごいでしょ。

 

 

今回の中京のように全国から優秀な選手を集めて強化する私立高校が強いのは、当然といえば当然です。でも、母校のように、そのようなことはできなくても、なぜか常にそこそそこ強い高校は、他にもあると思います。必ず三年で選手はすべて入れ替わるにもかかわらず。

 

もちろん監督の力は大きいでしょう。でも、それほど母校の監督が優れていたとも思えませんし、理由は他にありそうです。

 

 

それは、一言で言えば「伝統の力」ではないでしょうか。伝統とは、何でしょうか?

 

時代を経て受け継がれる、「勝つことに対するこだわり」とでも言えばよいでしょうか?一度、勝つことが当たり前になると、それを実現する行動が普通になります。もし、それを破るような行動を取れば、周囲(監督は当然のこと、他の選手、他の生徒、父兄、OBなど)からあらゆるプレッシャーを浴びせられます。

 

たとえ、言葉では浴びせられないとしても、無言の「空気」によって、圧力がかかるのです。こういった、空気の力は侮れません。人間はそれほど、空気に支配されるのです。それを、体現するのが伝統校なのだと思います。(これはいい空気の例ですが、もちろん悪い空気もあります。悪いほうが多いかもしれません)

 

 

企業組織でも、全く同じです。社員の保有する能力の差なんて、競争する企業間ではほとんどないに等しいと思います。素質の差ではなく、どれだけ能力を発揮させることができるかの勝負なのです。私も研修などを通じて、多くの企業に接してきましたが、いわゆる偏差値(出身大学で表現される)と実務能力の関係は、それほど大きくないことを実感しています。

 

もちろん採用で優秀な社員を獲得することも重要ですが、それよりはるかに入社後の人材開発の重要性の方が高いことは、もう明らかでしょう。ただし、人材開発には、好ましい「空気」の醸成も含まれるべきですが。

 

 

 



 

 

 

 

能には、地謡といういわばコーラス隊が付きます。一列4名で二列並び地謡.jpg、舞台に向かって右側に、舞台側(脇正面側)を向いて座ります。この中のリーダーを地頭といって、後列右から二番目に座ります。(オーケストラのコンサートマスターは、最前列に座りますので、逆ですね。)

 

また、舞台後方には、後見といって、シテの服装を直したり、道具を片づけたりする人が二名座ります。単なる黒子と違って、シテの台詞の間違いを正したり、シテにトラブルが発生したりした場合の 後見.jpg代役も務めることになっています。従って、弟子ではなく、シテと同等かそれ以上の演者が務めます。

 

このように、能では、実力者が後ろにまわって支える構造があるようです。

 

私はこれまで、地頭の前で謡うような機会はありませんでしたので、なぜ地頭は前ではなく後ろにいるのだろうと、少し疑問でしたが、その機会が一昨日訪れました。

 

 

一昨日の土曜日、観世九皐会の全国のお弟子さんの合同発表会に参加しました。といっても、東京における観世喜正師と長沼範夫師の両社中(弟子の集まり)合同(約30名)で、「高砂」を連吟(大勢で一緒に謡うこと)する舞台の末席に加わっただけなのですが。

 

私は4列ある中の、最後列に座りました。もちろん、実力順ではなく、苗字のあいうえお順です。さらに、私の後ろに両師が座り、地頭のような形でリードしていただきました。

 

後ろから聞こえてくる両師の声は別格で、まさに後ろから押しだされるような感覚に見舞われ、なんとか負けないように声を張り上げました。その時、なるほど地頭が後ろに座り、他のメンバーに勢いを与え押し出すのは、理に適っているなと実感しました。

 

きっと、後見の存在も同じで、シテは後ろに座っている後見の精神的支え(声こそ出しませんが)を感じて、安心して舞うことができるのだと思います。

 

 

このように、先頭で集団をリードする欧米型のリーダーに対して、後ろから集団を支え、押し出す日本型の「頭(かしら)」の存在は、興味深い気がします。

 

最近では「サーバント・リーダーシップ」という言葉もありますが、日本的な組織のあり方を、もっと肯定的に捉えて、普遍化することも必要なのかもしれません。

 

仕事ってなんでしょうか?

 

一般にサラリーマンは、以下の四段階を経ていくように思います。第四段階は、風前の灯ではありますが。

 

1.       お金をもらいながら、育ててもらう(収入>成果)

2.       自分の給料くらいは稼ぐ(収入=成果)

3.       給料以上を会社に稼がせる(収入<成果)

4.       部下(or現役)が稼いでくれる(収入>成果)

 

 

しかし、サラリーマンであろうと、個人事業主であろうと立場に関係なく、以下のような幸せな人もいます。

 

お金をもらいながら、遊ばせてもらう(遊ぶ喜び+収入)

 

 

作家の道尾秀介さんが、

「これはいわば他人のお金で遊ばせてもらっているようなもの」と、自分のことを書いていました。

 

彼が若い頃、バイクで旅をしているとき、故障を助けてもらったバイク屋の人が、バイク屋って楽しいですか?との彼の質問に、こうこたえたそうです。

 

「楽しいよ。他人のお金で遊ばしてもらっているようなものだもん。給料安いけど。お金がなくっても、毎日遊んで暮していけるなんて最高でしょ?」

 

その時、道尾さんは、

        いつか自分も絶対に他人のお金で遊ばせてもらえるようになること

        何事も難しく考えないこと

を心に決めたそうです。

 

素敵な話でしょ。

 イチロー.jpg

 

さらに一歩進んで、イチロー選手は、他人のお金で好きなことをし、しかもそれで社会に影響を与えることの喜びを語っています。

 

「自分の好きなことをやって報酬を得て、それによって世の中の人に影響を与えることができる仕事は限られている。それを生活の手段だけにとどめておくのは、すごくもったいない。」

 

 

スティーブ・ジョブスは、有名なスタンフォード大学での講演で、こう言SJ.jpgいました。

 

「時間は限られています。他人の人生を歩むのは止めましょう。他人の作った固定観念のわなに囚われないようにしましょう。他人の意見に左右されず、自分の心の叫びに耳を澄ませましょう。そして、自分の「心」と「直感」を道しるべとしましょう。どういうわけか、「心」と「直感」は、自分が何になりたいかを既に知っているのです。」(訳:藤井清孝)

 

仕事、成果、おカネ、遊び、社会、直感、他人の作った固定観念の罠・・・。簡単そうで、すごく難しい気もしますが、・・・やはり、道尾さんのいうように、何事も難しく考えないということが一番なのかもしれませんね。

 

 

世の中検定ばやりです。漢字検定から始まって、京都検定くらいま47800529.jpgでは、新鮮さもあったのですが、いまや何でもかんでも検定で、どれだけあるか想像もつきません。正直言って、もう検定は結構という印象でした。

 

 

検定はうけるものとしか考えませんが、検定試験を作成する立場になったと想像すると、また違った世界が見えてきます。

 

ある企業で、内定者向け研修として、「自分検定」をそれぞれが作成し、他の人に回答してもらうというプログラムを実施し、好評だったそうです。

 

作成者は、まずどんな問題を出すかを考えねばなりません。それが、自分自身を考える上での主要テーマになります。そして次に、正解を含む選択肢を5つ用意します。自分のことなので、正解は簡単ですが、他の4回答を用意するのが、結構難しいそうです。それなりに、ありそうな答を用意する必要があります。つまり、自分はAだけど、BEの可能性も十分ある。そういう、回答を用意するのは、意外に難しい。

 

このプロセスは、社会の中における自分自身を考えるプロセスになっているのです。自分自身を他者の中で相対化する作業です。きっと、内定者にとっては、貴重な自己認識の経験でしょう。また、もちろん他者の理解にも有効だと思います。

 

 

また、他の会社では、若手社員に「自社の経営理念検定」を、研修として作成させたそうです。明文化された経営理念を説明するだけでなく、経営理念に即した行動や判断を択一で選ばせる試験です。そのために、社長にインタビューしたり、他社の経営理念を調査したりもしたそうです。

 

受講者自身の、自社の経営理念理解もきっと進んだことでしょう。そして、作成した検定試験を、実際に管理職に受検してもらったそうです。その結果は聞けませんでしたが・・・。

 

検定にも、いろいろな使い道があって、面白いですね。

杉並区立和田中学校前校長藤原和博さんの講演録が、今朝の日経に掲載されていました。子供の教育に、ゲーム的な学びを増やそうという主旨のものです。その中で気になった文章を列記します。

 

 

20世紀成長社会と21世紀成熟社会の最大の違いは、みんな一緒の社会から、それぞれ一人ひとりの社会に変わったということ。みんな一緒の社会では、「情報処理力」が大切だったが、これからは「情報編集力」を兼ね備えなければいけない。なぜなら正解がひとつではないから。(中略)

 

知識をつなげて最適解をつくっていく作業が必要だ。自分だけでなく、関係するほかの人も納得するような解を導き出すには、自分の知識と経験だけでは難しい。だからこそ、ネットワーク的な学びが重要になってくる。(中略)

 

これからは、みなが一人ひとりになる非常に恐ろしい社会。試行錯誤を許すような教授法が重要になってくる。

 

 

 

これは、企業も全く同じですね。「みなが同じ」というパラダイムが、依然基調として残っている社会の中で、「みなが一人ひとりになれ」と教育し、そう仕向けることは容易ではないでしょう。そして、子供も大人も、そのギャップに苦しんでいる

 

確かに、同じムラの中でぬくぬくと暮らす生活から、一人荒野に歩みだすには勇気がいります。しかし、ムラの住人を食べさせていくだけの食料が尽きかけているのであれば、遅かれ早かれ、そうせざるをえません。

 

 

勇気とともに武器も必要です。その一つが、情報編集力なのだと思います。必要な知識や知恵を自らの才覚で集め、目的に適うような形に編集するスキルです。

 

こういったスキルの開発の雛形のようなものは、まだありません。藤原さんが言うように、試行錯誤は必要条件になるのでしょうが。

 

そう考えると、今は、学校教育にしろ社員教育にしろ、過去の経験が使えない、パラダイムシフトの時代なのでしょう。大変ですが、チャレンジングでもあります。

イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワード氏が書き残している、以下の言葉が好きです。

 

「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は、説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は、心に火を点ける。」

 

教育の目的とは何でしょうか?決して、知識を付与することではありません。知識付与は、目的を達成するために必要な要素のひとつにしかすぎません。

 

教育の目的とは、生徒(社員)に、自分自身が持っている才能に気付かせ、それを追求する方向に仕向けることではないでしょうか。「好きなことを追求することが、才能を伸ばすことになるのだから、それをもっと突き詰めていいんだよ」と後押しすることが、火を点けることにもなるのだと思います。

 

旧来、学校教育にしろ、社員教育にしろ、社会や会社が要求する一定水準の能力を付与することが教育でした。しかし、今や、汎用的な一定水準の能力の重要性が、相対的に低くなってきています。社会や組織の成り立ち自体が変わってきているからです。「ゆとり教育」は、そのための方策だったのかもしれません。

 

 

そういう社会となると、難しいのは「火を点ける」やり方です。火が点く理由は、人それぞれで違います。Aというやり方で火がつく子供もいれば、それでは決して点かない子供もいるはずです。それを見極めて、それぞれの方法でアプローチできるのが、優れた教師なのでしょう。ロビン・ウィリアムス主演の「Dead poets society」は、そんなことを実感させる映画です。

 

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感情を持つ人間の「心」に作用させることが、そんなに易しいはずもありません。特に企業組織の場合は、短期の業績目標の達成という制約のもとで、中長期的にヒトを育てていかねばならないので、なおさらです。

 

 

解はありませんが、相手を理解し、そう相手を理解する自分自身を知ることから、火の点け方が見えてくるような気がします。

 

そして、その前提は、他者は自分とは必ずしも同じでないメカニズムで思考・行動しているのであり、そういう多様な人々がいることが社会や組織を強くしているのだとの信念を持つことではないでしょうか。

 

 

ところで、「火を点ける」というとき思い出すのは、(そのまんまですが)薪ストーブで火をおこす作業です。何度やっても苦労します。でも、やっているうちに、これって人間の集団作用と同じだなと感じることがあります。冬になったら、書いてみようと思います。

 

毎年この時期は、戦争関連のTV番組が続きますが、先週のNHKスペシャル  「日本海軍 400時間の証言」 (全三回)は、出色でした。

 

(以下、NHKHPより第一回の紹介文です)

太平洋戦争の開戦の鍵を握った大日本帝国海軍・軍令部。全ての基本作戦の立案・指導にあたり、絶大な権力を持った『軍令部』の実態は、資料が殆どなくこれまで闇に包まれていた。

「海軍反省会」。戦後35年が経過した昭和55年から11年間、海軍の中枢・『軍令部』のメンバーが中心となって秘密に集まっていた会合である。7080代になっていた彼らは、生存中は絶対非公開を条件に、開戦に至る経緯、その裏で行った政界・皇族・陸軍などへの働きかけなどを400時間にわたって仲間内で語っていた。戦争を避けるべきだと考えながら、組織に生きる人間として「戦争回避」とは言いだせなくなっていく空気までも生々しく伝えている。

 

第一回のサブタイトルが、「海軍あって国家なし」でしたが、これは全回にわたって基調となっている言葉です。(2,3回のサブタイトルは、それぞれ「特攻 やましき沈黙」「戦犯裁判 第二の戦争」)

 

この番組を見て、戦中から続くこの体質が、途切れることなく現代に続いていることを痛感しました。そもそも、中枢にいたエリートたちが、その体質090811_b.jpgのまま戦後の日本復興を支えてきたのです。

 

「暴力犯の陸軍に対し、知能犯の海軍」とある参加者が語っていました。有名な東京裁判で死刑になったのは東条以下陸軍高官のみで、海軍高官は一人も死刑になっていないことを知りました。

 

役所の縦割り行政、企業の部門間の壁など、全体最適より部分最適を希求する日本の組織のオリジンを見た思いです。

 

では、なぜそもそも国家を守る機関であった海軍が、自組織維持を目的化するようになっていったのでしょうか?番組は、そこまで踏み込んでいません。

 

 

企業で考えてみましょう。A部門の社員は、A部門長によって最終的には評価されます。だから、A部門社員が部門の利益最大化を図るのは当然です。(もちろん会社全体のためという価値観は大切ですが、一般に価値よりメリットを重視するのです)

 

では、A部門長を評価するのは誰でしょうか?社長か、役員会(的な機関)でしょう。社長も他の部門長や役員も、同じエリートの「仲間」です。仲間を厳しく評価できません。なぜなら、自分にも火の粉が降りかかってくるかもしれないからです。

 

そして、空気としての不可侵条約が結ばれるのです。A部門はB部門と、社内で激しい競争を繰り広げている(予算獲得や昇進競争などで)かもしれませんが、最後は不可侵です。(裏での政治工作はあるかもしれませんが)

 

これは、企業を業界、部門を企業と置き換えても、ほぼ同じでしょう。

このようなインサイダーシステムには、組織外の視点が極端に少ないのが特徴です。つまり、それでも会社は潰れないで維持できるだけの好ましい環境にあったのです。

 

もちろん、現在環境は厳しくなっています。しかし、親方日の丸や規制によって守られている業界では、まだ継続を前提としたインサイダーシステムが生き残っています。

 

 

8/30の総選挙では、このような継続性やインサイダーシステムに、国民がどう判断を下すのかが問われているのだと思います。

前回、齢を取り賢くなることとは、自分自身を知るようになることだ、と書きました。自分を知るということは、裏を返せば他者も理解できるようになることだと思います。

 

 

よく、「相手の立場になって考えよう」とか、「相手がどういう人なのか理解しよう」といいます。コミュニケーションの基本中の基本です。特にマネジメントの仕事をする際には、重要です。

 

 

しかし、仮に相手の立場に立って考えたとしても、その人と同じように考えることができるでしょうか。立場が共通であれば、同じように考えられることも多少はあるかもしれません。でも、現実には、多くはたとえ立場が同じでも、異なる考えをするのが人間なのではないでしょうか。

 

それから、「相手がどういう人なのか」は、どのように認識できるのでしょうか。たまたま、その人が信号無視したところを目撃したからといって、「あの人はルールを守らない人だ」と認識していいものなのでしょうか。

 

つまり、他者を認識する際、ある断片だけを捉えて、拡大解釈、あるいは曲解することが非常に多い気がするのです。

 

もちろん、非常に長い時間を一緒に過ごせば、かなり深く理解できる可能性はあります。しかし、だからといって、同じ職場にいる程度であれば、難しいと思います。

 

そもそも、ある人間を正しく認識するとは、あまりに抽象的です。いい人か悪い人か、

親切か不親切か、仕事が早いか遅いか、など、切り口は無数にあります。きっと、状況に応じて、便利な切り口を拾い出すのでしょう。そして、その印象は、他の場面にも適用される可能性もあります。イメージが固定化されてしまうので。

 

 

そうなると、やはり人間を理解する上でのフレームワーク、というかパターンのようなものが欲しくなります。できるだけバランスの取れた、科学的に信頼性が証明されている指標のようなもの。

 

日本で、最も使われる指標は、血液型に違いありません。「あなたは何型ですか?」と聞けば、何となく相手を理解できた気がしますし、共通の話題としても適当です。ただ、科学的根拠は全くないそうです。

 

同質を前提としていた過去のマネジメントでは、人間理解のフレームワークなんて、そもそも必要なかったのでしょう。しかし、近年急速に状況は変わりつつあります。

 

多様性のマネジメントの重要性が叫ばれる昨今、自分を知り他者を知る共通言語となる指標のニーズが、今後さらに高まる気がします。それが、自分の成長に、さらに他者とのコミュニケーションに大きな役割を果たすと思います。

「齢を重ねるということは、賢くなるということだ。」と、教えられてきたように思います。では、賢くなるということは、どういうことでしょうか。

 

一般に「大人になる」とは、「世間に合わせて生きろ」とか、「長いものには巻かれろ」と同義語といってもいいでしょう。社会が安定し、経験が十分に生きる世の中であれば、それが、賢い生き方だったのです。

 

つまり、齢を重ねること(大人になること)は、賢くなることであり、賢くなることは、世間に合わせていくこと、となります。一種の処世術です。

 

最初の命題は、今でも生きている気がします。そうでなければ、困ります。しかし、二つ目の命題は時代に影響を受けるはずです。

 

今、本質的な賢さの意味を考えてみることも、無駄ではないでしょう。

 

 

年齢とともに増す賢さとは、何でしょうか?もちろん経験を重ね、知識も増えるでしょう。知識も一要素に違いない。知識を使いこなす知恵も賢さの重要な要素です。でも、なんかまだ足りない気がします。

 

 

齢を重ねることにより、自分自身がわかってくる気がします。身の程がわかってくるというか、自分の中でどうしても変わらないものが見えてくるような感じです。

 

「自分の中で変わらないもの」を自覚し、それに合わせたスタイルで生きていくこと、それが賢くなるということではないでしょうか。

 

しかし、世間は、どうやら正反対の方向に向かっている気がします。

 

「人間は、いくつになっても変われる。いや、変わらなければならない。それができない人は、負け組だ。」

 

そんな風潮で、子供も若手もベテランも、みんな無理しているのではないでしょうか。

 

好きなこと、得意なこと、そしてその源にある才能、それを見つけて伸ばすことが、本当の人材開発なんだと思います。

 

 

先週金曜から昨日までの三日間、以前も書いた 「越後妻有トリエンナーレ2009 大地の芸術祭」に行ってきました。

 

多くの作品に刺激を受けましたが、作品とは別にも様々なことを考えさせられました。その一つが「コミュニティーの核としての学校」についてです。

 

 

約20年前になりますが、北欧のフィヨルドを船でゆっくり数日かけてめぐったことがあります。急峻な傾斜地が、フィヨルドに落ち込むほんのわずかなスペースに、集落が点在していました。へばりつくように建ついくつかの建物の中には、かならず小さな教会があります。それが集落の中では最も立派な建物であり、小さな集落の核であることは、船から見てもわかりました。人々の教会に対する親愛と尊敬の念が感じられました。

 

日本の山村では明治以降、それが学校でした。(江戸時代まではお寺だったのでしょう)美術作品を巡り、越後妻有の山村に入り込むと、それが良くわかります。

 

村の住民は、何代にもわたって、その学校の卒業生ばかりです。学校の建物自体が、人々の記憶集積なのです。

 

 

しかし、近年子供の数が減り、次々と廃校になっています。それにとどめを刺したのが平成の市町村大合併です。今回も、いくつもの廃校を利用したアート作品を観ましたが、2,3年前まで使用されていた小学校がいくつかありました。まだ、生きている感じがするほどですが、合併を機に中心地にある大きめの学校に統合したのでしょう。

 

確かに、その方が効率的です。しかし、廃校となった村からは、人々の記憶が剥ぎ取られてしまったかのような印象を受けました。

 

フィヨルドの村々で、人口が減ったからと言って教会を壊し、町の大きな教会に統合することをするでしょうか。コミュニティーには、記憶集積としての核が絶対に必要です。

 

 

こういう社会に風穴を開けるべく、コミュニティーの核であった学校の建物を活用し、アートの力で新たな核として蘇生させるプロジェクトが、大地の芸術祭のもとでいくつも立ち上がってきているのです。

 

学校を自分たちの記憶の集積として愛着を持ち続ける住民と、彼らと協力して学校建物を生き返らせようとするアーティストの、一見すると不似合いですが、実は強力なコラボレーションの一端を垣間見ることができました。

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成長が止まった日本の方向性を暗示するような、素敵な場面に遭遇することができた三日間でした。是非、実際に現地に足を運び、体感することをお勧めします。

学問としての教育学の対象は、子供であることがふつうです。でも、教育は子供にだけ必要ではなく、我々大人にも必要です。

 

それに対応するもののひとつが、「企業内教育」でした。そのベースには、「社員は子供と同じように、職務に必須の知識やスキルを修得しなければならない。だから、教育する。ただ、子供と違って素直じゃないから、少し工夫が必要。」という考えがあったように思えます。特定の会社という環境に属す大人を教育するということです。

 

学問の世界では、大人の教育を重視してこなかったため、企業内教育の理論化は、それほどなされなかったというのが実態でしょう。もちろん、労働者の生産性向上の方法論は、研究され進化を続けました。

 

その後、企業内では、他者が意図を持って教える「教育」では、足りなくなってきました。「教える」とは、教えるべき正解があって、それを提供することを意味します。ところが、だんだん教えるべき正解がわからなくなりました。過去の知識や経験が活きなくなったのです。

 

簡単に言えば「教える」ではなく、「学び」をいかに促すかに、焦点が移っていたわけです。そこでは、教えることをベースにした教育論では、なかなか役立ちません。

 

教育と学びは、ひとつのものを表裏から見た関係ともいえます。でも、基本的には、主体が教育者(教師)で、客体が学び手(社員)。これからは、学び手を主体とすべきです。そして、学び手とその支援者の関係をどう築くかに知恵を使います。

 

つまり、企業組織内に「学び」の仕掛けを組み込み、社員が自律的に学ぶことを支援することが必要なのです。

 

 

「教える」パラダイムで、教える人の技術を高めることを目的にした「教育学」から、「学び」のパラダイムで、学びを必要とする人が、自律的に学ぶ技術を高めることを目的にした「学び学?」(いかに学ぶか)とそれを組織内にシステムとして組み込む技術(これは多分にビジネスの世界でのエンジニアリングに近い)を併せ持った「ラーニング・エンジニアリング」(勝手にそう呼んでいます)が今必要なのだと思います。そのような理論化もまだまだ途上でしょう。

 

教育のパラダイムを脱した新しいパラダイムを、企業の人材開発部門と「学び」の専門家が一体となって構築する時がきているのではないでしょうか。

台本が、俳優によって声に変わると、まったく別の世界を創りだすのですね。当たり前のことですが、目の当たりにするとそれを実感します。

 

「WPLを活用したワークショップファシリテーター養成講座」を、ダイヤモンド社主催の下で、現在開発中です。監修は、東大大学総合研究センター中原淳准教授です。

 

それに使用するDVD映像のリハーサルを昨日行いました。「雑談」「議論」「対話」の違いを理解してもらうために、プロの俳優さんたちに演技をしていただいたのです。

 

台本に基づいて、演技をしてもらうのですが、「よーい、スタート」との声でリハーサルが開始すると、一瞬にしてそこに別の世界が出来上がります。文字が立体的なシーンへと変わるのです。

 

もちろん、TVや映画、演劇など演技を観る機会は多いのですが、日常から芝居に切り替わるのを目にするのは初めてでした。本当に場の空気が一瞬に変わるのです。素人の演技との違いは一体何なんでしょうか?

 

ディレクターの指示で、何度も修正しリハーサルが繰り返されました。台詞はほとんど変えなくても、ちょっとした指示で世界がまた変わります。これも、驚きでした。

 

台本は、所詮台本にしか過ぎない。落語も音楽も同じですね。それもあらためて実感しました。

 

どんな分野でも、創造するプロは凄いです!

人事の世界を、大きくはハードHRとソフトHRに分けることができます。ハードHRとは、人事制度、評価・報酬システムなど主に制度やルールで、社員の人事管理を行うものです。一方ソフトHRは、主に能力開発、研修、企業理念など社員のスキルや意識にはたらきかけ、個人や組織が好ましい姿になることを支援するものと言えるでしょう。ひらたく言えば、人事部門と人材開発部門といってもいいかもしれません。

 

 

先日お会いした、ある企業の人材開発センター長が、「両者の違いは、性悪説に基づくか、性善説に基づくかだ。」とおっしゃったのが印象に残りました。

 

その会社も、以前は人事部門と人材開発部門は同じ組織にあったそうですが、根本的な思想が合わず、分離したのだそうです。

 

確かに、人事制度を構築する際、「社員が怠けないように、どんなルールを作ろうか」という考えがベースにあるような気がします。少なくとも、制度を悪用する社員が出ないように詳細を詰めることは間違いないでしょう。

 

一方、人材開発を企画・設計する上では、「どうすれば、社員がもっと活き活きとし、、成果が上がるようになるだろうか」とまず考えるのではないでしょうか。ベースには、うまく環境を整え刺激すれば、本来持っている能力を発揮してくれるとの前提があります。

 

 

非定型業務主体で創造性が求められるナレッジワーカーを対象とすれば、「最後の砦となる人事制度で規律を」求める人事と、「自律性を促し、創造の支援をする」人材開発との間に、コンフリクトが生じるのは当然です。

 

 

とはいえ、大きな流れは「人事管理から人材開発」と言って間違いないでしょう。個の能力を解き放つ人材開発の重要性は、ますます高まっていきます。

 

このような状況のもと、経営陣や社員の期待に人材開発部門が応えていけるかどうか、まだまだやるべきことは多いと言えるでしょう。

 

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