経営戦略の最近のブログ記事

ここ数日、日本の大手電機メーカーの大幅な赤字決算が、立て続けに発表されています。震災、タイの洪水、そして円高、確かに日本企業にとって極めて厳しい環境であることは確かです。しかし、赤字を発表する経営陣が、それらを言い訳に利用しているように見えてなりません。まるで、「誰が社長でも、今期は利益出せないよ」と開き直っているように見えることすらあります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、ですか・・・。

 

今回の赤字は構造的なものであって、決して震災などの一過性のものではないことに気づくべきです。TVが売れないのは、円高だからではなく、魅力的な製品を出せないからです。多くの経営者はあまりに他責に陥っているようで、非常に不安です。

 

これまでの日本企業はスペックでの競争が得意でした。また、それを顧客も評価してきました。ところが今は違います。薄型TVに代表されるように、スペック面での進化は、顧客の認識レベルを超えるところまでいきついてしまいました。つまり、「もうたくさん」なのです。そうなると、あとは価格競争しかありません。他国の競合も、そのレベルのスペックに到達しているのですから。

 

この構図はあらゆる製品において実現しており、かつそのスピードはどんどん速まっています。スペック競争に代表される機能的価値の商品価値に占める割合が、どんどん低下しているのです。

 

では、機能的価値以外にどんな価値が重要になっているのでしょうか。それが意味的価値です。主観的価値とも言えます。つまり、定量的にその良さを説明するのは難しいけれど、「好きだから」少々高くても買うという場合に、顧客が余計に支払う金額で表現されるものです。マーケティングの世界ではそれをブランドと呼ぶのかもしれませんが、ブランドの源泉となる何かです。

 

現在、最もそれが得意なのがアップルでしょう。日本でいえば無印良品や任天堂(Wii以降ぱっとしませんが)もそれに近いかもしれません。また、かつてのSONYもそうでした。

 

なんとなく日本企業は、機能的価値創造は得意なのだが、意味的価値創造は苦手という風潮がありませんでしょうか?今回赤字決算発表をした経営者の言葉の端々にそんな印象を受けます。私は決してそんなことはないと思います。それは言い訳にすぎない。日本人ほど、意味的価値を好み、受け入れ、対価を支払ってきた国民はいないでしょう。たしかに、ここ十数年はデフレの波にさらされ、低価格志向は高まっていますが、それは表面的な現象だと思います。

 

たとえば、桃山時代以来のお茶椀を愛でる伝統。機能的価値はほとんどわずかのモノに対して莫大な値段がついてきた。そう、意味的価値のかたまりです。

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歌舞伎や能、落語といった芸能を、数百年にわたって大事に育ててきた。役者の機能的価値には、どれだけのものがあるでしょうか。日本人は意味的価値を高く評価し、また生み出す高い能力を備えているのです。高い美意識を持っているといういい方もできます。でも、それらをどこかで忘れてしまった・・・。

 

あらためて、自らの原点に立ち返り、自らの強みを認識し、活かす方法を考えてもいいのではないでしょうか。それなくしては、日本の再起はあり得ないように思います。いや、それどころか意味的価値の競争では、日本は世界のどの国にも負けないはずです。

 

 

「経営とはトレードオフにおける意思決定である」

ある経営者が言ったこの言葉は真実だと思います。例えば、利益を追求するのか、雇用を守るための成長を追及するのか、どちらかを選ぶことが経営者の仕事です。

 

しかし、ときに両方を目指すことが戦略上重要なことがあります。かつてのトヨタは品質とコストという従来トレードオフと考えられた分野において、その両立を実現させました。これがイノベーションです。

 

先日亡くなったスティーブ・ジョブズは、人間性と技術の交差点に立つことで世界を変えようとしました。アップル創業の頃は、最先端技術を駆使したコンピュータは、人間性の対局に位置づけられていました。彼は、そのときから既にそういったトレードオフの常識に対抗しようと考えていたのです。彼がアップル復帰直後、原点回帰を狙って作製されたTVCMは、

それを如実に物語っています。世界がやっと彼のイメージに近づいてきたところで、残念なことに亡くなってしまったのです。本当のイノベーターは、思想家でもあります。

 

ところで、個人と企業の関係はトレードオフでしょうか?「企業は人なり」の立場であれば、トレードオフであるはずもありません。総論はそうです。でも、ミクロの局面に立てば、トレードオフだと感じる人は多いのではないでしょうか。そこに組織の難しさがあります。しかし、これからの企業は、そこを乗り越える必要があるでしょう。以前に書いたカヤックなどは、その萌芽だと思います。

 

そういった環境では、経営戦略と個人との関係はトレードオフであってはいけません。企業が望む戦略を個人に浸透させるという考え方は、トレードオフの発想です。それでは創造性は生まれてきません。ジョブズの「人間性と技術の交差点に立つことで世界を変える」というような壮大なビジョンの下で、それに心酔した人々からその時々の戦略が内発的に生まれてくる、経営者はそれらを実現するための場作りをする、そんな組織がこれからの強い組織なのではないかと思います。

 

そのためには、ジョブズではないですが、人間性と戦略の交差点に立つ役割が必要になるのではないでしょうか。かつての古き良き日本企業では、経営者が常にその交差点に立っていたように思います。ソニーの井深氏、森田氏、ホンダの本田氏、松下電器の松下氏などが思い浮かびます。しかし、現在多くの企業では、それらが分断されているのが一般的です。中途半端な株主重視の経営を志向しだした多くの日本企業の経営者は、それを放棄したように見えます。

 

では、どうしたらいいのか?これを考え続けることが私にとっても、2012年の大きなテーマと考えています。

これまで経営戦略は、競争戦略と同義で扱われてきたと思いますが、最近どうも違和感を持っています。

 

そもそも競争戦略論は80年代に、HBSのマイケル・ポーター教授の「競争の戦略」から世の中に広まった言葉です。その本では、低成長にあえぐ米企業が、限られた市場の中で競合に対して強みを発揮しシェア拡大するための戦略を分析しています。隠れた前提は、市場が成熟しておりビジネスモデルの独自性余地は小さく競合とは同じ土俵で戦い、競合を市場から退場させることを最終目的とする、です。まさに伝統的な戦争のアナロジーです。80年代国内オートバイ市場におけるホンダとヤマハの競争などはそうだったのかもしれません。

 

でも現在では、これが競争だという事業が思い浮かびません。例えば、アップルとサムソンは、スマートフォンやタブレット端末の特許で対立していますが、iPhoneのデバイスにはサムソン製が多数使われています。また、トヨタは虎の子のHV技術を、日産をはじめ多くの競合メーカーに提供しています。そこには、上記のような前提はありません。それは戦略ではなく戦術だとの反論もありそうですが、戦略と戦術の峻別は無意味です。

 

では、現在の企業の経営戦略とは、どのような原則、前提に基づいているのでしょうか。

 

フランスの軍人戦略家ボーフルは、著書『戦略入門』(1963年)の中でこう書いています。

 

『勝利』という概念は、敵対する者との関係ではなく、自分自身が持つ価値体系との関係で意味を持つ。このような『勝利』は、交渉や相互譲歩、さらにはお互いに不利益となる行動を回避することによって実現できる。

 

決して相手をせん滅することが「勝利」ではなく、あくまで「自身の」(「世間の」ではなく)価値体系の中で争点を定め、その争点において自分の目的を達成することこそが「勝利」だと定義しているわけです。これは、近年の経営戦略の本質を喝破しているように思えます。

 

こういった戦略のパラダイムの変化は、人の生き方のパラダイム変化をも反映しているように感じます。つまり目指すべきゴールは、他人が決めた物差しに従って決めるのではなく、自分自身の価値観のもとで自らが決める。相対的な勝利ではなく絶対的な勝利。ただし、それは容易なことではありません。数年前に、「No.1よりもOnly1」というフレーズが流行りましたが、どこか現実逃避のにおいがしました。競争に疲れ、自分さえ満足していればそれでいいんだ、という甘え。

 

厳しい自己規律のうえでのOnly1(本人はOnlyにはこだわっていないはすですが)は生易しいものではなく、多くの挫折や苦悩を経てはじめて到達できる境地です。芸術家を見ていればよくわかります。果たして現在の日本の個人や企業、政府がそうした葛藤を乗り越えて独自の戦略を描けるかどうか。

 

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で、日本人社会の特徴として、人間の評価は「何を行うか」ではなく、「各々いかなるところを得ているか」でなされる、と書いています。そういう文化をどこかで変えなければ、勝利はまだまだかもしれません。

今朝の日経トップで、アマゾンが日本で電子書籍事業に参入すると掲載しました。やっとかとの印象ですが、日本でのスマートオフォン拡販によって電子書籍市場が立ち上がると判断したのかもしれません。

 

その記事の中に「国内の主な電子書籍配信サイト」の表がありました。それによると、ソニー系、紀伊国屋系、大日本印刷&NTTドコモ系、シャープ系、楽天系、凸版印刷&インテル系、と6つの主な運営事業者が挙げられています。

 

電子書籍用機器メーカー、印刷会社、書店、ネット事業社といった、電子書籍周辺の大企業が軒並み独自陣営を築いて参入していることがわかります。主なグループだけで6つあるのですから、本当はもっともっとあるのでしょう。

 

既存大企業が競合に出し抜かれまいと、あせって参入する姿が目に浮かびます。もちろん新規事業参入は、経済活性化のために好ましいことですが、それによってこれまでどれだけの価値を提供してきたのか、冷静に考えてみる必要があるでしょう。横並びの市場参入が過当競争を招き、多くの企業が疲弊し徹底しました。撤退自体は仕方ないですが、その過程での過当競争が適切な事業の育成を妨げてしまったことも多いと思います。その結果、消費者は市場を離れ、ペンペン草も生えない市場となった。もっと大事に市場を育てれば大きくなったかもしれないのに。挙句の果てに、戦略的に事業拡大を図ってきた海外のジャイアントに一気に日本市場を奪われる、こんなパターンが繰り返されてきたのではないでしょうか。

 

こうなる理由は、海外ではベンチャー企業が担う市場創造の役割を、余剰資源を抱えた既存大企業が最初から自ら手掛けようとするからに違いありません。また、アップルやアマゾンのように他社を巻き込んでエコシステムを構築するといったような、大きな構想を描くことができる企業がないことも理由のひとつでしょう。突拍子もない大きな絵を描ける異能の社員は、多くの日本企業では大きな力を持てないからでしょう。EVAなどの財務データ重視の経営が浸透するにつれて、ますますその傾向は強まっているようです。ソニーを見ていてつくづくそう感じます。

 

電子書籍を利用したい一読者としては、早くアマゾンに日本市場に本気で取り組んでほしいと願うばかりです。残念ですが。


 

それから、著者の権利を守るべく電子書籍に反対、あるいは都合いいように管理しようという出版業界も、まるで農産物輸入反対を唱え続けながら自ら没落しつつあるJA(農協)を見るようです。顧客のためといいながら、既得権益保護を最優先で考えている。経済合理性だけでははかりがたい食料や思想、(出版)文化を盾にして保身を図る人々の本音をしっかり見極めなければなりません。TPPに関する議論も、経済合理性では図れないものがあることも事実ですが、それだけに終始するのではなく、経済合理性とのバランス判断にまで突っ込んだまっとうでオープンな議論をしていただきたいものです。(ちょっと話がそれました・・・)

2000年前後、自動車業界で400万台クラブという言葉が流布しました。1社年間400万台以上生産しなければ生き残っていけないという趣旨でした。それを考慮したのかベンツがクライスラーを買収したり、大型M&Aが頻発しました。しかし、その結果はご存じのとおりで、いったいあの説は何だったのでしょうか。M&Aで儲けようという機関がしかけて、多くの企業が踊らされたようにしか見えませえ。

 

それから10年がたち再び似た様な議論がでています。今度は、環境投資には規模が必要だから、規模を追求するための合従連合を、という論調です。前回もそうでしたが、その意見に反論するのは難しいです。ただ、それを実行したときの弊害をどれだけ真剣に考えたのかとの、チェックは必要です。ある論調が神話化して、一人歩きを始め、誰も疑問を持たなくなり、あとは「赤信号みんなで渡れば怖くない」となっていきます。かつての日本の土地神話もそうでした。ライブドアによるニッポン放送買収騒動の頃、多くの大企業が一斉に買収防衛策を導入しましたが、これも神話に踊らされた例だと思います。冷静に考えれば、そんな経営者を守るルールのある会社の株式は、投資家からすれば投資対象から外すはずで、従って株価は下がるはずです。その後、防衛策を廃止する企業が増えていることがそれを証明しています。

 

話を自動車業界に戻しますが、400万台クラブ騒動の時も独自の道を歩んだホンダは、現在何を考えているのでしょうか。以下のように伊東社長はインタビューに答えています。

 

提携は否定しない。ただ、最も大事にしたいのは提携先で

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はなく、お客様だ。それには絶対にホンダに対する誇りや忠誠心が必要だ。例えば、販売量の拡大を狙い、異なる2社が提携し販売網を相互に活用す

るとしよう。だが、販売店が愛着もない他社の商品を本気で売るだろうか。(中略)偉大なる中小企業を目指す。(中略)この厳しい時代、日本の企業もトップがもっと強い意志を示すべき時が来たと思う。

 


卓見だと思います。妙な神話に惑わされず、自社のあるべき姿を追求する。それがトップの責任だ。こういうトップがいる企業こそ強い企業だと思います。それに比べ、神話に踊らされ右往左往するトップがいかに多いことか。

予期せぬところから探していたものが見つかったときほど、嬉しいものはありません。たまたま古本屋で手にした「やきもの談義」(加藤唐九郎、白洲正子 著 1976年)は、そんな本でした。やきもの談義
白洲 正子 加藤 唐九郎
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加藤唐九郎はもはや伝説的な陶芸家であり、彼と白洲の対談なので、面白そうだとは思いましたが、想像をはるかに超える面白さ。話題がものすごい勢いで広がり、しかもそれぞれが異様に深い。そういう対談です。

 

例えば、加藤が戦略論を語っています。なんと彼は、昭和9年に陸軍参謀部の委員として、「日本戦史」の改訂に関わっているのです。そこで、戦略を学び「それから僕はだいぶ変わっちゃった」そうなのです。

 

戦争というもの、軍隊というものと政治というものと、経済、政治、文化というものは皆同じものであると。それが結局ね、戦争というものは戦術によって勝ち負けが決まるものであると。しかしそれに応えていくように決定するものは、戦略であると。

 

戦術というのは兵器が変わるたびごとに変わる。戦略というものは永久に変わらないものである、政治、経済、文化であると。戦術は軍隊でやっていけるが、戦略とは一般庶民と繋がっていかなければ出来ないものであるというふうに書いておるんです。

 

加藤は、利休を重用したり、美濃を開拓したくさんの窯を開かせたり、楽市楽座を実施したりと、文化・済政策を整え全国統一事業を推し進めた信長を絶賛しています。陶芸家の発言とは思えません。

 

経営戦略でも同じです。「いい製品を作れば売れる」では、単なる戦術です。いい製品が生まれ続けるインフラを、簡単には揺らがないインフラを社内においても、社外においても構築することが戦略だと思います。あらゆるところに強さの基盤となる関係性を築いておくのです。強い企業は、そういうインフラを備えています。

神戸大学にいらした吉原英樹教授(現南山大学教授)は、戦略の本質を『ばかな』と『なるほど』」と表現されています。

 

その時点で見れば馬鹿げた施策であっても、振り返ってみれば納得できる、というわけです。・・・「なるほど」ですね。

 

 

個人的経験に照らして言えば、90年代前半、企業における中堅層以上への教育は、その企業特有の仕組みや制度の伝授が大部分でした。もちろん専門分野(経理や技術)の教育もありましたが、対象者は限られていました。また、管理職研修という特殊な分野はありましたが、これも管理職に昇格した時点で、管理者としての心得を伝える一種の儀式の要素が強かったように思います。講師も、社内のベテランか、社外でも大学教授か功成り名を遂げた偉いシニアだったと思います。これが当時の常識でした。

 

そこに、「経営には汎用的知識やフレームワークがあり、それを研修で学ぶことができる。そして、それを教えるのは、それを使いこなしている現役のビジネスパーソンが最も適している。」という非常識で、市場を開拓していきました。多くの企業は、「本当か?教育の素人だろ」という反応でしたが、一部の企業では「もしかしたら、そうかもしれない。試してみようか」と、好意的に受け入れてくださいました。バブル崩壊によって、多くのビジネスパーソンが迷っており、新しいものを求めていた、との背景もきっとあったのでしょう。

 

しかし、今や、その考え方が主流になっています。「なるほど」を通り越して「当たり前」になっているのです。(やや行き過ぎのきらいもないではありませんが・・)

 

では、当時、私たちがそんな変化を洞察していたかというと、半分そうですが、半分はそうでもなかったように思います。ビジネススクールで学んだことが「役立つ」と感じていたので、その意味では確信がありました。ただ、役立つと感じてくれる人は、選抜者などの一部エリートかもしれないと思っていました。日本企業は、まだまだ選抜教育に抵抗があったので、市場性は正直それほど大きくないとも思っていました。

 

講師についても、年功序列がまだまだ残る日本の大企業で、若くしかも教育の素人が、(若手社員ならともかく)企業の中核を担うようなビジネスパーソンを教えても大丈夫なのか?との不安はとても大きかったことを覚えています。でも、そういうアルバイトで協力してくれるような若い講師しか集められなかったので、仕方がなかったのです。振り返ってみれば、顧客はそれを受け入れてくれ、またビジネスとしては講師に支払う費用を変動費化できたわけですから、うまくいきました。成長が軌道にのってからは、「なるほど、うまくやったな。」と言われたものです。

 

今も、見えないところで社会は少しずつ変化しているはずです。今認識している常識も、もしかしたら現実とはずれているかもしれません。それをいち早く見つけて、先手を打つことこそ、経営の醍醐味だと思います。

組織には求心力が必要です。では、何が求心力になるでしょうか?ひとつは、「リーダーの徳」でしょう。古来の中国や日本のリーダーには、徳が最重視されました。劉備しかり、西郷隆盛しかりですね。しかし、何事も属人化してしまうと、永続性がありません。

 

そこで、教科書的に言えば「理念」や「ビジョン」となります。でも、理念やビジョンで結びついた組織って、どのくらいあるいでしょうか?特に大企業で。思い当たる企業名をあげられますか?J&Jのクレドなど有名です。行動規範や意思決定の基準としては、機能していると思いますが、それが求心力となっているかは、また別でしょう。

 

個人的には、理念やビジョンのような崇高なものには、なかなか多くの人々を動かす力は生まれないのではと感じています。宗教なら別ですが、ビジネスにはありがたすぎて、エネルギーにならないのです。

 

では何があるか。社員がつい口に出してしまうような、キャッチフレーズではないでしょうか。それは、理性より感性に訴えかけるものです。

 

思いつくものを挙げれば、以下のようなパターンがありそうです。

・仮想敵を作る:「打倒キャタピラー」(コマツ)、「シェアNo.1奪回」(キリン)

・同業他社との質的違いを宣言:「ファッションの伊勢丹」、「わけあって、安い」(良品計画)

・独自の生き方を訴える:「海軍に入るより、海賊であれ」(アップル)

 

 

結果的に、上記のようなフレーズは社員を奮い立たせ、そんな雰囲気(文化)に魅かれて顧客が付いてくるのかもしれません。ただ、重要なのは、それらが気に入らない(潜在的)社員や顧客もいるということです。八方美人のためのフレーズではないのです。

 

日本人は、このようなベタなスローガンが大好きです。かっこいい理念や精緻な経営戦略よりはるかに求心力や羅針盤となり、エネルギーを生み出すと思います。

 

 

恩師でもある嶋口充輝慶応義塾大学名誉教授は、それらを「アンビション」と定義しています。まさに、大志です。また。ミンツバーグは、戦略創造の観点から、「アンブレラ戦略」と言っています。わかりやすいスローガンの傘のもとに、現場から新しい戦略が生み出されてくるのです。

 

こういう、あいまいですが、人の感情に訴えかける言葉の力を、再認識すべき時に来ているように思います。

国立能楽堂で狂言の会を観ている時のことです。最後の演目でした。能も狂言も、最後の動きが終わると、静寂がおとずれ、そのまま演者は橋掛かりを静かに歩いて舞台から去ります。この静寂が特徴とも言えます。その日も、最後の動きが終わりました。

 

その時です。正面席後方あたりから、電子音で「オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。オワリノジカンデス。・・」と繰り返し聞こえてきました。一瞬、何が起きたのかと、観客全員が思ったことでしょう。確かに、舞台はちょうど終わりを迎えた瞬間でした。

 

一瞬、能楽堂では、終演の合図を流すようになったのかと、頭をよぎりました。しかし、すぐに否定しました。そんなことはあり得ない。そう、一瞬混乱したのです。すぐに、携帯電話のアラーム音だと気づきましたが。

 

もし、電子音がコトバではなく、ブザーみたいな明らかなアラーム音だったら、ここまで混乱せず、「ちぇ、まったく」で済んだように思います。個人的にはダメージは、今回の「オワリノジカンデス」のほうが断然大きかったです。おかげで、せっかく素晴らしかった舞台も、最後の最後で醒めてしまいました。

 

 

 

間接戦略論で有名なリデル・ハートは、「戦略とは、予期せぬ行動によって敵を攪乱し、反撃する力を破壊すること」としています。正面から妨害するよりも、混乱させるほうが、はるかに大きなダメージを与えることができると、今回身をもって実感した次第です。

 

 

公演会場では、携帯電話はマナーモードでなく電源を切りましょう。

今朝の日経朝刊に三菱ケミカルホールディングス小林社長の面白いインタビュー記事がありました。以下、抜粋します。

 

 

今の経営学は企業のやっていることを、後から整理するだけでしょう。何が面白いのですか。後講釈の経営学は要りません。・・・新しい理論を創造する学問の領域があるはずです。いまだに欧米の学説を翻訳しているような学者が多いのではないですか。・・・

 

 

なかなか厳しい指摘です。自然科学をバックグランドに持つ小林社長だから、余計そう感じるのでしょう。

 

経営学はそもそも真理を追究するわけではないので、仕方ない面もあると思います。しかし、いまだにヨコをタテにして生きているのであれば情けないですね。

 

これを読んで思ったのは、文学評論家と作家の違いです。評論家は過去と現在の膨大な情報に基づいてある種の創造をします。一方、作家は言うまでもありませんが、情報もなにもない未来に向けて創造します。役割も前提も大きく異なります。たぶん評論家は、分析に基づく創造力が、作家は直感に基づく創造力が必要なのです。優れた評論家でも、作家にはなれないでしょう。そのまた逆も、です。

 

経営学者は文学評論家であり、経営者は作家なのです。読者は、自分の立場や期待によって、評論を読みたい人もいれば小説を読みたい人もいるでしょう。ようは、読者が選択すればいいのです。

 

作家である小林社長は、文学評論に何を求めているのでしょうか?新しい小説のネタでしょうか?執筆のための新しい方法論でしょうか?いえ、きっと小説を構想する際に刺激となるような、何らかのシャープな「インスピレーション」なのだと思います。毎日こもって執筆三昧の作家には思いつかないような斬新な・・。

 

小林秀雄や加藤周一の名前を出すまでもなく、一流の評論家は一流の創造者です。創造性溢れた後講釈をするのです。そういう評論家、つまり(日本人)経営学者を私も待望します。

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