ヒトの能力の最近のブログ記事

論理思考の重要性に一般のビジネスパーソンが注目しだしたきっかけは、1995年にバーバラ・ミント著「考える技術・書く技術」(ダイヤモンド社 山崎康司訳)が日本で出版されたことでしょう。本書は、世界の経営コンサルティング業界では必読書となっていました。私も90年にコンサル業界に入ったとき、その原書を渡され苦労したものです。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
バーバラ ミント グロービスマネジメントインスティテュート Barbara Minto
4478490279

 

翻訳した山崎さんがその翻訳企画を持ちかけてこられた際、誰もが日本では売れないだろうと言っていました。私もその本の価値は認識していましたが、同感でした。ところが、なんとか出版にこぎつけたところ、思わぬ大ヒット、びっくりしました。

 

その理由は、バブル崩壊でこれまでの仕事の進め方ではだめだとの認識を多くの方が持ち、その解を探していた時期だったことが大きいと思います。それまでは、「仕事は理屈じゃない!」というのがまだまだ主流でした。また、Eメールが少しずつ浸透するタイミングであったこともあります。本のネーミングもすごく良かったと思います。たしか、編集者の発案だったと記憶していますが、本書のコンセプトをズバリひとことで表現しており、さすがプロ!と感心したものです。考えることは書くことで深まり、書くこととは考えることである。

 

本書は論理思考のテキストではなく、それを前提として分かりやすい文章やレポートを書くためのテキストです。つまり目的はコミュニケーション。しかし、そもそも論理思考とはなにかがわかっていなかった多くの読者にとっては、そっちのインパクトのほうが大きかったのかもしれません。その後、ご存知のとおり論理思考が一大ブームとなりましたが、ライティングやコミュニケーションのほうは、それほどブームとはなりませんでした。

 

企業研修のプログラムを企画する際、何はともあれ「論理思考」を最初に入れたいとの要望もどんどん増えていきました。もちろん多くのビジネスパーソンにとって、それは不可欠でありかつ今まさに欠けているスキルだったので、それも自然な流れだったでしょう。

 

それから15年以上が経過し、いまや論理思考の重要性はビジネスパーソンのみならず日本人一般にとっても共通認識となっているのではないでしょうか。それでは、その効果はどうでしょうか?

 

ここ数年、「社内でSo what? Why?を連発する若手が増えているようだ」、「批評家は増えたけど、自分では実行しないね」といった言葉を人事の方から聞くことが増えてきました。「論理思考」を武器と考え、それを使って自らの存在意義を示すことに喜びを感じているようなのです。

 

論理思考は、若手経営コンサルタントにとっては必要不可欠な武器であることは間違いありません。彼ら彼女らはあくまで第三者であって、クライアントの実行には責任を持たないため、それだけでもいいのです。しかし、一般のビジネスパーソンは、コンサルタントではなく当事者であり「実行者」でなければなりません。いくら社内で「論理思考」という武器を振りかざしてみても、単なる「理屈野郎」と呼ばれ疎んじられるのがおちです。そこを勘違いする若手がどうやら多いようなのです。(その後も、コンサルタントのノウハウ公開的な本がたくさん出版されヒットしました)

 

求めるべきは「論理思考」という思考法ではなく、それをベースした問題解決でありコミュニケーションです。目的と手段を取り違えてはいけません。

 

また、論理思考とは分解することとセットになっています。科学的に分析することの基盤ですから当然でしょう。まさに若手コンサルの仕事の大部分はこの分解であり分析です。しかし、近年ビジネスの現場では分解よりも「統合」のほうが重要です。創造やイノベーションは異分子の結合によって生まれます。(ざっくり)20世紀は分解の時代だったかもしれませんが、21世紀は統合の時代だと言えると考えます。だから、今、論理思考至上主義(もしそんなものがあるとすれば)は危険なのです。

 

3.11以降、人々はそれに少しずつ気づきつつあるようにも思いますが、人の意識が変わるのは思う以上に時間がかかります。「論理思考」浸透の片棒を担いだひとりとして、できるだけ機会を捉えそのあたりを語りつづけようと思っています。

今朝の朝日新聞で、今や日本を代表する現代美術家である村上隆のインタビューを興味深く読みました。彼は明確な戦略のもとで世界を狙って成功しています。

 

なぜ海外で評価されているのか、との質問にこう答えていました。

 

日本の美を解析して、世界の人々が「これは日本の美だな」と理解できるように噛み砕いて作品を作っていることだと思います。僕は、戦後日本に勃興したアニメやオタク文化と、江戸期の伝統的絵画を同じレベルで考えて結びつけ、それを西洋美術史の文脈にマッチするように構築し直して作

727727(l).JPG品化するということを、戦略的に細かにやってきました。それが僕のオリジナリティーです。

 

なるほどねー。マーケットを世界に定め、彼らに分かりやすくすることを重視している。いいものはいいんだ、というありがちな作家の一人よがりはありません。そして、作品の題材は、一見異なる戦後日本のサブカルチャーと江戸期の伝統絵画を交差させたこと。我々日本人から見れば、この二つを交差させることによる違和感やそれは変だという理由はいくらでも説明できます。

 

しかし海外コレクターから見れば、戦後のアニメやオタク文化も琳派などの江戸絵画も、自分たちと異質な視点で形成されたという意味では同じレベルにあります。というか、同じレベルであっても、さほどおかしくは感じない。さらに、西洋美術史の文脈にマッチするように構築し直すことで、彼らの認識の土俵に置いてあげている。きっと、彼らから見れば自分たちが村上を「発見した」と思うのでしょうが、実際は発見するように綿密に仕向けているのです。

 

こういった、一見すると異質なもの同士を、受け手の文脈にマッチするように再構築して、受け手に発見の喜びを与えるという戦略は、アート以外の世界でも使える気がします。創造とは「異質の組み合せ」ともいいますし。

 

科学的創造の話ではありますが、1791年に英国で内燃機関の特許が取られてから、1885年にベンツによって自動車が開発されるまで100年近くかかっています。内燃機関と車輪を結びつけ、移動手段という文脈にそれらを置くことは、後で思うほど容易ではないのです。「(19世紀の)馬車の利用者にどれだけインタビューしても、誰も自動車がほしいとは答えない」と言ったのは、スティーブ・ジョブズです。誰も想像すらしていないものを、組み合せて創造した人こそ真のイノベーターです。

 

 

話を戻しますが、文脈にそったうえでの意表をついたズレと連結が、人間の感情を揺さぶるのでしょう。村上やジョブズのようにそういった仕掛けをデザインできたら、きっと楽しいでしょうね。

 

これからの社会では、経済活動と人間の感情の結びつきがどんどん強くなっていくことは間違いありません。その時、村上のようなマインドというかスタンスは、ビジネスパーソンにとっても重要になってくるでしょう。

ここ数年、企業の人材・組織開発において「自律」あるいは「自立」は大きなテーマであり続けています。安易な世代論では、「最近の若者は自立していない。その原因は日本が豊かになったから、子供の数が少ないから、ゆとり教育のせい・・・」などと勝手に論じます。私は、そういう議論はどれも的外れだと思います。

 

日本人は(少なくとも)戦後はずっと自立しておらず、その傾向は大きく変わっていない。ただ、バブル崩壊以降、それをよしとしてきた環境が変貌し、もう許されなくなってきている。だから、現在それは大きな問題なのだと考えます。

 

日本では、子供を伸び伸び育てることを重視します。幕末から明治にかけて来日した欧米人は、日本では子供が王様で、大人は子供のしたいようにさせていると、驚いています。まさに、「伸び伸び」育てている。個性化の旗のもとに、その傾向はずっと続いている、いやさらに強化されているようです。

 

しかし、やがて子供は思春期になり様々な社会のルールを知り、制約をどんどん増やしていきます。社会人になる頃には、すっかり子供時代の自由さを忘れ、企業や組織への適合を最優先させてきました。家族を持つことで、されにそれは強化されます。このように、子供から大人になるプロセスとは、自由から不自由になる、つまり自らの判断では行動できなくなるプロセスと言えます。日本における自律とは、自ら判断して自らの責任で行動するのではなく、与えられた規則や枠組みを受け入れ、その枠外に逸脱しないように自己規制すること、だったのではないでしょうか。自動車の全く走っていない道路を横断しようと、じっと信号待ちしている歩行者の姿が思い浮かびます。社会の前提となっている枠組みが適切であれば、これほど効果的なことはありません。

 

一方、欧米では、子供は自由ではないそうです。フランスへの留学経験のある年配の方から聞いた話です。ヨーロッパでは、子供は未完成の人間なのだから、犬や猫と同じ。自由にさせるなんてとんでもない。理由など告げず、口答えも許さず、ダメなものはだめと言い渡すのみ。それが躾。やがて成長するにつれて、分別も分かるようになり、自由裁量の余地が大きくなっていく。ただし、自由と責任は一対のものであると考えられるようになることが大前提です。こうしてかつての子供は、自分の力で少しずつ自由を獲得していく。そうなると、大人も彼らを大人として対等に扱うようになります。自分で判断して、自分の責任で自由に振る舞う。これが、欧米での自律であり自立することです。

 

日本は自由から不自由に、ヨーロッパでは不自由から自由に、人間が成長するプロセスにおいて、個人と社会の関係性が正反対の方向に向かっている。これは、長い歴史の中で培われてきた社会の仕組みであり、一朝一夕に変わるものではありません。しかし、現在の日本は、グローバル化のもとで、否応いなく欧米型の枠組みへの適合を迫られています。そこに大きなコンフリクトが生まれているのです。

 

では、今どうするか?日本企業において、子供の教育論を議論しても意味ありません。大人である社員を、どうグローバル経済に適合させるか。それは損得しかありません。つまり、合理的に考えてそっちを選択したほうが明らかに自分にとって「得」だと認識させることです。組織にとって、それは勇気のいることでしょう。なぜなら、企業組織の中には、過去の個人と社会の在り方のほうに適合している人のほうがまだ圧倒的に多く、また彼らが権限を握っているからです。そこをあえて突破するには、トップの強力なリーダーシップが必要でしょう。

年末年始は普段観ないTV番組をたくさん観ました(ほとんどNHKですが)。その中でふたつの番組が目をひきました。ひとつは、料理研究家の栗原はるみが、イギリスの一つ星レストランで一週間だけのコック修行をしている様子を追ったもの。もう一つは、盲目のピアニスト辻井伸行が自作曲作りをする姿を追ったものです。

 

両者に共通するのは、一見不必要に見えるチャレンジをする姿勢です。

 

栗原は既に64歳。日本で最高峰の人気を誇る料理研究家です。もう十分成功したと言えます。でも、彼女はこのままではいけないと考えたようです。きちんとした調理の修行もせず、主婦の延長線上でここまで登りつめ

kurihara.jpg

た栗原は、お金を払ってもらって顧客に料理を提供する経験がありません。そこにコンプレックスなのか、欠乏感なのかよくわかりませんが、ぽっかり穴が空いていると感じたようです。その穴を埋めるべく、ロンドンのソーホーで人気の37歳のオーナーシェフが経営するフレンチレストランでの短期修行を敢行します。

 

息子か孫の世代のコックたちが、生き馬の眼を抜くように働き続ける厨房。ありがちなタレントが体験修行する設定ではなく、まがりなりにも料理の道の専門家が挑むのです。挑むといっても下働きくらいしか、させてもらえません。60歳から習い始めたという英会話も、なかなか堂にいっていますが、容易には伝わりません。TV番組とはいえ、生易しいものでないと想像できます。どこの国でも職人の世界は同じ。34歳の料理長は彼女のかけた言葉を無視したりします。ただ、最終日には、彼も心を開いて彼女のつくる料理を誉めていました。

 

わずか5日間の修行ですが、お金をもらって料理する大変さを痛感するのと同時に、その喜びをも感じ取っていました。映像では、後者のほうが圧倒的に大きいように見えました。それを語る彼女の姿は、本当にいきいきとしてまぶしく見えました。この経験で、彼女のこれからの仕事は、一回りも二回りも大きくなることは間違いないでしょう。

 

 

一方の辻井は23歳。2009年にクライバーン国際ピアノコンクールで優勝し、3年間の世界ツアーを約束されています。その高い技術は世界中で絶賛

辻井.jpg

され、スケジュールはいっぱい。それでも、彼は自作曲に取組みます。自分をさらに成長させるには、演奏とは異なる形で自己表現する必要があると考えたようです。201111月のNYカーネギーホールでの単独リサイタルで、自作曲を披露することに決めます。

 

当たり前ですが、演奏と作曲は別もの、別の才能と鍛錬が必要です。即興で作曲した演奏は、以前から好評でしたが、きちんと作曲するのはまた別ものです。その勉強にと、作曲家でピアニストの加古隆を訪ね、教えを請います。

 

そこで、作曲の際、左手で和音を弾くのやめさせ、右手だけで弾きながらメロディーを創ることを指導されます。すると、それまでは、溢れるように湧いてきたメロディーが全く浮かんでこなくなってしまいます。そんな自分に、彼はパニックに陥ってしまったように見えました。加古は、優秀な辻井に、曲を創り込むことの大切さを伝えようとしたのでしょう。

 

辻井は、映画音楽の作曲にもチャレンジ。盲目の彼は、監督から言葉で映像イメージを伝えられながら、その場で作曲していきます。しかし、監督からはダメだしが続きます。そして苦闘、観ているこちらがつらくなってしまうほど。なぜ、そこまでして作曲をするのか、疑問を感じずにはいられませんでした。

 

昨年11月のリサイタルは大成功。アンコールで弾いた自作曲に、観衆はどよめきました。終了後、これまでにない感動を味わった辻井は、飛び跳ねて喜びを表現していました。

 

 

栗原と辻井、年齢とキャリアの差こそあれ、二人とも世間的には成功者です。でも、決して現状に満足しません。大きなリスクを冒してでも、チャレンジを続けずにはいられません。だからこそ、二人はそれぞれの道を究めることができるのでしょう。

 

その尊さ、まぶしさに、心を揺さぶられ、二人の苦悩にゆがむ顔を見ながら、我が身を振り返らざるをえませんでした。2012年、二人とはあまりにレベルが違いますが、リスクを取ってチャレンジすること、それを常に忘れずに一年を頑張ってみようと思います。

近頃は新聞も雑誌もネットもジョブズ追悼関連でいっぱいです。それだけの人物であったのですから当然でしょう。しかし、彼のような天才は希有ですし、また天才ばかりでは世の中は回って行くはずもありません。今回はそんなことはないと思いますが、ITバブルの時代やライブドア騒動の頃は、自分は天才だ、あるいは特別な人間なんだと思いたい人々が、あちこちに溢れていたように思います。人生のある時期においては、そういう勘違いがエネルギーとなって個人の成長を促すこともあるでしょう。しかし、いつまでもそうはいかないものです。

 

 

先月ベネチアに行ったからという単純な理由で、それまで何となく読んでいなかった(気にはなっていても何となく手を伸ばさない本ってありますよね)須賀敦子を二冊読みました。やはり思った通り素晴らしい人間洞察と文章で、もっと早く読んでおけば良かったと後悔です。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)コルシア書店の仲間たち (文春文庫)
須賀 敦子

by G-Tools

 

彼女の二冊目の作品、「コルシカ書店の仲間たち」に収録されている「ふつうの重荷」というエッセーにこんな言葉がありました。

 

書店はもう彼女にとって英雄たちの戦場ではなくて、避けるわけにはいかないだけの、誰もが人生で背負っているふつうの重荷になっていた。もう、しかたないわよ。彼女は何度もそう繰り返した。そういう彼女の表情には、哀しいあきらめというよりは、成熟がもたらす、静かな落ち着きがあった。

 

須賀は最初彼女(ルチア)の表情に、「哀しいあきらめ」の色を探したのではないでしょうか。ところがそれではなく「成熟がもたらす、静かな落ち着き」を見つけて、深く感動したのだと思います。それと同時に、それに感動した自分にもちょっと驚いたかもしれません。

 

ニクソン元大統領は日頃、こんな言葉を口にしていたそうです。

"Always remember, others may hate you, but those who hate you don't win unless you hate them."

 

ニクソンといえば、ウォーターゲート事件で失脚した悪徳政治家のイメージがありますが、失脚後の日々をこの言葉を胸に抱きながら生きたかと思うと、また違ったニクソン像が浮かび上がってくる気がします。もう15年以上前ですが、彼の著作を何冊か読んだことがあります。骨太で豊かな人間的洞察に満ちた優れた本でした。あれだけのものが書ける政治家は日本には絶対いないと思ったものです。

 

全くレベルも国も状況も異なりますが、須賀、ルチア、ニクソンの言葉から人間としての「成熟」の意味を少しだけ学んだような気がします。ジョブズも発病後、人間として急速に成熟していったのではないでしょうか。今は彼の天才としての成果に脚光が浴びていますが、もっとも学ぶべきは、彼の成熟のプロセスなのかもしれません。

先日ある企業の30才前後の選抜者研修を実施しました。その中で、ある科目(ケースメソッド)に関する終了後アンケートに、こんなコメントがありました。

 

実務の現場で身に付けた暗黙知を、一日という時間を使って紐解き、それをケースを通してクラス全体で形式知化するセッションであった。それをセッション終盤の段階で「気づく」わけだが、その「気づく」ということが非常に役立つのではないだろうか。

 

そうなんです、その通り!企画する側の意図をよくぞここまで理解してくれたと、読んで嬉しくなりました。

 

「気づき」をもたらすプロセスが、前回のブログで書いた「User experience」そのものだと思います。それに対して、「機能」にあたるものは「正しい理論の伝授」です。あるレベル以上の受講者にとって、機能は当たり前であり、事前に課題図書でも読めばほぼ目標は達成されます。ではなぜ時間をかけて集合研修を行うのか?それは素晴らしい「User experience」があって初めて自分のものになるからなのです。私たちは、そんな素晴らしい「User experience」を提供することにこだわっています。

 

素晴らしい「User experience」を体感するには、体感する側にもあるスキルが必要です。このアンケートの回答者のように、意図的にそれができる人は、自分の経験や思いという内面を客観視でき、それと他者(講師や他受講者)から受け取った情報をひもつけ解釈することができる人です。さらには、そういった関係性の意味合いも理解している。つまり、高いレベルでメタ思考ができるのです。

 

ところで、たまたま今朝の日経に、俳優生瀬勝久のショートインタビューが載っていました。彼は、私が欠かさず観る数少ないTV番組のひとつ、

namase.jpg

「サラリーマンNEO」のメイン出演者です。ちょっと長いですが、引用します。

 

Q:コミカルな役柄が多いですが、シリアスな芝居とコメディーでは、演技に違いがありますか?

A:シリアスな芝居は、どういう場面かという内容さえ頭に入っていれば、自然な気持ちで演技ができます。相手のセリフを聞いて、それを消化して返答する。

 

Q:コメディーは自然にはできない?

A:笑いを生みだすには、観客が予測しているリズムをどうずらすかが大切なんです。「話はこういう順番で進んでいくだろう」という予測を裏切る。怒鳴る、と見せかけて、笑うとか、演技や会話のテンポをあえて遅らせるとか。それには「観客はこういうリズムで見ているな」と意識する必要があるんですよ。

 

Q:演技しながら、ずっと意識しているのですか?

A:常に頭の片隅にあります。自分の気持ち以外のことも考えなければならないから疲れます。

 

「常に頭の片隅にある」とは、普通に考えて行動している自分を見るもう一人の自分がいるということだと思います。どうです、コメディアンにもメタ思考が必要なのです。優れた俳優にも優秀なビジネスパーソンにも共通のスキルなのでしょう。凡庸なビジネスパーソンは、せいぜいシリアスな芝居しかできません。そうなっていませんか?

一昨日の夜、NHKで「サンデル教授の『究極の選択』」という番組を観ました。ご存知のサンデル教授が、東京、上海、ボストンを衛星で結び、ディスカッションを仕掛ける番組です。今回は震災復興がテーマです。

 

東京だけなぜか必ずしも現役学生でないのが変でしたが、上海復旦大学、ハーバード大学の学生らが参加、サンデル教授の見事なファシリテーションで、深い議論に入り込む様子が興味深かったです。

 

サンデル教授が繰り出す質問、すなわち論点が非常に明確で、それが番組に緊張感を与えていました。

        自然災害への復興は誰が負担すべきか

        それへの補償には、被災者の被害の大きさによって差をつけるべきか

        原発災害の補償は誰が負担すべきか

        危機を引き起こした企業は救済されるべきか

        原子力発電を今後どうすべきか

        貧しい人や国に対価を払ってリスクを負担させることは公正か

 

どれも現在の日本が国を挙げて真剣に議論すべき論点です。教授は、議論を深めるため、2001年の3.11テロ被害者への補償の例、リーマンショック直後の銀行救済の例(日本のバブル崩壊後の銀行救済にも触れて欲しかった)、南北戦争での身代わり傭兵などを引き合いに出していきました。

 

学生の反応は国によって違いがあるのは当然ですが、思ったほど差は少ない印象でした。一番差が目立ったのは、原子力発電を継続させるべきかの質問。日本では半数は脱原発なのに対して、ボストンは全員が原発支持だったのはちょっと驚き。

 

面白かったのは、サンデル教授が原発支持派にした質問です。自分の住む地域に原発ができることに賛成するか?ボストンでは、支持派の半数が手を下ろしました。つまり近くではいや。東京では、支持派4人のうち一人だけが手を挙げ続けました。その理由を問うたところ、「現在の豊かな生活を維持するには原発が必要。そのために必要なら近所に原発ができるのは仕方ない」と応えました。

 

そう応えた日本人女子学生のあっけらかんとした物言いと、リアリティーの無さ、そして「仕方がない」という日本的な理由に、今の日本人の典型をみたように思います。彼女は、沖縄の米軍基地が彼女の住む東京のど真ん中に移転してきたとしても、日本を守ってもらうためには「仕方がない」と素直に受け入れるのでしょうか。

 

それから、日本人の参加者に目立った発言というか姿勢がひとつありました。それは、必ずしも教授の質問に正面から答えないで、その周辺に関する持論を開陳するだけで終わってしまう姿です。これは今回の出演者の特性ではないと思います。質問の意図がわからなくてそうなっているというよりも、正面から答えることを何となくよしとしない雰囲気があるのではないでしょうか。それが大人の答え方とでもいうように。TVの討論番組でも、パネルディスカッションでもそれが普通です。

 

そもそも今回の番組のように論点を明確にしての議論が少なすぎる気がします。教授のように論点を深堀りするような追加質問をできるような司会者(議長)もいないし。こういった風土が、現在の日本での復興の遅れや政府の混迷につながっているように思えてなりません。安定期であればそれでもよかったでしょう。しかし今は危機なのです。

 

平和ボケという言葉がありますが、安定ボケではないでしょうか。三人の日本人コメンテーターが登場していましたが、正直いる意味がわかりませんでした。そのうちの一人(彼女はバレエダンサー)のコメントが象徴的。「議論を聞いて、たくさん考えなければならないことがあることを実感しました」、なるほど、日本人の大人の問題意識レベルをあぶり出すという意味では存在価値があったのかもしれません。

 

建設的議論を忘れた国家が、どうやって危機を乗り越えるのか、歴史が示すありうる唯一の方法は独裁者への委任です。

 

話が少し大きくなりましたが、真面目な議論、真面目な対話の技術こそ、今の日本人にとって必要なスキルだと改めて痛感しました。

 

 小野寺講師のコラムにもあるように、コミュニケーションは大変難しいものです。研修の場面では、特にそう感じます。

 

企業研修講師は、そもそも受講者に伝えたいことをたくさん持っています。だからといって、それを単に語るだけでは、ほとんど伝わりません。下手をすると、「知識のひけらかし」や「自慢話の押しつけ」と受け取られかねません。

 

一般に講師と受講者の間には、大きな溝があります。

 

講師が伝えたいこと⇔受講者が伝えてほしいこと

講師が伝えたいこと⇔受講者が興味をもってくれること

講師が伝えたいこと⇔受講者に伝わること

 

さらには、受講者側にも溝があります。

 

受講者が知りたいこと⇔受講者の役に立つこと

受講者の役に立つこと⇔組織にとって役に立つこと

 

(以下もありえますが、これは入念な事前すり合わせでクリアできるはずです。

講師が伝えたいこと⇔企画側が伝えてほしいこと)

 

 

受講者たちも、それぞれに異なる事情や考えを持っています。こういうたくさんの溝がある中で、伝える側の講師はどうすればいいのでしょうか?考えれば考えるほど、難しい問題です。

 

そんなときは、軸を定めることです。人から何と言われようとも、これを伝えることが皆にとって絶対必要だと、時間はかかるかもしれないが、いつか絶対役立つはずだと。

 

しかし、これは言うほどやさしくはありません。上記の信念を実行するには、まず大きな溝があることを認めたうえで、相手方の関心や事情をできるだけ正しく認識し、それに最大限応える努力をする必要があります。こちらから橋を架けるのです。ただし、信念と明らかに対立する場合は、信念を優先すべきでしょう。言い方を変えれば、そこまで相手に歩み寄らなければ、信念は「一人よがりの思いこみ」になってしまいかねないのです。

 

最悪なのは、「自分はいいことを伝えている。伝わらないのは、相手に能力がないからだ(あるいはやる気がないからだ)」と、相手の責任にすることです。こうなってしまうと、講師の成長は止まり、周囲は不幸になります。

 

多くの場合講師は、受講者から「何でこんな奴に教えてもらわなくてはならないんだ。忙しいのに・・」という、マイナスの第一印象からスタートせねばならない立場にあります。(もちろん事前に、できるだけこのマイナスを小さくしてスタートできるよう企業の担当者とともに仕込むことは大切です)

 

だからこそ、あらゆる配慮や準備が重要であり、それができて初めてプロフェッショナルといえるのです。

 


こういったことは、必ずしも企業研修講師だけにいえることでもなさそうです。組織の中で他者と仕事をする人(ほとんど皆そうです)には、これから必須のスキルかもしれません。

 

先日、ある企業のグローバル人材育成研修のうちの一部のセッションを実施しました。その研修後半に、英語で経営戦略やマーケティングのケースメソッドを実施します。その前に、日本語でその基礎を学んでおこうという一日セッションでした。特に生産部門の方などは、経営学にかかわる知識をあまり持っていないことが多く、その対策となります。しかし、優秀な方はかえってそういう人の中にいます。

 

基礎編だから簡単にできそうと思われるかもしれませんが、正直いえば基礎のほうが企画設計する立場としては難しい。なぜかといえば、

 

・受講者の知識レベルにばらつきが大きい(→わかっている人には退屈)

・グローバル研修とはいえ、海外の事例を増やすとますます理解しづらい人が出てくるので、身近な国内事例にせざるをえない(→わかっている人にとっては、なぜ海外事例出さないの?となる)

・基礎だからと言って、基本的なフレームワークの解説に終始すると、初心者でさえ退屈する(→いわんや上級者をや)

・一日で両科目の基礎をカバーするためには、グループワークなどの時間が取れない(→一方通行になりがちで、集中力の持続困難)

 

といった多変数に対応しなければならないからです。ターゲットは、初心者に合わせるべきなのですが、声が大きいのは得てして上級者、彼らの声も無視できません。ならば、上級者はこのセッションを免除させればいいのですが、それも簡単ではありません。誰が免除対象だと、どうやって決めればいいのか。少しは難しさをご理解いただけたでしょうか。

 

これらの課題に対して、担当講師と練った作戦は以下です。

 

・ターゲットはあくまで初心者だが、上級者もある程度は参考になり楽しめるよう、できるだけなまなましい事例を入れる

・ついては、担当講師が経営に直接かかわった某中堅上場企業を一貫した事例とし、各フレームワークはその企業の具体的事象にあてはめて解説する

・その際、教科書的視点に加え、「現実」の視点からも解説し、立体的な理解を促す

・某企業に関する基礎知識を持ってもらうために、事前課題として基礎情報を配布し、簡単な設問に応えてきてもらう

・受講者が関心高そうなテーマについては、某企業だけでなく所属企業にあてはめる質問を、クラス中に投げかける

・グローバル展開や(関心の高い)M&Aについては、他社の事例も少し加える

・最低10分に1回は受講者の発言を促す。ただし、指名はできるだけ避け、受講者自らが発言する雰囲気づくりを心掛ける

 

 

そして、先週実施完了。ほぼ計画通りのファシリテーションができました。事前課題企業は、全くの異業種で関心を持ってもらえるか若干不安でしたが、多くの方はみっちり準備してきました。その結果、その事例企業に関して非常に突っ込んだ質問や意見が出てきたのは、うれしい誤算でした。

 

予定時間終了後も、20分ほど延長し質問対応。まだ、アンケート結果がまとまっていないので、受講者の評価はわかりませんが、少なくともオブザーブした私には、「場」のエネルギーは伝わってきました。


終了後、やや上気した担当講師の「自分もとても勉強になった」とのコメントが、このセッションがおおむね成功したことを表しているのではないでしょうか。

人材育成の場面でも「守破離」という言葉がしばしば出てきます。型を体に覚え込ませる「守」と、そこに独自色を加える「破」、そして自分だけの世界を築きあげる「離」です。いま、新ためてこの守破離の意味を再確認したほうがいいと思います。

 

「オンリーワン」や「個性重視」などの言葉に踊らされて、若手に型を刷り込む前に、「破」や「離」の機会を与えようとする傾向があるのではないでしょうか。そうすることが若手の「モチベーション」を高めるからと説明します。確かに先のことなどわからない若手のモチベーションは一時的には高まるでしょう。しかし、そんなモチベーションは長く続くものではありません。だとしたら、また次なるエサを与えるのでしょうか。

 

そういう風潮の背景には、数年前までの採用競争があったのかもしれませんが、一番大きいのは若手を育成する立場の上司や先輩が、そもそも自分たちが培ってきた型に自信を持てなくなっているからではないでしょうか。

 

確かに自分たちが育てられた頃と、環境は大きく変わっていることでしょう。しかし、変わらないものもあるはずです。その峻別がうまくできないのかもしれません。長く伝えられてきた型には、必ず継続されてきただけの理由があります。その本質を理解しないまま、表面的な形だけを主張しても部下には伝わりません。

 

逆に本質となる核さえ押さえていれば、多少形がゆがんでいても問題ありません。環境に合わせるだけの柔軟さが必要なのです。そして、さらにその上で新しい時代のエッセンスをくわえていけばいいのです。

 

 

300年以上の歴史を持つ老舗は、決して過去の形を継続することに腐心しているわけではありません。かえって、時代に合わせて柔軟に変身を遂げています。しかし、型すなわち核は徹底的に守り続けています。例えば、京都という都市そのものがそうです。

 

本質は何なのかを追求しつづける愚直さや、自信を持って型を伝える姿勢が、今あらためて重要性を増してきている気がします。

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうちヒトの能力カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリはその他です。

次のカテゴリはブックレビューです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1