ヒトの能力の最近のブログ記事

忖度と社長の視座

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日本企業の生産性の低さは、今では有名です。ひとりひとりは優秀で、手を抜くことはあまりせず、集中力も決して低くはない。にもかかわらず、なぜ生産性が低いのでしょうか?

 

 

ある大企業の新任執行役員を集めて研修を行うことになりました。例年であれば、リゾートホテルに集まり、社長講和や役員としての心構えや法規制などのレクチャーを受け、翌日ゴルフして解散というパターンでした。

 

ところが、昨年就任した新社長はそれでは不満で、もっと勉強させろという指示が事務方に降りたのです。

 

事務方は慌てていろいろ検討しました。そして、こう考えました。

昨年の社長就任とともに、新中期経営計画を発表した。その計画を実行に移すための方策を、新任執行役員に考えて欲しいに違いない。その発表を、ホテルでの研修の際に行うことにしよう。

 

このコンセプトのもとに準備が始まりました。部門を超えたグループで検討を進め、発表するものです。発表の相手は社長です。社長はこの機会に、新任執行役員ひとりひとりの品定めをすることは、容易に想像できます。メンバーのプレッシャーも相当なものになるでしょう。

 

できるだけ、期待に応えられるように支援することが、私たちのミッションです。

 

事務方は、体制や運営方法もつめ、社長に最終確認を得るべく報告しました。貴重な社長の時間を使うのですから、完璧に詰め想定問答も準備した上でのぞみました。

 

ところが、中期経営計画について取り組ませたいと説明した瞬間、社長はばっさり否定。「そんなものは、普段仕事で考えていることだろう。もっと、その大元を考えさせなければダメだ。」

 

そして、すぐに対案を指示。

「歴史観、社会や経済の構造変化、そして日本の生産性向上について考えさせよう」

 

事務方としては想定外の展開でした。

 

経営計画について検討させるのと、歴史認識について考えさせるのでは、あまりに次元が違い過ぎるように感じました。しかし、もともと社長が考えさせかったのは、そういうことだったのでしょう。

 

過去のパターンから中期経営計画がテーマでよいと想定し、それに基づいて準備を進めてきたのが間違いだった。

 

もしかしたら、社長はそういう仕事の進め方自体を変えたいと考えているのかもしれません。かつては、こういった阿吽の仕事の進め方が生産性を高めていたのかもしれませんが、もうそういう時代ではないことをわからせたい。

 

過去の枠組みをとっぱらうために、一時的な生産性低下(これまでの準備)を甘受する。現場は振り回されるでしょうが、変革のために必要なステップなのでしょう。

 

また、もうひとつの想いは、新任執行役員には、少しでも社長の視座に近づいてほしいということ。

 

しかし、このテーマで社長に発表するのは、本当に大変です。

母校である上智大学のコミュニティ・カレッジ(社会人向けの夜間講座)に、また通うことにしました。今回は、「脳のはたらきから見た心の世界~生理心理学入門~」という講座です。昨日(5/7)から、毎週月曜の1910204010週間連続シリーズ。

 

手軽に安価で専門家から直接学べるのは、本当に有り難いことです。東京には、他にも膨大な学習機会があり、宝の山に住んでいるようなものですね。

 

さて、今回なぜこの講座を受講することにしたのか。仕事上「集団における学び」には関心が高いわけですが、ヒトの学びも突き詰めていけば、脳のはたらきにいきつくと、最近考えていることが大きいですね。

 

ヒトは論理だけでは動かず、感情や直観の影響が極めて大きい。その感情や直観がなぜ生まれてくるのか、それを理解しなければ、個人の振舞も集団の振舞も理解できないと感じています。

 

組織などの集団>個人(ヒト)>脳>神経細胞 は何らかの相似形であり、共通のメカニズムのようなものがあると思っているので、脳とヒトの心理の関係を学んでみたいと思ったのです。

 

経営と心理学の関係は、特に最近注目されているように思います。ただ、心理学といってもとても範囲が広く、学問としても細分化されています。まずその整理が必要。

 

昨日の第一回の講座で学んだので、早速使います。

●心理学は以下の諸領域に整理できます。

 --社会心理学

 --臨床心理学(精神病理学)

 --行動心理学(動物行動学)

 --認知心理学(認知科学)

 --発達心理学

 --生理心理学(脳・神経生理学)

 

いずれも、「心の活動」を探るための学問です。様々な角度から斬りこんでいる。私も、心のはたらきに関わりそうな本を乱読してきましたが、このように整理すると、どれかに当てはまりしっくりきます。

 

「心」はモノではないため、自然科学として扱うことが難しい。(だからもともとの発祥は哲学でした。)それを何とか科学的にアプローチしようとの努力がなされました。具体的には、心的活動そのものは計測できないものの、外部からの刺激に対して「心」が反応し、その結果発生した外的事象を観察・測定しようとしたのです。外的事象とは、言語、思考、行為、しぐさ、表情、生理的反応などです。

 

さて、生理心理学とは、主に脳や神経と心の関係を解明しようというものです。

 

ここで根本的な問いが存在します。

「心と脳は一体なのか?」

もう少しいうと、「心は脳に宿るのか?」

ちなみに、アリストテレスは、心は心臓に宿ると考えたそうです。

 

「脳がなければ心はないのか?」

脳死とは、心も死んだのだと考えていいのか?脳死を人間の死と認定し、臓器移植してもいいのか?

ヒトは死んでも魂に心が残る、という考えもなくはありません。

 

こう考えていくと、宗教や哲学に戻っていきそうで、前に進むことができなくなりそうです。

 

昨日の講座で、先生はこうおっしゃいました。

 

「生理心理学では、脳と心の一元論を作業仮説とする。つまり、

 ・脳と心は同一のものである

 ・脳がなければ心はない という前提を置く

ただし、これは研究を進める上での作業仮説であり、必ずしもこの前提を信じる必要はない。」

 

なるほど!

意識や心はまだまだ謎だらけです。しかし、いったん「脳=心」という前提を置くことで、真実に迫ろうという姿勢なのです。面白いですね。次回以降が楽しみです。

昨晩、和泉流狂言「狐塚」を観ました。(国立能楽堂の企画で、先月は同じ狐塚を大蔵流で観ました。ストーリーはほぼ同じですが、設定が微妙に異なりました)

 

簡単にストーリーを説明するとこうです。

 

今年は豊作。狐塚にある田を群鳥に荒らされては大変と、主人は太郎冠者に田にいて鳥を払うことを命じます。やがて真っ暗闇になり、一人っきりの太郎冠者はだんだん不安になります。狐塚というくらいで、そのあたりは狐が人間を化かすと評判だからです。

 

次郎冠者はひとりで番をする太郎冠者のことが心配になり、様子をみにいきました。真っ暗やみなので、「ほーい、ほーい」と呼びかけます。その声を聞いた太郎冠者は、いよいよ狐が化かしにきたと思い込み、恐ろしさのあまり、招くふりをして捕え縛り上げます。次に、主人も心配になり来ますが、同じように縛りあげられてしまいます。

 

恐ろしさのあまり二人とも狐だと信じ込んだ太郎冠者ですが、やがて二人の反撃をうける・・・という話です。

 

いたってシンプルな話ですが、人間の本質を的確に描いているといえるでしょう。人間は想像しなくてはいられない生き物です。だから、一人ぼっちでしかも真っ暗で心細いと、すべてが悪い方に想像してしまうのです。防衛本能がはたらくのかもしれません。

 

そうなると合理的な判断はできなくなります。様子を見にきた太郎冠者と主人の姿が本人そのものに見ても、よくぞそこまで化けたものだと、逆に警戒心を高めてしまいます。

 

こういうこと、よく聞きませんか?私がすぐ思いついたのは、自分が三顧の礼で連れてきた後任の社長を、二人続けてクビにして、自分が社長に復帰した某社の創業者二代目です。彼はひとり暗闇を心の中に抱え、不安でしかたがないのでしょう。だから、自分が連れてきた後任社長が狐に見えて、自分を騙しているのではと思いこんでしまう。外から来た社長は、誠意をもってその二代目と話し合ったかもしれません。でも、誠意を示されればされるほど、「うまく化けた」とますます警戒心を高めてしまう。

 

こういうことは、この会社のみならず、いたるところで起きているのではないでしょうか。

 

室町時代から人間の本質はまったく変わっていない。よくぞ、600年も前の狂言作者は、そうした人間の本質をシャープに切り取ったものだと、あらためて感心します。すごいもんですねえ。

時間の感覚

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今月初め、能の発表会に出演しました。(その稽古段階のことは、前々回書きました。)なんとか仕舞を舞い終えたのですが、舞台上で舞っている最中、すごく地謡が遅く感じました。

 

説明しておきますと、仕舞は能舞台で一人で舞うわけですが、後ろに地謡、すなわち伴奏ともなるコーラス隊のようなものでしょうか、がプロの能楽師が4人座り、その謡に合わせて舞うわけです。

 

舞手は謡に合わせる必要がありますが、そこは素人とプロ、地謡がある程度舞手に合わせてくれます。地謡4人のうちリーダーとも言える地頭は、普段稽古していただいている観世喜正先生なので、稽古と基本的には同じ条件になります。

 

それにも関わらず、本番では地謡のスピードが普段の稽古の時よりも、すごく遅く感じたのです。この詞章の部分ではこの動き、というようにある程度セットで体に浸みこませているので、舞台上で「あれ、まだこの詞章??」とずれをやはり感じてしまいました。だから、稽古の時よりも動きが先に行ってしまうため、長めに停まって待つようなことが起きてしまいます。幸い、以前のようにそれが理由で頭が真っ白!という惨事には至りませんでしたが、違和感はぬぐいきれません。

 

私と同じように感じる稽古仲間もいたので、思い切って終演後の懇親会の時、先生に質問してしまいました。

「本番では地謡がいつもより遅いように感じるのですが、なぜなんでしょうか?」


先生は、こうおっしゃいました。

「普段の稽古と違って、本番では4人で地謡を務めるので、どうしても普段と同じにはならないのかもしれませんね。」

 今思えば、先生も随分気を使ってお答え下さったのでしょう。

 

その後、舞台を撮影したDVDが手元に届きました(もちろん有料です)。恐る恐るそれを観たときの第一印象は、なんて自分は速く動いているのだろう、でした。焦ってこんなに速く動いているので、相対的に普段と同じスピードの地謡でも遅く感じたのだろうと、納得しました。

 

本番の時にはそれほど自分が速いとは感じませんでしたが、DVDで観ると明らかに速く感じます。

 

その後、念のため演技時間を測ってみると、230秒でした。

 

あれ、あれ?? これって、稽古の時先生が模範で舞ってくれたとき(iPhoneでの撮影を許されます)の時間と全く同じだ・・・。

 

なんと、時間は多分稽古の時と本番では、違っていなかったのです。本番の映像をみると、イメージの中での私の稽古時や本番の時よりも速い。

 

・稽古の時に自分が感じたスピード

・本番の時に自分が感じたスピード

・本番の映像を観たときに感じるスピード

 

絶対的なスピードは、どれも230秒で変わらない。

にも関わらず、これら3つのスピードはどれも違っているように感じる。

 

先生の仕舞を動画でみると、絶対的な時間は同じでも、随分とゆったり動いているように感じます。時間の流れがゆったりしているのです。

 

脳が感じる「時間」というものは、主観的に自分がつくりあげたものなんですね。だから、先生の素晴らしい動きは長く感じ、私の稚拙な動きは速く感じる。速く目を逸らしたいからなのかもしれません。また、動いている自分自身が感じる時間の流れと、それを動画で恐る恐る観ている自分の時間の流れも異なる。

 

凍結した下り坂で車を運転していて、ロックして道から落ちそうになったことがあります。危うく落ちずに済みましたが、その時の光景はいまでもまじまじと覚えています。スローモーションのようでした。

 

これも人間の感じる時間は、主観的であいまいなものという例でしょう。

 

まだ、時計が普及していない時代、人びとはこういった主観的な時間の流れの中で生活していたはず。きっと、今とは全く異なる世界が広がっていたことでしょう。いったい、どんな感じだったのでしょう?

 

「問い」を発する能力

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企業研修の講師にとって、最も重要な能力は何だと思いますか?

私は「問い」を発する能力だと思っています。

 

一昔前であれば、講師は先生であり、受講者が知るべき知識を与える者という位置づけだったかもしれません。でも、今はそういう知識はいくらでも一人で学ぶことができます。eLでも本でも動画でも。一人では獲得が難しいからこそ、わざわざ忙しい中皆が集まって行うのが、集合研修なのです。

 

では、一人では難しいこととは何でしょうか?それは「思考」すなわち「考えること」と「自分を客観視」することだと思います。

 

一人でも考えているという方もいるでしょうが、哲学者でもなければ、深い思考を一人で巡らせるのはなかなか困難です。人は基本的には怠惰な動物なので、一人だとどこかで安易に妥協してしまうからです。私もよくあります。考えて続けるものの、「まあ、いっか」で終わり。

 

相手(他者)がいると、そうもいきません。相手から発せられた問いに対しては、考えて答えなければならない。だから、深く考えるきっかけになる。

 

この問いを発するのが講師であり、講師は問いによって受講者の思考を適切に起動させるのです。だから、最も重要な能力なのです。

 

ただ、この「適切に」が難しい。何でもかんでも、「なぜ?」、「So what?」を繰り返せばいいのではありません。

 

問いによって、講師が意図する方向に、受講者の思考を起動させる必要があるのであり、そこにはストーリーが必要です。あるストーリーを想定した上で、その流れに導くような問いが良い問いです。但し、誘導ではだめです。受講者が自らの意思で、その流れに沿って思考を進めていると感じさせなければなりません。水飲み場に連れてこられたのではなく、点々と落ちている餌を少しずつ食べながら歩んでいたら、そこに水飲み場があった。だから飲もう。というイメージです。「水を飲む」とは「気づき」を得ることの比喩です。

 

こういう問いを、臨機応変に発するのは非常に難しい。しかし、問いにはいくつかのパターンがあることに最近気づきました。ある研修を後ろでオズザーブしているときに、書き出したのが以下です。

 

・具体的な事例を挙げさせる

・理由を考えさせる

・ある事象が起きたときに、それに付随して起こる「結果」を推測させる

・(上と近いですが)ある現象が起きるメカニズムを類推させ、それに適用してアウトプットを求めさせる

・自分なりの評価を、理由とともに説明させる

・多くの現象を抽象化することで、共通項を見つける

 

ある知識を前提として、それを活用して上記のような問いを発することで、受講者の思考を起動させる。そして、その結果自らの力でなんらかの気づきを得る。

 

こういったプロセスがとても大切なのです。講師とは、その口火を切る役目です。あまり良くないのは、講師と受講者が一対一の関係で、Q&Aを繰りかえすような状況です。他の受講者を巻き込むことが必要です。

 

講師が発した問いに受講者Aが思考し答える。その答えに対し、受講者が新たな問いを発する。それに対して、受講者Cが答える。受講者はそれぞれの見方を持っているので、それらを交差させる。こうした連鎖こそが、集団で集まって研修を実施することの価値なのだと思います。理想は最初の問いすら、受講者が発することです。

 

こうなると、講師の役割はどんどん薄れていき、勝手にクラスが回っていく。この場をうまくマネージするだけで、何も教えたりはしない。ときおり、問いを発するだけ。クラスから講師の存在が消えることが理想です。そうなったとしても、受講者は講師に満足し、感謝することでしょう。「今日はとても勉強になったし、何より楽しかった。ありがとうございます」、と。

 

以上、企業研修における講師の能力として述べましたが、これは一般企業のマネジャーにとっても同様に重要な能力です。人を育てる、あるいは人に動いてもらうとは、適切な問いを発することなのですから。

 

意識を消す

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仕舞の舞台に立つと、信じられないことが起こります。普段の稽古では失敗したことがないことを本番で失敗したり、途中で頭が真っ白になってしまうことさえあります。

 

一方で、うまくいった時は舞台を降りた後で、自分がどう動いたかをほとんど覚えていません。だから、本当にうまくいったのか確信がないのですが、仲間はそう言ってくれます。逆に、失敗したときには、その時の情景をくっきりと記憶しています。だからつらいのです。

 

こういった現象は私だけではなく、話しを聞く限り、他の人にもほぼ同じように起きるようです。

 

なぜ、こうなるのかずっと考え続けてきましたが、最近そのヒントらしきものに辿り着きました。それは、「意識」の働きによるという仮説です。

 

20世紀末から脳の研究は各段に進歩してきています。それによると、人は意識をしてから行動するのではなく、(無意識に)行動の選択がなされた数百ミリ秒後にそれを自覚(意識)して行動することが多くの実験により証明されています。つまり、意識を過大に重視すべきではない。

 

仕舞の稽古では意識を重視しています。伴奏ともいえる謡を聞き、詞章のこの部分であればこの動きだというように、言語と行動をセットで記憶するように稽古しています。そして、そのタイミングが少しでもずれると、動きを修正するように意識します。

 

失敗するときは往々にして、ずれを認識しそれに修正をかけようと意識するときです。その後に、頭が真っ白になってしまうことが多いように感じます。つまり、強い緊張のもとでは、意識が立ち上がると本来できる体のはたらきを覆い隠して、できなくしてしまう。意識とは、妨害電波のようなものではないでしょうか。だから、うまくいった時は意識が立ち上がっておらず、その結果記憶があまりない。意識とは邪念や煩悩の親戚のようなものかもしれません。

 

そこで、能舞台上にひとりで立ち、通して舞う稽古の時、出来るだけ意識を立上げないように努めてみました。普段、どうしても動きを忘れてしまうのが怖いので、ついつい次の動きを考え用意しようとしてしまいます。それをしないようにしました。それができるようにするために、地謡の謡(うたい)を聴くことだけに集中するのです。他のこと(次の動きとか)を一切考えないで、謡に体を全て晒すイメージです。そうすると、意識ではなく体が勝手に舞台という空間の中を動いていくような感覚で、仕舞を終えることができました。意識は最小限だったと思います。稽古では意識しても、本番では意識を消す。

 

 

話題の本「ホモ・デウス」にこういう記載がありました。米海軍は兵士の脳に電気的刺激を与えることで兵士の感覚をコントロールする実験を続けており、「ニューサイエンティスト」誌の女性記者がその取材を許されました。記者は、狙撃兵の訓練施設を訪れ、戦場シミュレーターに入ります。巨大なスクリーンに銃を持つ敵が次々と現れ攻撃してきます。それを打ち殺していく。

 

記者はこう振り返ります。

「なんとか、一人撃ち殺すたびに、新たに三人の襲撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった。」

 

次に脳へ電気信号を送る特殊なヘルメットをかぶり、同じことを繰り返す。すると、先ほどと打って変わって落ち着き払い、次々と敵を打ち殺すことができた。しかも時間を感じなかったという。記者はその体験をこう語ります。

「愕然としたのは、生まれて初めて、頭の中の何もかもが、ついに口をつぐんだことだった・・・自己不信と無縁の自分の脳というのは新発見だった。頭の中が突然、信じられないほど静まり返った・・・(中略)私の心には怒りと敵意に満ちた小鬼たちが住みついていて、私を怖がらせて、やりもしないうちから物事を諦めさせてきたけれど、やつらを別とすれば、私は何者だったのか?そして、あの声はみな、どこから聞こえてきていたのか?」

 

私が謡に身を任せて意識が立ちあがるのを防いだのと、記者が特殊なヘルメットをかぶったことは、脳の神経作用の上では同じようなことだったのかもしれません。スポーツの世界で語られる「フロー」も同様とも思えます。

 

米海軍の実験という事実に薄気味悪さを感じますが、私の仮説を裏書きするようなものであり、いささか心強くもあります。

 

理由が分かれば対応もできる。もうすぐ、舞台本番です。稽古で一度だけ体験できたことが、本番でも実現できるのか、怖くもあり楽しみでもあります。

「問い」の難しさ

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先週の金曜の夜、アカデミーヒルズでの講座「宇宙研究から学びとるビジネス感度」、私がモデレータを務め開講しました。「異分野から学ぶビジネスエッセンスシリーズ」の第二弾企画。6月に開講した第一弾は、「能から学ぶ」でした。能は私も習っていますので、事前にある程度イメージはつかめましたが、今回は全く門外漢の宇宙研究です。かなり不安でした。

 

ゲストスピーカーの高梨さんは東大EMPでの授業で慣れておられるので、講演は安心してお任せできましたが、問題は講演後のグループ討議と発表の時間です。講演とほぼ同じくらいの時間を取っています。

 

このシリーズの企画コンセプトは、異分野で活躍する人の話や経験から学ぶことであり、学びを最大化するために同じ参加者と対話してもらうことに特徴があります。単なる講演会でも学びはありますが、他者と対話することでさらに学びが深まるはず。また、他者がどう学んだか、ということからの学びもあるはずです。

 

講演後に感想を述べあうという形式でもいいのですが、対話を効果的なものにするために、「問い」を用意します。あくまで対話のきっかけとしての問いなのですが、問いには企画者側の意図を織り込むことができます。講演する高梨さんとアカデミーヒルズの担当者といっしょに知恵を絞りました。

 

高梨さんは、かつてのように一般の人びとの暮らしに天文学や宇宙を織り込んで欲しいので、そんなことを考えさせるような問いを希望していました。また東大EMPでは、研究者が悩んでいるような課題について受講者がヒントをくれるようなことも時々起るそうで、そんなことにもなればいいなと考えました。

 

しかし、それをどう問いにできるか。当初は、ストレートに以下の問いを考えました。この問いに合うような講演内容を、高梨さんにしてもらおうというわけです。

 

①「現代の生活に天文学を織り込むことに意味があるとすれば、それはなぜか?どうすれば織り込むことができるか? 」


②「最先端の宇宙研究者の悩みについて、あなたの立場からどんなアドバイスができるか?」 


しかし、何度も考えるうちに、この問いは難しいのではと思うようになりました。講演する高梨さんにとっても、こたえる参加者にとっても。また、この問いを考えることで、「ビジネス感度」につながるかも、疑問です。

 

悩んだ末、講座前日以下に変更することにしました。

 

n  1.

 ・宇宙的視野というものがあるとすれば、それは何だと思いますか?

 ・宇宙的視野を持つことで、あなたの生活(公私問わず)は、どのように変化する可能性があると思いますか?

 ・そのために、あなたは何をしますか?

 ・多くの人々が、宇宙的視野を持てるようにするためには、どうすればいいでしょうか?

 

n  2

 ・大いなる未知を探求する宇宙研究者の思考や感性には、どのような特徴があると思いますか?

 ・その中で、あなたが取り入れたいと思うことは何ですか?

 ・それはなぜですか?

 ・実際に取り入れるために、何をしますか?

 

これでも、まだ十分難易度が高いと思いましたが・・・。

 

当日は、5グループ中2グループが問1を、3グループが問2を討議し発表していただきました。思いの外、討議は盛りあがり、質の高い発表と質疑がなされました。

 

講演内容への満足度が高いことは最初から予測できましたが、その後のグループ討議と発表にどれだけの価値を感じていただけたか・・。

 

幸い、アンケートには以下のようなコメントがありました。

 

・ディスカッションした皆さんの意見が良かった

・グループワークがあったおかげで、様々な意見を聞くことができ参考になった

・ディスカッションで意見を出しあえたのが良かった

・いい話し合いができた

・グループワーク、発表と日頃はあまりできない体験もできて良かった

・グループワークの課題がやや難しかったが、ブレインストーミングできて、他の方々の話も聞けて学びになった

・MITAKAを使っての講義、そこから学び取る視点のグループ課題設定が非常に良かった

 

 

グループ討議と発表の時間を講演に回して欲しかった、というようなコメントがなく、ほっとしました。レベルの高い参加者に助けられました。

 

このフォーマットで、テーマを変えながらいろいろ試してみたいと思います。

対話的教養の実践

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東京大学が社会人のリーダー育成機関として開設した6か月間の エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(EMPがこの10月で十周年を迎えます。開設時からその存在は知っていましたが、内容についてはよく知りませんでした。本日、東大EMP特任教授の高梨さんとお話する機会があり、初めてそのユニークさを理解しました。いわゆるビジネススクールとは全く異なり、最先端の教養・知恵に重点を置いています。

 

近頃、ビジネスパーソンの間で「教養」が一種のブームになっており、幹部研修で取り入れている企業も増えつつあるようです。そこでは、その分野の権威と目されている先生が、確立された専門知識を受講者に講義し伝えます。それとも全く異なります。

 

東大EMPでは、その分野の第一線の研究者が講師を務めることは同じでも、現在進行形の研究成果や、まだわかっていないこと、研究上の限界や悩みなどを話すそうです。完成された知識を伝えるのではなく、講師の現在進行形の研究活動をさらけ出すのです。普通、大学教授も務める研究者は、未完成の研究成果を広く開示することには強い抵抗感があります。しかし、東大EMP内限定ということで、講師にはそれを期待しているそうです。

 

つまり、知識としての教養を伝授するのではなく、その研究者が日々悩み苦闘している姿から、知を創造する何らかのメカニズムを受講者に掴み取ってもらうことを目的としているわけです。これはホンモノの教育です。

 

講師のレクチャーの後で、受講者との質疑応答がなされますが、そこにこの教育のエッセンが垣間見えます。当初は、なかなか質問ができません。できたとしても、質問者が持つ思考の枠組みの中で質問をするため、どの業界出身なのかすぐわかってしまうそうです。銀行員は銀行員らしい、役員は役員らしい質問しかしない。講師の思考枠組みと質問者の思考枠組みが少しでも噛み合えばいいですが、そうでなければ、全くすれ違ってしまう。

 

しかし、二ヶ月くらい経つと、質問内容が明らかに変わってくるそうです。質問者は、講師の思考枠組みを理解した上で、それに沿って質問するようになる。さらに三ヶ月目くらいになると、東大EMPが想定したレベルで質疑応答ができるようになる。質問者は講師の思考枠組みの範囲を理解しているのは当然ですが、さらに講師の研究対象の外にあるにも関わらずその研究と関連を持つと考えられることに関する質問をするようになる。講師はどうしても狭い専門分野を深く掘り下げるため、その外にはなかなか想いが至らない。その急所を質問者が突くわけです。

 

講師は、はっとさせられる。講師自身も発見があるのです。こうなると、どっちが先生かわからなくなる。

 

高梨さんは面白い表現をしていました。

開始当初は「雀の学校」。

 

チイチイパッパ チイパッパ

すずめの 学校の 先生は

ムチを 振り振り チイパッパ

生徒の すずめは 輪になって

お口を そろえて チイパッパ

 

三ヶ月も経つと「めだかの学校」になる。

 

めだかの 学校の めだかたち

だれが 生徒か 先生か

だれが 生徒か 先生か

みんなで 元気に 遊んでる

 

 

ここで行われる質疑応答が日常でもできるようになれば、あらゆることから学ぶことができるようになることでしょう。「対話」とは、本来そういった思考とコミュニケーションの作法なのだと思います。ソクラテスではありませんが、ホンモノの教育は、対話によってなされるのです。


そういえば、6/19に大澤聡氏の以下の言葉を転記していました。

少し変形してその文脈に接続させる、これも教養のひとつのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。


まさに三か月目以降の質問は、対話的教養を実践している。東大EMP,恐るべし。羨ましい限りです。

 

PS.数多くのセッションの中で人気高いのは、哲学と高梨さんが担当する天文学だそうです。

五感を使って

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人間は五感を駆使して外部から情報を受容して、認知システムや情動に取り込んでいきます。ただ残念ながら、我々はそのうちの一部の受容器に偏っているように思えてなりません。特に視覚です。そして視覚の中でも特にテキスト情報への依存度が圧倒的に高い気がします。

 

最近のTV番組には、テロップ(字幕)が頻繁に出てきます。聴覚障害者への配慮とはどうも思えません。流れる文字にどうしても本能的に視線が向いてしまいます。敵を発見するための、動物としての本能です。

 

文字を追うことで、映像や音声からの情報量は必然的に減ってしまいます。それにも関わらず、テロップを挿入するのはなぜなのでしょうか?

 

五感を駆使する機会が減り、その能力を失いつつあるのではないか、そんなことを気付かせてくれる映像に出会いました。

 

 

6/23の朝、何気なくTVを付けたら「沖縄慰霊の日」の式典が生中継されていました。しばらくして始まった、地元中学三年生の自作の詩の朗読に括目させられました。

sagara.jpg

 

https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00e/040/310000c

 

この毎日新聞の記事にある動画にはテロップがついています。また、下の方には詩が文章(テキスト)で書かれています。

 

以下の順番で読む(観る)ことをしてみたら面白いと思います。

・まず、文章で詩を読む

・次に動画を、字幕を追いながら観る

・最後に動画を、字幕を隠して(手前に本を置いたりして)観る

 

いかがでしょうか?

テキストが、いかに豊かな情報を圧縮してしまっているかが実感できると思います。テロップの弊害も。一方で、機会さえあればまだまだ受信する力は保持できそうな希望も持てる。

 

なにより、この詩を書いて朗読した相良倫子さんの表情と声は、この詩を書くに至った思いなどの膨大な情報を発信しています。それを、視聴者である私たちは精一杯にアンテナを広げて受信できる。もし現場にいたら、それこそ五感をフル回転してもっともっと受容し、刺さったことでしょう。人間の能力って素晴らしいですね。

 

ところで、相良さんのすぐ後に、首相が祝辞を述べました。残酷なほど乏しい情報量で、ほとんど受信できませんでした。

 

今年のカンヌ映画祭で、是枝監督がパルムドールを受賞しました。日本でも話題になりましたね。嬉しいものです。それに関して、いろ

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いろな報道がありましたが、私の心に残ったのは、審査委員長を務めたケイト・ブランシェットさんの映画祭を総括した「今年のカンヌは、インビジブル・ピープル(見えない人びと)に光を当てた映画が多かった」という言葉と、それに対する是枝監督の反応です。

 

是枝監督はこう応えました。

 

自分の作品も確かにそうだと思った。「万引き家族」は社会から排除され、取り残された人たちが、不可視の状態でそこにいる。発見されたときには犯罪者としてしか扱われない。「誰も知らない」の子供たちもそうだった。

 

そのことが彼女の「インビジブル」という言葉を聞いて、自分の中で言語化された。それまでは言葉にできていなかった。(中略)外から与えられた言葉で、自分の作家としてのスタンスがクリアに見える瞬間がある。有り難い。

 

そもそも「見えない人びと」に光を当てること自体、容易ではありません。スルーして何も見えないのは、自分が構成している主観の世界には存在しないからです。物理的には存在しても、主観の世界には存在していない。人はそのようにできているからです。

 

しかし、芸術家は異なる目を持っています。客観的に世界を見ることが得意なのです。だから、先入観や偏見にとらわれずに、客観的に見ることができるのです。ただ直観ではあるでしょう。

 

そして芸術家は直観的に捉えたものを、それぞれの表現手段(映画など)を使って表現します。

 

その結果、我々凡人も、芸術家などの視点の異なる他者と対話(映画鑑賞)して初めて「見えて」きます。

 

しかし、芸術家もなぜそれに自分はこだわったのか、自覚していないことも多いようです。是枝監督は「言語化」できなかった。言語化とは、具体の世界を抽象の世界に引き上げることです。今回是枝監督は、ケイト・ブランシェットさんから「インビジブル・ピープル」という言語をもらいました。なるほど、自分がずっと表現したかったことはそれだったんだ、と自覚できたのです。

 

今後、是枝監督は抽象化されクリアになった自分のこだわり。すなわちインビジブル・ピープルを、自分自身の主観の中に取り入れて、さらに豊かな映像世界をつくりあげていくことでしょう。

 

ここまで書いたのは、主観と客観、具体と抽象という二軸によるマトリクスの中をぐるぐる移動することの事例です。

 

私たちは、ひとりでは学ぶことはできない。(芸術家ではないとしても)視点の異なる他者と対話することで学んでいくのです。どんなものからも学んで成長を続ける人がいます。そういうひとは、このマトリクス上を高速度で回転しているのだと思います。

 

では、その原動力は何なのか?

 

世界をもっと深く知りたいという好奇心でしょうか?安易に自分を納得させて楽になろうとは思わない、自分自身に対するプライドでしょうか?

 

う~ん、まだよくわかりません。

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