ヒトの能力の最近のブログ記事

創造性開発は、日本企業にとって永遠のテーマといえるでしょう。先週の日経夕刊の連載されていた「人間発見」、MITメディアラボ副所長石井裕さんの回は、非常に興味深いものでした。

 

NTTで研究していた石井氏は、国際会議で講演した直後、米国の学者に声をかけられる。

「君はメディアラボに行くべきだ。君の美学はメディアラボが求めているものと同じだ」日本で発表しても、製品化にいくらかかるかとか、必要な通信量はどのくらいかだとかしか尋ねられなかったそうです。

 

ここに、日米の研究や創造性に対する考え方の違いが如実に表れていると思います。日本での関心は、製品化の可能性なのにたいして、アメリカ(MIT)では「美学」なのです。本当に創造的なアイデアは、美しいのです。それは、開発者の美学が、アイデアに込められているから。そして、研究機関自体も美学を持っている。創造と美学は、兄弟のような関係なのでしょう。

 

MITメディアラボに移った早々、石井氏は所長からこう言われます。

「MITでは、これまで取り組んできた研究のことは忘れて、全く新しいことをやれ。人生は短い。新しいことに挑戦するのは最高のぜいたくだ。」MB.jpg

MITが石井氏を評価したのは、彼の研究成果ではなく、彼の美学であり、才能なのです。過去の研究成果は、過去の環境におけるものであり、MITメディアラボという最高の環境であれば、もっと優れた研究ができるはずだとの、強烈な自信に基づいての発言なのでしょう。出来上がりを求めるのではなく、成長ののりしろを求める、素晴らしい態度だと思います。

 

 

そこでもまれた石井氏は、こう語ります。

「真の競争は100mを速く駈け抜けることではありません。競技のトラックもストップウォッチも、競技のルールすらない原野をただ一人で孤独に耐えて走り、そこに新たなトラックをつくっていくことにあります。」

なんと、かっこいい発言でしょうか!!こういう美意識を持ちたいものです。

「これからのビジネスパーソンには、コンセプチャル・スキルが重要だ」とは、いろいろなところで耳にするフレーズだと思います。

 

では、コンセプチャル・スキルって何?という質問に、どれだけの方が答えられるでしょうか?

 

 

「MBA経営辞書」(by Globis)によると以下だと説明されています。

コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも呼ばれ、物事を概念化して捉えたり、抽象的に物事を考えたりする能力とされる。

 

これではよくわかりませんね。グーグルで検索してみましたが、他のサイトでも似たような説明でした。

 

 

「一を聞いて十を知る」という言葉があります。頭の良さの代表的な表現でしょう。なぜ、頭のいい人は十を知ることができるのか。

        仮説1:頭のいい人は、たくさんの知識を持っているので、一に関連する知識をすぐに引っ張りだして、相手が伝えたいことを類推することができるから

        仮説2:頭のいい人は、相手が今この場面で自分に一を言うに至った背景情報を推測し、いいたいことを類推することができるから

        仮説3:頭のいい人は、一の言葉から、自分に役立ちそうな概念を引っ張りだし、それと自分の頭の中にある概念を重ね合わせて、さらにその概念を自分に日常レベルの事象に解釈し直すことができるから

 

どれも理由としてはありえそうな気がします。上記3つの仮説は、重なりあう部分もありますが、私は特に仮説3が学習には重要であり、その能力がコセプチャル・スキルだと考えています。

 

優秀な営業マンは、どんなお客さんとも話を合わせることができるといいます。それは、単に世間話のネタとなる情報を常に収集しているだけでなく、お客さんの話を概念化して、それを膨らませて返せるからではないでしょうか。

 

ベテラン管理職が、最近の若手とは話が合わなく困ると嘆くのも、別に若手がおかしなことばかりを話すからではなく、その管理職のコンセプチャル・スキルが劣っており、概念化して理解することができないからではないでしょうか。

 

最近話題のTVドラマといった、若手と会話するためのネタを集めるのではなく、メタレベルで会話できるように訓練しましょう。(失礼しました・・・)

先週の土曜日、「サードプレイスコレクション2010というイベントに参加してきました。家庭でもない、職場でもない、「第3の場」の可能性について考えるというパーティーです。そこで、私が考えたのは、遊びと学びと仕事の関係についてでした。

 

一般に、「学び(勉強)」の反語のひとつは、「遊び」でしょう。また、「仕事」の反語のひとつも、「遊び」でしょう。すると「遊び」=「仕事」といえなくもないですね。(かなり、こじつけですが・・)

 

そこで、「遊び」とはなんだろうかという疑問を持ちました。すると、たまたま聴いていたFMラジオで松尾貴史氏が「遊び」の定義を話していました(誰かの受け売りだそうですが)。曰く、

 

「遊び」は4つの条件を満たしている。

1)    めまい:ジェットコースターに代表される不規則な身体的刺激

2)    物真似:ままごとに代表される何者かになりきること

3)    偶然:人生ゲームやギャンブルに代表される不確実性にさらされ、スリルを感じること

4)    競争:鬼ごっこやかけっこに代表される他者との競い合い

 

確かにどんな遊びも、何らかの形で4条件を満たしているような気がします。たとえば、私の謡の稽古も一種の遊びです。大きな声を出すことより、軽いめまいを覚えることもあります。もちろん先生を真似ることがベースであり、稽古仲間の進歩を意識するということは、実は競っているのかもしれません。謡い方の基本ルールはありますが、状況により変化することも多く、未熟な私から見れば偶然性に依存しているようにも思えます。この遊びの4条件を満たすから、謡も遊びとしてわくわくし楽しめるのかもしれません。

 

このような「遊び」から、学んでいることは確かです。子供は遊びから、社会生活の要素を学びます。学びが仕事に役立つこともきっとあるでしょう。そして仕事が充実すれば、遊びにも力が入ろうというものです。

また、反対の回転もありそうです。仕事を通じて学び、学びのプロセス自体が遊びになっていき、遊びの中から仕事のヒントがうまれるというサイクルです。

 

どちらにしても、遊びと学びと仕事は対立概念ではなく、それぞれ補完し合うものだと考えるべきでしょう。そうなると、先ほどの遊びの4条件を、学びや仕事にも適用してみたくなりますね。

 

ところで、土曜のパーティの帰りに、プレンゼンターの一人だった上田信行さんの著書「プレイフル・シンキング」を見つけ買いました。そこにこういうフレーズがありました。

プレイフル・シンキング
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プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態をいう。どんな状態にあっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創りだそうとする姿勢(中略)。プレイフルな状態を生みだすための思考法が、「プレイフル・シンキング」である。(中略)

 

人生を楽しく豊かにしてくれる一番の経験は、「学び」である。学びとは、学校や本での勉強ではなく、人やモノとのかかわりにおいて自分の頭で考え、発見し、創造していく学びのことだ。日々の実践を通して人は学んでいくのだと考えれば、働くということもダイナミックな学びの場だといえる。そして、楽しさの中にこそ学びがある。

 

「プレイフル・シンキング」とは、遊び心のことかもしれません。学びも仕事も、何事も遊び心をもってのぞめば、楽しく前に進んでいけそうな気がします。

本日の日経朝刊、スポーツ欄のコラム「フットボールの熱源」に、こうありました。

 

あるJリーグの中心選手のこんな嘆きを聞いた。「うまくないたいと思っているのだけど、どこに問題があって、じゃあ何をどうしたらいいのかと、自分で考えないプロがいるんですよ。そういう選手を見ていると、もったいなあと思う」(中略)

 

サッカーについて、奥行きのある話のできない選手がわりと多い。それは普段サッカーについてとことん考え抜いていないからではないか。サッカーは監督やコーチが教えてくれるものと思っているのではないか。(中略)

 

選手の独学精神を育むことこそ、指導者の最も大事な仕事なのではないか。

 

 

これを書いている吉田誠一記者のサッカー記事には、以前から気になっていましたが、やはり面白い視点です。

 

Jリーガーですら、「学校の生徒」みたいになっている。いわんや、ビジネスパーソンをや。上司や先輩が自分を育ててくれると、待っているのでしょうか。

 

このコラムで一番共感したのは、最後のフレーズです。指導者とは、指導することよりも、選手が自分で学ぶように躾けることだと言っている点です。

 

 

数日前の「カンブリア宮殿」で、劇団四季の浅利慶太氏が、オーディションで何を見るのか?との質問にこう答えていました。

 

「部屋に入り、名前を述べた時点で、だいたいの才能はわかる。歩き方で、骨格や体の使い方がわかるし、話せば声量や声の質はわかる。しかし、わからないのはどれだけ根性があるかどうかだ。これが重要なのだが、取ってみなければわからない。」

 

そういう所には才能あふれる人しか集まりません。何がその後の成功を決めるかといえば、運と根性なのでしょう。根性は、独学精神にも通じる気がします。世界は違いますが、イチローにしろ、松井にしろ、有り余る才能に強烈な独学精神を持っているのは明らかです。

 

スポーツや演劇の世界であろうが会社であろうが、独学精神を育むことは、ものすごく大変でしょうが、「学び方を学ばせる」ことなら、なんとかできそうな気がします。そんなところから、地道に始めるのがいいかもしれませんね。

教えることは学ぶこと。これには二つの意味があると思います。ひとつは、教える現場での学び、二つ目は準備段階での学びです。

 

 

ひとつめ。

特に企業研修の場では、講師も受講者も「学ぶ」という一点においては同等です。受講者がビジネスパーソンの場合、講師より経験でも知識でも上回ることは珍しくありません。また、自分(講師)にない視点を提供してくれます。なので、講師が、教えながら受講者から学ぶのは当たり前のことです。

 

 

ふたつめ。これが、ものすごく重要です。

講師を務めるには、膨大な準備が必要です。担当するテーマについて、講師は豊富な経験や知識を持っているのもまた当然ですが、それらは断片的な経験や情報、知識の蓄積であり、倉庫に雑多にぶち込まれている状態です。とはいえ、本人はどこに何があるのかは把握しており、必要があれば割と容易に引き出せます。

 

ところが他者に教えるとなったら、話は全く別です。他者たる受講者に、そんな倉庫をただ見せても、何がなんだかわかりません。

 

そこで、倉庫内の棚卸と整理が必要になります。これが大変です。まず、何が教えるのに値するのかの仕分けが要ります。そこでは、一定の概念化がなされるはずです。単なるデータや情報ではなく、ある目的に合致した知識のレベルに抽象化しないと、伝えることはできません。

 

次に、教えたい情報や知識(コンテンツと呼びましょう)が、それぞれどういう関係にあるかを整理します。一見ばらばらに見えるコンテンツにも関連性があります。そして、学ぶのに最も役立つのは関連性だからです。

 

次には、学び手の頭の構造を想定した上で、コンテンツを展開する流れ、すなわちストーリーを創る必要があります。やはり、ドラマチックな展開のほうがインパクト強く学び手の頭に入りますので、それも意識したいです。自分が言いたい順番と、他者が知りたい順番(すなわち渇望感)、そして他者が理解しやすい順番は異なります。

 

このように、結構大変です。このプロセスは概念化とコミュニケーションのプロセスともいえます。つまり、他者の視点を組み込んだ(したがって独りよがりではない)経験学習がなされているとも言えるのです。非常に効果的な学習がなされるはずです。そして、それは大きな財産となります。一度、このプロセスをやりおおせれば、自分の頭の中が整理できるだけでなく、経験学習の仕方も体得できるからです。そうなれば、学習能力もぐんとアップするでしょう。

 

こんなに素晴らしい体験を、外部の講師だけにやらせておくのはもったいない。研修といった特殊な状況に限定せず、社員が教える機会を、もっともっと増やすべきだと思います。忙しさにかまけて教えないと、自分も学べなくなるのです。ただし、倉庫を開けるだけでは意味がないことは、言うまでもありません。正しい手順に従いましょう。

 

「本物にどれだけ触れてきたかが、長い目で見れば人間としての能力や魅力の大きな差につながってくる」

 

昔何かの本で読んだことがあり、それがずっと頭の中に残っています。流行に左右されるものでない本物は、人間の核を形成するのに大切だと思います。

 

また、田中清玄がこう書いていました。

 

「あらゆる物質は、核がなければ結晶しない。人間も同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。」

 

核とは、歴史に耐えてきた本物なのでしょう。本物に触れ、そこから何かをつかみ取り、自分自身の核を形成していく。そのことの重要性を、思い出させてくれたのが、1/4の日経朝刊に掲載されていた、今井賢一氏による「経済教室」の論稿でした。

 

東京の強みは、「多様な技術・文化変換装置」としての優位性にあるそうです。世界のあらゆるハード・ソフトの技術と文化を吸収し、修正し、複製を超えて再創造し、違うものに変換して再び世界に戻す能力にかけては、東京は世界一だと論じています。

 

そして、東京にそれが可能なのは、東京の奥に存在する京都・奈良に「歴史に培われた本物」があり、それにつながっているからだといいます。本物につながっているからこそ、新しいものを貪欲に取り入れ変換することができる。

 

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私も10年前くらいまでは、京都・奈良との接点がほとんどなく、東京の喧噪に流されているように感じていました。その後、仕事の関係で関西方面に行く機会が増え、京都・奈良にも何度も通うようになりました。そこで、何度も「なんだ、こういうことだったのか」と、現在と過去のつながりに気づかされたものです。それによって、少しは物事を立体的に捉えることができるようになった気がします。

 

 

都市も人間も、その意味では全く同じなのでしょう。日本という国や日本人として、まだまだ誇りを持ち世界に発信できるものがたくさんあります。何かと元気がなくなる話題が多い今日この頃ですが、歴史に培われた本物を核として、世界に貢献することを考えていきたいものです。

先日、今話題の「フリー!」を読みました。読みながら、いろいろ自分のビジネスのことを考えさせられる好著でした。優れた本は、常に読者への問いかけを含んでおり、新たな知識による刺激とリフレクション促進で、頭をフル回転させます。想像力を掻き立てられる、これが最高のエンタテイメントだと思います。

 

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
小林弘人
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文芸春秋の今月号で、敬愛する塩野七生さんが、最近のユニクロ現象について書いています。それなりの品質の商品を安く購入するユニクロ減少は、ブランドの本場イタリアでも顕著だそうです。それについて、塩野さんは嘆いています。ユニクロ的商品が人気なことにではなく、若い人がホンモノの高級品に興味をなくしていることにです。

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もちろんホンモノは、値段が高くそうそう買えるわけではありません。しかし、ホンモノは想像する喜びを与えてくれるというのです。彼女いわく、高級バッグを買うにも数日熟考し、その間いろいろなことを考えます。買った後も、それをどの服とコーディネイトするか、どんな場面で使うかなど、部屋に置いたバッグを眺めながら、いろいろ想像するのだそうです。

 

想像力は筋肉と同じで、使わなければ落ちてしまう。だから、落とさないためにもホンモノを身近に置くことが大切なのだそうです。機能重視のユニクロ現象が、国民全体の想像力を低下させることを危惧しているのです。

 

彼女いわく、出版の世界でも同じことが起きているとのこと。彼女の著作は、膨大な時間と調査の手間をかけているので、高額にならざるを得ないそうです。だからこそ、高い本を買っていただく読者に報いるためにも、全エネルギーを注いで執筆している。知的想像力を刺激する作品を生みだすことは、並大抵のことではありません。

 

最近は、「しゃべってさえくれれば、700円の本を出せますよ」と誘う出版社もあるそうですが、絶対に気力があるうちはそんなことはしないと断言されております。そこに彼女の矜持を感じます。

 

 

アトム(物質)からビット(ネット上の情報)へ、世界の重心が大きくシフトする時代において、想像力がますます重要になってくることでしょう。しかし、ファッションや本だけでなく、あらゆる分野で、想像力を刺激するモノは減少している気がします。このギャップに、どう対処すべきなのでしょうか。

 

 

昨晩、アカデミーヒルズで「アダットシリーズ ハーバードケースメソッドで学ぶ経営戦略」を開講しました。この師走の忙しい時期にもかかわらず、27名の参加がありました。ありがたいことです。

 

テキサス大学のビジネススクールで教えている清水勝彦准教授に講師を担当していただきました。普段は英語でやっているので、多少日本語の単語が出てきづらいこともありましたが、流石に素晴らしいスピード感と的確なリードで、受講者の積極的な発言を引き出し、2時間半はあっという間に過ぎてしまいました。ほとんどの方は、今回が初めてのケース・メソッドで、しかも一回きりなので当初は不安だったのですが杞憂でした。

 

終了後ある受講者が、「面白かったが、なんかもやもや感がありすっきりしない」と感想を述べておられました。当然の感想だと思います。私もビジネススクールで初めてケースに触れた頃、同じような感想を持ちました。経営だから正解がないのはわかるけど、じゃあ何を学べばいいの?という感想だったと思います。

 

それまでの学校教育では、すべて正解があったのです。それがいきなり、最後まで正解がなく、頭の中が広がったまま終わってしまって、気持ち悪いのです。

 

でも、その気持ち悪さが大切なのです。もし、正解を教えてもらって、すっきりして帰れば、それで終わり。何も頭に残りません。すぐ忘れるでしょう。他に覚えるべきことはたくさんあるのですから。

 

もやもやしているから、ずっと考え続けるのです。考え続けること自体が学習であり、筋肉トレーニングと同じなのです。それに納得するのに、私も結構な時間がかかりました。

 

 

それから、ある受講者が、こんな感想をおしゃっていました。

 

「ケーススタディに対して、一般的に言われる『過去の事例を扱っても・・』とか『机上の空論では・・』という意見が当てはまらないということが、身をもって体験できたので大変有意義でした。」

 

一人でもこう言っていただけると、やった甲斐があったというものです。

経験を積んでくると、だいたい状況を把握すれば、解決できそうな問題かどうかのあたりがつくようになってきます。もちろんその時点では、どうやって解決するかの筋道が見えているわけではありません。でも、何となく雰囲気?でわかります。

 

 

クライアント(お客様)の異常事態に対処することを常態としているコンサルタントは、特にその鼻が利きます。

 

クライアントは、その時点ではまだ漠然とした「悩み」を抱えています。「悩み」とは、今の自分の力ではどうにもならないと感じている苦境のことです。たとえば、カリスマ創業経営者がまだ健在の企業で、指示待ち文化が浸透しており経営幹部が育たず、経営者から「なんとかせー」と迫れ、苦境に陥っている人事部長がいるとしましょう。それは、「悩み」です。

 

コンサルタントは、クライアントの悩みを聞き、即座に「問題」になるかどうかを判断します。「問題」とは、自力で解決できると思われる苦境のことです。なぜそうなっているのか、創業経営者はどう認識しているのか、そして彼に何を選択してもらうべきなのか、社員や他の経営陣はどのように理解しているのか、経営上の意思決定は実態としてどうなされているのか・・・、などの「問い」を立てるのです。

 

問いが整理できれば、おおむね解決できそうかどうかのあたりがつき、この時点で「問題」かどうかが認識できます。問いへの仮説が設定できれば、さらに解決の筋道が見えてきます。「悩み」が「問題」に転化するということは、そういうことです。

 

 

国際関係論では、DangerRiskを区別しているそうです。Dangerとは、関与するファクターが多過ぎて、手のつけようのない危険のことです。イラクやアフガニスタンがそうなのかもしれませんね。一方、Riskとは、関与するファクターが考量可能であるので、管理したりコントロールしたり、ヘッジしたり出来る危険のこと。(終戦直後の日本は、情報収集を怠らなかったアメリカにとってRiskだったのかも。)従って、外交の要諦は、DangerRiskに変換することなのだそうです。悩みと問題の関係に似ていますね。

 

一般に「仕事ができる人」とは、このような変換作業をスムーズに行う能力が高い人だといって間違いないでしょう。

昨日の日経朝刊「経済教室」で、一橋大学のアメージャン教授が、近年のビジネススクールの変化について書いています。その変化とは、以下4点だそうです。

1)    ビジネススクールがグローバルに広がっている

2)    研究に力を入れるようになっている

3)    社会起業が重視されるようになっている

4)    教授法が、ケース・メソッド中心からフィールドスタディ、ゲーム、シミュレーション、コーチングなどへシフトしている

 

4)    の背景としては、全人格教育を目指すべきだとの考えがあるという。自己認識能力や対人能力を高め、経営にとどまらず世界が抱える問題の知識を深め、能力を実地に試す機会を与えるようになったという。そして、それらは日本企業が得意とする分野であり、日本の企業や大学が世界に貢献すべきと言っています。

 

私の解釈は、かつて欧米のビジネススクールとはハードスキルを学ぶところだったのだが、それでは企業のニーズに応えられないことがわかったので、ソフトスキルを重視するようになったというものです。ハードスキルとは、ファイナンスやマーケティングのように科学的に学ぶことができるスキルであり、ソフトスキルとは、リーダーシップやモラールのように体験的にしか学べないスキルのことです。

 

ハードスキルはどんどん、ロジック中心の科学の方向に進みました。ビジネススクールの教授の論文には驚くほど数式がたくさん出てきます。ビジネスマンはほとんど見たことがないような。それは、教育の専門分化も促したことでしょう。それが、研究重視の方向なのかもしれません。(専門化、科学化は教員にとって望ましいことのようです:DHB 20059月号参照)

 

 

私はケースメソッドが減少しているのは、その必要性が減少したからではなく、本当のケースメソッドをリードできる教員が減少しているからではないかと踏んでいます。科学化の方向性とケースメソッドは必ずしも一致しないのです。なぜなら、ケースを教えるにはある特定の分野の知識だけでは無理です。ケースは素材であり、様々な分野から切り込むことができます。自分が苦手の方角から質問が来たら、なかなか答えられるものではありません。でも、経営は総合的・統合的なものなのです。

 

そのような場合、優秀な教員は、その分野に詳しい学生に議論を振るでしょう。そういった、臨機応変なインタラクティブ能力が重要なのです。でも、これも科学化と一致しません。

 

全人格教育も重要ですが、それを大学に期待すべきなのでしょうか?ビジネスには、ハードスキルもソフトスキルも必要ですが、その議論は時代遅れの感がありませんか。本当にビジネスパーソンが学ぶべきなのは、情報が不足して不確実な状況で、いかに意思決定の精度を上げ、その実行を推進するかです。その観点から、カリキュラムもそして、教員の質も見直すべきなのではないでしょうか。