2009年9月アーカイブ

人の意識や行動を(こちらが)好ましい方向に動かそうとするとき、二つのやり方があると思います。

 

ひとつはImposition。つまり賦課です。

「こっちは、あなたにとってこんなに役に立つし、あなたに合っていますよー。こちらに行くのが正しいですよー」と、お節介なこともありますが、進路を指し示し、その行動を暗黙に課すアプローチです。

 

もうひとつは、Resonance。つまり、共鳴、共振です。

「私はこう考え、こう行動します。あなたが、どうしようとも関係ありません。それは、あなた自身の問題であり、あなた自身が決めることです。でも、あなたが私の考えに共鳴してくれるのであれば、嬉しいです。」

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人々が成熟してくると、一般に共鳴型が有効になってくるでしょう。主導権を、他者に握られることを潔しとせず、自分が主導権を握ることを重視するからです。また、共鳴、共振するには、その対象となる自分自身の核がなければ鳴りません。

 

 

ところが、今書店に行けば、Impositionを誘導してくれる本が溢れています。「XXX式勉強法」「給与がZZ倍になるテクニック」などなど、私など余計なお世話だと思ってしまいます。どう考えても、成熟化に向かっているとは思えません。

 

Resonanceを暗黙に期待する人は、たぶん他者と同じことを嫌い、自分だけのヒントを探しアンテナを張っているのではないでしょうか。マスを嫌う。

 

そうなると、普通に考えればビジネスになる(お金になる)のは、どう考えてもImposition派です。従って、供給はそちらにシフトするのです。安易に儲けたい供給者と、安易に答えを求める需要者の利害が一致して。

 

これは書籍の市場に限って起きていることなのでしょうか?ブランド物が売れなくなっているという話も聞きますし、一方で雑誌やショーと連動したファッションのネット販売が急成長しているという話も聞きます。どっちの方向に向かっているのか、よくわかりません。

 

もしかしたら、二極分化が急速に進み、表に見えているのはImposition派ばかりでも、実は見えていないところにResonance派がじっと待っているのかもしれません。Resonance派に響く供給者を。

 

あなたは、どちらですか?

カッツが整理した、テクニカルスキル、ヒューマンスキル、コンセプチャルスキルの分類は、多くのビジネスパーソンの現場感にも合うのではないでしょうか。

 

 

ただ、前の二つはともかく、最後のコンセプチャルスキルと何かを一言で説明するのはなかなか難しいものです。概念化をどう説明しますか?

 

 

ある企業の経営者候補を対象とした研修でのことです。自分の担当する事業を、10分間で門外漢に説明するというアサイメントを課しました。具体的には、自分の担当する事業をよく知らない新任担当役員に、事業概要を説明し、投資含めたサポートを引き出すような場面のロールプレイです。

 

 

皆さん頭に入っていることですから、一見簡単そうですが、実はものすごく難しいです。多くの方は、ミクロの説明をします。相手の基本知識理解レベルを考慮しないでミクロの説明をし、日頃の活動を描写したところで、全く門外漢には伝わりません。

 

このアサイメントで、説明のうまい方は以下の力が優れている方だと思いました。

1)   相手の理解度合を理解し、チューニングしていく能力(セルフモニタリング&フィードバック力)

2)   論理的に整理し、説明する論理的思考力

3)   全体像を鷲づかみにし、枝葉をバッサリ切り捨て、骨格を理解する能力

4)   上記に付随して、どの骨をどう動かせば他がどう動くかを的確に捉える能力(システム思考力)

 

3)がまさにコンセプチャルスキルだと思います。人間は思考するには、まず理解しなければなりません。これは、自分自身も相手も同じです。

 

そして、複雑な事象を理解するには、概念化が必要です。人間は、相当の基本知識がない限り、概念化しないと頭に入りません。(ちなみにフレームワークの効用は、概念化を助けるところにあります。)

 

つまり概念化ができないと、相手に伝えることもできませんし、自分自身の思考を深めることもできないのです。

 

 

ここで、鷲づかみをイメージしてみましょう。空中の鷲は、地上の獲物めがけて一直線に急降下し、一瞬にしてわずか三本の指で獲物を掴み、急上昇します。空中では獲物を落とさないように、強靭な指で、獲物を固定します。

鷲.jpg 

コンセプチャルスキルとは、このような無駄なく迅速に獲物の位置を捉える力、そして獲物が落ちないように、一瞬にして骨格を想定し、ポイントとなる部分を見つけ、そこに確実に爪を当てる力のことではないでしょうか。おかしな部分にどれだけ力を入れて掴んでも、空中では落してしまうでしょう。つまり、獲物を獲物全体として捉えるのではなく、骨格として捉えるわけです。この骨格に相当するものが、概念・コンセプトなのでしょう。

 

今、経営幹部候補にとって、鷲づかみにする力の開発は、最優先の課題だと思います。

 

組織開発という言葉は、日本では人材開発に比べ一般的な言葉にはなっていません。にもかかわらず、多くの日本企業は意識しているしていないにかかわらず、人材開発以上にさまざまな取り組みをしてきました(社員旅行、運動会、寮生活、小集団活動、組織活性化運動など)。

 

あまりに当たり前すぎて、あえて定義するまでもないことってありますよね。それかもしれません。しかし、あえて人材開発との対比で定義してみたいと思います。

 

人材開発:「個人」が本来もっている能力を顕在化させること

組織開発:「組織」の能力を最大限に高めること

 

 

では、組織の能力とは何でしょうか? 私は以下のように理解しています。

 

=∑(個人の能力) X ∑(個人と組織のアライメント) X 個人間の関係性

 

第一項に対応するのが人材開発で、第二、三項が主に組織開発の領域だと考えます。これは、組織開発の目的である、組織の成果を高めるアプローチが、人材開発とは別に二つあることを表しています。ひとつめが、個人と組織の方向性を整合させるアプローチ。ビジョンや価値観、経営理念を社員に浸透させるというものなどですね。二つ目が個人間の関係性を開発する、もう少しひらたく言えば好ましい人間関係を築くアプローチです。(「好ましい」が曲者ですが・・)

 

そして、今、個人間の関係性に問題が散見されるようになってきています。

 

 

 

自律志向の強い欧米人が、集団と組織(あるいはチーム)を全く別ものと考えるのに対して、日本人は集団と組織の区別があまりないように思います。以前触れましたが、欧米では別ものゆえチームビルディングが非常に重要な役割を果たします。ところが日本では、集団が定義された時点(メンバ-が集まった時点)で、自然とチームになっているのです。かつては、それが強みでした。

 

 

その前提は、集団の同質性です。同質メンバーであればチームになることは容易です。ところが、多様な集団となった時点で、急にチームビルディングができなくなるそうです。そして、多様性が急速に高まっているのです。

 

また、たとえ同質チームが維持できたとしても、弱点があります。なんとなくできる同質チームは、未経験で緊急性の高い状況において、迅速に対応することが苦手だそうです。不確実性に弱いのです。やはり、過去の経験が使えない状況も増えています。

 

 

つまり、日本の組織の強みだった個人間の関係性が、内部と外部から危うくなってきているということです。だから、マクロで見れば、日本型から欧米型へシフトせざるをえないとは思います。(それが、コーチング、ファシリテーション、メンター制度、りーダーシップといった手法やスキルが流行っている背景にあるのでしょう)

 

しかし、個人の自律性がまだまだ確立していない日本企業で、そのまま直輸入してうまく適合するとは思えません(そういう話は枚挙に暇がありません)。だから難しいのです。共同体としての基盤は維持しつつも、多様性や不確実性、変化に適応する組織(チーム)をいかに開発するか、単なる輸入ではなく、独自の組織開発のアプローチが必要なのではないかと考えます。

 

 

これから、多くのご意見をいただきながら、少しずつその方法を考えていきたいと思います。

状況を変化させるには(正確に言えば周囲と自分の関係性を変化させるには)、自分を変えるか周囲を変えるかしかありません。

 

「相手を変えるより、自分を変える方が簡単だ」とは、よく言われる人生訓でしょう。しかし、つい自分中心に考えてしまいがちです。自分を固定し、周囲が悪いからと言い立ててしまいます。頭では、そうではないとわかっていても、なぜか「気づけ」ないのです。

 

アートは、全く異なる切り口から、自分自身への気づきを与えてくれることがあります。

 

先日の瀬戸内旅行での直島での経験です。直島に、南寺というアート作品(というか建物)があります。建築は安藤忠雄設計ですが、作品はジェームス・タレル作です。彼は、光の芸術家として有名です。光を様々に見せて、観る人に刺激をもたらします。

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彼の多くの作品は、外光や電気の光を切り取り、見せるわけですが、南寺では逆に一切光を遮断し、真っ暗な室内に観客を入れるのです。全く光のない映画館に入れるようなものです。観客は、最初の5分はベンチでじっと座るよう指示されます。本当に何も見えないので、そうせざるをえません。

 

やがて5分経過すると、何となく少し見えてきます。目が慣れてくるのです。そこで、正面に歩いて行くことを促されます。恐る恐る歩くと、向こうに白いスクリーンのようなものがおぼろげに見えてきます。皆同じように見えてくるようで、「白いものがあるぞ」などといった声があちこちで聞こえてきます。

 

その後、Uターンして入ってきた入口を、それぞれ戻っていくよう指示され、だいぶ見えてきた目で、今度は安心して出ていくのです。

 

これだけの作品ですが、すごい刺激を受けました。普段は、変化する外部の光を眼で捉え、それが脳に伝わって感じるわけですが、ここでは反対に、外部は一切変化しません。自分の眼が変化し、その結果外部が姿を変えていくのです。外部の光と自分の関係性がひっくりかえっても、変化をすること(徐々に形が現れること)自体は同じように起きるのです。

 

自分が変わればいいんだ、変わるようにできているんだ、と妙に納得したのです。いつのまにか「自分ではなく周囲が変わるべきだ」と思いこんでいたことに気づかされたのです。

 

 

その二日後、夜の露天風呂で5歳くらいの男の子が、夜空を見ながら叫びました。

「おとーさん。おとーさん。最初一つだった星が、じっと見ていたら、その星の周りにどんどん星が増えていったよ。すごいよー」

 

昨日に続いて鞆の浦で感じたことです。

 

鞆の浦は、古代より船の交通の要衝でした。江戸時代までの船は和船でした。幕府が大型船の建造を禁止したこともそれを促しました。和船は、底が平らの喫水線が浅く、遠浅の湊でも寄港できます。

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幕末から、西洋式の底がとがった洋船が主流になりました。黒船からですね。鞆の浦のような遠浅の湊は、洋船では陸に近づけません。さらに、船が蒸気機関のような動力を持つようになり、潮流の影響を受けにくくなります。それらの結果、潮待ちの湊として栄えた鞆の浦は、急速に衰退していきます。さらに、昭和に入って以降は、海運が自動車輸送に押され、海運自体衰退します。

 

一方、同じ広島の呉は、大きな軍艦も寄港できるだけの深さを持つため、軍港として発展を遂げます。

 

こうして、鞆の浦は、周回遅れの取り残された湊町になったのです。

 

その後、呉のような軍港は米軍の空襲で壊滅します。さびれた鞆の浦は、空襲の価値もなかったのか空襲にも合わず、奇跡的に江戸時代のまま温存されました。

 

 

そして、現在。ポンペイではありませんが、取り残された湊町が、大きな価値を持ちつつあります。日本の誇る生きた文化遺産となったのです。周回遅れのランナーが、いつのまにかトップに立ったかのようです。

 

先月書いた、大地の芸術祭で注目されている新潟の越後妻有も同じような構図だと思います。産業化の遅れた山村の風景、つらい労働を強いる棚田、建材として価値の低いぶなの森、住民の強いつながり、それらは、きっと十数年前なら、遅れた地方の代名詞だったはずです。

 

鞆の浦の前に行った直島もそうです。忘れられた瀬戸内海の島が、アートの力で生まれ変わったのです。もともと直島が持っていた自然の魅力を、現代アートと安藤建築が蘇らせたといえるでしょう。(ベネッセの福武さんは本当にすごい!)

ベネッセハウスの夕暮れ.jpg 

 

以上の三か所に共通するのは、一時は生まれ育った町に誇りを失っていたであろう住民が、今は活き活きとしていることです。

 

 

時代は変わるのです。周回遅れだからこそ、トップランナーに躍り出ることもできるのです。今元気がない日本企業も、地方都市も、歴史に根差した自らの強みを見失うべきではありません。

 

今は弱みに見えることも、環境や人々の価値観が変わったり、触媒になるような何か(アートのような)を加えることによって、貴重な財産になる可能性を秘めています。

 

町も企業も、そして人間も同じでしょう。一次の流行やブームに惑わされることなく、本質を捉える目とそれを活かす知恵と胆力を持ちたいものです。

広島県福山市の鞆の浦に行ってきました。ご存じの方も多いと思いますが、江戸時代の港が奇跡的に残されている港町です。現在その湊の一部を埋め立て架橋を建設する計画があります。反対運動も盛んですが、どうなるかわからないため今回足を延ばしてきたのです。

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古代から海の交通の要衝で、大伴旅人、平家から始まり坂本竜馬、三条実美まで、さまざまな逸話には事欠きませんが、それは別の機会に譲るとして、最近の宮崎駿のエピソードを書きます。今日、聞いたばかりの話です。

 

最近アメリカでも公開された作品「崖の上のポニョ」の構想を、宮崎監督は、この町の海に突き出た崖の上にある、知人の別荘に二ヶ月間滞在し練ったそうです。今日、その別荘も観てきましたが、眺 ポニョ.jpgめの良いとても素敵な場所です。

 

構想を固めた監督は、映画スタッフ200人余りを鞆の浦に集めたそうです。きっと、そのあたりの風景を見せたかったのでしょうが、それだけではありませんでした。

 

港を見下ろす山の中腹に、沼名前神社があります。そこには、豊臣秀吉が伏見城に造らせた能舞台(重要文化財)が移築され、残っています。その伝統ある能舞台に、監督は近隣からお神楽の一座を招き、実際に奉納神楽を舞ってもらったのです。

 

今日その舞台にも行ってきましたが、使用していない時は板ですべて覆い隠すということで、舞台は全く見えませんでした。そこを一晩借受け、スタッフ200人のためだけに、本物の神楽を舞わせたのです。(一部の地元民はその御相伴に与ることができたそうで、そのうちの一人の方から直接伺った話です)

 

直接、映画と御神楽は関係ないと思いますが、映画の舞台(?)となる鞆の浦の町や海、風土をスタッフに理解させるには、きっと欠かせないことだと宮崎監督は考えたのだと思います。

 

そういえば黒澤明監督は、江戸時代の長屋を舞台とする映画を撮る際、当時人気絶頂だった古今亭志ん生を撮影所に招き、一席噺してもらったそうです。

 

 

どちらも、大変贅沢なことで、効率重視では、絶対できないことです。しかし、フィルムには、本物を見せた影響が何らかの形で現れているのでしょう。本物を創るには、本物の力が欠かせないのです。

 

単純なビジネスベースでは難しいことですが、本物に触れた時間の蓄積というものは、長い目で見たら、人の成長に大きな効果があると思います。

 

効率に振り回されないで、「眼」に栄養をやることも、忘れないようにしたいと思います。

 

 

熟達論の研究によると、熟達するまでに、

初心者→見習い→一人前→中堅→熟達 の5ステップがあるそうです。

 

そして、熟達者は、全体の約510%であり、「状況を的確に判断し、直感的に正確な判断ができる」人のことをいうそうです。ちなみに、中堅は「微妙な状況の違いがわかり、分析的に対応できる」そうです。

 

中堅では、「分析的」だったのが、熟達者では「直感的」というのが面白いですね。分析的というのは、全体を観た上で、部分に分解しながら詳細に観ていき、部分の変化や差異に反応するイメージでしょうか。

 

一方、直感的というのは、いきなり全体を観て、即座に全体も部分も把握し、反応していくイメージだと思います。

 

トヨタ生産方式のプロは、工場をざっと一回りしただけで、その工場の問題点を数多く指摘するそうです。他の分野でも、そういう人がいます。ぱっと、一瞥しただけで、何か変だと瞬間的に感ずるのです。仮に口では説明できなくても、何となく臭うのです。それが、分析ではなく直感の意味だと思います。

 

 

骨董の世界の目利きも、同じなのだと思います。青山二郎の言葉です。

 

「人間でも陶器でも、確かに魂は見えない所に隠れているが、もし本当に存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。」

 

ここでいう外側の形とは、全体像のことだと思います。たとえば、偽物をざっと一瞥した時、何となく不自然さを感じます。部分を詳細に観てもよくわからないのですが、全体を観ると何か違うといいます。

 

 

目利きが保有する脳の中の膨大なデータベースに、何かが引っかかり、それを「直感」と呼ぶのでしょう。身銭を切って買い、偽物をつかまされた経験を積まなければ、そのような骨董の目利きにはなれません。

 

 

目利きすなわち熟達者の領域に達するには、真剣に(身銭を切って)ホンモノに触れた膨大な回数と、そこでの多くの失敗経験が必要なのでしょう。

先日、田園調布の焼き鳥屋さんで飲んでいたところ、ふらっと長嶋茂雄さんが現れました。すると、なぜか拍手が巻き起こり、ほぼ全員が笑顔で迎え入れました。長嶋さんも、不自由な右手はポケットにいれながらも、笑顔で応え店長嶋.jpgの奥に進んでいきました。まさに観音様が現れたかのように、皆が幸せな気分になったようでした。

 

そういう気分に浸りながら、一方でこの力は何なんだと、頭の片隅で疑問が生じました。アンチ巨人の人でも、長嶋(敬称略。と書かざるをえない感じ)の悪口は言わないそうです。

 

 

また、9年連続200本安打を昨日達成したイチローの悪口を言う人もあまりいません。強い者、優れた者への嫉妬ややっかみなど当然の世界で、長嶋もイチローもそういう対象にはなりません。なぜなんでしょうか?

 

長嶋とイチローは正反対でありながら共通する何かを持っています。長嶋は天才ですが、イチローは天才ではなく努力と用意のひとです。イチローは、ダッグアウトで階段とスロープがあれば、必ずスロープを歩くそうです。階段のほうが怪我する可能性が高いから。自分のロッカー前の椅子も、他の選手はふかふかのソファを置いているのに、イチローはパイプ椅子です。その方が腰に負担が少ないから。一事が万事、すべて成果を出すことに集中しているのです。

イチロ.jpg 

長嶋は、自分のプレーを言葉で説明できませんが(失礼!)、イチローはすべてを合理的に説明できるそうです。

 

 

一方、二人に共通するのは、人々に勇気と希望を与えるということではないでしょうか。長嶋の魅力は、その人としての純粋さにあると思います。彼に接すると、観音様のごとく、自分自身も純粋に生きることができそうに思える、難しい世の中にあって、そんな勇気をもらえるように思います。

 

イチローからも、頑張る勇気をもらえます。非力で華奢な日本人でも、努力と節制次第で、誰にも負けない成果を出すことができる、素晴らしいロールモデルです。

 

このように異なる角度からではありますが、単なる実力以上の「何か」によって人々に勇気を与えることができる人、本当に素晴らしいですね。イチロー選手、9年連続200本安打達成おめでとうございます!!

学習にとって、他者からのフィードバックはとても大切です。自分自身のことは、なかなかわからないものなので、他者からの指摘がありがたいのです。

 

しかし、いちいち自分へのフィードバックを待っていても、そうそうもらえるものではありません。自分のことを気にかけてくれる人ばかりではありませんから。

 

そこで、「人の振り見て我が振り直せ」となるわけです。

 

 

集合研修と、eL等の個人学習の最大の違いはそこにあります。個人学習では、自分の考えしか存在しません。つまり、「人の振り」がないのです。

 

集合研修では、自分と異なる他受講者の意見を聞くことができます。そこには、自分が気づきもしなかった視点があることも珍しくありません。たとえ自分の考えの方が正しかったとしても、典型的な誤った考え方を知るも意味があります。多くの人がそう考えてしまうということを知っておくこと自体、今後コミュニケーションや、あるいはアドバイスする立場になった時に有益なのです。

 

 

研修で、グループ発表を行うことも多いですが、「中途半端で未熟な発表をいくつも聞いても時間の無駄だ、最初から講師が解説したほうが効率的だ」との意見もなくはないです。しかし、最初から正解を提示されても、ほとんど身に付かないのが実態です。自分自身が間違いを指摘され正される経験や、他の人が指摘を受ける様子をたくさん見る、「人の振りを見る」プロセスが非常に大切なのです。

 

 

言い方を変えれば、「人の振り」と「我が振り」を関連づける能力が高い人は、学習能力が高いといえるでしょう。あらゆる情報を、常に自分の問題解決に役立つかどうかという観点で接する。それが学習を促すのです。

 

本を読むという行為も、著者の「(思考の)振り」を見て、自分と関連づけ、自分の振りを見直すという意味では、同じですね。石ころまでも先生なのです。

世の中には、コンサルタントと名乗る人はごまんといます。別に国家資格や、条件など必要ないにも関わらず、なんとなく「エラそう」な印象を与えそうなので、好まれるのかもしれません。

 

ところで、コンサルタントの役割とはなんでしょうか?意外に明確には定義されていないようです。以下の三つに整理できるのではないでしょうか。

 

1)    ある分野の専門家として稀少な情報を提供する

2)    クライアントの診断をし、処方箋を与える

3)    クライアントが問題解決するプロセスを支援する

 

1)の専門家は、情報量で貢献し、2)の診断者は、クライアントの非日常を日常として、その症状にいかに対処すべきかの知識と経験を豊富に持ち、かつ適切な打ち手を選択することで貢献します。医師(広い意味ではコンサルタントです)や戦略コンサルタントはここです。3)の支援者は、クライアントに寄り添って、能力を最大限に引き出してあげることで貢献します。

 

それぞれ全く異なる役割なのです。とは、いいながら、医師は状況によって症例情報を豊富に持つ専門家にもなりますし、患者の自然治癒力を引き出す支援者にもなります。つまり、状況によって、適切な役割に切り替えることが出来なければならないのです。

 

では、いつ、どのように切り替えるべきと判断するのでしょうか?これは結構難しいです。支援者の役割として振る舞うべきときに、専門家ぶって情報(答)を提示してしまえば、もう自ら問題解決しようとはしなくなってしまうかもしれません。でも、どこかのタイミングでは、答えを与えたほうがよくなるかもしれません。

 

その判断をするための武器が、「問いかけ」なのだと思います。適切な問いかけをし、それへのクライアントの反応を見て、状況を正しく把握する。

 

 

では、適切な問いかけを、どう選択するのか?これまた難しい問題です。

 

 

 

最近やっとダイアローグという言葉が、一般的になってきたようです。私が最初に耳にしたのは、今を去ること14年前、ピーターセンゲの名著「The fifth discipline」の翻訳最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か」 を読んだ時です。
Peter M. Senge
419860309X

 

そこで、初めてディスカッション(議論)との意味の違いを知りました。ディスカッションは自己の意見を認めさせる、基本は対立構造に根差し、ダイアローグは他者の意見を取り入れ、よりよい主張をつくりあげていう協調的活動です。

 

こう書くと、欧米人はディスカッションが得意で、日本人はダイアローグが得意と思われるかもしれませんが、必ずしもそうではないようです。

 

ダイアローグは妥協や調和ではありません。あくまで他者とやりとりを通じて、自己の意見を高めることが目的です。なので、日本人には、苦手のような気がしますし、なかなか理解も難しいようです。

 

ダイヤモンド社さん/東大の 中原淳准教授との仕事の中で、企業の人事の方に「雑談」と「議論」と「対話」の違いを理解してもらうためのショートドラマを、プロの俳優に出演いただき制作したほどです。

 

 

なぜ、苦手なのでしょうか?

 

ひとつは、自己の意見へのこだわりがそれほど強くないため、諦め妥協しやすいこと。二つ目は、逆に防衛本能が働き、対立構造になってしまうこと、このどちらかになりやすいのだと思います。

 

言いかえれば、対話において欠かせない、対等な立場で違いを際立たせ、違いを認め、さらに取り入れるという一連の活動に慣れていないのではないでしょうか。これには、諦めず、更なる高みを目指す忍耐も必要です。

 

 

同質化された社会であれば対話は不要でしたが、多様化が進み、創造力が勝負の決め手になる社会になれば、ダイアローグの技術は必須といえるでしょう。ダイアローグが学びとその先にある創造性を育むのです。

 

本来は、子供のころから対話を習慣づけるべきだと思いますが、それなくして大人になってしまった我々はどうすればいいのでしょうか?謝罪会見を繰り返す経営者、的を射ない会見と質疑応答をする政治家、パネル形式を取りながらも、自分の意見しか言わない文化人・・・、を目にするたびに、その困難さを感じます。

 

でも、諦めないで、ダイアローグの技術を高める方法を考えていきましょう。

 

常にコミュニケーション能力は、組織課題の上位にあがってきます。つまり、研修の人気テーマでもあるわけです。

 

しかし、研修を企画する方に、御社のコミュニケーション上の課題は何ですか?と質問しても、的確な回答が返ってくることは、それほど多くはありません。そもそも、そこで問題としているコミュニケーションとは、何を指すのかも曖昧です。

 

仮に、コミュニケーションが問題だったとして、

  良好なコミュニケーションが図れる組織とは、具体的にどのような組織か?

        個人の能力に原因があるのか?それとも組織に原因があるのか?

        個人に原因があるとして、それはどういう集団にあるのか?例えば、若手に原因があるのか、それとも管理職にあるのか?

        個人のコミュニケーション能力が欠如しているとして、具体的に、どのような行動、または思考が欠如しているのか?(つまり、コミュニケーション能力は、どのような要素で構成されていると考えるのか?)

        組織に原因があるとして、それが起きている理由は何か?背景にあるものは?

        それらの理由のうち、手を打てることは何か?それはなぜか?

 

 

などなど、疑問はどんどん膨らみます。そういった疑問も持たないまま、何となくコミュニケーション能力開発研修を企画してしまうこともあるようです。コミュニケーション能力という、だれもが疑問を挟まなそうなBig wordが、思考を停止させるのです。

 

このように、何となく最近コミュニケーションが悪い気がする、というくらいの認識で研修を企画し実施したところで、その場は盛り上がるかもしれませんが、職場に帰れば、何事もなかったかのように研修前と同じように振舞うことでしょう。それで、研修効果を持続させるにはどうしたらいいかと、悩んでみてもせん無い話です。

 

 

企画者自身が、徹底的に「考える」ことができなければ、できあいのパッケージプログラムを販売する研修ベンダー(あるいは講師)を喜ばせるだけなのです。易きに流れず、問題の本質を徹底的に追求する癖をつけたいものです。(それを「知的強靭さ」といいます。)

 

これまで、数多くの研修現場に立ち会ってきました。成功したといえる研修を一言で表現するならば、教室という空間の中で、講師と受講者、そして受講者同士が、相互に影響を与えあい、高め合っていく場だといえるでしょう。

 

これが実現するためには、講師の力量は当然として、企画者と講師による周到な用意が欠かせません。

 

しかし、意外にその用意の価値は評価されず、実行されることも少ないように思います。費用対効果はとても高いにも関わらず。

 

 

 

ここで思い出すのが茶道における「おもてなし」です。茶道では、「おもてなし」の構成要素を、「よそおい」「しつらい」そして「ふるまい」としているそうです。

おもてなしの心.jpg 

「よそおい」...「装い」、身なりを整えたり、身を飾ったりすること。また、その装束や装飾。身なりや外観を整えること。美しく飾ること。更に、目にしたようす。おもむき。風情(ふぜい)。一生懸命になって飾り整える...これがおもてなしの第一の要素。

 

「しつらい」...「設(しつら)え」。しつらえること。用意。準備。(「室礼」「補理」とも書く)平安時代、宴・移転・女御入内などの晴れの日に、寝殿の母屋や庇(ひさし)に調度類を配置して室内の装飾としたこと。

 

「ふるまい」...振る舞うこと。挙動。また、態度。ごちそうをすること。もてなし。供応。

 

 

おもてなしとは、相互信頼に基づく濃密なコミュニケーションを促すための仕掛けともいえるのでは、ないでしょうか。そこでは、主人がお客をもてなすという片務的な関係ではなく、相互依存関係なのだとおもいます。主客一体となって、ともに「場」を創り、その「場」がそこにいる人々に好ましい影響を与える。こういう場を創ることをリードするのが主人の役割なのでしょう。

 

 

研修の場で考えてみましょう。研修では、受講者同士が初対面であることが普通です。所属企業も、別々であることも珍しいことではありません。従って、いかに迅速にチームとしての一体感を醸成するかが、最初のポイントです。また、一刻も早く、講師に対する信頼感を持ってもらうことも大切です。

 

 

「装い」の観点では、受講者にドレスコードを課すことも有効かもしれません。その研修のテーマに合致するような色を最低一点使用するなどでもいいです。それで、ぐっと距離感が狭まります。講師の服装も重要です。その場で、「こういう存在だと認識されたい」というメッセージなのですから。必ずしも、スーツにネクタイがいいわけではありません。

 

「しつらい」の観点では、教室のレイアウトは当然として、照明、音楽、花などの装飾、飲食サービスなどなど、考慮すべきことはたくさんあります。ランチをどう提供するかも、午後のセッションの効果に大きく影響します。

 

「ふるまい」の観点では、この研修の場では、どのような「ふるまい」や行動が奨励されるかを、明示し共有することかもしれません。もちろん講師が率先垂範します。研修のテーマにもよりますが、「否定ではなく、アドバイスをする」「よく聞いた上で、主語を自分にして発言する」「意見を述べたらかならず、なぜなら・・・と理由を加える」「グループ代表者の発表には、拍手で敬意を示す」など、この場での「お作法」の合意と徹底です。

 

 

こうした、おもてなしの心を研修に活かすことは、これまであまり考慮されていなかったように思います。考えていたとしても、「受講者が気持ちよく時間を過ごせるように、至れり尽くせりのサポートをする」のが、おもてなしとだと。それも大事なんですが、それでは付加価値は生みません。

 

「研修効果を決めるのは講師や教材といったコンテンツの選定であり、その他のことはおまけ、アシスタントに任せておけばいい」という暗黙の前提もどうやらあるようです。

 

コンテンツを効率的に注入する工場のような無味乾燥な研修の場では、学ぶインセンティブも、なかなか湧いてきません。費用対効果を上げるために、やれることは、まだまだたくさんあります。

 

昨日の  「爆笑問題の日本の教養」で、坂本龍一さんが音楽についてこう語っていました。(記憶によっています)

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2001年の9.11の時NYにいたが、しばらくは体が強張ってしまったようで、音楽に近づきたくもなかった。しかし、ある仕事の締切に迫られ、いやいや作曲を始めた。すると、音楽によって体が溶けていくことを体験した。」

 

「音楽には、計り知れない力がある。それがいい方向で活かされればいいが、ヒトラーに利用されたワグナーの例にもあるように、国民をある悪い方向へ誘導する力もある。優れた音楽はあっても、いい悪いの方向づけ自体は音楽にはない。だから、作曲する時も、すごく神経を使っている」

 

 

また、国立近代美術館の  「ゴーギャン展」に行き、名作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこにいくのか」をじっくり鑑賞しました。

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生と死、智恵と無垢について、一人の個人、その時代のタヒチの人々、そして人類の次元で、時間と空間を超えて壮大に表現されていると感じました。言葉で書くと陳腐ですが、絵画はその深淵な宗教的かつ哲学的な感情をたった一枚で表現できるのです。何万字を使っても表現できなかったことを、たった一枚の絵で表現できることは、すごいことです。

 

また、これを描くに至ったゴーギャンの体験と思考の変遷に思いをはせると、何とも言えない思いがします。

 

 

坂本さんも言っていましたが、人間は言語を持たない時間のほうが遙かに長く、それまでは音楽的なものや、絵画的なもので交信していたはずです。そっちのほうが、はるかに我々のDNAに馴染んでいるはずなのです。

 

所詮言語とは、最近使われるようになった、便利ツールにしか過ぎないのかもしれません。

 

アートというとすかしたイメージがあるかもしれませんが、アートは、長い人類の歴史を経て、我々ひとりひとりの根底に染みついている「何か」に作用することができる、物凄いパワーを持っているのだと思います。

一昨日の総選挙の際、21歳の女性が子供と間違われ、投票を拒否されたという事件が平塚市であったそうです。市職員は間違いが判明しても謝罪もせず、「戻らないと棄権になる」と促したが、女性は怒って立ち去ったとのこと。

 

これに対して、担当の選挙事務局長は、

「市民の最高の権利行使なのに申し訳ない。間違いをした時に謝罪をするのは最低限のマナーで、今後、こうしたことが二度と起こらないよう職員の研修をする」と話したそうです。

謝罪.jpg 

 

おかしな出来事ですが、今回のように職員(社員)に重大なミスが発生すると、右の写真(本件とは無関係です)のように謝罪した上で、決まって二度と起きないように「研修を(強化)する」ということになります。(なぜか、経営幹部の重大なミスでは、研修とはなりませんが)

 

また、コンプラが強化されたり、セクハラ/パワハラが話題に上ると、やはり「研修強化だ」ということになります。

 

もちろん、研修自体は必要に違いありませんが、どれだけ気持ちを入れて企画・実施しているか、甚だ疑問のことがあります。つまり、やったという事実が重要の、アリバイ研修が多いのではないでしょうか。

 

また、そういったニーズに対応するベンダーも数多くあります。持ちつ持たれつです。

 

こういうアリバイ研修が、社員の研修に対する見方を決定してしまうことがあります。すなわち、「研修は参加することに意義がある」「息抜きみたいなものだ」といったふうです。

 

攻めの研修と、守りの研修があるのは事実です。守りの研修とは、「絶対XXXはしてはいけない。また、YYYの場合は、必ずZZZとしなければならない。」というルールを躾けるものです。自動車免許の書き換え時に受ける講習が、その典型です。

 

しかし、守りの研修も、本当に躾を徹底させないと、失敗した時のダメージが、かつての数百倍、数千倍にも膨らんできています。従って、守りの研修の効果を徹底的に追求することが、経営上非常に高い優先順位となってきているのです。

 

このような時代にもかかわらず、従来型のアリバイ研修でお茶を濁そうとする企業や団体は、存続自体が危うくなることでしょう。

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