2017年8月アーカイブ

あり得たかもしれない現在。これほど人間にとって、無意味なものはないでしょう。しかし、ほんの一瞬それが頭をよぎることもあるのも人間です。だが、また一瞬でそれを頭から打ち消し、日常に舞い戻る勇気も持ち合わせている。

 

昨晩、やっと昨年アカデミー作品賞をとった本作を観ました。毎年原村で夏休みに開催される「星空の映画祭」という催しの、夜8時からの屋外上映会でした。

 

この作品は、過去の有名なミュージカル映画作品を、いくつもオマージュしています。「雨に歌えば」「バンドワゴン」「パリのアメリカン人」、「レミゼラブル」までありました。かつて栄光を極めたミュージカル映画を現代にも復活させようという意図もあるのかもしれません。(映画の中では、それがJAZZだった)

 

ハリウッドで夢を追う男性と女性。男は売れないジャズピアニスト。女は女優を目指すも、オーディションで落ち続ける女優のたまご。この二人の叶わなかったラブストーリーです。男は正統派ジャズの衰退を嘆き、ジャズの復興を図るためのジャズ演奏を聴かせるお店を持つことが夢でした。

 

男は女との生活のために、自分の志向には合わないバンドに入ることを決意。予想に反してそのバンドが大成功。レコーディングとツアーに追われる生活に。次第に女はそんな初志を忘れた男の行動が許せなくなります。会えない寂しさもあってある晩衝突。男は言ってしまう。「君は優越感を得るために、不遇を囲っていた俺と付き合ったんだろ。」

 

女は最後のチャンスと思っていた自ら脚本・主演の一人芝居の自主公演で失敗。女優の夢を捨て実家に帰ってしまう。男はバンドを辞め細々と食いつなぐ生活。そんなある日、女宛てにかかってきた電話を取る。それは女の自主公演を観た配役ディレクターから、パリで撮影する映画のオーディションへの誘いでした。男は夜通し車を走らせ女の実家へ行き、吉報を伝えるも女はもう惨めな思いは味わいたくないと拒否。今度は、男が諦めるなと説得し、二人で会場に向かった。合格した女に男は、パリでの長期にわたる撮影中は仕事に没頭すべきで、会うのはよそうと告げた。

 

♪そして5年の月日が流れ去り(指にルビーの指輪を♪、じゃない)有名女優となった女は、ある夜小さな娘を預け夫と出かけた。渋滞に疲れた二人は、予定を変え食事に。その後、何気なくふとジャズバーに入るとそこには、ピアニスト兼店主となった男が舞台に立っている。女に気づいた男は、女と初めて会った時に弾いていた曲をひとり奏でる。その演奏のあいだ、映画は「あり得たかもしれない5年」を空想シーンとして延々と描く。観客も共感し、そうなっていればと想像したことでしょう。しかし、映画は現実に戻る。席を立つ女と目が合った男は、深刻な表情から一転、微笑んで夫妻を送り出す。

 

こういう物語です・・・。男にとって、5年ぶりの一瞬の再会、さらに「あり得たかもしれないとき」をその瞬間に空想することは、男がこれから生きていく上で、どのような意味を持つのか。もう一歩を踏み出すのに必要なステップなのだと思いたい。

 

そんなことを考えながらエンドロールを眺めていると、突然激しい雨が。なんというタイミング!自然は感慨に耽ることを許さず、突然現実に引き戻されました。

創造力は人によって大きく違うのでしょうか?アーティストは創造力に満ち溢れ、我々一般人特に日本人は貧弱なのか。

 

先日、友人が出展する展覧会のアーティストトークを聞いて来ました。海外でも活動する、友人を含め3人のアーティストが、やはりアーティストでもある大学教員の司会によって、それぞれの活動や作品について語るというものです。最後に質疑応答の時間があったのですが、それも面白かった。

 

 

私は前から二列目に座っていたのですが、最前列の真面目そうな女の子が質問しました。彼女はそれまでのアーティストの発言を少しも漏らすまいと、びっしりノートに書き込んでいた人でした。

 

彼女の質問は、

「アーティストの人は、見る人に自分の作品をわかってもらえなくても、わからない人が悪いんだ、わかってくれる人だけわかってもらえればいい、と思っているんじゃないですか?」

との直球質問でした。

 

文章にすると嫌味な質問に聞こえるかもしれませんが、実際はそんなこともなく、素直な素朴な問いでした。彼女は見る立場で質問しているのか、あるいは作家の立場で質問しているのかわかりません。もしかしたら、自分の作品を誰も理解してくれず悩んでいるのかもしれません。

 

アーティストにとっては、答えにくい質問でしょう。回答はこうでした。

Aさん:「私は観てくれる人を見下すようなことはしない。精一杯理解してもらうよう努力する。それより、日本では一般の人々がアーティストを好き勝手やっていい身分だ、と見下す傾向があると思う。ドイツに今住んでいるが、アーティストに対する敬意のようなものを感じとても住みやすい。」

 

Bさん:「確かに自分の作品はわかりにくいと思う。自分もアーティストを目指そうと考えた時、まず作品を観ることにおいて一流になろうと思い、たくさんの作品をみた。その時、正直わからないこともあったが、とにかくそれを生み出した作家を信じようと誓った。信じることで観えてくるものもある」

 

Cさん:「観る方もある程度勉強は必要。作品はあるコンテクストの中で生まれるもので、コンテクストを理解する努力は、やはり観る方もすべきだと思う」

 

Dさん:「私はイギリスの芸術系大学で学んだ。一年生のとき学生が粘土をひねって作品をつくる授業があった。最後にそれぞれ他の学生の作品についてコメントすることになった。正直とても作品とは呼べないような代物について、私は何もコメントでできなかった。言葉の問題ではなく、全く何も思いつかなかったから。でも他の学生は驚くほど色々なコメントを述べる。驚いた。でも私も二年生になった頃には、同じような場面でもコメントできるようになった。それでわかった。一年生の時も、コメントを思いつかなかったのではなく、頭の中には何がしかあったのに、それを表現すべき方法を持っていなかったのだ。」

 

四人の発言の後で、司会者は質問者に感想を求めました。彼女は納得はしていなそうでしたが、「こんな変な質問に、アーティストの皆さんが正面から応えてくれて嬉しかった」と、絞り出すようにこたえました。

 

私は最初質問に対し、わかるとはどういうことか?、観る人はわかる必要があるのか?という疑問を感じました。アートは理解するものではなく、感じるものだから。しかし、4人はそれぞれの言葉で一生懸命回答した姿に私も感心しました。

 

特にDさんの自らの体験にもとづく回答は、創造性の可能性を大いに感じさせてくれるものでした。「わからない」のではなく、本当は「わかっている」のに、それを認識し表現することができないだけ。同じように、創造力は人間誰しも持っているもので、それが何らかの合理的理由で蓋がなされて発現できないだけ。その蓋を外すことができれば、誰もが創造性を発揮できる。アーティストとは、リスクを犯しあえて蓋を外すことに成功した人のことを指すのではないでしょうか。

 

これはアートの世界に限ったことではなく、企業組織においても言えることです。日本企業から創造性が失われているとしたら、それは社員の創造力が足りないからではなく、組織が個人に対して蓋をしているからなのです。イノベーション教育の重要性が最近よく叫ばれますが、個人にただ教育しても詮無いのです。そこを勘違いしてはいけません。

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