昨日あるFM番組で、歌謡曲の歌詞を研究している大学准教授が、90年代になって急に「自分らしく」とか「本当の自分」といった歌詞が増えたと言っていました。そういえば、たしかにオンリー1とか自分探しの旅といった言葉は、かつてはそれほど耳にしなかったように思います。自分らしさを追求しながら、空気も読まなければいけないのですから、大変です。
思春期に、生きていくことの意味を模索することは、文明社会になってからは通過儀礼のごとく自然なものとしてあり続けています。しかし、それとは少し違うニュアンスのようです。
果たして、自分らしさとか、本当の自分を見つけることなど可能なのでしょうか。そもそも、本当の自分など存在するのでしょうか。劇作家の平田オリザさんが、「自分らしくないことを悩むのではなく、自分がそこでの役割を演じ切れないことに悩むべきだ」といったこと(うろ覚えですが)を、昨日朝日新聞に書いていました。
もし、何となく自分らしくないなと感じたとすれば、そういう自分こそがまさに自分らしいのだと思います。自分らしさ追い求める姿勢は、正解が常にあって、それを見つけ出さなければならないという姿勢と重なって見えます。
そもそも正解などないし、仮にあったとしても、一体いつ誰がそれを正解だとして丸をくれるのでしょうか。
平田さんが言うように、人間はいろいろな側面を持っています。つまりいろいろなペルソナ(仮面)を使い分けているのです。今のペ
ルソナを演じ切る力こそが、生きていくために必要なスキルのように思うのです。
そう考えると、かつて、俳優は俳優らしい、政治家は政治家らしい、大学教授は大学教授らしい顔つきをしていたように思います。いったいいつの頃から、ペルソナより「自分らしさ」を追い求め、表現することに価値を置くようになったのでしょうか。「こんな僕だけど、実は財務省にいます・・・・」なんてね。
自立した個人と自分らしさは、全然関係ないとは言いませんが、同じものでは決してないでしょう。たしかパスツールだったと思いますが、こんな言葉があります。
「流れに従い、流れを制す」
流れに従うということは、ペルソナをかぶりそれに徹するということに通じます。そして、その結果自分の思うような結果を獲得する。後世に名をなす人の共通点かもしれません。振り返ってみれば、自分らしい人生だったのでしょう。

を実施。これを機会に、部門連携の機運が高まる
おられるでしょうか。私は見つけました。能の演者や囃子方には、



8世紀初頭に琉球王朝時代の宮廷で生まれた演劇です。当時琉球王国は、中国と薩摩の両方の支配下にありました。武力では独立を維持できない琉球は、外交と文化力で大国の中での独立を維持していたという、非常に興味深い国家だったのです。組踊も、おもに中国からの外交使節をもてなすための国家的事業でした。中国風でも、大和風でも独立の妨げとなるため、独自の琉球風にこだわったそうです。







