2009年4月アーカイブ

昨日あるFM番組で、歌謡曲の歌詞を研究している大学准教授が、90年代になって急に「自分らしく」とか「本当の自分」といった歌詞が増えたと言っていました。そういえば、たしかにオンリー1とか自分探しの旅といった言葉は、かつてはそれほど耳にしなかったように思います。自分らしさを追求しながら、空気も読まなければいけないのですから、大変です。

 

思春期に、生きていくことの意味を模索することは、文明社会になってからは通過儀礼のごとく自然なものとしてあり続けています。しかし、それとは少し違うニュアンスのようです。

 

果たして、自分らしさとか、本当の自分を見つけることなど可能なのでしょうか。そもそも、本当の自分など存在するのでしょうか。劇作家の平田オリザさんが、「自分らしくないことを悩むのではなく、自分がそこでの役割を演じ切れないことに悩むべきだ」といったこと(うろ覚えですが)を、昨日朝日新聞に書いていました。

 

もし、何となく自分らしくないなと感じたとすれば、そういう自分こそがまさに自分らしいのだと思います。自分らしさ追い求める姿勢は、正解が常にあって、それを見つけ出さなければならないという姿勢と重なって見えます。

 

そもそも正解などないし、仮にあったとしても、一体いつ誰がそれを正解だとして丸をくれるのでしょうか。

 

平田さんが言うように、人間はいろいろな側面を持っています。つまりいろいろなペルソナ(仮面)を使い分けているのです。今のペペルソナ.jpgルソナを演じ切る力こそが、生きていくために必要なスキルのように思うのです。

 

そう考えると、かつて、俳優は俳優らしい、政治家は政治家らしい、大学教授は大学教授らしい顔つきをしていたように思います。いったいいつの頃から、ペルソナより「自分らしさ」を追い求め、表現することに価値を置くようになったのでしょうか。「こんな僕だけど、実は財務省にいます・・・・」なんてね。

 

自立した個人と自分らしさは、全然関係ないとは言いませんが、同じものでは決してないでしょう。たしかパスツールだったと思いますが、こんな言葉があります。

「流れに従い、流れを制す」

 

流れに従うということは、ペルソナをかぶりそれに徹するということに通じます。そして、その結果自分の思うような結果を獲得する。後世に名をなす人の共通点かもしれません。振り返ってみれば、自分らしい人生だったのでしょう。

洋画家中川一政は、大好きな画家のひとりです。彼が世に出た最初は、歌人としてでした。だから、彼の随筆はとても深く面白いのです。また、書も大変味わい深く、見ていて飽きません。

 

真鶴に中川一政美術館があります。真鶴という土地も、美術館もとても素晴らしく、何度も訪れました。最初に訪れたとき、見つけたのが、「われはでくなり」の絵です。

我は木偶なり.jpg 

「でく」とは木偶であり、人形のことです。その絵に書かれている文字も、なぜか気に入りました。

 

「われはでくなり。つかはれて踊るなり」

 

 

最初は、中川のように強い意志をもって、絵を描き続けてきた画家が、木偶とか使われるとか、受け身の言葉を書くことに、違和感を覚えたのです。

 

ところが、最近私もこの言葉が好きになってきました。

 

「主体的意思を持って、判断し行動するのが立派な人間である。他人に使われるのではなく、使わなければならない。そのために、長期的ゴールを設定し、現状の自分とのギャップを埋めるべく、日夜努力すべきだ」

 

というパラダイムに、これまで無意識に縛られていたように感じます。しかし、そういうふうに考えことは、傲慢なことではないかと思うようになってきました。

 

「所詮、小さな人間が考えることなんて知れている。自分が、自分が、と思っても、より大きな世界から見れば、当たり前のことが行われ、当たり前の結果が起こっているに過ぎない。謙虚に、天に遣われるがごとく、自分の役割を粛々と演じ、踊り続ければいい。」

 

そんな、ことを中川は言いたかったのでは、と思うようになったのです。

 

先日、神保町の古本屋で、中川の画集を手に入れました。それに、一枚銅版画が附録としてついていたのですが、それが「われはでくなり」の版画だったのです。

 

今も背後から、木偶の目が「お前も木偶だ」と言いながら、私を見続けています。

キリンは日本ではガリバーですが、世界で見れば十傑にも入らないそうです。ちなみに、第一位は、アンハイザー・ブッシュ・インベブ(ベルギー)です。

しかも、世界の大手はほぼビール事業しか扱っていません。

 

ビールのように規模の経済が大きく効く事業では、これは致命的です。だから、世界の巨人たちは競ってM&Aに走っています。

 

では、キリンはどうするのでしょうか。三宅副社長によれば、別のビジネスモデルを目指すということです。三宅氏によれば、ビール事業と他の飲料事業、食品事業、医薬事業は非常にシナジーが効くそうなのです。そこで、キリンはビールでの規模追求よりも、他の事業との範囲の経済性で勝負するというのです。そのために、キリンビバレッジを子会社化したり、ワインのメルシャンを買収したりして手を打っているわけです。バリューチェーン全体で、それが期待できるそうです。

 

果たして、その成果はどうでるのでしょうか。日本市場では、規模追求による低コスト戦略よりも、シナジーを活かした高付加価値戦略が奏功しそうな気もします。しかし、それが日本以外の市場でも通用するのか。もし、通用しないとすれば携帯電話端末メーカーと同じ道を歩むことでしょう。そう、ガラパゴス化です。

 

私としては、日本がガラパゴスなのではなく、世界市場でも通用する。その方法を、世界の巨人が知らないだけなんだと思いたいです。そうだとすれば、

日本企業が世界で大きな地位を占める、新たな光が見えてくるト思うのですが、果たしてどうなるでしょうか。キリンホールディングスのこれからに注目しましょう。

昨日、キリンホールディングスの三宅副社長のお話しを伺う機会がありました。三宅さんは、3/25迄キリンビール㈱の社長でした。

 

キリンは、2001年にビール首位の座を、アサヒに明け渡しましたが、そこからどう対処したのかなどについて、大変刺激的なお話しでした。

 

    高度成長時代は、家庭で瓶ビールをケースで配達してもらう買い方が主流だった。そこで、酒販店チャネルを押えていたキリンが40%以上のシェアを16年間維持できた(選択肢は不要)

    80年代に入り、核家族が進展、共働きも増え、家庭でケース購入の習慣が薄れていった。代わりに、仕事帰りにコンビニで、缶ビールを買って帰ることが多くなった。店舗は、多くのブランドを並べたがり、顧客も気分で別ブランドを試しに買うようになった

    86年アサヒがドライビールで旋風を起こす。それまでは、各者独自ブランドで棲み分けていたが、旋風に巻き込まれ各社がドライビールを発売。結果として、ドライ市場拡大に貢献しアサヒの独り勝ちとなった。(商品戦略大失敗)

    「一番搾り」のヒットもあったが、01年首位転落。ここで、「価格」から「価値」に大きく舵を切る。

-それまでは、競合ばかり気にして、顧客を見ていなかったと反省

    募集して集まった社員111人による「ダーウィンフォーラム」で、新たなビジョン・バリューを議論し、「酒類事業の誓い」を策定。

    同時に、公正取引委員会指導の取引正常化に本気で取り組む。その結果、流通の反発を買い、さらにシェア低下

    部門を超えた5060人単位で、社長自ら社員との対話集会(丸一日)キリン のどごし.jpgを実施。これを機会に、部門連携の機運が高まる

    06年「のどごし」が、大ヒット。成功体験を思いだす。

    0913月期、ビール首位奪取!

 

50分間、企業変革のケースを読んでいる気分でした。やはり、自ら主導してきた方が話すと、説得力がまるで違います。場の力を感じました。お話しを聞きながら、早くビールが飲みたいと真剣に思った次第です。

 

なお、おもにビール事業のお話しでしたが、全社戦略についても、少しお話いただけました。それも、すごく面白かったのですが、日をあらためて。

将来のゴールを設定し、現在とのギャップを埋めるべく行動することが戦略だという考え方は、広く浸透しています。また、個人のキャリアを考える際も、ビジョンやゴールからブレークダウンすべきだという論調も多いでしょう。

 

でも、それほど将来のことを読めるのでしょうか。果たして、一年前に現在の経済状況を予測できた人がいるでしょうか。

 

経営戦略論は、大きくはポジション重視派と資源重視派に分かれます。ポジション重視は、将来有利になるポジションを読んで、そこに向かっていこうと考えます。資源重視派は、先どうなるかわからないが、どうなってもいいだけの経営資源を蓄えておこうと考えます。最初に述べたのは、ポジション重視派の考えに基づいています。

 

週間東洋経済の今週号(2009/4/25号)に、任天堂の岩田社長のインタビューが載っています。

 

「(前略)任天堂が革新的なコントローラーを生み出したから(成功した)と言って下さる方がいます。(中略)もし、大画面の薄型テレビが普及していくタイミングと合わなかったら、これほどWiiは遊んでいただけたでしょうか。(中略)薄型テレビが居間に入った。すごくいい視聴環境ができたので、家族みんながそこに集まるようになった。しかも、商品が薄くなったので、テレビの前でリモコンを振るスペースができたのですね。

 では、それを読みきってWiiを作ったかというと、そんなことはないのですよ。『大画面テレビが普及するから、これからのゲームは高精細だ』という予測はあった。ただ、絵がきれいになっただけでゲームから離れたユーザーが戻ってくるとは思えないので、任天堂はあえてその路線を行かずに別の方向に動いた。ここは理屈です。けれども、薄型テレビの普及がWiiリモコンへの支持を高めると予測できたかというと、そうではないのですよね。」

 

「企業文化の持つ意味も大きく、考え続けている人たちに囲まれていると、新人もそのDNAに自然に染まるという循環がある。任天堂はその中で動いているのではないかと思います。」

 

「(前略)努力には際限がない。一方で、結果がでるかどうかは天の時に恵まれるかどうか次第。だから、結果が出たら幸運に感謝しましょう、結果が出なかったら自分達に何が足りなかったか考えましょう。それが任天堂にこめられた意味ではないですか」

 

 

任天堂では、将来が読めるという驕った考えは持たず、ひたすら最重要な経営資源たるヒトにこだわってきたようです。謙虚に足下を見続け、ひたすら考え続けることが最大の戦略なのでしょう。 Wii.jpg

1989年、私は大学院の交換留学生として、ストックホルムにいました。当時、街には老人がいっぱいでした。でも、皆さん穏やかで、品があって何だかかっこいいなあと感じたものです。また、交通機関をはじめ公共施設は、老人や小さな子供、身体障害者といった弱者のことを考えて設計されていました。

 

そして、あれから20年。今思えば、89年当時のストックホルムと同じくらい、東京では高齢者が溢れています。以前よりは、地下鉄のエスカレーターなど、弱者対応もできてはいますが、89年のストックホルムにはまだ劣っていると思います。

 

さて、現在の東京で、かっこいいと思える老人がどれほど砧.jpgおられるでしょうか。私は見つけました。能の演者や囃子方には、80歳を超える方も大勢活躍されています。彼らの姿や立居振舞は、とてもかっこいいのです。ただ、特殊な生活をしているからという気もしていました。

 

でも、それは違いました。昨日、矢来能楽堂で皐楽会大会という、観世流のお弟子さんの発表会がありました。お弟子さんといっても、先代からの方も多く、高齢のお弟子さんもたくさん出演されました。もちろん、すごく上手な方もいれば、そうでない方もおられますが、皆さんそれなりにかっこいいのです。和服で決めているということもあるでしょう。能の発声(謡)や動き(仕舞)や衣装は、日本人を最も引き立てるものなのかもしれません。少なくとも、普段街で見かける高齢者とは別人のようでした。

 

考えてみれば、日本人が洋服を着て、洋式の生活をするようになってまだ50年くらいしか経っていないのではないでしょうか。私なんぞも、中学生まで和式便所を使っていました。

 

日本の高齢者が、かつてのストックホルムの高齢者に比べて、あまりかっこよく見えないのは、インフラに限らず、そもそも慣れない「社会」で老人になってしまったからではないでしょうか。

 

元来、東洋では、経験と知恵を持つ老人は尊敬の対象でした。ところが、戦後、経済成長を基本とした「社会」が形づくられ、そこでは、成長の妨げとなる弱者は、邪魔者となったのです。少しずつ、認識は変わりつつあるとは思いますが、まだその傾向は歴然と存在します。

 

リーマンショック後、世界は大きく変わるはずです。成長一辺倒でない、成熟した社会を目指すことになるでしょう。

 

欧米に範を求めなくても、自分の足元に古くて新しいパラダイムが埋もれている気がします。昨日見た、かっこいい老人たちの姿がそう語っているようでした。

 

企業の中で営業に関わる仕事をしていない方は、それほどいないのではないでしょうか。必ずしも営業部門でなくても、社内外問わず、相手に対して説得して購入や活用していただくことは、ビジネスの基本中の基本ですね。

 

ということは、ほとんどの方は営業される立場にも立つわけです。営業されるほう(買い手)は、何らかの目的があり、それを達成することに役立つモノや知恵を探しています。営業する方(売り手)は、それにドンピシャのモノを提示できれば、契約成立です。

 

買い手は、売り手が持つモノ(能力含め)が果たして自分にとってどれだけ役立つものなのかを想像しなければなりません。当然、売り手も買い手が欲するモノが、何なのか、そして自分が持つモノが買い手にとってどういう形で役立つかを想像しなければなりません。

 

お互い長い付き合いで、良く知っているもの同士であれば、それほど難しくないかもしれません。だから、長期的関係はビジネスにとって重要です。(取引コストが安い)

 

ところが、知ったもの同士だけであれば、新しい状況にはなかなか適応することが難しい。特に近頃はそうです。

 

そうなると、常に新しい相手とのやり取りが欠かせません。だから、想像力が重要なのです。

 

私のこれまでの経験では、優秀なビジネスパーソンは、この想像力に長けています。買い手の場合、直近の課題には有効でなくても、いずれ来るであろう将来の課題に役立つモノはないか、という眼で売り手の先にあるモノを探ろうとします。同様に売り手も、そのような先を想像しながらコミュニケーションを進めるわけです。

 

こういった、空間(今のあらゆる課題)と時間(将来の課題)の両面からの想像力を持つ人が、仕事ができる人といわれるのでしょう。もっと、もっと想像力を鍛えなければなりません。

 

先日、ある英会話教室を展開している会社の前社長とお話しする機会がありました。

 

その方曰く、「英語は読む・書く・話すことで修得するのが一般的だが、そこに見る、を加えるべきだと思う。」

 

有名なキング牧師の演説を映像で見て、アメリカや英語が好きになった人は多いのではないでしょうか。また、先日のオバマ大統領の就任演説を見て、やはり英語に関心を深めた方も多いと思います。実際に、演説を収録したDVDや本も多数出版されています。

オバマ.jpg 

このように、見ることで、学ぶきっかけをつくり、また見ることで学ぶ力は、やはり相当大きいと思います。

 

「何を言ったかよりも、誰が言ったかが大切」という言葉もあります。それは発話者の権威や権力によるということだけでなく、発話者の持つエネルギーやパワーを、コンテクストとして受け入れることの有効性を語っているのではないでしょうか。

 

スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での講演や、ランディ・パウシュの「最後の授業」は、YouTube等で世界中に配信され、大きな影響力を与えたと思います。

 

見ることに代表される五感をふる活用して、対象(講演者や講師、師匠など)が発するコンテクストを受容し、自分が持つコンテクストを擦り合わせ、そして自分のコンテクストを拡大していく、それが学習なのかもしれません。

 

知識や情報、データに代表されるコンテンツは、客観的事実かもしれませんが、それだけでは、ヒトに影響を及ぼしません。及ぼすのは、他者や社会との相互作用(インタラクション)の中で紡ぎ、意味付けしたあらたなコンテクストです。ここでのコンテクストとは、世界の観方に近いかもしれません。

 

学ぶことにおける、「本物」を見ることの重要性を、あらためて考え直してみたいと思います。

 先週、親しくさせていただいている銀座柳画廊(http://www.yanagi.com)で開催されている、岡野博さん還暦記念個展のオープンニングパーティにお邪魔してきました。

岡野博.jpg 

私は、岡野さんの絵は15年くらい前から存じていましたが、還暦というのにこれまでで一番明るく華やかな絵を描かれており、少々驚きました。

 

しかし、一般に画家は年を取るにつれて絵が明るくなるようです。若い頃は、内面の葛藤が多く、それをストレートに表現するのかもしれません。年を取ることは、いろいろなことから自由になることなのでしょうか。

 

若い画家が、明るい華やかな絵を描いたとしても、そこに何も感じないかもしれません。単なる明るい絵は、薄っぺらの絵と紙一重です。(だから、若い画家は避けるのかもしれません。)

 

これは、画家だけではないような気がします。若い頃は、他人の目を妙に気にして、あらゆる常識に縛られていた気がします。

 

下賤な話で恐縮ですが、小学校の時、学校のトイレで大きいほうの用を足すことは、子供にとって屈辱でした。大学を卒業する時、これから二度と長期の休暇は取れないと思い込み、卒業旅行で二か月も海外を旅したものです。また、最初に就職した銀行を退職するときは、世界がねじれるのではと思うくらい精神的に大変でした。

 

今思えば、勝手に自分で自分を縛っていたのでしょう。年を重ねるということは、そういうものを一枚ずつ剥がしていって、本来の自分に戻っていくことなのかもしれません。

 

絵が明るくなっていくように、日々の暮らしも明るく楽しくなっていきたいですね。

 

企業内研修の事業にかかわって早16年、近年質・両とも大きく変化しています。

 

研修のニーズは年々増えていますし、今後も増え続けるでしょう。それは、企業において変化が常態化していること、そして社員が急速にナレッジワーカー化しているからだと考えられます。経験が通用しない変化の下では、常に学習し、新しい知識を身につけ、使いこなさなければなりません。また、付加価値の源泉は、機械などの資産からヒトの知恵に急速に移りつつあります。

 

次に、研修が従来の講義型からインタラクティブ型に、急速にシフトしています。研修の目的が、外からの知識の獲得だけであれば、講義型で問題なかったのですが、現在は、もらった知識ではなく、自ら生み出した知識を身につけなければなりません。経験を踏まえて自分で生みだした知識(マイセオリー)でなければ、現場で使いこなせないからです。そのためには、他者とのインタラクションが欠かせません。

 

最後は、上記を踏まえた総コスト圧縮と費用対効果の追求です。研修の必要性が高まることは、研修対象者が増大することを意味します。そうなると、一人当たり費用を低減させねばなりません。しかし、一方でインタラクティブ型は、少人数での研修でなければ実現できません。つまり、一人当たり費用が増加してしまうのです。そのため、効果を下げずに、いかに総コストを圧縮するかという問題になりますが、これはなかなか難しい問題です。

 

定型的知識習得は、eラーニングやウェブでの映像配信に置き換えていくことでしょう。これにより、コンテンツ費用と移動関連費用の両面で削減を図ることができます。

 

しかし、インタラクティブ性を必要とするコアとなる研修はどうするのでしょうか。バーチャルな空間でインタラクティブな研修が実現できたらと思います。

セカンドライフというバーチャル空間での活動が話題になったことがありましたが、そのイメージでしょうか。受講者は、物理的には各地に散らばっているのですが、ネット上では一か所に集まって、講師も交えインタラクティブな対話ができる。技術的には、もうすぐそこに来ていると思うのですが・・・。 セカンドライフ.jpg

企業の人材開発で必ずあがるテーマが、コミュニケーション力です。職場でのコミュニケーション力が落ちている、若手社員のコミュニケーション力が低下しているなど、コミュニケーションの問題は、ほぼ全ての企業に共通するでしょう。

 

では、ここで問題となっているコミュニケーションとは、何を指すのでしょうか。2,3年前、KY(空気が読めない)という言葉が流行りました。流行るということは、「空気を読むことが重要だが、時にそれができない人がいる。それを、指摘し、読めるようにしてあげよう。」という共通認識があったのでしょう。

 

では、KYができる人はコミュニケーション力が低いのでしょうか。もちろん違いますね。コミュニケーション力の一部に、相手への配慮や感受性は含まれますが、それだけではもちろんダメです。

 

KYの優れている人はどこにいると思いますか?古い体質を残した大企業やオーナー企業の役員会に行くと、数多く観察できます。そこでは、グループシンクが蔓延っています。グループシンクとは、集団での同調性を重視するあまり、皆同じ意見に収束することです。和を乱さないことが最優先されるのです。(オーナー企業では、オーナーへの同調の形を取ります)

 

KYは、一方的に受け入れ同調するわけですから、片方向です。コミュニケーションとは、双方向のもののはずです。

「ダイアローグ 対話する組織」(中原淳/長岡健共著)によると、コミュニケーションは以下の二軸で整理できます。

ダイアローグ 対話する組織
中原 淳
4478005672

 

 

・「相互理解」を重視⇔「情報伝達」を重視

・「個人の主体性」を重視⇔「組織の結束力」を重視

 

KYやグループシンクは、「情報伝達」X「組織の結束力」ですね。今、どのコミュニケーションが問題なのか、を的確に認識した上で、人材開発の施策を考えるべきなのでしょう。

 

先日、能の演目を取り入れた琉球組踊を、その元となった能と同じ日に観る機会に恵まれました。組踊「花売の縁」と能「芦刈」です。

 

組踊とは、1組踊1.jpg8世紀初頭に琉球王朝時代の宮廷で生まれた演劇です。当時琉球王国は、中国と薩摩の両方の支配下にありました。武力では独立を維持できない琉球は、外交と文化力で大国の中での独立を維持していたという、非常に興味深い国家だったのです。組踊も、おもに中国からの外交使節をもてなすための国家的事業でした。中国風でも、大和風でも独立の妨げとなるため、独自の琉球風にこだわったそうです。

 

組踊2.jpg 

そんな時代であっても、日本の能には刺激を受けたようです。組踊の作者が、親善使節として日本を訪れた時に「芦刈 芦刈.jpg」を観たのでしょう。その大まかなストーリーと、芸尽くしというエッセンスを取り入れ創ったのが「花売りの縁」です。

 

「花売りの縁」では、衣装はさすがに南国らしい華やかさなのですが、独特の哀感のある節回しは、これまで聞いたことのないもので、大いに感銘を受けました。

 

溝口健二監督に、「お遊さま」という作品があります。この映画の原作は、谷崎潤一郎の「蘆刈」です。そのまた原典に能の「芦刈」があるのです。

 

和歌の世界に「本歌取り」というものがあります。すぐれた古歌や詩の語句、
発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧です。過去の作品のイメージに、新たなものを重ねていき、奥行きのあるイメージを創り上げていくわけです。お遊さま.jpg

 

残念ながら、私が数年前に「お遊さま」を観た時は、「芦刈」も「蘆刈」も知りませんでしたが、もし先に本歌を知っていれば、きっと映画の受け止め方も違っていたでしょう。今回、独自の歴史を持つ組踊「花売りの縁」を観たことによって、一連の作品に、さらに厚みが増したように感じます。

 

こういった、時間と空間を越えて、ひとつの流れの上に重層的に新たなものが加わっていく日本ならではのスタイルは、世界に誇るべき伝統だとあらためて思いました。

30回サントリー学芸賞を受賞した「アダム・スミス」(堂目卓生著・中公新書)を、やっと読みました。受賞しただけあって、古典をこのように現代人にとって刺激的なものとして紹介した力量はさすがです。良書は、人によって様々な読み方ができるものですが、私は特にアダム・スミスの洞察力に感銘を受けました。

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
堂目 卓生
4121019369

 

 

洞察力は、ビジネスパーソンにとって重要能力だとよく言われます。でも、洞察力とは、どのような能力なのでしょうか。私は、洞察力には二つの種類があるのではと思います。一つは見えない構造を見抜く力、もう一つは心眼といわれるものです。

 

一つ目を、仮に構造把握力と呼びましょう。コンサルタントが洞察力というときは、こちらの意味で使われます。よく氷山の例えが使われます。水面に出ている氷山は、まさに氷山の一角であり水面下には巨大な氷山が沈んでいる。その水面下の見えない氷山を見抜くことが、洞察の一つの例です。また、構造とは、多くの因果関係の束ということもできるでしょう。結果は、水面上の顔を出していますが、それらの原因は水面下で見えない。水面上の結果だけを見ても全体を見たことにならないし、そこから真実を読み取ることはできません。見えない原因と、複雑な因果関係や行動のメカニズムを読み解くことで、初めて全体像が把握できるわけです。このような洞察力は、科学に基づくものといえそうです。

 

アダム・スミスは、この力が特別秀でていたのではないかと思います。大英帝国が、七つの海に植民地を保有し、独占植民地貿易でわが世の春を謳歌していた頃、彼は異なる見方をしています。

 

本国(イギリス)は、独占貿易のための諸規制によって絶対的利益を犠牲にしている。(中略)独占貿易の目的は、自国がどれだけ絶対的に豊かになるかということではなく、他国と比べてどれだけ豊かになるかということであった。(P220

 

彼は、人間に対する深い洞察に基づいて理論を組み立てています。

 

めざす理想が、いくら崇高なものであっても、そこに至るまでの道が、あまりにも大きな苦難をともなうものであれば、人々は、統治者の計画についていくいことができないであろう。体系の人(man of system)は、理想を正しく理解さえすれば、すべての人は、理想の達成に対して、自分と同じ情熱と忍耐をもつはずであると信じて疑わない。(中略)人々がついていくことができなければ、失敗に終わるだけでなく、社会を現状よりも悪くするであろう。(P244

 

振り返ってみれば、そうだったんだと簡単に思えることも、先に見通すことは非常に難しいことは誰もが経験ありますね。それができる能力が、洞察力だと思います。

 

なお、彼の人に対する洞察は、構造把握力だけではなさそうです。二つ目の洞察、すなわち心眼については、別途考えてみたいと思います。

春です。新年度に入ったことですし、社会人教育について、経済性の面から少し考えてみましょう。

  

社会人教育といった場合は、大きくインハウスの社内研修とオープンセミナー(公開講座)に分かれます。

 

前者は、特定企業が独自に企画実施するものです。したがって、受講者も普通、業務の一環として参加します。もちろん会社にとっても必要経費です。オープンセミナーとは、社会人なら企業を問わず誰でも申し込み受講できる公開講座です。

 

では、まず社内研修から考えてみましょう。必要な経費は、もっともシンプルに考えれば外部講師への支払いのみです。かなり大胆ですが、以下を前提とします。

 ・外部講師を起用

    会場は社内会議室を使用

    受講者の交通費等は受講者の負担

    研修企画担当者の人件費や、受講者の機会費用は考慮せず

    企業は利益を出しており、税率は40

 

仮に、一人一日の研修で得られる研修効果を3万円とします。20人の受講者で計60万円です。損金になることを考慮すれば、企業としては、100万円までの支出が正当化されます。

 60万円/(140%)=100万円

 

つまり、外部講師などに100万円までなら支払うことが合理的なのです。(もちろん、外部講師を研修会社経由で依頼する場合は、研修会社への支払いとなります。)

 

一方、オープンセミナーのコストを考えてみましょう。

上記と同様の成果が期待できるプログラムだとすれば、受講料売上は、

 3万円X20人=60万円

 

これに、教室代とマーケティングコストがかかります。

    教室代 7時間で7万円(時間単価1万円として)

    マーケティング費用 6万円(標準売上の10%として)

    運営の人件費はなしとする

 ・オープン講座の受講者は、個人で費用負担する

 

 

あと、集客リスクを加味する必要があります。一クラスあたり適正人数が、20名だからといって、20名いつも集客できるわけではありません。また、人気講座だからといって、30名で実施することもできません。そこで、リスクを加味した上で、平均の集客数が、17名としましょう。

    集客リスク 3X3万円=9万円

 

そうすると、残りの金額はわずか38万円です

  60万円-(7万円+6万円+9万円)=38万円

 

全額講師料としてしまえば、オープンセミナー会社は存続できません。ここから、いくらかの利益を残さねばなりません。

 

このように見てくると、20人に対して60万円相当の同じサービスを提供する

としても、社内研修とオープンセミナーでは、そのコンテンツ(講師と教材)に充当できる金額が大きく異なることがわかります。(オープンセミナーはコンテンツが劣ると言っているわけではありません。誤解なきよう)

 

非常に極端な例ではありますが、同じ社会人教育といっても、その、エコノミクスは様々なのです。教育を提供する側も、受ける側も、こういったエコノミクスを考慮したうえで、判断していきましょう。

花筏.jpg

東京国際フォーラムで、今日から三日間開催される「アートフェア東京」のプレビューに、昨晩行ってきました。143の画廊やギャラリーが参加する、年に一回のビッグイベントです。

アートフェア東京2007_08s.jpg 

一箇所にこれだけ集まると、壮観です。また、いろいろなタイプのアート作品が一回で見られる機会は貴重です。何しろ、現代アートが強烈な自己主張をしているブースのすぐ隣で、縄文土器や埴輪が静かに展示してあったりするわけです。

 

普通は、同じ目線では決して見比べない作品を、ここでは同じ目線で見てしまいます。一貫性がないからいやだという人もいるでしょうが、私はこの雑多感が好きです。同じ空間で展示されることにより、虚飾ではなく芸術作品の本質、つまり精神性があぶりだされ、比較される気がするのです。

アートフェア東京2007_04s.jpg 

青山二郎が、こう言っていたそうです。

「人間でも陶器でも、確かに魂は見えないところに隠れているが、もし本当に存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない」

 

個人的には、現代アートも近代絵画なども好きですが、あらためて古い陶磁器の美しさに圧倒されました。16世紀の中国の盃や19世紀の朝鮮の器、17世紀の唐津焼の向付など、現代の芸術作品と比べても、全く古さを感じさせません。

 

「新しいものとは、古くならないものである」

と言ったのは、小津安二郎です。「新しい」とは、これまでにない斬新なものということではなく、いつ観ても常に観るものの心に新しい刺激や感動を与えるものだということなのでしょう。確かに小津作品や、溝口作品は今観ても全く古さを感じません。

 

そういう「新しさ」に触れることによって、心が浄化され、エネルギーをもらえる気がします。だから人間はいつの時代も、アートを追い求めるのだと思います。

謡をここ二年ほど習っています。昨晩も稽古がありました。帰り道、稽古仲間(といっても随分年長の方です)がこう言われました。

yarai-stage.jpg 

「英語を習うにも、まず文法を勉強しますよね。謡にもいくつかのルールがあるわけだから、ただ謡うだけでなく、本に書いてある記号の意味から入ればいいと思うのに、何でですかねえ?」

 

私も、かねがねそう思っているのですが、あえて今のスタイルでやってみることを試しているところもあります。

 

明治維新後、日本の教育が西洋の進んだ学問を取り入れるべく、科学的学習法も輸入してきたのでしょう。科学的とは、一言で言えば「分ける」ことです。あえて、右と左の選択肢を用意し、どちらかを選んでいくことで再現性も実現でき、広く社会に浸透させることができます。

 

文字に落とすことは、言いたいことのうち文字に落とせる部分だけを残す作業に他なりませんから、やはり分けることです。

 

しかし、東洋では、古来分けることをよしとしませんでした。禅に「不立文字」という言葉があります。禅の教えは、経典では学べません。師との会話(一休さんの「せもさん、せっぱ」です)や修行を共にすることにより伝承されていくと考えます。だから、文字は立たないのです。

 

古典芸能には、この考えがまだ残っています。いわば文化財です。なので、せっかく残った古来の「学び」をしっかり、体験してみたいと思うのです。

 

でも、つい先生に、「以前は○○だったのに、なぜ△△なんですか?何が違うのですか?」と質問したい衝動に駆られます。それに、耐えることも修行だと言い聞かせています。

今朝、電車の中でばったり、久しぶりの友人と一緒になりました。彼女は、某有名国立大学でキャリア指導(就職指導?)の責任者をしており、いろいろ苦労しているそうです。

 

「今は生損保に、誰も行きたがらない。人気がないのはわかるけど、こういう時期に入ってこそ、とは誰も考えないのよね。」

(まあー、学生はそんなもんでしょう。大人以上に目先しか見えないのだから)

 

「総合商社から内定をもらった子が、どうすれば危険が多い国に駐在しないようにできるでしょうか? とまじめに相談に来るの。絶句したわ。そもそも商社を希望するのも変だけど、取るほうも変よね」

(確かに絶句・・・。面接での演技は一流なんだろうな)

 

OGの大手新聞社社会部長に、就職活動中(決して就活とはいいません!)の学生に講演に来てもらったんだけど、学生に新聞を読んでいるか問うたところ、半分以上が読んでないほうに挙手した。OGは、本気で怒っていたわ」

(ふーん、そこまで読まないんだ。大人も読まなくなっているけど・・。)

 

「講演のレポートを書かせると、講演者の名前や肩書きや会社名を間違えて書く学生がとても多い。読売新聞を毎日新聞と書いてくる子もいるの。なんで、私がそんなことを指導しなくちゃいけないの!!」

(ここの大学の学生ですら。いわんや他大学の学生をや)

 

「最近の学生は、新聞は読まない。TVもあまり見ない。車に興味はない。海外旅行にも行かない。でも、なぜか海外でのボランティアとか、NPOとかにすごく興味があるのよね。それで、平気で学校休学して、ふらーっと、援助しに海外にいっちゃうの。いいことだとは思うけど・・・、よくわからない」

(確かに、よくわからない。でも、そういう形で、外に目が向いているのは、明るい兆候かも)

 

彼女は、ひとしきりしゃべった後、「新年度最初の会議に遅れそうー」と、慌てて電車を駆け下りていきました。

 

世の中、どこも大変です。

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