2010年4月アーカイブ

日本には世界に類を見ない「顔学会」というものがあるそうです。つまり「顔学」がある。先日の「爆笑問題の日本の教養」で初めて知りました。<?xml:namespace prefix = o />

 

確かに顔って不思議です。たとえば、俳優などが売れていくと、TVで見る顔がみるみる変わっていきます。懐かし映像で、昔の顔を見たりすると、その違いに驚きます。

 

なぜ変わるのか。原島博東大名誉教授によると、環境によって顔は変わるそうなのです。もちろん、表情が変わるとか、メイクや髪型などの装飾も影響はするのでしょうが、つくりそのものも変わるとは!?職業別の平均顔なるものを見ると、確かにそれらしい顔となっています。もともと、そういう顔の人がその職業に集まるということもあるでしょうが、環境に適合するように変化するのでしょうか。「40過ぎたら自分の顔は自分の責任」という言葉も、それを裏付けるかのようです。最近日本でも浸透しつつあるFacebookも、そういう文脈で考えれば、よくできたサービスかもしれません。

 

 

もう一つ興味深かったのは、「顔は相手との関係性によって変わる」というものです。見る人の内面が、相手の顔の見え方に影響するというのです。つまり、見えている顔とは、単なる物理的な形ではなく、見る人が造りあげた像なのです。社会構成主義みたいに、客観的な真実はなく、社会(見る人)との関係性が意味付けをするのです。

 

これは、能や文楽を観ると、確かにそう感じられます。物理能面.jpg的な能面や人形の顔は変化しません。(せいぜい、文楽人形の眼や口が開く程度)しかし、観る方が、そこに膨大な情報を注ぎこみ、豊な表情を確かに見るのです。そのような想像力を引き出すのが、能役者や人形遣いの技です。

 

 

このように考えていくと、いかに自分が見ている(と思い 文楽人形.jpgこんでいる)ものがいい加減かという思いに至ります。人は(客観的に)見ているのではなく、見たいように(主観的に)見ているのです。つまり、すべては関係性が決めている。そして、関係性に大きな影響を与えるのは、感情です。やはり、感情をうまく御す(抑えるということだけではなく)ことが、大切なのですね。

 

部下を叱れない上司や、隣にいてもメールで報告する部下の話を耳にする一方で、社内運動会や社内旅行、上司の自宅でのホームパーティに嬉々として参加する若手の話も聞きます。企業組織内のコミュニティの力はどうなってきているのでしょうか?

 

 

企業における組織の問題を考えていると、結局日本社会の問題に行きついてしまいます。つまり、日本社会におけるコミュニティの問題と、日本企業における組織の問題は、相似形にあり、どちらも大きな変革期を迎えていると言えそうなのです。広井良典千葉大教授のコミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
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を読んで、そう感じました。

 

 

日本社会は「農村型コミュニティ」であり、共同体的一体意識でつながっていると言われます。戦後、人口が農村から大量に都市に流入したのですが、都市(主に東京)に、「カイシャ」というもう一つの農村型コミュニティを成立させた。そして、儒教的価値観を否定し、「経済成長」という新たな価値原理で人々はまとまり、社会全体が一心不乱に成長を追い求めてきたわけです。しかし、前提となる経済成長は、もうほとんど望めません。その結果、社会的孤立が高まっているそうです。

 

 

企業組織も、同じような問題を抱えています。農村型コミュニティでは、企業は立ちいかなくなっています。まず外部からは、否応なくグローバル化に対応するには多様化を受け入れざるをえません。また内部では、終身雇用や年功序列が崩れる中で、たぶんに情緒的な長期安定的な組織運営は難しくなります。つまり、農村型コミュニティが維持できなくなりつつあるのです。そこに来て、すべてを癒してくれた「成長」も見込めない。

 

そんな中で、成果主義やグローバルスタンダードのかけ声のもと、社会の中でも企業の中でも格差が広がっています。日本経済すなわち企業の成長イコール個人の豊かさであった時代はすでに幕を閉じ、個人の豊かさがそれらと分断されてしまったのです。「会社の成長のために、一丸となってガンバロー!」は、もはや社員の心を動かさない。こうなると、企業は「企業成長」に替わる新たな価値原理を、社員に提示しなければならないでしょう。

 

 

たまたま今朝の日経の清華大学国情研究センターの胡主任のインタビュー記事に、こんな言葉がありました。

 

(中国は)貧富の格差は広がっており、これを解消する方法はなかなか見つからない。ただ、中国では経済のパイが膨らむ中で格差が拡大している。貧しい人たちも教育を受けて一生懸命に仕事をすれば、いつかより良い生活をおくれると信じている。一方、日本の格差拡大は収入が増えない中で起きている。悪性の格差拡大であり、解決方法がないように見える。

 

中国が今後も高成長の中で格差拡大を抑えることができるかどうかは、はなはだ疑問ですが、日本についてはその通りでしょう。(ちなみに、日本の高度成長は、成長と格差縮小を両立させた世界でも稀に見る快挙だった!)

 

 

では、「都市型コミュニティ」に、日本社会も企業も移行すべきなのでしょうか。それは可能なのでしょうか。都市型コミュニティとは、独立した個人としてつながるコミュニティーのことです。農村型が情緒でつながるのに対して、都市型では規範でつながる。欧米が都市型コミュニティを築いているのは、歴史的経緯もありますが、やはりキリスト教という強い規範があり、「神」を経由して自律した個人同士人がつながることができるからなのです。そのような規範のない日本は、どうすればいいのでしょうか。「空気」が規範になるのだけは避けなければなりません。

 

自律した個人のつながりとなるか、孤立した個人の「空気」によるまとまりとなるのか。社会の変化に敏感な若手社員は、社会的孤立から逃れるために、「カイシャ」でのつながりを求めているのかもしれません。学生の大企業志向回帰も、単に不況のためだけではない気がします。求める「つながり」が、都市型コミュニティでのそれとは異なる携帯での頻繁なメール交換に近いものでなければいいのですが・・・。

 

 

いずれにしろ、日本社会も企業組織も、あらたな「つながり」の形を創造する時期に来ているい気がします。

 

井上ひさしさんに次いで、免疫学者で能作家でもある多田富雄さんが、昨日お亡くなりになりました。

多田.jpg 

私は多田さんを「免疫の意味論」(大仏次郎賞)で最初に知ったのですが、免疫学者としての学識は言うまでもありませんが、その文章の巧みさと教養の深さに感銘を受けたものです。

4791752430免疫の意味論
青土社 1993-04

by G-Tools

 

その後いくつかのエッセーも読むようになり、多田さんは小鼓の名手で能への造詣にも並々ならぬものがあることを知りました。数点の新作能の作者でもあります。しかも、2001年に脳梗塞で倒れて半身麻痺になってから、ほとんど創られたと思います。国立能楽堂でも、何度か車いす姿の多田さんをお見かけしました。

 

また、口がきけなくなってしまったにも関わらず、創作の一方で、自らの体験にも基づき政府の医療政策へ猛烈な批判の論陣を張っていました。また、そうした自らの姿と心を「寡黙なる巨人」(小林秀雄賞) 寡黙なる巨人
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という本で主観的かつ客観的に表現されました。傑作でした。ちまたに「知識人」と呼ばれる人はあまたいますが、多田さんのような方こそ真の「知識人」だと思います。

 

倒れて以降の多田さんに、本当に大きな強い人間の姿を見るような気がしていました。

 

また巨人が逝ってしまいました。心からご冥福をお祈りいたします。

MBO(目標による管理)は、今は多くの企業で取り入れられているようです。現在のレベルに対して目標を設定する。それを上司と合意し、半年とか一年後にその進捗を双方で確認するという制度ですね。

 

非常に合理的だしわかりやすく、評価にも使用されることもあるようです。しかし、実態の運用はどうなっているのでしょうか。私の個人的経験からも、ギャップを示し、それを埋めていくといういかにも合理的なプロセスが、どうもしっくりいかないのです。

 

その気持ち悪い感は、どうやら日本人の特性に根ざしているように最近思っています。課長とMBOインタビュー中の営業マンの、心の中を想像してみましょう。

 

「そんな!今期1億円の実績を上げたからって、来期いきなり1.5億円の目標はないでしょう。今期は、三年かけて仕込んだ新規大型先が受注できたから1億いったけど、そうそうそんなネタはないよ。だいたい年初から急激に景気が冷え込んでいるのは課長も知っているじゃないか。一年後どうなるかなんて、皆目わからないよ。そんな空手形切って、目標達成できなかったらボーナスカットの口実にするつもりだろ。上から振られた目標だろうけど、部下に割り振ればそれで達成した気になっているのだから、いい気なもんだ・・。」

 

こんなことを心の中で思っていても、口では「わかりました。大変とは思いますが、精一杯がんばってみます。」なんて、言ってしまうのでしょう。

 

課長のほうも、彼の心の底はよくわかっているのです。でも、仕事だからお互いMBOインタビューの席で、正しい上司と部下を演じなければならないのです。

 

 

さて、私が日本人の特性を言ったのは、この時間に対する観念です。我々にとっては、過去は水に流すべき対象であり、未来はうつろいやすく捉えられないはかないものなのです。だから、「今」に生きるしかない。

 

加藤周一が、「日本文化における時間と空間」にこう書いています。

 

無限の直線としての時間は、分割して構造化することはできない。すべての事件は神話の神々と同じように、時間直線上で、「次々に」生まれる。それぞれの事件の現在=「今」の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の「今」の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が「今」の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは「今」だけであるから、それぞれの「今」が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が「今」に生きる。

日本文化における時間と空間 日本文化における時間と空間

by G-Tools

 

 

このような時間に対する感覚は日本人特有のものでしょう。キリスト教の国々では、時間の始めと終わりが明確で、そこから分節して現在を把握するそうです。

 

人の時間感覚は、そう簡単に変わるものではありません。未来から逆算するのではない、「今」を重視するマネジメントを考えてみることも必要かもしれません。

 

もうひとつ、日本人の特徴はまじめで過剰適応することです。一旦目標達成を約束したら、どんな手を使ってでも約束を守ろうとする傾向があります。(もちろん美徳ともいえますが)いろいろ言われていますが、成果主義失敗の原因も、こんなところにもあるのかもしれません。

 

 

日本人は(ステレオタイプですが)、きちんと対すれば決して「今」をおろそかにはしないはずです。体質に合わない合理的経営を押し進めるのも、ほどほどにしたいものです。

 

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補足しておきますが、MBO自体は、本来の育成を目的に使用することにおいては、有効な手段と思います。目標をキーにして、上司と部下がダイアログすることは、かつてのようには、なかなか一対一でダイアログする機会が取れない現状を考えれば、なおそうでしょう。問題は、安易にMBOを評価に使用することだと思います。

先週の日曜の午後、府中美術館に「国芳展」を観にいってきました。久しぶりに暖かい休日の午後、思った以上に盛況でちょっとびっくりしました。休日ということもあり、若いカップルが多く、高齢化を反映した昨今の美術展に慣れた身としては、新鮮です。通して見てみると、カップルが笑って語り合いながら観るには最適な展示内容でした。(私はそうでありませんでしたが)

 

市立美術館にしては(?)なかなか凝っており、展示やちょっとしたコーナーなどにセンスを感じさせます。作品もすべて一人のコレクターのもので、二千数百点の中から、前後期合わせ230点ほどを展示するそうです。保存状態もよく、雲母がきらきら光って見える作品もあります。こういう所有者や企画者の思いに溢れた展覧会は、それだけで心地よいです。 

 

 

さて、国芳は北斎や広重と同世代の浮世絵師です。彼らに比べてちょっとキワモノ扱いを受けてきたようですが、ここにきて人気が国芳.jpg高まってきました。国芳の面白さは、派手さとお上への反逆精神、そして滑稽さでしょうか。カタカナで言えば、スペクタル、ゴージャス、エスプリ、ユーモア、カウンターといった単語が浮かびます。猫マンガを彷彿とさせる猫を主役にした作品群は、現代人にも普通に受けると思います。

 

一方で、絵師としての技術も超一流です。構図にしろ色使いにしろ、大胆でかつ繊細です。それでいて、どこか庶民的。時代によってスタイルを変えていますが、どれも一級品です。常に新しいものを貪欲に求めて、それを取り入れていく、好奇心は生涯尽きることはなかったようです。きっと、晩年も人を驚かせたり笑わせたりすることが大好きな粋なお爺さんだったのでしょう。

 

 

国芳という浮世絵師の実力と、江戸庶民のセンスを堪能できる展覧会でした。今日から後期が始まり5/9までです。ぜひ、また行こうと思います。

これまでも何度か組織開発に関して書いてきましたが、私なりに整理してみたいと思います。

 

組織開発に関する私の問いは以下です。

1)なぜアメリカ企業では組織開発が大きなテーマになっているのか

2)なぜ日本企業では、これまで組織開発は大きなテーマになっていないのか

3)日本企業において、それが今後どうなっていくのか

 

以下に、私見を書いてみます。

1)アメリカ企業と組織開発

・個人の自律性を重視する欧米企業では、リーダーの指示により社員が決  められたタスクを遂行することが一般的だったので、レポートラインは重要だが集団の力を高めることへの関心は低かった。

    80年代日本企業の躍進を驚異と感じ、強みの源泉を探った結果、組織能力にポイントがあると分析、その開発の重要性に着目した。

    個人の自律性を重視する米企業にとって、それは容易ではなかった。しかし、日本企業に学びながら、「組織開発」の手法をシステマチックに進めていった。

 

2)日本企業と組織開発

・集団志向の強い日本企業では、組織図上で箱をつくり、その管理者とメンバーを箱に書き入れれば「組織」ができあがった。つまり、ムラと同じ人間集団すなわち組織だった。そこでは、リーダー(管理職)の権限は総じて強くはなかった。

    高度成長期をむかえ、急速に拡大する会社組織を適切に管理するために、管理職の能力向上が喫緊の課題となり、アメリカから感受性訓練(ST)が導入された。

    そもそも自律性の強いアメリカ社会での、集団相互関係強化の手法であるSTを、凝集性の強い日本企業組織に導入した結果、個人パーソナリティーの変容をもたらす即効性のある訓練との誤解を一部で生んだ。その結果、自己の殻を破るためとのロジックで、性格破壊の弊害も見られるようになった。

    その反動で、STの目的の一つである「組織開発」という言葉へのアレルギーが広がっていった。一方、経営環境の変化に乏しく、基本右肩上がりの成長を続ける日本企業では、米企業と比べ組織開発の必要性も高くはなかった。

 

3)これからどうなるか

・日本企業で、組織開発が必要なかった背景が現在急速に変化している。例えば、以下の傾向は今後さらに強まることでしょう。

 -経営環境:安定→不確実性へ

 -組織凝集性:強い→弱くなりつつある

 -構成要員の同質性:高い→低くなりつつある

 -戦略理解の必要性:あまり必要ない→組織末端まで必要

 -マネジメントサイクル:比較的長期→短期化

 -ミドルの役割:マネジメント層と現場の仲介役→プレイングマネジャーという名のプレイヤー

 -既存組織を超えた相互依存性:低い→高くなりつつある

・米企業では戦略面においても、トップダウンではない現場レベル(下レイヤー組織)からの創発を促す傾向が強まるだろう。そのためにも組織能力の強化はさらに進んでいくに違いない。

 

 

このような環境のもと、日本企業もプロアクティブに組織の効果性を高める必要に迫られているのではないでしょうか。呼び方は、職場開発でも組織開発でも何でもいいのですが、STの失敗を繰り返さないためにも、日本企業の歴史や風土に根差した活動にしなければなりません。まだまだ個人の自律性が高くないことを前提に、個人の開発と組織の開発を並行して行う難しさがあるのです。

(ここでは単純化のため、米企業と比較していますが、EUや中国、韓国企業との比較も必要ですね。)

今月9日、作家の井上ひさしさんが亡くなりました。上智大学入学早々に読んだ「モッキンポット師の後始末」が、やはり最も印象に残っていま 井上ひさし.jpgす。モッキンポット師のような神父さんに会えるかな、と期待したことを懐かしく思いだします。

 

さて、井上さんの座右の銘に以下の言葉があります。

 

「むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに」

 

それぞれ一見矛盾した言葉を並べています。いろいろな捉え方があると思いますが、「どちらかを選ぶことは容易だが、あえて両方を追い求めよ。それが人生に奥行を与え、愉快に生きることを可能にする」と言っているようにも思います。この言葉は、大好きな言葉です。

 

 

ビジネスの世界にいると、どうしても二元論に捉われてしまいがちです。従業員の満足よりも売上成長だとか、今は価値向上よりもコスト削減だとか、トレードオフを見つけて、そのどちらかを経済性を基準にして選択することが経営であり、その選択の集合体が戦略であるといったように。ちょっと極端かもしれませんが、自分の家の庭にゴミが落ちているので、人のいない時にこっそり隣家の庭に投げ捨てるというような発想に近いのではないでしょうか。

 

完全に否定するわけではありませんが、そういった二元論や要素還元論では立ち至らなくなってきているのが、特にリーマンショック以降のような気がしています。

 

 

マギル大学のミンツバーグは、2002年のインビューで要素還元論をベースにしたアメリカ的経営の限界を主張していました。

 

早晩、アメリカ的経営はその成功ゆえに限界が訪れるでしょう。(中略)マネジャーが何らかの問題に直面した時、それを各要素に分解したり、教科書を引っ張りだしたりしたところで、最善の解決策が得られるのでしょうか。(中略)より大切なことは、知恵、すなわちさまざまな知識を組み合わせたり、重ね合わせたりしながら、それを正しく活用する能力なのです。(DHBR2003年1月号)

 

 

人は、井上氏が言うような、一見矛盾したことでも両立できるだけの知恵を持っています。そういう人間の集合体である組織も、またしかりです。かつて日本企業は、そこに優位性を持っていたのではないでしょうか。それにもかかわらず、バブル崩壊以後の日本企業(及びそれを構成する私たち)は、そのことを忘れ自らの強みを否定し、短期的効率性を追い求めて、愉快に生きることを放棄してきたようにも思えるのです。

 

 

偉大な先輩の逝去に際して、あらためて立ち位置を確認した思いです。

この週末は信州諏訪の隣町に滞在し、地元ケーブル局による御柱祭の生中継を堪能していました。(朝8時ごろから夜7時ごろまで生中継。終了後、即座にすべてを再放送!)御柱祭とは、諏訪大社の4つの宮それぞれに建つ各4本の御柱(ご神木)を、申年と寅年に建て替える祭礼です。計16本の御柱を、山の上からそれぞれのお宮まで曳いていく役目は、町(集落)ごとに割り振られます。

 

六年ごとに巡ってくるお祭りですが、かつて祭礼の年には、祭り準備に資金を振り向けるため家の普請や婚礼が禁止されていたほど、気合いのはいったお祭なのです。住民総出といっても言い過ぎではないでしょう。

 

そのハイライトは、10トンを超えるような御柱を急斜面から引き落とす、「木落し」です。御柱の上には数人の氏子がまたがり、御柱もろとも   250px-ONBASHIRA.jpg滑走するのです。一歩間違えれば、巨木の下敷きになります。非常に危険なスリルに満ちた光景が展開します。それがこの週末に行われました。

 

多くの行動の合図は木遣りです。木遣りが、エネルギーを与え、またタイミング指示の役割をはたしています。TVでではありましたが、こちらにまで御柱を曳く氏子らの思いや一体感まで感じられたほどです。

 

 

命懸けの祭礼に、なぜ地域の人々はここまで燃えるのでしょうか?損得でないことだけは確かです。そこに「つながり」を実感できるからではないでしょうか。家族との、地域の人々との、諏訪の神様との、聖なる山との、そして町の歴史とのつながりです。

 

人は、本能的に「つながり」を求めています。ほんの数十年前までは「つながり」がなければ、物理的にも生きていけなかった。「つながり」の装置としてのお祭りが、地方には多数保存されています。

 

しかし、社会が便利(あるいは物質的に豊か)になり、「つながり」が「わずらわしさ」に感じられるようになった。そして、「つながり」と便利さがトレードオフとなり、便利さを選んだ。これは、それほど昔のことではありません。私が社会人になった頃は、相部屋の社員寮は普通でしたが、その後個室が当たり前に急速に変わりました。

 

このままいくのかと思いきや、また時代はひと回りしだしているようです。一時は絶滅に向かうかと思われた社員寮が、最近また増えだしたそうです。社内旅行や社員運動会もしかり。若い世代を中心に「つながり」を「便利さ」よりも重視する傾向が見られるようなのです。各地のお祭りも人気です。

 

 

この傾向をどう見るべきなのでしょうか?人間が本来持つ「つながり」の再評価は良いことでしょう。しかし、本来は「自律した個人」による「つながり」を目指すべきだったのに、依然「あいまいな私」による「つながり」だとしたら、単なる先祖返りではないでしょうか。会社につながりを求めるのも、昔と同じなのでしょうか。

 

SNSもツイッターも「つながり」を促す仕組みといわれていますが、その「つながり」は御柱祭に見られたような「つながり」と本質的に同じものなのでしょうか。もし、異なるものだとすれば、どのように質的に変わったのでしょうか?

 

古代から続く御柱祭の興奮を味わいながら、そんなことを考えてしましました。

 

先日、ある美術館で絵を見ていました。あるとても有名な絵の前で、ご婦人がこういいました。「あっ、この絵、先週TV番組で紹介されていた。」また別の絵の前で子供がこう言いました。「この絵、教科書にあった。」

 

街で、TVで見たことのある芸能人を見かけたら、大抵の人はこういいます。「あの人、この前TVで出ていた人だ。」

 

これらは、思考の特徴を現わしています。物理学者のデヴィッド・ボームは、それを「断片化」といいました。思考の特徴の一つは、何かを他の多くのものと分離したがることだそうです。展覧会の多くの作品群から、知っている作品を分離させるはたらきです。もちろん、知っているかどうかだけでなく、他の基準で分離することもあるでしょう。たとえば、「これは最晩年の作品だから、他とは色調が全く異なる」といった分離もあります。ただ、そんな込み入った分離より、知っているかどうかで分離するほうが一般的でしょう。分離することによって、人は安心できます。

 

これだけなら大した問題はないでしょうが、ボームによればさらに進展があります。ひとは、分離し区別したものに、盲目的に重要性を与えてしまうというのです。知っている作品、見たことのある芸能人が、他の多くよりも重要、あるいは優れていると認識してしまうのです。

 

もちろん、番組で取り上げる有名作品は、きっと素晴らしい作品なのでしょう。だからと言って、それがその他の作品より優れているという証拠にはなりえません。その認識によって、自分にとってさらに優れた(と感じたかもしれない)作品を隠してしまうことにもなりかねません。そこに問題があるのです。

 

 

一度、この認識が出来上がるとなかなかそれを覆すことができません。特に、その思考プロセスが集団で行われると、さらに強固なものになります。

 

思考が分離を生み、分離が崇拝/防御を生み、防御が排斥を生むことにもなります。それが組織運営に絡んでくるとやっかいです。「縄張り意識」や「主導権争い」「政治闘争」となってしまいかもしれません。これは、本質から起きた現象ではなく、あくまで思考が創りだしたものです。第二次世界大戦下のナチス・ドイツや大日本帝国もそうなのかもしれません。

 

また、思考はプレッシャーに弱いため、強いプレッシャーのもとでは適切な思考ができず、悪い方ばかりを考え防御的になってしまいます。それは、(生存)本能にそうプログラムされているからのでしょう。

 

 

このように、「思考」とは恐ろしい面や、いい加減な面も持っているのです。そのことを十分認識して、「思考」していきたいものです。

「うちの会社は、戦略がないからだめなんだ。」というぼやきは、居酒屋に行けば必ずといっていいほど耳にしますよね。

 

では、その人が言っている戦略とは何を指しているのでしょうか?戦略がないと、どうなってしまうからだめなのでしょうか?

 

戦略という言葉ほど、頻繁に使われるにも関わらず、その定義があいまいな言葉もないように思います。考えてみれば、不思議な言葉です。

 

元海上自衛隊幹部だった方から、こんな話を伺いました。

 

「もう大分前のことになるが、アメリカ海軍の将校が自衛隊をおとずれた際、日本で戦略を教えている大学はいくつくらいあるのかと質問された。日本には戦略を教える大学などないと答えると、随分驚かれた。今になって思えば、確かに不思議だ。日本には、戦略は必要ないということなのだろう。」

 

日本から戦略の必要性をなくさせた(なくしてくれた)のは、アメリカといえるでしょうから、皮肉な話でもあります。

 

さて、私自身、経営戦略を講師として教えたこともありますが、戦略の定義を明確に言えないもどかしさがありました。ちょっときっかけがあり、ここのところ経営戦略について本を読み返したり、考えたりしています。

 

 

最初の居酒屋の話に戻りますが、「うちの会社には戦略がない」といったサラリーマンが言いたいことは何でしょうか?

    一貫した方針がない

    方向性やその先のビジョンがない

    他社との違い、ユニークさがない

    どこで/何で勝負するのか見えない

とまあ、こんなことをまとめて「戦略がない」の一言で表現しているような気がします。

 

では、戦略がないとどうなってしまうのか?

    判断基準が定まらず、どう動いていいか自分では決められない

    会社がどこに行ってしまうのか、この先ずっと存続できるのか不安

社員にとっては、この二点が気になるのではないでしょうか。

 

ところで、戦略は、意図的につくれるものなのでしょうか?そうだとして、誰がつくるのでしょうか?どうやって?

 

当たり前だ、戦略は社長や経営企画部門が知恵を絞って策定するのだ、とおっしゃるかもしれません。

 

先日、スズキがインドで自動車生産年間100万台を達成しました。82年の参入から28年経過しています。大変な先見の明であり、素晴らしい戦略的判断だったといえるでしょう。どれだけ緻密な分析と予測に基づき参入を決めたのでしょうか。鈴木社長の弁、ちょっと長いけど引用します。

スズキ.jpg 

 1982年4月、インド政府とレター・オブ・インテント(基本合意書)を交わすために初めて訪れるまでは、インドという国には、大げさに言うと「壺から出てきたコブラが音楽にあわせて踊る蛇使い」程度のイメージしか持っていませんでした。

 実際に飛行機を降り、街に入ると、東京の銀座のような中心街に牛がのっそのっそ闊歩している。想像以上の街の姿に「おいおい、本当に大丈夫かなあ」と、不安を覚えたものです。

 そもそも、インド進出を決めた時も、成功する確証なんてありませんでした。当時、大手メーカーさんはどんどん欧米に進出する中で、軽自動車が主力のスズキは出ることができず。悔しくて、「どこかで一番になりたい」との思いを強く持っていた時に、舞い込んだインド政府との合弁事業の話に積極的に乗ったというのが正直なところです。

 当時、インドはアメリカにもソ連にも距離を置いていて政治的にバランスが取れた国で、国土が広く、人口が多い。おぼろげですが、市場として成長するのだろうという感覚はありました。ただ、どれも確たる証拠にはなりませんでした。

 しかし実際にインディラ・ガンジー首相とお会いすると、なぜだか体の奥から「この無の状態からやってやろう」というファイトが、むくむくとわいてきたのです。若い時にアメリカ駐在で孤軍奮闘しましたが、その時の100倍、200倍の苦労が待っていても、やり抜こうと覚悟した思いでした。 (日経Web刊より)

 

「戦略」のイメージとは、程遠いと思いませんか?あらためて、経営戦略って何なんでしょうか?

いよいよアップルのiPadがアメリカで発売されました。これまでキンドルを中心としてきた電子書籍市場は、どう変わっていくのでしょうか。

 

新たな市場を開発するには、プラットフォームの確立がポイントになります。今朝の日経にこんな記事がありました。

 

電子書籍の拡販を狙うアマゾンはiPadでキンドルの電子書籍を読むためのソフトを無料配布している。パソコンと連携し、購入した電子書籍を途中から別の機器で読むことも可能だ。

 一方、iブックス対応の電子書籍はiPad専用。iPad購入者の大半は映画やゲームに使い、書籍を主用途とみていないためで、アップルはiPadへのアマゾンのソフトの搭載を認めるが、それもあくまでiPadの販売を上乗せするのが目的だ。

 

 

iPadでは、アマゾンのキンドルで購入したコンテンツ(電子書籍)が読めるが、キンドルではアップルのiBookで購入したコンテンツは読めないということになります。つまり、アップルはハードとしてのiPadを魅力的にすることを最優先し、コンテンツ販売はその手段とみなしている。一方、アマゾンは、ハードとしてのキンドルより、電子書籍コンテンツ販売を最優先しているとみることができそうです。双方のオリジンを考えれば、当然ともいえる棲み分けとなりそうです。

 

かつてのデファクト競争のような、排他的動きはしていません。アップルとアマゾンが、それぞれの強みを活かしながら、連動して電子書籍市場を開発していくという構図です。現在は、両社がリードして電子書籍の生態系づくりが始まったところといえるでしょう。

 

そうなると、関連する他のプレイヤーがどう関わっていくかが気になるところですね。まず、出版社、書店、そしてメディア業界。あと肝心なのは、著者の関わりです。

 

キンドルでは、印税7割でコンテンツが販売できるそうです。知名度の高い著者にとって、出版社は不要になるかもしれません。個人で編集者や校正担当を雇い、ネットで販売すればよくなるのですから。

 

しかし、本当の編集機能や目利き機能は、コンテンツが増えれば増えるほど必要性が高まります。それは、現在乱立する書評ブログ/サイトとは別の形態になるような気がします。では、どんな形になるのでしょうか?

 

いずれにしろ、新しい生態系が発生し進化を遂げるプロセスに立ち合えることは、素晴らしいことです。これからが楽しみです。

 

昨年政界を引退した河野洋平氏が、こんなことを書いていました。

 

「仲間と新自由クラブを創設するため自民党を脱党する時、脱党の理由のひとつでもある田中角栄氏に挨拶にいった。田中氏は、脱党に理解を示した上で、こうアドバイスしてくれた。『いいか、とにかくできるだけ仲間と一緒に飯を食え。それさえしていれば大丈夫だ。』その数年後、同志の西岡氏が脱党したとき、あの時の田中氏のアドバイスの意味を痛感することになった。」

 

 

一緒に飯を食うことに、一体どんな意味があるのでしょうか。結党の同志たちですから、一緒に議論する機会はいくらでもあったでしょう。でも、議論の場だけではだめだということではないでしょうか。食事をともにするということは、議題も議長もない状態で無目的に対話(ダイアログ)をすることなのだと思います。田中氏は、ダイアログすることの価値を深く理解していた。

 

ダイアログは、意見を交わすことではなく、意見の根底にある前提、さらにその根っこにある思考プロセスや価値観をさらすことです。必ずしも、合意を求めるようなことではありません。集団で理解しあい、時間を経て結果としてそれらがすり合い共有するプロセスということもできます。

 

ましてや、食べるという行為はもっとも本能的な行為です。人間は、そういうときは「思考」というフィルターが外れやすいものです。その回数が増えるにしたがって、さらにその効果は高まることでしょう。そうして、集団で意味の共有が図られ、やがて「文化」にまでなっていく。そうなったら、強い組織になる。

 

 

政治の世界で天才的な勘と実行力を示した田中氏にとって、ダイアログは必須の技術だったのかもしれません。それを、政敵ともいえる河野氏にアドバイスするとは、やはり器が大きな人だったのですね。

 

そういえば、キヤノンでは、役員は毎朝8時に集まって雑談をすることが習慣になっていると聞いたことがあります。キヤノンの強さも、この早朝ダイアログにあるかもしれません。

世の中的には、本日から新年度です。今日入社した新入社員は1987年生まれが大半です。彼らは、バブル崩壊後の「失われたXX年」に人生を送ってきた人たちです。それまでの世代とは、大きく価値観が異なるのは必然なのでしょう。

 

 

ところで、昨年9月発売された三浦展著「シンプル族の反乱」を今ごろ読みました。漠然と感じてきたことを、データも使いながら示されると、やはり納得感がありました。

 シンプル族の反乱
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百貨店の大敗もユニクロや無印良品の好調も、単なる不景気のためでなく構造的なものです。本書では、そこまで言及していませんが、戦後一貫して続いてきたアメリカ絶対主義から、日本的価値観への回帰が起きていることが原因だと思います。「消費することが嬉しい」から「消費することが恥ずかしい」への一大パラダイムシフトが現在起きているのです。その変化は、バブル崩壊以降徐々に起きていますが、ここにきて大きな潮目が変わってきました。そのきっかけは、2008年のリーマンショックだったのは間違いないでしょう。

 

しかし、考えてみればアメリカがリードしてきた大量消費社会は、高度成長以降のわずか40年ちょっとのものです。その時代の空気をたっぷり吸った世代が、日本社会の中核だったわけですが、当然年を経るにしたがって主役は交代しつつあります。(ただし、政治の世界では、高齢者ほど投票率が高いため、社会の変化よりずっと遅れるでしょう)

 

 

さて、これからの日本社会の理想は、(極端な言い方ですが)江戸時代に戻ることなのかもしれません。成長より成熟を志向するということです。「もったいない」に代表されるように、自然と協調し、ホンモノを長く使うことを大切にし、身の丈にあった生活をおくる。人とつながることに価値をおき、(物質ではなく)内面の豊かさを求める、そんなくらしでしょうか。

 

資本主義が人間の物質的欲望をエンジンとして発展してきたのに対して、その欲望を否定し、「足ることを知る」ことに価値を置くわけですから、これまでの資本主義のロジックが通用しないのは明らかです。

 

そうなると、そういった国内市場をベースにした日本企業は立ち行かなくなるのではという懸念があるでしょう。しかし、そうでしょうか。私は楽観的です。

 

現在日本で起きているパラダイム転換は、地球温暖化対策の流れも受けて、世界的なトレンドになりつつあると考えます。そのトレンドを半歩先に日本は経験しているわけです。(公害問題と同じですね)ましてや、そのトレンドとは、かつての日本の得意技です。このようなある意味な特殊ですが肥沃な国内市場で鍛えられた日本企業は、グローバルでも成功する可能性を秘めています。無印良品やユニクロが、海外でも評価されつつあるのは、その萌芽だと思います。

 

あとは、日本企業がいかにパラダイム転換を認識し、それに対応した戦略を大胆に採ることができるか、その能力にかかっているのです。

 

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