2017年9月アーカイブ

ここのところ、「働き方改革」のスローガンのもとに、長時間労働がやり玉に挙げられています。電通の事件のインパクトが大きいのでしょう。法定時間を超える労働を、会社が指示してさせたのであれば明らかに犯罪です。しかし、社員が自主的に長時間労働をした場合も、会社が罰せられるべきなのでしょうか。

 

社員が自主的に長時間労働をするには、いくつかの理由が考えられます。

1)上司から与えられた成果を決められた期限までに出すには、長時間労働せざるを得ない

2)仕事に夢中になり、つい長時間労働してしまった

3)なんとなく早く帰りづらい雰囲気。早く帰るとやる気がないと思われてしまいそう。

4)早く帰ってもつまらないから会社にいる

 

1)のケースでは、会社や上司の配慮が必要です。まさにマネジメントの問題であり、会社の問題です。2)のケースでは、社員に好きにさせるべきだと私は考えます。社員が成長するとてもいい機会ですから。4)は論外。3)のケースが最も多いのではないでしょうか。この状態を解消するために、22時に全館消灯したりする。

 

では、なぜ本当は帰りたいのに帰れないのでしょうか。今どき、労働時間で部下のやる気を測り、それを評価に結び付ける管理職がいるとは思えません。

 

部下はこう考えます。「上司は私が早く帰るのを見て、私は仕事に対する意欲が低いから早く帰ると考えるに違いない。意欲がないから帰るのではないが、そうは考えないだろう。だったら、意欲がないと思われたくないから、まだ会社にいよう。先輩たちも遅くまで仕事を頑張っているのだし」

 

先輩たちもきっとこの部下と同じことを考えているに違いない。上司も同じ考えで帰らないかもしれません。つまり、誰も早く考えることと意欲がないことは同じではないとわかってながら、結果として全員が他の人はそう考えているに違いないと想像し皆帰らない。

 

このように相手の行動から「相手の意図」を推し量る性質が人間にはあるために起きる認知の間違いを、「帰属の基本的エラー」といいます。こういった認知の間違いで日本人の集団主義が形成されているとも言えそうです。

 

 

新入社員のAさんが、定時に真っ先に帰ったとします。五年目のBさんは羨ましいとは思うものの、Aさんは意欲がないとは思っていません。もしかしたら、明日は自分が定時に帰ろうと思うかもしれません。しかし、Bさんは皮肉交じりに他の社員に言います。「A君はいいよな。新人のうちくらいしか定時には帰れないのだから・・・。」

 

そう言っておかなければ、今度は他の人から自分が困ったやつだと思われてしまうのではと、漠然と怖れるからです。自分は早く帰ることはいいことだと思っているが、他の社員はそうは思っていないと思うから。

 

仮にBさんがAさんから、早く帰ってもいいかとの相談を受けたとします。Bさんは、こういうでしょう。「気にすることはないよ。俺だって課長に仕事より大事なことがありますって啖呵をきって、早く帰ったこともあるよ。」多分Bさん以外であっても同じように応えるでしょう。こうして、誰も望んでいない長時間労働の職場が出来上がります。

 

これは、日本の職場が閉鎖社会だから起きるのだと思います。閉鎖社会では、お互いに無意識に監視しあってしまうため「王様は裸だ」と誰も言えないのです。そう言えるのは、その社会に属していない「子供」だけです。そう考えれば、働き方改革でまずやらなければならないのは、従業員の多様性と流動性を高めることだと考えます。

 

では、なぜそもそも皆が「早く帰る=意欲がない」との前提を積極的ではないとはいえ共有しているのでしょうか。(これは勤勉さを貴ぶ性向とは異なると思います。)この集団的主観ともいえるものに対して、それに逆らうと損するので、とりあえずそれに従っておこうという判断するのでしょう。

 

かつて日本社会において、国をあげて自分を殺してまで労働することが促進された時代がありました。第二次世界大戦中です。いうまでもなく戦中は兵器を増産し戦争に勝つために、全国民が動員されたものです。そしてそこでは精神論が幅を利かす。(高度成長期もその傾向があったかもしれませんが、私はよくわかりません。戦中の記憶を前向きに活用したのかもしれません)いずれにしろ、戦中の記憶が今にまで影響しているとすれば、ちょっと恐ろしい気もします。

 

 我々日本人は、すぐに対症療法に走りがちです。現象が起きる原因、関係性を冷静に把握し、本質的解決策を実行する体質に、そろそろ変わりたいものです。

金沢訪問

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先週の土日で、金沢に遊びにいってきました。初めての訪問でしたが、予想以上に面白かったです。

 

金沢21世紀美術館を訪ねることが主目的でした。約10年前に開館した話題の現代美術専門の美術館です。街に開かれた美術館としても有名です。建築自体もそのコンセプトを体現しており、美術館特有の重厚さと正反対で、今にも空中に浮かんでしまいそうな白いUFOのような形。周囲は360度透明なガラス張り、外から中がよく見えます。

 

驚いたのは客の多さと客層です。いくら連休とはいえ、特別な企画展をやっているわけでもないのに、入場に30分以上並びました。並んでいるお客さんは、ほとんどが20代から30代くらいの「若者」か、小さな子供のいる家族連れです。東京の美術館では、いつ行っても団塊世代の集団に圧倒されるのですが、全く異なる雰囲気。しかも、私たちのような観光客とおぼしき人は多くはなく、ほとんどが地元の人たちのようです。地元の手近な遊園地というイメージでしょうか。

 

そもそも伝統工芸のイメージが強い金沢で、現代美術がここまで浸透していることがすごいことです。開館当初は、地元工芸家との間で軋轢もあったようです。現代美術館であれば、自分たち「現代」に活動でしている工芸作家の作品を展示できるとの期待もあったようで、思い違いもあったとか。しかし、あえて伝統工芸の街に現代美術館を建てると決断した、当時の市長の洞察力は大したものだと思います。沈滞する工芸への刺激も期待してのことだったのでしょう。美術館の努力もあり、今では工芸作家との連携も図られつつあるようです。

 

たまたま乗ったタクシーの運転手はこう言っていました。「21世紀美術館には、作品はあんまりないよ。古いいいものをも見たいなら、近くの県立美術館に行くといい。それから、すぐ隣の能楽博物館にも是非寄ってみて。こっちには全然客が来ないと、そこの職員が嘆いていたから。」

 

やはり地元では21世紀美術館をよく思っていない一定の層がいるみたい。また、私が能には興味があると言うと、

「そう、私はこう見えて能楽師なんですよ。」と言うではないか。なんで能楽師が運転手をやっているかはあえて聞きませんでしたが、文化レベルの高い街なんだと感心しました。


ところで、土曜の昼前に金沢駅についてすぐ、バスで「ひがし茶屋街」を訪れました。金沢の観光写真では必ず使われる街です。小さなエリアに多くの観光客が集中しテーマパークのようでしたが、ちょっと路地を入るとお茶屋さんらしき古い建物があり風情があります。壁に「金沢おどり」のポスターが貼られていました。見ると今日の13時と16時にも公演があるじゃないですか。91518日の四日間が会期です。金沢おどりとは、ひがし・にし・主計町の3茶屋街合同で、芸子さんが普段磨いている芸を大きなホールで一般の方にも披露する機会です。数年前京都祇園で「都おどり」を見たこともあって、急遽16時の回を観にいくことにしました。

 

バス渋滞のため、会場の県立音楽堂邦楽ホールには10分遅れで到着。入口で一番安い自由席を購入しようとしたところ、同じ値段指定席にしてくれました。いい席に空席が多いとみっともないからということで。でも、入ってみるとほぼ9割方は埋まっています。

 

失礼ながら、この規模の地方都市でどの程度の芸子さんがいるのかと思っていたのですが、驚きました。皆、芸のレベルが高い。都おどりでは、一部学芸会かという出演者もいましたが、金沢では全く違いました。これだけの芸を磨いている芸子さんが多数いるということは、それだけそれにお金を払う旦那衆がいるということです。

 

途中の休憩時には、ロビーが地元名士たちの社交場となっていました。着物の男女も多く、皆知り合いみたいです。カジュアルな恰好の私たちは、場違いだったことは否めません。でも、そこにいる人々を観察するだけで興味深い。地元に花街が根付いていることが見て取れます。金沢では、経済に占める東京などの大資本の割合が比較的低く、地元資本が強いそうです。老舗の商店やニッチで強い中小企業が元気で、経済が金沢の中でほぼ完結できるらしい。江戸時代の藩はどこもきっとそうだったのでしょうが、金沢はまだその気風が残っているのでしょう。

 

古いものを大事にしつつ、現代美術のような新しいものを取りいれる(軋轢はあっても)寛容さも持っている。決して外に向けてのショーケースではなく、そこで実際に生活も経済も完結できる。京都とはまた少し異なる優れたモデルだと思います。ちなみに金沢の人は「小京都」と言われることを嫌うそうです。「あちらは公家ですが、うちは武家ですから」と。

 

料理もおいしかったですし、蟹の美味しいシーズンにまた行ってみたいです。

遊びを遊ぶ

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9/10の朝日新聞朝刊「折々の言葉」にこうありました。

 

(前略)昔の児戯には二つの特徴があった。自然を相手に「ゆっくりと、のびやかに」遊ぶこと。勝ち負けを競うものではないこと。遊びは「合理性を拒否する」ものなのに、余暇として計画したりすれば、遊びを再び合理性の中に閉じ込めることになる(後略)(安田武「遊びの論」から)

 

今の子供がどうなのかは知りませんが、大人についても言えることなのかもしれません。

 

先日、文楽のある三味線弾きの方に伺ったのですが、最近の太夫は以前の太夫に比べて少しでも上を目指そうという意識が欠けているそうで、それは自分が「できている」と思い込んでいるからなのだとか。文楽という狭い世界にいるとどうしても視野が狭くなり、自分の非力さが感じられなくなってしまうともおっしゃっていました。

 

その方の趣味は登山です。山という大自然の中では、人間は非力でちっぽけな存在。それを実感できることが、芸の助けになっているそうです。

 

仕事は、最終的には成果で評価されます。勝ち負けや損得から逃れることは難しいでしょう。大人にとっての遊びとは、意識せずともそれの解毒剤なのかもしれません。そうしてバランスをとっている。

 

将棋や囲碁、あるいは麻雀、競馬競輪といった「遊び」は勝ち負けがはっきりし、損得も明快です。面白いのかもしれませんが、私はどうも魅力をあまり感じないのは、漠然と遊びに勝ち負けの要素を入れたくないと思っているからなのかもしれません。

 

他者に挑む遊びよりも、自分と対峙する遊びの方が好きです。例えば習っている謡と仕舞は、あくまで自分の上達が目標で、過去の自分より一歩でも成長が感じられたらそれで嬉しい。美術作品や舞台を観るのも、作家と対峙するなんて大それたことは考えません。あくまで、自分がどう感じるかを楽しむのです。

 

ただ、「保有」という概念が加わると、少し趣が変わる気がします。骨董を買うということから、値段を納得するプロセスを排除することはできません。そうすると、どうしても勝ち負け、損得の要素が混じります。

 

私の場合は投資の観点はほぼないので、いくらで売れるからとは考えませんが、自分にとっての価値を判断する必要があります。自分自身の「美意識」を、そのモノの値段という尺度に変換することを強いられるわけです。こんなに美しいモノだから、これだけの値段は適切だろう、と。その際に比較対照するものはほとんどないですし、あってもあまり役に立ちません。世間の評価や相場のようなものもありますが、世間と私の美意識は異なってしかるべきです。こうなると、どれだけ自分を信じられるかであり、結局自分自身との対峙ということになります。損得の要素も多少加味しながらではありますが、合理性で測ったらとても買うことなどできません。合理性と親和性の高い機能性は限りなくゼロ。複雑です。(昔の経営者に骨董の蒐集家が多かったのは、骨董も経営もどちらも最後は「美意識」によって判断するものだったからなのかもしれません)

 

「遊びを」合理性の中に閉じ込めてはいけない、というのもよくわかります。パック旅行は観光ではあっても「遊び」ではありません。「遊び」にとって偶然性は必要条件だからです。偶然性や不確実性を楽しみ、そこに合理性より大きな価値を見出すことが「遊び」なのだと思います。

 

世間的には役に立たないこと、合理的ではないことにうつつを抜かすということは、とても人間的なことでありAIには絶対真似できない。そういえば、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という言葉がありました。人間は、遊ぶから人間なのだともいえます。マクロでいえば、日本はプライオリティを「生産すること・貯めること」から「遊ぶこと・費うこと」に変換する時期なのだと思います。「どう稼ぐか」よりも「どう(お金と時間を)費うか」に、人間が現れる時代なのです。

ジャコメッティ展

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開催期間が終わるほとんど直前、新国立美術館でジャコメッティ展を観てきました。とても興味深く、もっと早く行っておけばと後悔。(作品は、こちらのサイトで鑑賞下さい)


ジャコメッティといえば細長い人の彫像で有名です。しかし、あのスタイルに至るプロセスが本展覧会では垣間見ることができます。戦前の作品は、恐ろしく小さいものでした。マッチ棒ほどにまで。この時代のことを、彼はこう語っています。

 

「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」

 

記憶に基づいて制作するのであれば、いくらでも拡大して細かい部分も造りこむことができそうな気がします。にも関わらず、極小化するのはなぜか。なぜ小さくなければ現実に似ないのか。私の想像ですが、記憶の中の人物の姿は全体に焦点が当たった状態で合成されている気がします。一方、実際に目で見る人物の姿は、どこか一点に焦点が当たりそこにピントが合っているので、他の部分はぼんやり見えている。

 

そして、全体一様にピントが合っている記憶の中の姿を、記憶の外すなわちこの世界に彫像で表現しようとすると、ピントが合う大きさすなわち極小サイズでない一貫しない、と彼は認識してしまうのではないでしょうか。だから造りこめばこめるほど極小になってしまう。

 

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なんとか大きな作品をつくろうと決めた彼は、1mの大きさという制約を自ら設け制作を始めた

そうで

す。そうすると、今度はどんどん細くなっていった。彼の目は人物のコアな部分に集中し、それは顔とか足といったパーツではなく、縦方向の構造だったのではないか。そこに人間の本質が現れるとの直観でしょ

うか。

 

さらに、1950年頃から一つの台座に複数の人物が立つ群像作品が増えていきました。ある場における複数人間の運動と関係性に関心があったのでしょうね。関係性と動きを最もシャープに表現するのには、リアルな肉体像はかえって邪魔だったんだと思います。

 

1951年制作の「犬」。これは、彼独自の「細さ」が雄弁に対象の性格や感

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情を語ることを実現して見せた傑作だと思います。ジャン・ジュネは、「孤独の最高の理想化」と称したそうですが、全く同感です。「孤独」という概念を、これ以上に雄弁かつ崇高に語る「形」を見たことがありません。概念と形象との一致の最高到達点でしょう。

 

さて、大きな彫像に取り組んだ彼は、記憶ではなくモデルを見ながら制作するようにします。そうなると、今度は「見えるとおりに捉える」ことに固執します。かといって、具象の世界に行くのではありません。具象とは、「誰もがそのように見えているはず」の形を表現するものだと言えるでしょう。いわば写真のように。しかし、人間は写真のように見えるわけではありません。能面が表情豊かに見えるように。

 

彼の人物デッサンが多数展示されていますが、人物の鼻と目を執拗に何度も何度も書き込んでいます。描いては消し、消しては描いている。モデルはその間、微塵も動くことを禁じられていた。だから普通の人にモデルは務まらなかった。(数少ないモデルの一人が矢内原伊作でした)

ジャコメッティの視点は、鼻と両目で結ばれた狭いエリアに集中していたのではないでしょうか。そして、そこを起点にして人物像を捉えていった。

 

しかし、残念ながら「見えるとおりに捉え」作品にすることは不可能です。なぜなら、「見える」形はその瞬間のもので、次の瞬間にはまた別のものが見えるからです。見える形は時間とともに姿を変えてしまう。そう、三次元ではなく四次元です。四次元を三次元に固定化するのは不可能なのです。彼はそれを百も承知でそれを追求していった。

 

1956年に、10点の女性立像によって構成される「ベネチアの女」というシリーズを制作します。解説によると、まず一体を制作しそれを石膏型に取る。石膏型を外した後、先程の作品にさらに手を加えて完成させる。その作品をまた石膏型に取り、再びまた手を加えるということを10回繰り返したそうです。その上で残った10体の石膏型にブロンズを流し込み、10体のブロンズ像が完成する。10体並んだ立像は、一体の彫像の「見えた姿」の変化の軌跡という時間をも取り込んだ作品と言えるのではないでしょうか。

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これも、「見えるとおりを捉える」苦闘の結果でしょう。

 

1960年制作の「大きな女性立像Ⅱ」には圧倒されました。2.76mもあります。最後の到達点。一見して、法隆寺の百済観音像(2.11m)を思い出しました。どちらにも共通するのは、人間を超越した「気高さ」。ジャコメッティも晩年には、記憶の中のイメージを実物大以上の大きさで表現できるところにまで到達したのです。

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