2012年9月アーカイブ

これまで長年染み付いてきた前提を変えることは難しいことです。一方、無理して変えたからといって、うまくいくとは限りません。まず後者の例から。

 

シャープやパナソニックの現在の苦境は、TV向け液晶への過剰投資が大きな原因でしょう。しかし思い返してみれば、90年代から00年代にかけてまことしやかに流れた言説は、「オーナー系が多い韓国企業に比べて、サラリーマン社長の日本企業では大胆な投資の意思決定ができない。だから半導体などで負けたのだ」というものです。それを意識したのかどうかわかりませんが、両社はそれまででは考えられないほどの投資を液晶やTVに行い、そして見事失敗しました。表面だけ真似したところで、本質的な解決にはならない事例のように思えてなりません。

 

しかし、言うまでもありませんが、変化の激しい現在、前提を変えることはますます重要です。尖閣諸島問題で日中関係ががたがたしていますが、これも前提が変わったことが大きく影響していると思います。

 

話はちょっと大きくなりますが、戦後の日本外交は日米関係最重視で全てが成り立っていました。(唯一の例外は田中首相の中国国交正常化)冷戦下、日本を自陣営に取り込みたい米国は、日本をアジアのリーダーと位置付け優遇します。米国の庇護のもと、見事日本は経済成長(のみ)を成し遂げます。内戦もあり日米より大きく経済力の劣った中国や韓国は、強大な米国の意向には逆らいたくないので、日本に対してもしぶしぶ譲歩しました。それによって、日米の援助も期待できました。

 

しかし、植民地からの撤退の原則通り、アメリカは日本と周辺国との間に領土紛争の種を残していきます。宗主国が旧植民地(占領地)に対して、キャスティングボードを握り続けるための仕掛けです。また、日本の場合は、日本が中国、ソ連(ロシア)、朝鮮などの国々と連携して、アメリカに当らせないためという理由もありそうです。

 

ところが、冷戦という前提が崩れました。また、中韓の経済成長が著しく、日本との経済力の差も急速に縮みました。こうなると、中韓は過去の前提で結ばれた関係、特に領土問題に我慢ならなくなります。以前からアメリカも、領土問題については明言を避けてきた、つまり確定した事実はないのですから。

 

過去の前提に囚われた日本は、予想通りというべきか、アメリカに助けを求めますが、アメリカは曖昧な態度を崩しません。それは当然です。値段を釣り上げることができるのですから。

 

では、日本はどうすればよかったのか。まずは、冷戦終結後に、前提が変わったことに対応して、自らの世界における位置づけを再定義すべきだったでしょう。しかし、残念ながら、時代を読みリーダーシップを発揮できる政治家はいませんでした。

 

では、今どうすべきか。巷で叫ばれているような日米同盟の強化ではないでしょう。なぜなら、米国にとっての日本の価値は冷戦時代より大幅に低下し、対等な同盟など期待できなくなりつつあるのですから。したがって、「アメリカのアジアでの代理人」という張子の虎を脱ぎ捨てて、東アジアの一国に過ぎないという立ち位置を認識することから、外交戦略を組み立てるべきと考えます。そう、自国の認識において前提を変えるのです。パワーバランスにおいて、日本を支援したい国々はまだまだあるはずです。

 

 

話は変わりますが、脱原発の政府方針について、昨日経済三団体の長が雁首並べて異議を唱えていました。その論は、全て過去の前提(脱原発→電気料アップ→企業の日本脱出→国民は貧しくなる)に基づいています。日本は、70年代前半のオイルショックを克服した国です。その過去には触れません。オイルショックは外から襲った事態ですが、脱原発は国内問題だからでしょうか。つまり、外圧には仕方なく頑張って対応するが、自らは変化を起こさないという、外圧頼みの情けなさが、ここでも露見されました。外圧なしに自ら前提を変えることができない、このことが最大の問題だと思います。

3年に一度、新潟県の越後妻有地方で開催される「大地の芸術祭」

大地2012.jpg

今年も開催されています。翌週末で終了という切羽つまったタイミングでしたが、先の土日で辛うじて行くことができました。2006年、2009年に続いて三回目の参加です。

 

今回は一泊しか時間が取れなかったため、観た作品は少なめです。そんな中で、もっとも刺激を受けた作品は、クワクボリョウタの Lost#6という作品です。十日町の越後妻有現代美術館(キナーレ)内に設置されています。真っ暗に仕切られた10畳くらいの箱型スペースの中で、鉄道模型らしきものが周回軌道を走ります。先頭にライトがついており、ほんのり周囲を照らします。線路の横には、さまざまなモノが置かれています。古い時代に使われていた機織りの道具など。電車のライトがそれらを照らし、壁には大きな影が映る。電車はゆっくり移動しているので、壁に写る影の形もゆっくり変化していきます。

 

電車や置かれた道具は10cm程度の大きさですが、光の拡散によって、壁に写る影は数十倍の大きさになります。それが、四方の壁をゆっくり移動していきます。写った影は、生活や人間の営み、自然や時間など様々なものを象徴しているようです。不思議なことに、ゆっくり時間をかけて移動することにより、壁に写る何もかもが美しく感じます。普段、時間に追われて見落としていた「美」を再発見したような心地よさを感じました。

 

電車は線路を一周すると、突然バックしはじめます。しかも、速度をずっと上げて駆け抜けていくように。軌道は同じですから、壁に写る光景も同じです。ただ向きが逆になっただけで。しかし、高速で移動する影からは、先ほど感じたような美しさも心地よさも感じることはできません。あるのは、ただ慌ただしさだけです。

 

私たちの生活を象徴しているように思えました。本来は美しく心地よい生き方ができるはずなのに、何らかの理由で速度をあげて駆け抜けていく。それによって得るものもあるでしょうが、失っているものもあるはず。得るものは目に見えるが、失っているものは見えない。そう、比較しようがない。だからすぐ見える得るものをさらに追い求めていく。それがほとんどの人の生き方になっているのではないでしょうか。

 

どこかで立ち止まって、本来そこにある美しく心地いいものを見つめる必要がある気がします。ただ、それは日常ではなかなかできないこと、意識しなければできないことです。そこに導いてくれるものがアートなのだと思います。

 

この作品から、私はそんなことを感じました。それが作家の意図かどうかはわかりません。でも、アート作品とは作家の意図にこだわらず、観る人が勝手に想像して自分なりに意味づけすればいいものです。この作品は私の想像力をおおいに刺激し、普段余り使わない部分の心と感情を揺さぶったのです。

 

(アート作品から感じたことを文章で表現するのは難しいと、あらためて実感)

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