2012年7月アーカイブ

 「リーダーシップ」という言葉は、最も使いたくない言葉のひとつです。人によって解釈は様々ですし、何でもリーダーシップの一言で片付けようと思えばできてしまいます。リーダーシップ欠如が原因だといえば、それへの反論は難しいです。つまり思考停止ワード。でも、行動に結びつけるのは至難の業。今日はあえてそれについて考えてみようと思います。

 

リーダーシップには二つの側面があると考えます。ひとつは、「XXXをリードする」という面。XXXには、チームであったり部下であったり、集団あるいは個人を指す言葉が入ります。フォロワーを率い、導くリーダーという存在です。

 

もうひとつは、「XXXに向かってリードする」という面。野球で累に出たランナーが「リード」するイメージが近いでしょうか。「二塁に向かってリードする」といった感じです。境界に立つ自分が、自らの意思と判断で切り開く姿が思い浮かびます。

 

前者はフォロワー(後ろ)に焦点を当て、後者は時間的または空間的向こう側(前)に焦点を当てます。私がリーダーシップという言葉で最初に思い浮かべるのは後者です。

 

では、「向こう側」に注目するリーダーシップを発揮できる人とはどういう人でしょうか。当然のことですが「向こう側」のことを把握、あるいは想像できる必要があります。それから、盗塁を狙うランナーのようにあらゆる情報を駆使して現実を把握し、そこから判断し、そして決断できなければなりません。すべては自分自身で考えて決めることです。つまり、最後の最後では、何ものにも頼らない「当事者意識」が必須です。それがないと、結局問題の先送りや、他人のせいにして行動しなくなってしまいがちです。

 

また、自分が当事者となるということは、場合によっては他の誰かを傷つける可能性もあります。そうであっても実行するだけの信念と勇気も欠かせません。判断の源泉が私欲であれば、ここまでの信念も勇気ももてないでしょう。そう、無視の心を持つ人です。

 

こんな人はなかなかいないと思います。でも、これに近いリーダーがもしいれば、周囲はその人を放ってはおかないでしょう。つまり、フォロワーは勝手についてくる。

 

そういう向こう側を目指すリーダーを育てるには、どうしたらいいのか。各種テクニックを教えることは可能ですが、所詮枝葉の議論です。枝葉を束ねる一本の幹は、大地からの水と日光や風を浴び続けなければ育ちません。リーダー候補がいる大地がどんな土壌なのか、常に日光や風を浴びているのか、ちょっと先に立派な大木が生えているか。(ひょろひょろした木がたくさん周囲にあれば、日光があたらず同じ痩せた木になるだけです)やはり、大木は大木を見て育つのです。

 

次世代リーダーが育たないと嘆くトップは、自分たちが日影をつくり次世代の木の発育を妨げている可能性にも思いをはせるべきです。トップにしか見えない景色もある。逆にいえば、トップにならなければ見えない景色があるわけで、トップは次に高い木々に、それを想像させる義務があると言えるでしょう。

昔から経営資源には、ヒト・モノ・カネがあると言われていますが、この3要素の関係はどうなっているのでしょう。

 

儲かりそうなモノを造ったり仕入れたりして売買するために、必要なヒトやカネを投入するという関係が普通だったと思います。貴重な香辛料を売買するためにお金を集めて船を造り、船長や船員を集めるという大航海時代から、それは一貫していました。特に戦後日本では、カネを調達するのが大変でした。

 

しかし、近年おカネ自体が商品になる傾向がありますし、またおカネを蓄積してその有効活用を図ることを主業務にするサービス業が増えています。年金基金や投資ファンドがその代表です。その背景には、社会が成熟、高齢化し、おカネはたまっていても運用先が乏しいという世界的傾向があります。そう、カネ余りです。銀行は貸出先が見つけられず、預金で集めた資金の半分以上を国債で運用する始末です。

 

さらに人口減少時代を迎えた日本では、労働者一人当りの生産性を向上させなければ、高齢化する社会を支えることができません。

 

そういう時代においては、経営資源3要素の関係も変わらざるをえません。余っているカネを活かせて、またヒトの能力を最大限発揮させることのできるモノを探すという形が普通になってくるでしょう。つまり、モノの位置づけが主から従になり、カネとヒトが従から主になります。ただしカネはコモディティ、つまりそれ自体に意味はありません。量が問題であって質は意味を持ちません。

 

一方、ヒトは量よりも質が意味を持ちます。Aさんが1時間で生み出す価値の100倍の価値を、Bさんが生み出すことには何の不思議もありません。これはBさんの能力が高いからかもしれませんが、それ以上にBさんとAさんとでは能力を活かす場、もう少しいえば関わっている仕掛けが違うからと言えそうです。

 

ヒトとカネを活かせるモノ(あるいは仕掛け)を探すことと、

モノを造るためのヒトとカネを探すことは、

似て非なるものです。

 

日本メーカーの多くが苦境に陥っているのは、後者のパラダイムから抜け出せないからではないでしょうか。

 

ソニーの会社設立の目的の一つに以下があります。

一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設 

 

ソニーに限らず、本来日本的経営は、ヒトを活かすことを第一にしていました。それがいつのまにかアメリカ型経営にかぶれて、多くを見失ってしまった。

 

しかし、考えようによっては、これからの成熟した時代には、日本の本来の強みが活きると考えることもできます。そのために、ヒトの能力を活かすことを第一に考えるべきです。そのための場づくりにはノウハウはありそうですが、仕掛けづくりはまだまだです。それが今の日本企業最大のチャレンジでしょう。

 

仕事の多くは集団で行われます。そして、集団における意思決定は、「会議」の場でなされることが多いでしょう。もちろん、会議には意思決定のための会議以外にも、意見を出させるためのもの、ある意見や方向性を浸透させるためのもの、バイインさせるためのものなど、いろんな目的で使われます。

 

それはそれで分析対象としては興味深いのですが、今日は意思決定のための会議について考えてみたいと思います。

 

会議には意思決定すべき課題、テーマがあります。たとえば、価格をいくらに設定するか、取引先の提案を受諾するかどうかなどです。前者は一つの数字に決める必要がありますが、後者はYES/Noを決めるという違いはあります。しかし、Yes/Noを決めるためには、なんらかの損得について考量しているはずです。

 

つまり、課題は突き詰めればなんらかの数字のレベルにまで分解されている必要があります。でなければ、他の選択肢との比較もできません。

 

でも多くの会議では、数字に分解されませんし、されたとしても大した根拠もなく「決め打ち」していることも多いようです。数字のレベルにまで分解してはじめて対話が始まると言えるでしょう。対話とは、勝ち負けを決める議論ではなく、異なる意見や考え方をぶつけ合って、さらにいい意見をつくり上げることです。そうです、アウフヘーベンを狙うことです

 

そのためには、参加者が意見を持っていることが大前提になりますが、さらには考えをぶつけるための共通の材料が必要になります。たとえば、ある製品の価格を設定するための会議だとしましょう。1000円に設定したとすれば、いくら売れそうか、それが1500円になったとすればどう変化するかを考える必要があります。もちろん、仮定に過ぎないわけですが、対話するには仮説という参加者共通の材料が不可欠です。それを梃子にして対話が展開されるからです。こういった材料、梃子(あるいは支柱)がなければ議論は迷走し空中戦となり、時間ばかりかかる不毛な会議となります。

 

そのために「たたき台」があるのではと思われるかもしれませんが、「たたき台」は決め打ちのひとつの意見に過ぎません。支柱ではなく、片隅に浮いているひとつの船です。

 

対話の梃子となる仮説をつくり上げる時に必要な思考ツールは、シミュレーションです。シミュレーションをするには、あるモデル、わかりやすくいうとストーリーが必要です。そのストーリーを数字とその関係性で表現したものがシミュレーションモデルです。それができれば、あとは変数をいろいろ動かしてみて結果の変化を試してみることです。このプロセスを、会議のメンバーで共有すれば、一つの支柱の周りに様々なアイデアが創出され、効果的な対話がなされます。そうして、最終的に適切な一つの結論が導かれ、意思決定がなされるわけです。

 

以上の意思決定プロセスにおいて、抜け落ちがちなのがシミュレーションの発想とその実行だと思います。だから空中戦ばかりになって決められない会議が続くことになるのではないでしょうか。

 

シミュレーションというと、なんだか難しい数式を駆使した分析ツールのようですが、それは一つの側面であって、あくまで適切な意思決定を導く対話のための材料、ツールだと割り切ることが大切だと思います。

 

決められない不毛な会議ばかりで疲れている方、是非試してみてください。

グローバル人材育成が、近頃のトレンドのようです。国内市場の成熟が明らかとなった今、海外に打って出ることが多くの日本メーカーの唯一の生き残り策となっていると考えられているからなのでしょう。

 

今やそのトップランナーである、ユニチャームの高原社長の講演を先日聴きました。それによると、海外進出成功の秘訣は、国内のエース級を率先して海外赴任させることにあるそうです。例えば、国内の営業で高い実績を挙げている20年選手を、いきなり駐在させ10年単位で任せる。TOEIC250点でも全く問題ない。語学が得意で海外経験も豊富な中途採用者や若手は間違っても出さないそうです。重要なのは「(担当分野において)仕事ができること」と「ユニチャームの価値観を体現していること」のふたつだけです。ものすごくシンプルです。

 

現在の執行役員も半分以上は海外駐在中かその経験者です。会社にとって海外市場は戦略的に重要だからそこに優秀な人材をシフトさせる。結果的にその経験者が出世していく。会社の方針がシンプルで明確、一貫性があります。当たり前といえば当たり前ですが、多くの企業ではそれができない。

 

この考えの前提には、「本来能力の差なんてたいしたことない。大事なのはそれを開発、発現させる機会を会社が適切に提供しているかどうかだ」という考え方があります。国内で成果を出せる社員であれば、海外でも出せるはず。さらには異なる経験を積むことで、さらに能力が開発されるだろうというわけです。

 

えてして人材開発担当者は、経営陣の意向を受けて「グローバル人材」というなにか特殊なスキルを持った人材を発掘、育成しようと努めます。またそれを売りにするコンサルタントやベンダーが跋扈します。本来果すべき役割は、グローバル人材を育成することではなく、内外問わず成果を出せる人材を育成することです。それすらよく考えられていないにもかかわらず、新たなグローバル人材というお題を与えられて、右往左往しているかのようです。

 

 

私が戒めとしている言葉のひとつに、「小人閑居して不善をなす」があります。人間としての小物は、暇を持て余すと悪いことに走りがちという意味でしょう。だから「できるだけ忙しくしていよう」とも読めますが、私は「考える時間や余裕があると、つい考え過ぎてしまって物事を複雑にしてしまい、結果として意図せず周囲や自分に悪い影響を与える判断をし、行動してしまう」と解釈しています。これは個人レベルだけでなく組織にも言えることで、避けがたい人間の習性といえます。

 

その解毒剤は「シンプルに考える」ことに尽きると思います。なぜアップルは、あれだけ巨大企業になっても、創造性も一貫性も失われずにいられるのか。その秘密は、ジョブズが非常にこだわった「シンプルさ」への信仰にあったのだと、「Think Simple」(ケン・シーガル著)を読んで腑に落ちました。

 

「小人閑居して不善をなす」とは、「Think Simple」の反語だったのです。シンプルなんて使い古され手垢が付きまくっている言葉ですが、成熟した時代にその重要性はますます高まっていくことでしょう。



 

Think Simple―アップルを生みだす熱狂的哲学
ケン・シーガル 林 信行
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時間の流れ

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時間は誰に対しても同じように過ぎてゆくものなのでしょうか。近頃は、アンチエージングだの、50代でも30代に見える医者のハウツー本だのが流行っているようです。一般に人は時間の流れを自分だけは遅くしたいと考えるもののようです。

 

先日、大学時代の後輩(女性)二人と大学時代以来で再会しました。四半世紀以上は経っていますが、会ったとき全く違和感を抱きませんでした。約25年の時間がすっぽり欠落したような感じで、話すうちにどんどんその感を強くしました。25年?、なんだそれ?

 

Mさんは見た目もほとんど変わっておらず、前日に大学三年生の娘さんをフランス留学に送り出したばかりとのことでしたが、とてもそうは見えません。変わったのは、化粧をするようになったことくらいでしょうか。


Fさんも表情は全く変わっていませんでしたが、学生時代にはなかった皺が目元に数本目にはいりました。そして驚いたことに、その皺がとても素敵なのです。昔から、外国映画に出てくる妙齢の女優さんの皺はなんて美しいんだろうと思っていましたが、まさにそれなのです。「人生を感じさせる」というとかなり言い過ぎですが、「良い齢を重ねてきた」証とはいえそうでした。会っているときには、その印象を口にはできませんでした。うまく表現できそうもなかったので。同世代の人にそれを発見したことは、ちょっとした感動でした。Fさんは、海外生活が長く今は在米15年になるそうです。それが関係あるかどうかはわかりません。

 

二人とも学生時代、何事に対しても真っ直ぐに向かい合うタイプでしたが、その姿勢はそのままに様々な困難にも立ち向かってきたのだろうと想像できました。その結果、二人ともきっといろいろあったんだろうけど、でもとてもいい齢の取り方をしているようです。人間にとって熟成の時間は必要不可欠のものだと実感しました。

 

彼女たちとカフェで楽しい時間を過ごした後夕方から、昨年大晦日に50代半ばという若さで亡くなった私の謡の先生を偲ぶ会に参加しました。弟子の一人の方が、稽古時には毎回ビデオカメラをまわしていました。復習用だそうですが、ほとんど観返したことはないそうです。それが、こんな形で稽古仲間と一緒に見ることになったわけです。

 

最初の映像は2006年でした。ほんの6年前の先生の姿でしたが、ものすごく若々しく見えました。穏やかなお人柄と、我々不肖の弟子が少しでも上達するようにとの熱心で真摯な指導が甦ってきます。

 

先生は2010年頃からALSという難病と戦っておられました。昨年初め頃からは、帯を締める力も入らず、声も以前のように張り上げることもできず、毎回稽古に行くたびに痩せていくようでした。でも、弟子が望むならばできるだけ稽古をつけたいと代講はさせませんでした。それが生きる張りだったそうです。実際昨年の夏くらいまでは教えていただきました。そして、大晦日に亡くなったのです。

 

直近の記憶とは異なる、たった6年前の溌剌としたお姿。ある意味映像は残酷です。短い時間の中で人間が衰えゆく経過を、なまなましく私たちに突きつけるのですから。しかし、先生にとってこの6年が短かったのか、そうではなかったのか、それは先生以外誰も知りえません。

 

欠落したように感ずる時間も、熟成を感じさせた四半世紀の時間も、死に向かう6年の時間も、物理的には同じスケールで測られる時間です。でもとても同じ時間とは思えません。時間に抗うのでもなく無為に流されるのでもなく、時間に意味を与えるのは自分自身の意識とそれに沿った生き方次第なのだと思います。

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