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さよなら!僕らのソニー (文春新書)
立石 泰則
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創造性溢れる企業が、時間の経過と規模拡大に伴ってそれを失い、平凡な企業へとなっていく、これは珍しいことではありません。それでも、それが「ソニー」という、ある時期の日本人にとって象徴的な企業の場合、当然と流してしまう気にはなれません。本書は、そういったソニーに対する愛情溢れる立石氏による、変貌過程のルポと言えます。

 

立石氏より約一まわり年少の私は、彼ほどの思い入れはないとはいえ、それでもやはりかつてソニーは特別な存在でした。なので、少なからず共感しながら一気に読みました。

 

ソニーの変貌は、創業者の存在感が薄れていくという時間の要素、企業規模拡大に伴う管理の必要性の要素、そしてグローバル企業となったが故に起こった要素、の三点にあるのではと本書を読んで感じました。それらは当然、「経営者」を起点にして絡み合っています。

 

以下は、本書の記述を信じたうえでの私の解釈です。

 

創業グループに属する大賀社長は、盛田氏から次の社長は技術畑からと申送りされていました。しかし、本命がスキャンダルで脱落したため、ハー

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ドとソフトの融合に思い入れの強い出井氏を抜擢します。大賀氏は、盛田氏との約束を破ったことになります。それゆえか、大賀氏は社内基盤の弱い出井氏の後見として影響力を維持しようとつとめますが、やがて院政をよしとしない出井氏は反発し、関係は悪化します。

 

正統性に乏しく社内基盤の弱い出井氏は、グローバル・スタンダード経営という、当時の経営環境や社会の雰囲気から、誰もが反対しづらい旗を立て、過去のしがらみや先輩らからの影響力を排して自らが主導できる経営体制を構築しようとつとめます。それが、CXO体制、執行役員制度、社外取締役制度のような人事&ガバナンス制度、eHQEVA、製造のアウトソースなどの組織&経営管理手法といった、当時先進的だと持ち上げられた多くの経営改革手法です。

 

それまでの社長に比べて正統性の低い出井氏は、短期間で高い業績を上げ、数字で権威を得るより仕方なかった。しかし、思ったような成果は上

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げられず、自分が指名した社外取締役からなかばNOを突きつけられるような形で退任した出井氏は、誰も予想しなかった米国人、ストリンガー氏を後任社長に指名します。「エレクトロ二クスのソニー復活」を掲げて新体制を敷くことを決定したにもかかわらず、技術畑どころかソニー製品に関わってこなかった、日本には住まないと明言しているストリンガー氏を、です。出井氏が影響力維持を望んで、院政をひきやすい人を選んだという見方もできます(オリンパスにおける菊川氏とウッドフォード氏との関係が頭をよぎりました)。自らが受けた仕打ちを、今度は自分が後任にする・・・。そして、今度は平井次期社長に・・・。本当にそれが会社にとって正しいことだと考えていたのでしょうか。

 

投資家の影響力が強い上場企業であれば、強い正統性を持たず、かつ戦略を描けない経営者は、すぐに「数字」で結果を示すしか生き残る方法はありません。したがって、どうしても短期志向にならざるをえない。特に、海外市場や海外投資家の影響力の強いグローバル企業ではそうです。そして、それを促す仕組みが、ソニーが先鞭をつけバブル崩壊後に日本企業に浸透した「グローバル・スタンダード経営」なのです。

 

ソニーという戦後の焼け野原から生まれ出た日本企業がグローバル企業になっていくには、避けて通れなかった道なのでしょうか。「グローバル・スタンダード経営」は本当に必要だったのか?仮に必要だったとして、そのための手法は適切だったのか?あるいは適切に運用されていたのか?手法やツールは、使う人の意識や能力によって毒にも薬にもなりえます。今のソニーは果してどうなのでしょうか?

 

アップルが復活したのは、その逆をいったから、すなわち正統性を持つジョブズが復帰し、それまでスカリー以降の経営者が進めてきた「グローバル・スタンダード経営」を強引にぶち壊したから、とも言えるでしょう。かつてジョブズがソニーを尊敬していたことを思えば、皮肉なものです。

 

 

本書で語られるソニーの事例は、ソニーという特別な企業だから、と考えることもできますが、一方で多くの日本企業が参考にすべき点が数多く含まれている気もします。

 

ソニーはこのまま存続を続け、場合によっては再成長するかもしれないが、もはや「僕らの」ソニーは失われてしまったと嘆く著者の愛憎半ばする感情も理解でき、ちょっと複雑な読後感でした。

最近iPad2を買ったのですが、やっぱりアップルはすごい。機能のみならず使用者体験という面での品質は、圧倒的です。例えば、別売り純正品のカバー(液晶面をガードする

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覆い)がすごい。風呂のふたのように4つに区切られているため、1/4ずつ開けることができます。カバーを閉じると液晶画面が消え、開けるとすぐ液晶が灯り画面が現れます。それだけでもすごいのに、少しずつつまり1/4ずつ開けていくと、それに合わせて液晶がだんだん明るくなっていくのです。機能としては重要ではありませんが、体験としては素晴らしい。これがトータル品質です。これだけの品質へのこだわりがあったから、現在のアップルのブランド力があると言えます。あるいは、そういうブランドを築くためには、そこまでの高品質が不可欠だったともいえます。つまり、ブランドと品質は相互補完しており、ユーザ-に高い価値を提供する。

 

消費者にとって、高い価値と高機能は同一ではありません。例えばインドで売っているサムソン製TVは、日本メーカー製の半額ですが、どのチャンネルでもクリケット試合の点数が画面隅に表示されるようになっているそうです。インドで人気のクリケットは、試合時間が68時間もかかるので、途中で他のチャンネルも見たくなるというニーズに応えているわけです。画面解像度なんかよりもクリケットの点数のほうが遥かに重要なインドの消費者にとっては、サムソン製のほうが高価値なのです。

 

ハイスペック(高性能)=高価値=高級=高価格、という呪縛に囚われた日本企業の多くは、市場から駆逐されてしまうのではと、不安になってしまいます。高い技術力で高性能の製品を作れば、自ずと売れてその結果高いブランドが築けるだろうという思い込み。でも、たとえ高性能セグメントで成功したとしても、なぜか利益率は驚くほど低い。そんな企業は、マーケティングを色ものとして扱っているような気がします。(質の悪い製品を無理して売るために、マーケティングが存在すると考えているふしもないではありません)

 

かつてのDRAMに始まって、携帯電話、液晶、薄型TVと敗退の歴史がどんどん積み重なっています。このままでは自動車までそうなりかねません。そして、マーケティングの重要性は、消費財のみならず産業財にも急速に及んできています。アップルのように、ブランドと技術が相互補完的に高めあっていくことがマーケティングの本質であり、今の日本企業にそれが最も欠けている。日本から、かつてのソニーのような企業は、もう生まれないのでしょうか。

 

70年代のオイルショック以降の売れない時代に、「売る」ためのマーケティングが脚光を浴びた時期があります。それに対して、現在は「体質転換」のためのマーケティングが求められているのかもしれません。

先週の日経夕刊「人間発見」は糸井重里さんでした。糸井さんといえば、かつてコピーライターとして一世を風靡し樋口可南子と結婚した、いかにも「業界の人」のイメージでした。教育TVで彼が司会をしていた番組

itoi.jpgYOUは、けっこう面白く観ていましたが。

 

その後あまり名前を聞かなくなりました。時代はコピーライターから、佐藤可士和に代表されるデザイナーやアートディレクターに移っていたようです。時々サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の話題はちらほらと耳に入ってきましたが、こんなことをやっていたとは全然知りませんでした。最初、日経で糸井が採りあげられるのは意外だと感じましたが、読んでみれば全然意外ではありません。今の経営に役立つ言葉が、バシバシ語られているのです。

 

食べると太る食べ物があるとします。やめさせるのに「太るぞ」と脅しますか。でもおいしいんですよ。僕なら「油が少なくても、もっとおいしいもの」を薦めたい。価値を増やすとはそういうことです。原発を巡る震災後の言葉を見ていると、特にそう感じます。

 

糸井さんは、言葉を非常に大切にする人だとよくわかります。政治家も経営者も本当は言葉で人々を動かすプロであるべきです。それに気づかせてくれました。

 

まだ誰も見ていないものを商品の内側から掘り出すには、形や性能だけを見ていてはだめ。知識を総動員し、脳と目と耳をフルに使う。楽しいですよ。

 

商品のコピーを考えるときの言葉ですが、似たようなことをスティーブ・ジョブズが言っていました。

「デザインとは外観のことだと思う人もいる。本当はもっと深いもの、その製品がどのようにはたらくかということなんだ。いいデザインをしようと思えば、まず『真に理解する』必要がある。」

 

デザインとコピーの違いこそあれ、いずれも本質を見極めることの重要性とその難しさを語っています。でもそれはきっとものすごく楽しい作業で、決して他の人にやらせたくないに違いありません。

 

「みんな」がこう思うからお前もこう思え、ではない。「私」が責任を持つ。だからだから何でも言える。(中略)商品と自分の関係を考え、「私」というフィルターを通さない言葉は書けないと感じ、実際そうしてきました。

 

本当に多くの人々に受け入れられるのは、「みんなそうだから」ではなく、「私がそう思うからそうなんだ」という強い信念なのです。責任を他者に負わせる人の言葉は、本質的には人々には届かない。しかし、世の中は糸井さんの望まない方向にどんどん流れていき、生きづらくなっていく。

 

企業に説明責任が生まれ、採用した案が「一番いい」と説明できなければならなくなったためです。売り上げへの貢献、評判、アンケート。広告効果の「見える化」です。責任者は「言い訳できるもの」を選ぶ。

 

世の中はエビデンスだ、説明責任だと、逆に向いている。だから、政務官が記者の言葉にしたがって、浄化された原発排水を飲む羽目になる、こんな滑稽なことが起きるのです。

 

説明後はゲタを預け、知らないところで採点される。話し合って一緒に良くしましょう、では通じない。(中略)提案の「弱点」を埋めるほど、自分の仕事ではなくなっていく。

 

人材開発の世界でも、全く同じことが起きているのではないでしょうか。糸井さんはそんな世界がいやになり、しばらく釣りばかりしたのち、ネットに出会い、97年「ほぼ日刊イトイ新聞」を立ち上げたのです。

 

頼まれ仕事ではないものづくりの面白さを知りました。企業の広告は100万人単位で考えた。お金もかけ、しかけは大きい。でも霧のような100万人より、わざわざ「ほぼ日」を読みに来てくれる3万人が僕にとってうれしいんだとわかりました。言葉が届き、うれしそうに笑っている様子が目に浮かぶんです。自分の仕事を見ていてくれる人がいる。そのことの意味が初めて、泣きたいくらいにわかりました。

 

大きな霧を選ぶのか、それともたとえ小さくてもそこに実在する確かなものを選ぶのか、大きな分かれ目でしょう。しかし時代は、後者の価値が高まる方向に動いているように思います。そして、糸井さんも社員40人、売上20億円超の会社の社長になりました。

 

「管理」を中心に動くようになったら寿命ですね。ものを生む力や熱がなくなった証拠ですから。(中略)計画を立てると、計画の奴隷になってしまい「何がしたかったのか」という動機が消えてしまう。

 

徹底的に自分の言葉にこだわり続けた末、知らない間に新しい経営の姿を創りだしていたのかもしれません。そして会社が提供する価値をこう説明します。

 

消費は恋愛に似ています。どちらも矛盾があり、喜びがある、生きることそのもの。不要だからと削っていくと、魂も小さくなる。消費の喜びは、ものと心の掛け算にあります。(中略)大量生産、大量販売に豊かさはない。再現できないもの、人の思い、丁寧な仕事、長い時間や歴史、ものに込めた世界観。それが価値なんです。

 

様々な企業が自社の提供する価値を定義しようと悪戦苦闘していますが、なかなかうまくいきません。でも言葉のプロである糸井さんは、ものすごくわかりやすくそれを適確に説明しています。言葉に徹底的こだわるということは、徹底的に見て感じて、そして考えるということなのです。これからの経営者のモデルになりそうです。(既にスティーブ・ジョブズが示していたのかもしれませんが)

 

今回の震災で、これまでなかなか見えてこなかった現実が、突然見えてくることがいくつかあります。そのうちのひとつは日本の東北や北関東に位置する部品メーカーの重要性です。そこでの操業停止が、日本どころか世界中の生産をストップさせているものもあります。その代表はマイコンのルネサス・エレクトロニクスでしょう。

 

5/4の日経朝刊で、「欠かせぬルネサス、なぜ赤字 『下請け』体質、利幅薄く」という興味深い記事がありました。操業停止で大変な影響を及ぼすほど競争力の高い製品を作っているにもかかわらず、なぜ赤字続きなのか。インテルとどこが違うのか。それは、下請けに甘んじていて技術面・事業面でリーダーシップは発揮できないからと指摘しています。つまり、仕様や価格などは販売先である製造メーカー(自動車会社など)が決定するので、どんなに他社が製造できない部品であっても十分な利益を出せない構造なのです。必ずしも販売先と資本関係などなく、系列でもないルネサスですらこうなのです。よく下請けへの対応は、生かさず殺さずといいますが、まさに未だにそのようです。

 

かつて部品製造まで垂直統合する米自動車会社に対して、部品の大部分は系列の部品メーカーから調達する日本の自動車会社は、その柔軟性により優位に立っているとの議論がありました。日本では擬似家族を形成し、家長たる自動車会社が何があっても下請けを守る、その代わり中小部品メーカーは言うことを聞く、というシステムです。日本の文化に合った優れた仕組みだと思いますが、「公平性」の線引きは非常に難しい。一歩間違えると、搾取の構造です。

 

今回のルネサスのような状況を知ってしまうと、やはりフェアな取引になっていないのではと感じてしまいます。もちろん部品メーカーの側にも責任はあるでしょう。製品に関するリーダーシップを取れないのは事実ですから。(自発性を伸ばさないように、うまく下請けを管理しているともいえます)

 

 

この記事の二日前の日経夕刊「人間発見」岡野工業代表社員の岡野氏の言葉が印象的です。ちょっと長いですが引用します。

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職人の代表のように言われることもあるが、職人は腕さえよければ良いというものではない。(中略)おやじもそうだったが、典型的な職人はあまり人付き合いをしないで、腕を磨くことに生きがいを感じている人が多い。でも仕事というものは、人と人のつながりでできるもの。すごい技術を持っていても、相手が「この人と仲間になりたい。一緒に仕事をしたい」と思ってくれるようでないと、仕事はなかなかできません。

 

町工場が生き延びていくには、人が持たないような優れた技術を持つことはもちろんです。加えて斬新な発想や人の心をつかむ力、自分たちのものづくりをアピールしていく力も必要なのです。俺は「世渡り力」といっているが、(中略)世渡り上手の人間には多くの人が寄ってきて、情報も集まるものです。

 

 

日本には優れたものづくり企業がたくさんあります。しかし、多くは(ルネサスも)古い職人の集まりのような会社かもしれません。岡野氏がいうような新しい職人、世渡り上手な職人の集合体である企業が、これから求められていくように思います。日本も、そういった自律した数多くのものづくり企業をベースにした産業社会に切り替わっていくのではないでしょうか。

 

震災がその転換のきっかけになるような気がします。さらに岡野氏の言葉を続けます。

 

 

世間で注目された製品をつくっても、会社を大きくする考えはありませんでした。会社を大きくすれば、投資額が増えるし、苦労も増えるからです。

 

俺は同じものをつくり続けたくないし、いつももっとすごいものをと思っている。だから、先端的な製品を作っても、その多くは量産化のめどがつけば、機械ごと他社に売り渡すことにしている。そして、得た資金を次の開発につぎこむ。うちで手掛けるのは、特殊な技術が必要で付加価値の高いものだけと決めているのです。

 

 

下請けに甘んじるのは、規模が得やすいからということが一番ではないでしょうか。それと安定。規模を追求することで失うことが必ずあります。戦後からこれまでの日本経済は、規模追求を暗黙の前提としてきました。そのパラダイムも大きく変わるはずです。

村上隆や奈良美智を売り出したことで有名な現代美術のギャラリスト、 小山登美夫さんが、新人を発掘するときなどに作品をみるポイントを以下のようにあげています。

 

①こだわっている主題があるか

②既存の枠組みを超えようとしているか

③社会問題や自分自身と正面から向かっているか

④新しい表現へのアプローチがあるか

 

これは、企業を評価する際のポイントや、あるいは一緒に仕事をする人を評価する際に着目すべきとほとんど同じだと思います。

 

企業であろうがビジネスパーソンであろうが、そもそも何をやりたいのかがなければ、今後の発展性も限定されてしまうでしょう。もちろん、それはまだ明確な言葉で表現できないかもしれません。でも、もし本当にあるのであれば必ず明確に伝わってきます。

 

しかし、それが既存の前提/パラダイムにこだわっていると実現は無理でしょう。パラダイムが所与の状況で、後から参入して勝ち目はない。ゲームのルールをひっくり返してこそ、勝機が見えてきます。いい加減な常識にとらわれず、本質を見通す洞察力が必要です。

 

そして、それらを実現することで、最終的に何を目指しているかです。それは、社会とのかかわりや、あるいは自分自身の内面深くに関わる何かでしょう。企業でいえば、経営者の価値観が問われる部分です。

 

既存の枠組みを超え、さらに新しいアプローチを見つけなければ差別化はできません。企業もビジネスパーソンも、常に他者とは異なるアプローチを探し続けて、初めて見つかるものです。追い求めもしないものに、幸運は降ってきません。また、異なるアプローチを探し続けることに喜びを感じる素質も大切です。

 

 

このように考えてみると、企業経営がどんどんアートに近づいているとも言えそうです。ビジネスで成功しようと思ったら、アートにも慣れ親しんでおいたほうが良さそうです。

 

西友のTOBに絡むインサイダー取引で、元取締役の夫が告発されました。いよいよ起こるべきことが起きたという印象です。

 

インサイダーなどの監視をするのが社外取締役の役割なのに、そこからの情報でインサイダー取引が行われてしまったのです。検事が証拠に手を付けたのと同じくらい重要な事件だと思います。

 

にもかかわらず、元取締役本人は便益を受けていないとの理由で告発されないとのこと。法的には情報提供に関する規制がなかったということになります。これも驚きです。(直接)儲けなければ、情報を漏らしても犯罪にはならないということです。なぜこう法律になっているのか、理解に苦しみます。

 

夫が逮捕とあるように、この元取締役は女性で、(推測ですが)ファッション業界では超有名なキャリアウーマンの先駆者的な人です。ファッション業界に特化したビジネススクールの名誉学長(現在)でもあります。こういった名誉ある人なので社外取締役に選任されていたのでしょうが、たとえ夫婦間であっても守秘義務は守るべきという常識さえお持ちでなったのでしょうか。

 

形式だけアメリカに真似た制度のつけが、今後頻発するのではないかと危惧します。

日経朝刊の「私の履歴書」は、社会人になってからほとんどずっと読み続けています。創業経営者、●代目経営者、サラリーマン経営者、芸術家など執筆者はさまざまですが、どの分野であろうとも、一流となった人からは学ぶべきことがそれこそ無尽蔵にあるからです。

 

企業経営者の執筆が大半ではありますが、読んでいるといろんなパターンが見えてきます。最も大きいと思えるのは、戦争の経験です。最近は太平洋戦争を子供時代に経験した方の登場が多いですが、数年前までは従軍した方が大部分でした。何歳で戦争を、どのような立場で経験したかは、その後のその人の生き方に大きな影響を与えていように感じます。

 

もうひとつ気になるのは、自分以外にどのような人が実名で出てくるかです。学生時代の恩師が出てくる場合は、その人の人間性の原型が見えてくるような気がします。社会人になって以降は、大きく三つに分かれます。自分より有名、あるいは大物にかわいがってもらい知己を得て、成長できたというパターン。もう一つは、会社の上司や先輩、同僚、あるいは取引先に助けてもらいながら、一歩一歩成長してきたというパターン。最後は、関係者には触れながら(多くは実名出さず)、自分が苦労して成功したというトーンがありありと読み取れるパターン。

 

個人的には、二番目のパターンが読んでいてもっとも共感できおもしろく感じます。同じ事象でも、見る人によって異なるように見えるのは当然です。若いころは、すべての実績は自分のおかげと見えるのは、ある意味し方ないことなのかもしれません。それが、エネルギーを生み出すことにもなりますから。ただ、「私の履歴書」を書くような功成り名を遂げた人がそうだと、興醒めしてしまいます。もっと自分を客観視してもいいのではないかと感じてしまうのです。

 

スティーブ・ジョブズが将来自叙伝を執筆したとき、どんなトーンで書くのか、今から楽しみです。

 

日本企業も日本社会も、環境変化に適合させるための改革がなかなかできません。制度をいろいろいじったりはしていますが、一言でいえばそれに魂が入っていないので、浸透していかないのです。では、どうしたらいいのでしょうか?

 

日曜の日経朝刊にGE前CEOのジャック・ウェルチ氏のインタビュー記事が載っていました。米国経済低迷へのコメントでは、

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「解決策は『イノベート! イノベート! イノベート!』。起業家に自由を与え、政府は干渉しない。中小企業などに負担をかけるような規制はしくべきではない」

 

と述べています。アメリカですらこうなら、いわんや日本をや、です。イノベーションなくして、日本企業は生き残れないでしょう。

言に絞ってメッセージを強調する姿は現役時代と変わわず、明解です。

 

イノベーションを促すためには、

「イノベーションの創造に報いなければならない。報酬制度はもちろん、『彼らがヒーローなのだ』と称賛する企業文化を生み出さなくてはならない。もっと機会を与えて、社員を奮い立たせることが、今の経営者の大切な仕事だ」

 

また、現役経営者の評価を聞かれ、

「個々の現役CEOについて評価したくないが、一人だけ触れたい。米アップルのスティーブ・ジョブス氏だ。(中略)彼自身は類まれな人物だが、革新的な人材は育てることができる。チャンスに恵まれず、『ジョブス氏』になれていない人材を掘り起こすことだ」

 

こう答えています。企業が現在何を最重視するのかをまず明確にすることが必要です。その上で、それを体現する人、あるいは体現出来そうな人を徹底的にヒーローに仕立てることで、全社員の意識を変えることが経営者の仕事だと言っているのです。

 

論理を感情に訴えて実現するという、彼のマネジメントスタイルが明確に出ていると思います。多くの日本企業の経営において欠けているのは、この部分だと思います。理詰めの分析(情を加味した分析でなく)に基づいて経営の優先順位を決め、後は社員の感情をうまくコントロール(情に訴えたり、人事権という論理をかざすのでなく)してその実現を促す。変革とは、ロジックとエモーションの融合なくして実現はしないでしょう。それに全責任を負う、そういうリーダーが求められているのだと思います。

 

今月初めからのゆうパックの遅延問題ですが、昨日終結宣言がありました。しかし、非常に後味の悪い出来事です。ヤマトの故小倉昌男さんだったら、何とコメントしたことか・・。

 

7/1のペリカン便との事業統合がことの起こりです。直後から現場は混乱し、遅延が発生したようですが、発表は4日でした。そもそも、なぜお中元シーズであり年で最も忙しいこの時期の統合したのか。なぜ4日間も好評しなかったのか。参議院選との関連も噂されます。

 

なりよりも、トップの発言です。

4日の記者関係では、開口一番、

「職員の不慣れが原因です」

 

そして昨日は、

「(公表が)それほど遅れたとは認識していない」

「(7月統合の)判断は間違っていないと今でも思っているが、準備不足だった面はあった。反省している」

 

現場では、

「朝から晩まで休憩もとれず、毎日超過勤務もして必至だったのに、現場のせいにする社長の言葉を知ってがっくりきた」

 

との声が多く聞かれるそうです。

 

自らの判断ミスは認めず、現場の準備不足を理由にして、最も大切な顧客への情報提供もさほど重要とは考えていない、こんなトップで会社が成功するはずがありません。

 

元役人が経営するとは、こういうことなのでしょうか。そして、それを決定したのは日本政府なのです。怒りを通り越して悲しくなります。

富士通にしろ、セイコーホールディングにしろ、取締役会の機能不全が露呈したトップ解任劇とその後のごたごたでした。社外取締役制度や委員会設置会社などの制度整備は行われてきました。それにも関わらず、機能不全は起こります。

 

日本企業の癖として、制度を制定すればやるべきことはやったと安心してしまう傾向があると思います。形式基準を重視する監督官庁への対応を続けてきた、長い歴史の所産なのでしょうか。

 

もちろん、適切な制度を導入することは好ましいことです。ただ、問題はそれで安心して、それ以上の中身の改善を追求しなくなってしまうことです。うがった見方をすれば、制度導入を隠れ蓑にして、既得権益を温存する意図もないのではないと思えてしまいます。

 

政府や省庁のなんとか諮問委員というのも同様かもしれません。民間知識人や文化人?のご意見を拝聴し政策立案に活かさせていただくとのオモテの意図の影で、先生方もそう答申されている(そうさせた?)ので、そうさせてもらうという官僚のウラの意図が透けて見えます。それに選ばれることを名誉と思い、喜び勇んで参加する知識人もいることでしょう。その相似形が、企業の取締役会でも行われているとしたら恐ろしいことです。

 

では、どうしたらいいのか。本当に取締役会を機能させたいのだとしたら、透明性を高めることでしょう。例えば、取締役会の議論を社員に公開するのです。議事録ではなくリアルに。もちろん、非公開とすべき案件もあるでしょう。その峻別は必要です。あまりいい譬えではありませんが、国会ですら公開されているのです。仕分けもそうでした。

 

 

公開することで、取締役が本当に取り締まっているのかが明確になります。そういう規律なしに、社外であろうと社内であろうと、チェックが働くとは思えないのです。

 

大事なことは、いかに取締役会を活性化させるかでしょう。どういう人をメンバーにするか、どうそれを決めるのかといった形式論は手段のはずです。手段が目的化しているように見えます。

 

 

「仏作って魂入れず」が、あらゆる所で跋扈しています。もう、その習性から脱却したいものです。

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