経営の最近のブログ記事

今月初めからのゆうパックの遅延問題ですが、昨日終結宣言がありました。しかし、非常に後味の悪い出来事です。ヤマトの故小倉昌男さんだったら、何とコメントしたことか・・。

 

7/1のペリカン便との事業統合がことの起こりです。直後から現場は混乱し、遅延が発生したようですが、発表は4日でした。そもそも、なぜお中元シーズであり年で最も忙しいこの時期の統合したのか。なぜ4日間も好評しなかったのか。参議院選との関連も噂されます。

 

なりよりも、トップの発言です。

4日の記者関係では、開口一番、

「職員の不慣れが原因です」

 

そして昨日は、

「(公表が)それほど遅れたとは認識していない」

「(7月統合の)判断は間違っていないと今でも思っているが、準備不足だった面はあった。反省している」

 

現場では、

「朝から晩まで休憩もとれず、毎日超過勤務もして必至だったのに、現場のせいにする社長の言葉を知ってがっくりきた」

 

との声が多く聞かれるそうです。

 

自らの判断ミスは認めず、現場の準備不足を理由にして、最も大切な顧客への情報提供もさほど重要とは考えていない、こんなトップで会社が成功するはずがありません。

 

元役人が経営するとは、こういうことなのでしょうか。そして、それを決定したのは日本政府なのです。怒りを通り越して悲しくなります。

富士通にしろ、セイコーホールディングにしろ、取締役会の機能不全が露呈したトップ解任劇とその後のごたごたでした。社外取締役制度や委員会設置会社などの制度整備は行われてきました。それにも関わらず、機能不全は起こります。

 

日本企業の癖として、制度を制定すればやるべきことはやったと安心してしまう傾向があると思います。形式基準を重視する監督官庁への対応を続けてきた、長い歴史の所産なのでしょうか。

 

もちろん、適切な制度を導入することは好ましいことです。ただ、問題はそれで安心して、それ以上の中身の改善を追求しなくなってしまうことです。うがった見方をすれば、制度導入を隠れ蓑にして、既得権益を温存する意図もないのではないと思えてしまいます。

 

政府や省庁のなんとか諮問委員というのも同様かもしれません。民間知識人や文化人?のご意見を拝聴し政策立案に活かさせていただくとのオモテの意図の影で、先生方もそう答申されている(そうさせた?)ので、そうさせてもらうという官僚のウラの意図が透けて見えます。それに選ばれることを名誉と思い、喜び勇んで参加する知識人もいることでしょう。その相似形が、企業の取締役会でも行われているとしたら恐ろしいことです。

 

では、どうしたらいいのか。本当に取締役会を機能させたいのだとしたら、透明性を高めることでしょう。例えば、取締役会の議論を社員に公開するのです。議事録ではなくリアルに。もちろん、非公開とすべき案件もあるでしょう。その峻別は必要です。あまりいい譬えではありませんが、国会ですら公開されているのです。仕分けもそうでした。

 

 

公開することで、取締役が本当に取り締まっているのかが明確になります。そういう規律なしに、社外であろうと社内であろうと、チェックが働くとは思えないのです。

 

大事なことは、いかに取締役会を活性化させるかでしょう。どういう人をメンバーにするか、どうそれを決めるのかといった形式論は手段のはずです。手段が目的化しているように見えます。

 

 

「仏作って魂入れず」が、あらゆる所で跋扈しています。もう、その習性から脱却したいものです。

未開の国を訪れた二人のビジネスマン。住民が全員裸足なのを見て、ひとりは、ここでは靴は売れないと嘆き、もう一人はここには靴の大市場があると驚喜した、というたとえ話は有名ですね。同じものを見ても、人はそこに異なるものを見ることの例えです。

 

この話を聞くほとんどの人は、「そりゃそうだ」と思うでしょうが、ビジネスの世界でその教訓が活かされているとは、なかなか思えません。

 

ある事業を始めようと提案を上げてみると、上司はこう答えます。

「なんで、そんな魅力的な市場なら、カネも技術もある既存大企業が参入しないのだ。それだけ、魅力がないということじゃないのか。」

 

また、既存大手参入している市場に、切り口を変えて参入することをまた上司に提案すると、

「そんな大手が参入している市場に入ってどうするんだ。切り口を少し変えてみたところで、すぐ真似されるぞ。その後は、物量作戦で木端微塵だ。」

 

どちらの上司の言い分も、一理ありそうではあります。でも、それでは、新規事業などするなということになります。なんか、おかしいですね。

 

 

管理職向け研修などで、SWOT分析がよく使われます。強み、弱み、機会、脅威を分析して戦略を策定してみようというパターンです。受講者が書く分析内容は、ほとんど差がありません。どの項目についても、社内での定説というか常識みたいなものがあるようです。「ウチの強みは技術開発力で、機会は中国市場の急拡大だ。技術力を活かして、中国市場へ打って出よう」みたいな。

 

それはそれで意味がないとは言いませんが、競合もきっと同じようなSWOT分析をしていることでしょう。大事なのは、自社にとっての意味のある見方であり解釈です。さっきの新規事業提案の例でいえば、既存大企業にはXXと見える市場が、我社にはYYに見えるという解釈です。その解釈する力こそを磨くべきです。

 

経営環境を分析しようとしても、経営環境という実体はありません。10人の盲人が、大きな象を触ってみて、それぞれ全く異なる生き物を想像するのに似ています。そこに、想像力を働かせて創造する余地があるのです。

 

「この島が靴の大市場になる」姿が「見えて」しまう人間が、イノベーションを引き起こしてきたことを忘れてはいけません。

 

ただ、「見たいこと」のみが「見えて」しまい、「見た」と確信することが、世の中にはあまりに多いことを認識しておくことも必要でしょう。客観性は大切です。

 

 

客観と主観とのバランスをとること、すなわち環境に適合するロジックと、環境を想造(イナクト)し自ら描く想像力、これらのバランスを取っていくことが、マネジメントなのかもしれません。

今月9日、作家の井上ひさしさんが亡くなりました。上智大学入学早々に読んだ「モッキンポット師の後始末」が、やはり最も印象に残っていま 井上ひさし.jpgす。モッキンポット師のような神父さんに会えるかな、と期待したことを懐かしく思いだします。

 

さて、井上さんの座右の銘に以下の言葉があります。

 

「むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに」

 

それぞれ一見矛盾した言葉を並べています。いろいろな捉え方があると思いますが、「どちらかを選ぶことは容易だが、あえて両方を追い求めよ。それが人生に奥行を与え、愉快に生きることを可能にする」と言っているようにも思います。この言葉は、大好きな言葉です。

 

 

ビジネスの世界にいると、どうしても二元論に捉われてしまいがちです。従業員の満足よりも売上成長だとか、今は価値向上よりもコスト削減だとか、トレードオフを見つけて、そのどちらかを経済性を基準にして選択することが経営であり、その選択の集合体が戦略であるといったように。ちょっと極端かもしれませんが、自分の家の庭にゴミが落ちているので、人のいない時にこっそり隣家の庭に投げ捨てるというような発想に近いのではないでしょうか。

 

完全に否定するわけではありませんが、そういった二元論や要素還元論では立ち至らなくなってきているのが、特にリーマンショック以降のような気がしています。

 

 

マギル大学のミンツバーグは、2002年のインビューで要素還元論をベースにしたアメリカ的経営の限界を主張していました。

 

早晩、アメリカ的経営はその成功ゆえに限界が訪れるでしょう。(中略)マネジャーが何らかの問題に直面した時、それを各要素に分解したり、教科書を引っ張りだしたりしたところで、最善の解決策が得られるのでしょうか。(中略)より大切なことは、知恵、すなわちさまざまな知識を組み合わせたり、重ね合わせたりしながら、それを正しく活用する能力なのです。(DHBR2003年1月号)

 

 

人は、井上氏が言うような、一見矛盾したことでも両立できるだけの知恵を持っています。そういう人間の集合体である組織も、またしかりです。かつて日本企業は、そこに優位性を持っていたのではないでしょうか。それにもかかわらず、バブル崩壊以後の日本企業(及びそれを構成する私たち)は、そのことを忘れ自らの強みを否定し、短期的効率性を追い求めて、愉快に生きることを放棄してきたようにも思えるのです。

 

 

偉大な先輩の逝去に際して、あらためて立ち位置を確認した思いです。

最近、モチベーションという言葉が、何かと殺し文句になっているように感じます。

「そんなことをしたら社員のモチベーションが下がってしまう。」

 

確かに、昔と比べて社員のモチベーション維持に、管理職や経営陣が苦心されているのはわかります。非定形業務が増える中、組織生産性は社員のモチベーション次第という傾向になっています。社員のロイヤリティーも昔ほど高くなく、気に入らなければ退職、というのも珍しくはありません。なので、社員のモチベーションに神経をとがらせているわけです。

 

長期的な生産性向上を期待できる施策(情報開示、複数キャリアトラックなど)の理由として、それが使われるのはいいのですが、できない理由としてモチベーションが使われることも多いように思います。「上司が部下を強く指導できないのは、部下のモチベーションに配慮しているから」といった場面です。

 

マネジメントとは、組織構成員に対して「短期の苦労を厭わず、長期的な恩恵を追求させる行為」ということができると思います。いいかえれば、短期的には苦痛が増えてやる気が低下するかもしれないが、それを克服することができるだけのビジョンを示し、勇気づけることこそがマネジメントなのです。

 

何事も短期と長期があります。最も安易なマネジメントは、将来のメリットを先食いし、今の満足度を高めるような行為です。(政府の国債発行がまさにそうですね。)こういう施策の理由として、モチベーションが頻繁に活用されている気がしてなりません。

 

だとすれば、経営者(管理職)の能力と「モチベーション」の使用回数は、逆相関にあるのかもしれません。もちろん、考えもなしの「俺についてこい」型マネジメントは論外ですが。

 

モチベーションという、なんとなく耳障りのいい「横文字」には、注意が必要です。心して使いましょう。

多少落着きを見せたトヨタのリコール問題ですが、数年後にはビジネススクールにおける重要な教材(ケース)となることは間違いないでしょう。きっと、教授やケースライターは、手ぐすね引いてウォッチしているに違いありません。

 

今回の問題は、経営上のあらゆるテーマを包含していると思います。私が思いつくのは、以下のような点です。

 

1)トラブル発覚時の広報のあり方

2)経営トップの外部コミュニケーションのあり方(平常時含め)

3)テクノロジーが大きく変化する際の対処のあり方

4)グローバル企業における意思決定メカニズム

5)技術志向と顧客志向の両立

6)ガバナンスのあり方

7)リーダー企業と国家の関係

8)成長のコントロール

 

 

以下、それぞれ簡単にコメントしてみます。

1)トラブル発覚時の広報戦略ですが、すでに82年に起きたJ&Jの「タイレノール事件」の有名なケースがあります。さんざん研究もされてきたテーマであるにも関わらず、なぜ今回トヨタは適切に対応できなかったのか(少なくとも、そう見えたのか)

 

2)上にも関わりますが、トップの役割は、内部においては最高責任者であり、また外部に対しては企業の代表としての顔であることは間違いありません。では、どういう顔としてコミュニケーションしたいのか、どういう場面であえてトップが顔となって外部にコミュニケーションすべきかの、方針を明確にする必要があると思います。

 

3)今回のリコールの一部は、電子制御に関するものです。今朝の日経によると、リコールの原因は、03年までは製造段階のミスと、設計段階のミスが半々だったのが、04年から設計段階の比率が急増し、09年度では7割にも達しているそうです。簡単に言ってしまえば、メカ中心の車づくりから、電子制御中心の車づくりへ04年から急速に変わってきているということです。その影響は、不具合の発見・対策を打ちにくくなっていることと、ある生産現場で製造された自動車に限定されていたリスクが、設計やソフトにのって世界中で生産された自動車へリスクが広がることを意味します。今、電気自動車への進化が話題ですが、実際は04年から電子化への技術革新が起きていると考えたほうがいいのかもしれません。その事実への対応が、まだ企業に出来ていなかった。

 

4)北米においてリコールの意思決定ができないことが、対応の遅れにつながったという指摘もあるようです。まさに、組織と意思決定の問題です。それが、リコール問題においてだけなのか、それともトヨタというグローバル企業の意思決定メカニズムそのものを問題にしているのは、それはよくわかりません。

 

5)技術担当副社長の会見を見ていると、技術に対するプライドが非常に高く、それがえてして顧客をないがしろにしているとの印象を与えてしまったようです。「悪いのは技術ではなく、使い方だ」と。理解はできますが、組織全体にそのような技術偏重があるとしたら、今後も問題は続くように思います。そのくらいトヨタは、多くのあらゆる顧客を抱えてしまったことを、理解すべきではないでしょうか。

 

6)日本企業の多くは、トヨタのように内部を重視するインサイダー・システム(IS)によっています。一方、アメリカはアウトサイダー・システム(OS)です。ISが、トヨタの高品質を実現したともいえます。しかし、ISではガバナンスが働きにくいのも事実です。今回の問題は、ISの弊害ともいえるかもしれません。グローバル日本企業にあったガバナンスの仕組みとはどのようなものなのでしょう。

 

7)トヨタはビッグ3の敵失もあり、世界一の自動車メーカーになりました。ビッグ3を抱えるアメリカ国民の心情はどうでしょうか。それまで、トヨタも北米で地域貢献もたくさんやってきたでしょう。半ばインサイダーとなっていると思っていたかもしれません。でも、そう単純ではないことが、今回露見したように思います。「出る杭は打たれる」のは日本だけのことではないのでしょう。

 

8)企業成長スピードのマネジメントは、古典的な経営の重要テーマです。4,5年前、急速な海外工場立ち上げに対して、トヨタの長老達が経営陣を諫めたということがありました。しかし、世界一間近のトヨタはスピードを落とすことはありませんでした。投資家など社外からの成長圧力も強かったのでしょう。アクセルを踏むのは簡単ですが、競争している時にブレーキを踏むことほど難しいことはありません。

 

 

以上、今回はトヨタが対象でしたが、他の日本企業で同じ問題が起きたとしても全く不思議ではないと思います。このトヨタケースを、十分研究する必要がありそうです。

オバマ大統領就任から一年以上経過し、ハネムーン時期は終わったようです。あの長い選挙戦からの熱狂もさめてきつつあります。ただ、アメリカという国があれだけの時間とエネルギーをかけて大統領を選ぶということには、大きな意味があるのだと思います。

オバマvs.jpg 

アメリカ大統領には、体力・気力、そしてあらゆるセグメントの人々を説得できる言葉の力が必要です。それも、付焼刃ではなく真の力です。それを証明するには、相応の時間が必要なのです。あの長い選挙キャンペーン期間は、そのテストなのであり、また訓練の場なのでしょう。

 

記憶に新しいところでは、GEのジャックウェルチCEOが後継者を選定するプロセスが、大統領選挙に似ていましたね。

 

翻って日本の社長就任プロセス。ほとんどが、前任者の指名でしょう。(近年指名委員会というのもありますが)それは、日本企業の構造や文化に合っていたのでしょう。一種の家督相続や部族長の選定プロセスに似ています。

 

トップに期待されるのは、組織の継承であり調整能力、そしてうまく神輿に担がれることでした。社長に選ばれるような人は、長い会社人生の中でそういう能力を磨き、生き残ってきたのです。期待能力は違いますが、長い選考プロセスを経てきたという意味では、アメリカ大統領と似ているとも言えなくもありません。

 

しかし、問題は日本企業のトップに求められる役割や能力が、バブル崩壊以降、特に08年のリーマンショック急速に変化していることです。経営環境変化に伴い、トップのあり方も変わってこざるを得ないでしょう。

 

 

昇格者研修というものがあります。企業内で階層を上がると、必要とされる能力や意識が大きく変わるため、昇格前後に短期間でそれらを修得させることが目的です。

 

会社組織の中で、もっとも昇格時に「世界」が変わる階層はどこでしょうか?平社員から管理職に上がるときでしょうか。いえ、違います。社長に就任する時です。特に最近、トヨタの社長会見や証言を見ていて、つくづくそう感じます。

 

トヨタはともかく、上場企業で社長就任前にどれだけの専門トレーニングが施されているのでしょうか。「就任一期目では、何もできなかった。二期、三期やって、やっと自分のやりたいことができるようになる」という社長のコメントを多く耳にしませか。そんな悠長なことで、今どき大丈夫なんでしょうか。アメリカ大統領ではありませんが、就任100日で必要な方向性を示し、基盤を固めるくらいでなければ、グローバル競争に生き残っていけないでしょう。

 

もっともトレーニングが必要なのは、社長候補(内定)者なのではないでしょうか。

トヨタのリコール問題は、当初の想像以上に波紋を広げています。さまざまなメディアで、多くの意見が湧き上がっています。

トヨタ.jpg 

 

トヨタには、「目立な。道を歩くときは、端をうつむいて歩け」という奥田氏のかつての発言のあるように、突出することを恐れる文化がありました。謙そんの美徳というよりも、トヨタのような田舎者が目立って、調子に乗るとろくでもないことが起きる。華やかさは他社に譲って得だけ取れ、というしたたかな計算に基づくものだったと思います。(私も三河出身なので、その感じよくわかります)

 

しかし、10年くらい前から、最強トヨタという言い方が一般化するのに歩調を合わせて、目立つなという文化が薄まってきたように感じます。

 

 

もうひとつは、業績面ではグローバルリーダーになったものの、中身はそこまで成熟していないことが推測されます。

 

米自動車コンサルタントのマリアン・ケラー氏が、今回の騒動について、流石というコメントを発言しています。

 

それでも、品質問題に関する豊田章男社長の2月初旬の会見が(トヨタがNHTSAにフロアマットの取り外しなど安全対策実施を通知した)昨年10月、いや2週間前でもいい、もっと早く行われていたら、(米国における)トヨタ批判の大合唱はこれほどまでは高まらなかったのではないか。トップが責任を公にすれば、後はメーカーとクルマの所有者とのあいだの問題として収まるからだ。

 だが、それをしなかったうえに、別の経営幹部が要らぬ発言までしてしまった。(トヨタの)佐々木眞一副社長がインディアナ州のCTS社のアクセスペダルを採用した理由について、「現地への貢献を考慮したため」という趣旨の発言をしたのは、はっきり言って、言語道断だ。もちろんCTS社の技術力を評価するという前置きもあったが、あのひと言だけで、まるで現地のために劣った企業と取引したと言っているように聞こえてしまった。

やや厳しいことを言えば、トヨタはグローバル製造企業であっても、真のインターナショナル企業にはなり得ていないということだろう。異なる文化を超えて意図するところが正しく伝わるよう、何らかの助けが必要なのではないか。

Diamond on line 2/15 http://web.diamond.jp/rd/m595094

 

トラブル発生時の社長の出方と、副社長の発言。それぞれトヨタ側にも言い分があるでしょうが、世界ではその言い分では通らないのです。そこが、トヨタがグローバルカンパニーになりきれていないまま、影響力が巨大になってしまった不幸なのだと思います。製造者としては世界的だが、企業としてはそうではないということなのでしょう。

 

このような状況は、トヨタに限ったことはありません。ケラー氏のいう真のインターナショナル企業に近づくため、何が日本企業に必要なのでしょうか。

CLOChief learning officer)という言葉も、とんと最近聞かなくなりました。試しにグーグルでCLOを検索してみたところ、トップ10になんと一件しか、この意味でのCLOはあがってきません。ローン担保証券(CLO)のほうが多く表示されます。ここまで認知されていないとは思いませんでした。

 

その理由は、人事部門と人材開発部門の関係が、日本とアメリカでは大きく異なることにありそうです。

 

多くの米企業では、いわゆる人事部門は、雇用関連の規制の遵守、社員に対する公正な待遇とその一貫性維持を目的に、人事制度策定、給与計算や福利厚生、従業員の個人記録の管理などのいわゆるアドミ業務を担う。一方ラインは、部門ミッションを達成するために採用、育成、評価、昇進などの実務を担う。つまり、企業業績に直接関連する部分は、ラインに権限があるのです。

 

アメリカでは一早く、経営環境の不確実性増大とナレッジワーカーの急増という状況で、社員や組織の能力が競争力の源泉になることが明確になってきました。そこで、経営戦略と直結した、最重要資源たる社員の能力開発や管理が経営テーマになってきたのです。だから、ラインに任せていた人材開発機能を、CLOのもとに束ねトップに直結させたのでしょう。これが本来のCLOです。

 

日本企業は、それとは大きく状況が異なります。日本企業の特徴は、相対的に人事部の権限が強いことです。人事部は、アドミ業務だけでなく採用や配置・異動、昇進昇格などのツールを使って、全社的観点から最重要資源であるヒトを動かし、企業全体の成果向上に貢献してきたのです。ただし、育成や能力開発に関しては、職能資格制度を補完する階層別研修や管理職研修を主管するにとどめ、あとはOJTと称してラインに任せていました。米企業がCLOに期待する役割の多くは、人事部が担ってきたといえるでしょう。

 

したがって、日本企業の間では、「いまさらCLOといわれても、そんなの必要?」という認識なのでしょう。数年前、お決まりの舶来志向の下で一時話題になりましたが、そこまでです。

 

しかし、ラーニング支援機能は、日本企業では不足したままです。環境変化は日本企業にも訪れているにも関わらず、CLOのもっとも重要な機能である戦略的人材開発機能が、貧弱なのです。それは、大きな人事部門における一担当としての教育・研修セクションが、引き続きそのまま温存されているからなのでしょう。しかしながら、環境変化に敏感な日本企業のトップは、CLOとは言いませんが、人材開発部門の強化には大きな関心があります。ここに、トップと人材開発現場の間の大きな溝が見られます

 

CLOという言葉に惑わされず、企業生き残りのために何が必要なのかを、徹底的に検討すれば自ずと答は見えてくることでしょう。

つい最近、ある友人がアメリカでIBMのマーケティング部門トップとお話しする機会があったそうです。そのトップは、広報出身者でした。一般的には、広告・宣伝や営業で実績を上げた方が、トップになることが多いのですが、あえて広報出身。友人がそのことを尋ねると、そこにIBMの経営スタンスが表れているとのことだったそうです。

 

従来は、製品やサービスの機能やブランドイメージを顧客に伝え購入する気にさせる、その仕掛けを考えるのがマーケティングだったはずです。

 

ところが、現在ではIBMという企業そのものを顧客や社会へ伝えることが、最大のマーケティングだと考えているようです。

 

製品・サービスもブランドも企業活動の結果にしか過ぎません。結果は、調べれば誰でもわかります。大事なのは、結果を生みだす原因のほうなのです。どんなに美しい製品を販売していても、それを生みだす企業がBlackだとしたら、いずれその製品の化けの皮が剥がれるといことを、一般消費者が気づいてしまっているのでしょう。

 

つまり、顧客にとっては、「何を売っているの?」よりも「あなたは何者なんですか?」の方が、大切な問いとなっているというわけです。

 

これは、化粧で飾れず、素顔で勝負しなければならないということです。素顔を美しく保ち、かつ素顔をできるだけたくさん見てもらう活動がマーケティングだと解釈できます。

 

販促ツールの一つとして、地球環境保護活動を訴えるような活動ではだめです。エコという化粧に過ぎないことは、簡単に情報収集できる現代においては、すぐにばれます。逆効果でしょう。

 

 

企業そのもの、ひいては社員ひとりひとりが顧客にさらされているということなのです。企業が社会的存在であるのであれば、それも自然なことに思えます。社会にとって好ましい経営思想や哲学を持つ企業が生き残っていくという、適切な淘汰が始まりつつあるのかもしれません。