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ミシマ社(http://mishimasha.com/)という出版社をご存じでしょうか?「原点回帰の出版社」を旗印の、設立10年、社員10人ちょっとの規模でいえば小さな出版社です。しかし、出版業界では知らない人はいない、注目の出版社です。その三島社長の話を聞く機会が、昨日ありました。とにかく面白かったです。

 

1975年生まれの三島さんは、過去に大手出版社二社で勤務経験があります。学生時代、海外放浪にはまっていた三島さんは、最初の出版社では仕事の面白さに、目覚めますが、あるときふと「そういえば旅行に行っていないな」と気づき、辞表を出して再び海外放浪に出ます。辞表に書いた理由は、「世界制覇のため」。地図持たず計画も立てない海外放浪では、野生の勘のようなものが磨かれるそうで、その感覚を失いかけて危機感を抱いての退職だったようです。

 

帰国後別の大手出版社に就職しますが、そこは固い会社だったらしく、息苦しさに耐えられず、そこにも辞表を。起業は全く考えていなかったそうです。実家が京都で帯の問屋をやっていたそうで、中小企業の悲哀を子供心に感じ、自分が会社を立ち上げるのだけはいやだったそうです。しかし、ある晩ふと「そうだ、出版社を始めよう」と思いたち、その時にほぼ今の会社のアイデアは思いついたとのこと。前の出版社時代のお世話になっていた内田樹さんに、半分止めてもらおうと思って相談にいったところ、即座に「それがいい」と言われ拍子抜けしたそうです。他にも多くの方に相談したのですが、誰からも否定されなかったそう。きっと、出版業界に近い人は誰もが今の業界の状況に閉塞感を抱き、誰かがなんとかすべきだと考えていたのではないでしょうか。

 

「原点回帰」とは何か?出版業とは、著者の熱い思いを増幅させながら読者に届けることがその役割です。しかし、返品率4割を超える現在、たくさんの本は出すものの、「売れそうな本」しか出さなくなっています。「売れそうな本」とは、有名な著者、売れているジャンルといった、過去の実績やデータで決まります。編集者は、多くの読者が買ってくれそうな本を、「マーケティング」的観点で予測し、既存の著者にそれを書いてもらう。一見、マーケティング重視で良さげですが、こと「本」に限ってはそれでは先細ることは目に見えています。「熱」がどこにもないからです。三島さんは前職時代、出版会議などでどんどん熱を下げていく会社の手続きを痛感したそう。だから、自分たちは熱を持つ著者を見つけ、それを出版のプロセスでいろいろな人間が関わることでさらに熱量を高めて、それを読者に届けるという方針を決めました。それが「原点回帰」。考えてみれば当たり前の話です。ただ、いい本を作ってもそれが書店に並ばなければだめ。でも、今の取次経由の流通に乗せても、思うように流してもらえません。そもそも、新しい出版社が取次からもらえるマージンは微々たるもの。そこは、歴然とした実績、つまり社歴がものいう既得権益の世界なのですから。そこで、必然的に取次を通さず、自社営業で書店に本を届けるスタイルになったのです。

 

ミシマ社は10人強の社員ながら、東京自由が丘と京都というふたつのオフィスを持っています。2011年の震災直後、思い付きで京都の古民家を借りて移ったそうです。放射能による漠然とした不安があったそうですが、もともと地方発で出版することは考えていたそうです。もっと、地方から情報発信がなされるべきだと。三島さん自身は京都に移り、あらためて東京で出版することのメリットを痛感したそうです。だから、東京に比べて不毛ともいえる京都で、出版をしていくためには、本質を考え抜き決死の覚悟で仕事せざるを得ない。そこから様々なアイデアが生まれたそうです。水のない砂漠のようなところに生えるトマトは、生命力が強く甘いそうですが、人間もきっと同じなのでしょう。あえて、砂漠に出て勝負したミシマ社は、そこでさらに強くなったのです。

 

京都にいることで、東京を中心に動く既存の巨大なシステムに乗らない意思を維持することができる。その既存システムは、既に崩壊しつつあるのですが、そこから外れることは、既存プレイヤーにはなかなかできないのです。

 

その後、出版業界の常識を次々に壊す実験を続けています。例えば、毎日更新するウェブマガジンを支援する年2万円の有料サポーターを募っています。サポータには、毎月それにのった記事を紙版にして届ける。紙の完成版は毎月、紙も変えたりして、紙の本に関する様々な実験を行っています。紙の本をどうすれば残していけるかの、試行錯誤の場にもなっているのです。それができるのは、有料サポーターがいるからです。その成果のひとつとして、割付も特集もない年に一冊しか出さない雑誌(注)や、ウェブでしか文章を読まない(本になじみのない)人にも読了感を味わってもらうための100ページ以内の「コーヒーと一冊」シリーズも始めました。出版業界では、200ページにも満たない本は出さないという常識があるのだそうで、それを打破したのです。

 

他にもミシマ社ならではの様々な取り組みがありますが、会社としての課題は三島社長の想いや考えを、いかに新しい社員に移植するかだそう。なにぶん、「考えるな、感じろ!」が社員に対する育成方針(?)だそうで。

 

衰退する巨大システムを変革するのは、きっとこんな小さくてユニークな新参者なのではないかと思います。きっと、これは出版業界だけの話ではなく、もっと大きな日本社会のシステムにも重なるのかもしれません。そう考えると、ますますミシマ社から目が離せません。


(注)一般に雑誌では、特集記事や連載記事をどう構成し順番を決め割り付けていくか、つまり目次を作っていくかが編集の腕の見せ所。「ミシマ社の雑誌ちゃぶ台」では、記事の入稿順に雑誌に並べていく。そして最後に結果としての目次が裏表紙に掲載される。一見無茶苦茶だが、編集者である三島社長は、前に入稿された記事に影響を受けながら次の記事の編集作業や取材を行うため、三島社長の頭の中での時間の流れにそった順番、構成で雑誌ができることになる。読者は三島社長の思考を追体験しながら、雑誌を最初から最後まで全部読んでしまうことに驚くという。

この1週間で、ふたりのスターが現役を退くことを決めました。セブン&アイHLDの鈴木敏文CEOと、水泳の北島康介選手です。

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私にはこの二人の引退が、少し重なって見えました。どちらも、世界的にみてもその分野の第一人者であること、相対的に高年齢にも関わらずトップを目指し続けたが、それが叶わないことが分かり引退を決めたこと。どちらも二人に共通します。

 

北島選手は言わずもがなですが、鈴木氏についてはもう少し補足が必要でしょう。私にとっても思い出深い経営者です。

 

四半世紀前の駆け出しコンサルタントの頃、あるプロジェクトでセブンイレブンのことを調べました。当時からNo.1コンビニでしたが、その理由はなんだったか?NO.1にもかかわらず、組織に浸透したその改革マインドの強烈さは尋常ではなかった。それがダントツNo.1の理由だと見定めました。

 

セブンの実質創業者である鈴木氏がセブンイレブンで始め、その後常務を務める親会社のイトーヨーカ堂でも展開し続けている「業務改革」(業革)がその秘密です。

 

一般に業革といえば、業績が低迷したときにプロジェクトチームが結成され、一定期間で成果を出すという活動でしょう。ところが、鈴木氏はそれを全社員対象とした定常業務としたのです。普通じゃありえません。毎週火曜、全国からマネジャークラス以上を本社に集め、徹底的に議論します。その後、参加者はそれを自分の部署に展開します。全国展開しているチェーンストアで、それをやるのにどれだけのコストをかけているのでしょうか。それでも、鈴木氏が対面コミュニケーションにこだわったのです。「交通費なんてたかがしれている。それを上回る効果が上がるから。」というコメントを当時読んだ記憶があります。「しみったれた」経営者ばかりのこの時代、ものすごい戦略眼だと感動しました。ご存じの通り、その後も鈴木氏の戦略眼は冴えまくり、83歳の現在に至ります。

 

さて、先週の引退騒動です。報道によると、鈴木氏は7年社長を務めた井阪セブンイレブン社長を退任させようとして、それが叶わず引退表明したとのこと。指名委員会では、「最高益を出し続ける現社長を退任させるのは、社会的にみてどうか」との反論が出されたそうです。また、社外取締役によるガバナンスが効いたとの好意的意見も多数あるそうです。

 

どちらも普通の会社であればその通りです。しかし、セブンイレブンは「普通」の会社ではない。

 

鈴木氏は、セブンが最高益を続け業績絶好調とはいえ、それに満足はしてない。いや、大きな危機感を抱いていたのではないでしょうか。最高益により組織の緊張感が緩むのではないか、ローソン、ファミマという競合が体制を整えひたひたと追い上げてくるのではないか、そして何より83歳という自分の齢を考えると、もう長くはできない、早く後継者を見つけ出さなければならない。タイムリミットがもうすぐだ。

 

鈴木氏の後継者に値する人材は、そうそういるとも思えません。変革を続け、新しい戦略を次々打ち出していける人でなければなりません。7年前、井阪社長にその可能性を見出し、社長の場を与えそういった人材に育てようと決意したのでしょう。7年という年月は決して短いものではありません。しかし、7年たっても鈴木氏の期待するレベルには届かなかった。最高益など関係ありません。それは誰が社長をやっても実現できたと鈴木氏は考えたのでしょう。実際そうだと私も思います。欲しかったのは、1020年後のセブンを支える事業の種まきだったのではないでしょうか。

 

鈴木氏は次の候補者をいち早く探しだし、育てなければとの焦燥感にかられた。自分の眼の黒いうちに、見つけ出し育てなければ・・・。経営者として残された時間はわずかだが、ぎりぎりまで最前線で戦い続けようと、社内外から批判されることを覚悟で、指名委員会や取締役会に提案したに違いない。

 

しかし、残念ながらこの危機感は社外取締役には共感してもらえませんでした。「最高益なのに・・」という、非常に外野的な見方しかされない。やはり、当事者ではない、社外のそれが限界でしょう。でも、鈴木氏は諦めない。取締役会であれば、社内取締役で半数を取れる、そこで決議しようと。

 

しかし、社内取締役からも反対票が出され否決。ここで鈴木氏は引退を決意。これまで、社内の大多数が反対しても鈴木氏は自分の意見を押し通し実行し、そして必ず成功してきた。それがセブン&アイの経営手法だった。半数以上が反対するくらいのアイデアでなければ業界の変革などできない。セブン銀行だってコーヒーだってそうです。常識を打ち破ることでセブンは常にトップを走り、二番手以下はそれを真似して追いかけてきたのが、コンビニ業界です。

 

ところが、今回は7期最高益を続けた社長を交代させるという「非常識」に、社内の同意を得ることができなかった。ということは、もう鈴木氏のこれまでの手法は使えないということであり、鈴木氏の存在意義がなくなったということです。それでは引退するしかないでしょう。

 

創業家との諍いなどの声も聞こえてきますが、それは確かにあったのでしょう。でもそれは、鈴木氏引退の本質ではない。本質は、鈴木氏の「非常識」が社内で受け入れられなくなったということです。「ガバナンス」「コンプライアンス」「透明性」といった、社外取締役をはじめとした外部から聞こえてくる言葉にはもう逆らえない・・・。

 

北島選手と同様、これまでのやり方でぎりぎり努力してきたものの、ついに結果を出せなくなった、だからもう引退するしかないのです。

 

鈴木氏の今回の引退騒動での最大の被害者は株主です。これでセブンイレブンもセブン&アイグループも「普通」の会社になることでしょう。そして、最大の受益者は競合企業です。

 

社外取締役を中心としたアメリカ型ガバナンス制度は、「普通」の会社には確かに効果があるかもしれません。しかし、破格の経営者が経営する「すごい」会社を「普通」の会社にかえていくことにもなることが、今回見えてきました。そうなると、最大の受益者はアメリカという国かもしれません。

最近というか10年くらい前から、電車の中で新聞(紙の)を読んでいる人はほとんどいなくなりました。私はまだ読むので、社内で新聞を読んでいる人が隣や前にいると、思わず同好の士だと親近感を持ちます。

 

他の乗客はほとんどスマホをいじっています。ゲームかSNSですね。通勤時間に何に時間を費やすかは、結構大事な判断だと思います。SNSでは、主に友人の投稿を読んでいるわけで、それがそんなに面白いのかと私は思ってしまいます。それよりも、プロの新聞記者が書いた記事の方が質も高く、有益に決まっています。にもかかわらず、SNSに多くの時間を費やす人の方が今や「ふつう」なので、友人の寄稿がそれだけ面白いと判断せざるをえません。なぜだ??

 

これは、私にとって謎でした。

そこに、一つの回答を得ることができました。佐渡島庸平著「ぼくらの仮説が世界をつくる」にこうあり、なるほどーと納得!

 

一方、SNSでつながっているのは、知り合いや興味のある人たちです。親近感のある人たちとも言えます。身近な人が発信するから、ぜんぜん知らないプロの文章よりも「面白い」と感じるのです。

 面白さというのは、<親近感X質の絶対値>の「面積」だったのです。

 

「親近感」という要素が加わることで、多くの謎が解けます。「おふくろの味が一番」なのは、質ではなく親近感ゆえだそうです。

 

私はこれまで、質と親近感が同じレベルで比較されるとは思いもよりませんでしたが、言われてみればそうかもしれません。

 

親近感をもう少し掘り下げてみたいと思います。なぜ、人は親近感があると面白く感じるのか。

 

親近感とは、対象と自分に共通項があることです。友人とは多くの経験を共有しているでしょう。知らない人でも高校が同じというだけで親近感を持つのは、何かを(何かわかりませんが)共有しているはずだと感じるからでしょう。それを媒介にして「つながっている」はずだと思える。

 

つながっている対象と共通項があるということは、相手(対象)の断片的な発言から、それを起点として様々な想像をふくらませることができます。そこに書かれた文字情報以外の既知の情報と結びつけることで、全く未知の人の発言の何倍もの情報(思い込みも含め)を獲得できる。だから想像の余地が膨らみ、共感を得やすくなります。

 

人間は、本能的に「共感」を好ましいもの、つまり「面白い」と認識するのでしょう。また、想像を膨らませること自体を「面白い」と認識するのではないでしょうか。また「面白い」ものを想像して作っていくとも言えるかも。

 

これらは供給者である企業に、どのような示唆を与えるでしょうか。

 

あらゆる業界で、質の絶対値で差を大きくつけることが難しくなっています。だから、親近感に勝負の土俵が移りつつある。親近感とは共通項を持つことであり、それは想像を刺激する体験を共有し共感すること。User experienceにこだわったAppleは、最も親近感の醸成に長けた企業と言えます。Apple toreに入った瞬間から親近感醸成プロセスは始まります。User experienceとは、Apple(製品もサービスも)とユーザーの相互作用に他なりません。

 

何らかの「場」を共有し、そこで顧客と共働でなにかをつくりあげていくような「体験」をもたらすサービスは「親近感」重視のビジネスといえます。それがネット上である場合もありますが、リアルな世界の方がよりパワフルです。ただし、規模は稼ぐのは困難。

 

親近感を醸成する仕組みの設計、これからの重要なテーマです。


追記:この佐渡島氏の著書は、おっ!と思わせる新鮮な着眼がたくさん書かれており刺激的です。情報収集→仮説構築ではなく、仮説構築→情報収集という記載も、我が意を得たりでした。

ぼくらの仮説が世界をつくる
佐渡島 庸平
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日本代表する大企業であり、またガバナンス改革の先駆けとも評価されていた東芝が、2008年以降で純利益の約1/3にあたる1500億円も利益をかさ上げしていた今回の事件は、日本企業の経営についていろいろなことを考えさせます。

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報道を見る限り、西田元社長と佐々木前社長の軋轢がこういう事件を引き起こしたのであり、田中現社長を含むこの三人を解任することで幕引きのようにも見えなくもありません。

 

また、現在強烈に推奨されている社外取締役をはじめとしたガバナンス改革は意味がないのでは、との意見も見られます。

 

まず、はっきりさせるべきはこの事件とガバナンス改革とは無関係ということ。ガバナンスとは、正しい情報が経営陣(社外役員含む)に提供されることが前提で、その上でその情報に対してどのような意思決定がなされるか、そのプロセスが適切になされるための仕組みです。ガバナンス制度が正しいからといって、正しい結果がでるとはいえません。必要条件であり、十分条件ではありません。

 

では、今回なぜこのような事態が起きたのか。素人でも思いうかぶ疑問を列記します。

 

1)社外役員がこの不正を見抜けなかったのは理解できますが、なぜ詳細な会計情報を把握している監査法人が見抜けなかったのか?

2)トップが目標達成に向けて、下にプレッシャーをかけるのは当然です。でも、なぜ麻薬のように明らかに後で大変なことになることが分かりきった不適切(違法でなかったとしても)な会計処理を、歴代の社長は(暗にであったとしても)促し続けたのでしょうか?(オリンパスを思い出します)

3)同様に、なぜそのトップの指示に対して、その下の責任者は拒否することができなかったのでしょうか?

 

問題の原因は、三人の経営者固有の資質やスタイルにあるとは思えません。もっと構造的問題がありそうです。

 

目先の利益を優先し、将来より大きな損失が発生する可能性に目をつむるという心理です。実際、今回の事件で東芝が失うであろう損失は、1500億円を大きく超えるでしょう。

 

なぜ、経営者がそんなことをしてしまうのか?

ひとつには、自分の社長任期(4年程度か)にさえ露見しなければ逃げられるとの楽観的認識があったのかもしれません。

 

もうひとつは、自分は直接的には不適切な指示は出していない、部下がそう解釈したにすぎないとの、言い逃れができるとの安心感もあったのかもしれません。確かに、日本の社会では、直接的に表現しないでも、相手が慮って解釈してくれる、そういう人こそ「大人」でありできる人間だ、との暗黙の了解がある気もします。しかし、相手が拡大解釈して、発信者の思惑を超えてしまうような間違いもよく起きます。

 

こうなると、「誰が悪いのか」を誰もわからなくなってしまいます。新国立競技場のドタバタもまさにそう。犯人が分からないので、何となく責任追及が曖昧になり、その結果同じ間違いをえんえんと繰り返す。これは役所も企業も同じです。

 

では、プレッシャーを受けた部下の方はどうでしょうか。なぜ拒否できなかったのか。ひとつは、不適切なことをやってしまったとしても、その責任は自分ではなく上にある、との逃げ道があると思い込んでいたのか。しかし、この論法は先に述べたように、相手方にも逃げ道があります。

 

もうひとつは、「私腹を肥やすためではなく、会社のためにやっているんだ」と自分に言い聞かせているのかもしれません。それは事実だとは思いますが、「会社のため」になると確信を持てているのでしょうか。

 

責任をだれが取るか、誰のためかの議論以前に、「不適切なことは、何があってもやらない」との信念があるかどうかです。その信念がないから、こういう事件が起き続ける。これは、トップも現場責任者も同じです。日本を代表する俊英が集まっている企業の、さらにその上澄みの人たちが、なぜそうなのか。ここが最も大きな疑問です。


絶対的神を持たない多くの日本人ですので、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の心理が、善悪の基準を曖昧にさせるということはあるかもしれません。(「みんな」とは「うちの会社」のみんな)

 

今朝の日経新聞で、日本取引所前CEO斉藤惇氏はこう述べています。

「新しい形を入れようという試みは悪い事ではない。けれども、その後の人材育成などを含め、真剣に会社を変えるための行動が伴わなければ、空回りに終わってしまう。経営者が自分の頭で考えることがますます重要になってくる。」

 

新しい形を作ることで満足してしまい、その後は思考停止に陥ることは、よく見られます。しかし、「自分の頭で考え」ない経営者がいるのでしょうか?驚きです。多くの経営者を見てきた斉藤氏がいうのだから、そうなのでしょう。

 

したがって、今回の東芝の事件から導き出される最も重要なメッセージは、「経営者は自分の頭で考えろ」なのではないでしょうか。なんとも情けない話ですが。考えない経営者の下に、考える部下が大勢いるとはとても思えません。まずは、経営者の考える力を高め、さらに順々に下の層にもそれを広めていく。なんとも寂しい結論になってしまいましたが、それが現実であり、そこから手を付けるべきなのだと思います。そのように、経営者の首に鈴をつける役割が、最も(よその人である)社外取締役に期待されていることなのかもしれません。やれやれ、・・・です。

 

長年いろいろな企業の幹部候補の研修に携わっていると、様々な傾向が見えてきます。最近強く感じるのは、リスク回避の傾向が以前に比べて高まっていることです。

 

たとえば合理性を重視することを強調すると、いくつかのオプションの内で最もリスクが低いものを選択する傾向が顕著です。八割くらいはそうです。どうやら、合理的選択=リスク回避という等式が成り立っているようなのです。

 

いうまでもなく、合理的選択とは、リスクとリターンのバランスも考慮したうえで、もっとも好ましいものを合理的に選択することです。ローリスクローリターンばかりを選択しても、企業は成長できません。ここから見えてくるのは、日本企業が長年置かれた環境に適応してきた社員の思考パターンです。つまり、リスクを取るメリットよりもデメリットのほうが大きいという環境だったのです。

 

デフレ経済では、キャッシュがもっとも強い。リスクの高い投資よりもキャッシュを貯めこんだほうがいい。また、国内市場は成熟しているので、リスクに見合う投資案件がそもそもあまり見当たらない。銀行も不良債権で苦しんだため、リスクの高い案件には貸したがらない。こういった環境に適応した企業組織では、リスク回避に長けた人材が相対的に評価される。従って、必然的に社員のリスク選好はリスク回避型となっていく。これが日本経済の失われた20年を形づくってきた。

 

こういう組織で、創造的発想とか多様性重視の人材育成と旗を振ったところで、砂漠に水を撒くようなものです。リスクを適切にとらない経営陣のもとでは、リスクを取れる人材は育ちません。たとえば、ある企業では、変革人材を育成することを経営の最重要課題と認識し、大々的な人材育成プランを立案し実施しました。ところが、年度予算の達成が難しくなると、出張自粛のため地方勤務の受講者は不参加にしたり、またもともとスケジュールされていたある研修の実施を、次年度に延期したりもします。こうしたことは、社員に対して間違ったメッセージを発信しかねません。

 

BCGの御立氏は、こう書いていました。

「競争優位とは、同じ量のリスクをとって、競合企業よりも高いリターンを得ること。あるいは、同じリターンを得るためにとるリスクがより少なくて済むこと」

つまり、企業であっても個人であっても、リスクとリターンのトレードオフから、どうにかして少しでも好ましい方向に持っていくことを目指すことが、「経営」であり「仕事をする」ということなのだと思います。単にリスク回避をすることであれば誰でもできます。難しいトレードオフからの逸脱を目指すから、そこに人間の創造性や知恵が発揮されるのです。その結果、競争優位が生まれ持続的成長が可能になる。

 

たとえ失敗したとしても、リスクを取ることが評価される風土にならなければ、不確実性がますます高まっていくこれからの時代、企業も個人も生き残っていけないでしょう。さらに言えば、リスクを取った結果、失敗しても成功しても、そこから「学ぶ」ことができる、そんな企業や個人が勝者になることは間違いない。リスクを取らないことは、すなわち敗者への道なのです。

 

では、どうすればリスクをとる意識が芽生えるのか。ひとつは、「リスクを取らないことで失うこと」を明確に認識することです。リスク回避は、ゼロではなくマイナス。つまり機会損失の概念です。どうも我々日本人の思考には、機会損失の意識が欠落ししている。民族的な思考の癖なのかもしれません。こういうところから、一人ひとりの意識変革を促す、地道な作業が必要なのです。

グローバル人材育成が、近頃のトレンドのようです。国内市場の成熟が明らかとなった今、海外に打って出ることが多くの日本メーカーの唯一の生き残り策となっていると考えられているからなのでしょう。

 

今やそのトップランナーである、ユニチャームの高原社長の講演を先日聴きました。それによると、海外進出成功の秘訣は、国内のエース級を率先して海外赴任させることにあるそうです。例えば、国内の営業で高い実績を挙げている20年選手を、いきなり駐在させ10年単位で任せる。TOEIC250点でも全く問題ない。語学が得意で海外経験も豊富な中途採用者や若手は間違っても出さないそうです。重要なのは「(担当分野において)仕事ができること」と「ユニチャームの価値観を体現していること」のふたつだけです。ものすごくシンプルです。

 

現在の執行役員も半分以上は海外駐在中かその経験者です。会社にとって海外市場は戦略的に重要だからそこに優秀な人材をシフトさせる。結果的にその経験者が出世していく。会社の方針がシンプルで明確、一貫性があります。当たり前といえば当たり前ですが、多くの企業ではそれができない。

 

この考えの前提には、「本来能力の差なんてたいしたことない。大事なのはそれを開発、発現させる機会を会社が適切に提供しているかどうかだ」という考え方があります。国内で成果を出せる社員であれば、海外でも出せるはず。さらには異なる経験を積むことで、さらに能力が開発されるだろうというわけです。

 

えてして人材開発担当者は、経営陣の意向を受けて「グローバル人材」というなにか特殊なスキルを持った人材を発掘、育成しようと努めます。またそれを売りにするコンサルタントやベンダーが跋扈します。本来果すべき役割は、グローバル人材を育成することではなく、内外問わず成果を出せる人材を育成することです。それすらよく考えられていないにもかかわらず、新たなグローバル人材というお題を与えられて、右往左往しているかのようです。

 

 

私が戒めとしている言葉のひとつに、「小人閑居して不善をなす」があります。人間としての小物は、暇を持て余すと悪いことに走りがちという意味でしょう。だから「できるだけ忙しくしていよう」とも読めますが、私は「考える時間や余裕があると、つい考え過ぎてしまって物事を複雑にしてしまい、結果として意図せず周囲や自分に悪い影響を与える判断をし、行動してしまう」と解釈しています。これは個人レベルだけでなく組織にも言えることで、避けがたい人間の習性といえます。

 

その解毒剤は「シンプルに考える」ことに尽きると思います。なぜアップルは、あれだけ巨大企業になっても、創造性も一貫性も失われずにいられるのか。その秘密は、ジョブズが非常にこだわった「シンプルさ」への信仰にあったのだと、「Think Simple」(ケン・シーガル著)を読んで腑に落ちました。

 

「小人閑居して不善をなす」とは、「Think Simple」の反語だったのです。シンプルなんて使い古され手垢が付きまくっている言葉ですが、成熟した時代にその重要性はますます高まっていくことでしょう。



 

Think Simple―アップルを生みだす熱狂的哲学
ケン・シーガル 林 信行
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経営者がぶれないことは、強い企業のもっとも大きな条件だと思います。経営者がぶれないということは、辛抱強い経営ができるということです。その典型はジョブズのアップルとベソスのアマゾンが双璧でしょう。ジョブズ亡きあとベソスに注目せざるをえません。

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利益が出るまで辛抱強く投資を続けるのは、創業期からの遺伝子のように見えます。ベソスが辛抱強いのは、競合には目もくれずひたすら顧客を起点にしているからだと考えられます。一般に、顧客ではなく競合を意識した経営では、経営環境のわずかな変化に対応して素早く動こうとする競合に遅れまいと、さらに迅速に行動しようとつとめます。こうした動きの連鎖の結果、企業行動の振幅はどんどん大きくなっていきます。IT業界ならなおさらです。しかし、その結果膨れあがる在庫の山に埋もれるようなことになってしまいます。横並び意識の強い日本企業では、もう何十年もその繰り返し。

 

一方、顧客起点で、顧客からの高い評価を獲得すべく新事業を構築するには、長い時間が必要です。もちろん先行企業の後追いであれば、それほど時間は必要としません。ただもしそうなら、顧客を見ずに競合を見る経営ということになります。つまり、顧客中心主義とイノベーション(先駆者)と辛抱強さはつながっているのです。

 

でも辛抱はそう簡単ではありません。つい早めに諦めたくもなります。撤退の意思決定を迅速にすることも時には必要ですが、顧客のことをどれだけ考えて経営しているのかと疑問に思うことがあります。 

ベソスは、こう述べています。(「日経ビジネス」12/4/30号より)

 

新事業を始める際には、私たちは経験が不足しています。その費用を顧客に払わせるようなことをしてはならない。初めて何かする時には、必ず授業料を払わねばならないのです。未経験でわからないことがあるから我々は学習する。学習期間は投資期間です。うまくできるようになったら、投下資本利益が向上し、その投資は利益を生むものに化けます。

 

これは、日本企業の経営者の言葉のように思えませんか。短期志向の株主の多いアメリカで、ひたすら学習する期間を持ち続けることは、容易ではありません。長期的視野による経営は、日本企業の代名詞だったのですが、今やそうではないようです。

 

 

もうひとつ、辛抱強い経営ができるのは、自らの判断、洞察力に自信があるからでしょう。ベソスは、電子書籍に関連して以下のようにコメントしています。

 

私が言えるのは、常に読者と著者に協調すべきだということです。これは書籍ビジネスに携わる全ての人へのアドバイスでもあります。(中略)なぜなら、立場が保証されているのは、この両者だけだからです。この単純な事実を出版業界の人たちが忘れているのではないかという気がします。アマゾンを含め、他の全員は中間業者。そして、我々は中間にいる権利を勝ち取らなければなりません。

 

(広い意味での)業界構造をこのようにシンプルに捉えて、本質に真正面から向かい合い構想することのできるベソスは、やはり卓越した経営者だと思います。この思考はジョブズに似ています。

 

自信がない経営者は、顧客よりも競合に目がいき、辛抱強さよりも目先の対応に終始し、「君子豹変す」を都合よく使う。ベソスやジョブズは、その対極にいます。

 

かつての日本企業は、経営者の力というよりもシステムによって辛抱強さが担保されていたように思います。そのシステムが崩れつつある現在、経営者の力量でそれを保つことが必要になっています。ベソスやジョブズにはなれなくても、彼らから学ぶことは大きいと思います。

世界全体における日本市場のGNPシェアは約8%だそうです。バブルの頃は15%くらいあったので、約半分に影響力が低下したことになります。15%もあれば、日本市場だけでも十分な規模ですので、海外市場はプラスαの存在だと考えても無理なかったかもしれませんが、それが8%にまで低下し、今後急速に高齢化が進み消費能力も激減することが明らかになれば、そうはいっておられません。

 

一方、海外企業から見れば日本市場の魅力が低下するわけですから、撤退する企業は増えるのも当然です。近年起きていることは、日本がその他多くの国の一つになっていくプロセスにいるがゆえに起きていることと言えるでしょう。

 

小国が一定の豊かさを維持するには、海外市場に出て行かなければなりませんそのために海外市場に不可欠な言語も習得しなければなりませんし、相手国の事情を斟酌して対応することも必要です。ようは、自分のやり方を他国で押し通すことはできないわけです。(アメリカですら、そうなりつつあります)

 

そんな中、どうやって日本人、日本企業としての独自性を出していくべきなのか、十分検討することが必要です。最悪なのは「バナナ」でしょう。皮をむけば白い、というやつです。そんなバナナを食べたがる人は世界中探しいてもいないでしょう。

 

 

今月の日経「私の履歴書」は演出家に蜷川幸雄氏です。彼はヨーロッパでも高く評価されていますが、この連載を読んでその理由がなんとなくわかってきました。

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50歳で売れない俳優に足を洗い演出一本にしたものの、評価はさんたんたるもの。そんな時、東映の中根公夫プロデューサーが、「海外で評価を確かめませんか」と声をかけたそうです。中根氏はフランスで演劇を学んだ経験があり、蜷川らの舞台は欧米のレベルに負けないと力説。そして、「王女メディア」を引っ提げてヨーロッパを周り、そこから成功が始まります。蜷川氏はこう書いています。

 

西洋の演劇を日本人の記憶と結んで上演する。父や母のような普通の日本人がみてもわかる舞台を生み出したいという思いが、外国の民衆に届いたのだ。

歌舞伎や能といった古典芸能をヨーロッパにもっていたのではなく、ヨーロッパの古典演劇をもっていって大喝采を浴びるということはすごいことです。さらに、海外の観客に迎合したのではなく、普通の日本人を想定した演出、つまり日本人の根底に流れている血や風土、記憶に根ざしたものを提示し、その普遍性を観客の魂に響かせたのです。

 

一方、英国で現地の俳優を演出する際には、徹底的に彼らに合わせた。

 

英国の俳優は論理的に説明しないと、納得して動いてくれない。若い頃青俳で倉橋健さんに仕込まれた戯曲分析の訓練が役に立った。(中略)例えば、「ハムレット」でフォーティンブラスの軍が近づいて去っていく場面。音楽を高めると「ニナガワ、軍隊は戻ってきたのか」と問われる。そこで劇的効果の意味を丁寧に説明する。(中略)全員が「ニナガワ、ニナガワ」と質問を浴びせてくる。ポスター一枚稽古場にはるのも討議だ。

 

自らの内にある普遍的な部分は妥協せず守り通す、それと同時に手段にあたる部分については、郷に入れば郷に従えで相手に徹底的に合わせる。もちろん合わせられるだけの力量を蜷川は持っていたから可能だったのですが。

 

これが世界で通用するための、一つの型なのかもしれません。日本企業が世界で生き残っていくための、ヒントがある気がします。

日本最強の電機メーカー、パナソニック、ソニー、シャープの3社が仲良く大きな赤字を計上し社長交代に追い込まれたことは、時代の転機を象徴しているように思えてなりません。垂直統合モデルが効かなくなったとか、組織が硬直化して意思決定が遅れたとか、いろいろ言う人は多いのですが、どうもそういう問題ではないような気がします。

 

上記3社に限りませんが、「改革」を進めてきた結果一次的には利益を生んだものの、それも長くは続かず、赤字に戻ってしまうというパターンが多いようです。それはなぜなんでしょうか?

 

「改革」の名のもとに行われてきたことの多くは、アメリカ型の経営への転換と言ってもいいでしょう。これは企業レベルの施策だけでなく、政府の法規制による誘導も含めてです。そういった「改革」が本当に日本企業を強くするものだったのか。

 

例えば、取締役改革。ソニーに代表されるように、社外取締役を大幅に増やすことで、経営者の暴走を抑えようとしました。オリンパスしかり。しかし、結果は、取締役会で社長を抑え込めるだけの内部情報を持つ役員がいなくなってしまい、社外取締役が社長の暴走を助長することになってしまったとは考えられないでしょうか。(それでも政治家の中には、単純に社外取締役を義務化しようとの主張もあるようで驚きます)

 

こうした動きは、外に模範を示してくれる先生がいるはずだ、との暗黙の信念があるからに違いありません。古くは中国(隋、唐、明、清など)、明治維新後はヨーロッパ、戦後はアメリカが模範でしょう。

 

日本人の特性として、先生あるいは権力者(正しい判断を下すはずの人)を探り当てて、その先生との親密度で優劣を決めるというところがあります。「アメリカでは現在、XXXという経営手法がブームになっているらしい。それを我社がいち早く導入し、業界における経営改革の先陣を切るのだ」といったことを尊ぶ風潮がありはしないでしょうか。

 

もちろん、その手法が当該日本企業にとって適切なものであれば結構なことですが、多くの場合そうではないことが多いようです。適切な例ではないかもしれませんが、1970年代初めに建設された福島第一原発のマークⅠと呼ばれる格納容器は、GE社が米東海岸に設置するために設計したもので、そもそも地震が起こることを想定していなかったそうです。それを無邪気に導入した東京電力と、無邪気にアメリカでブームの経営手法を導入している日本企業とあまり差はありません。(その点98年に格付け会社から終身雇用を続けるのなら社債格付けを落とすと迫られても、堂々と反論したトヨタは立派でした)

 

古来日本が外国から新しい概念などを輸入したときは、無条件に導入するのではなく、必ず日本の文化や風土に合うように変形させてきました。仏教でも寺院建築でも、似て非なるものに修正しています。また、律令制は輸入したものの科挙制は受け入れないというように、選択的導入を図っています。そういった知恵が、あまり働かなくなっているように見えるのはなぜなのでしょう。

 

ひとつには、経営者の責任があります。東京理科大の伊丹教授が『よき経営者の姿』という本で、長年の観察から経営者が劣化しつつある状況を分析しています。

よき経営者の姿よき経営者の姿
伊丹 敬之

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「改革」の名のもとに、角を矯めて牛を殺すようなことが行われていないでしょうか。そうしないためには、自社(及び従業員)の体質や文化、思考パターンを認識しておく必要があります。日本人が、どれだけ沢山のコーラを飲んでビーフを食べてロックを聴いてもアメリカ人にはなれません。勘違いしてはいけません。「変える」ことが目的ではなく、「組織を強くして業績を上げる」ことが目的です。

 

そのために、変えるべきことと守るべきことを峻別する知性、そして変えるべきことをどのようにどうやって変えるかの深い思考が求められています。その思考のベースには、「日本人が主体の日本の会社」だという前提をはずすことはできないでしょう。だからこそ、我々は「日本人」についてもっと理解を深める必要があると思います。

現在放映中のNHK朝ドラ「カーネーション」は、近年稀にみる非常によくできたドラマだと思います。残念ながら今月で終わってしまいます。主役の尾野真千子の演

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技も素晴らしいですが、脚本もいいですね。

 

「品格と誇り」は、先週主役の糸子が語った言葉です。娘が独立した糸子は、岸和田から東京に出て、新しくつくる既製服会社の経営パートナーとなることを誘われ迷っていました。何となく、乗り気がしないのは、現在の洋服業界はモードという名の流行に流され、どんどん新しいファッションを生み出し続ける拡大競争になっているからです。そのメッカである東京で、モード競争に挑むことを期待されているのです。迷いは、そんな目まぐるしいファッション界の動きが好きになれないことと、とはいえこれまで自分が長年やってきた注文服は斜陽化するのでは、との不安からきています。

 

そこで、集まってきたお隣さんらに吐露します。

「私の洋裁の先生は、洋裁はこれからの女性に品格と誇りを与える仕事だと言った。だからこれまで必死にやってきたんだ。でも、もう・・・。」(せりふは岸和田弁です)

 

それを聞いたお隣の美容師さんは、「そうそう、よくわかる」と言ったものの、その直後に怒りだします。「そんな、情けないことを言うな!」そう言って飛び出してしまう。しかし、しばらくすると風呂敷包みを抱えてもどってきて言います。「これは私の宝物だ」

 

そこには、終戦直後家族を失って満身創痍の彼女を励ますために、糸子がデザインした美容師の制服が畳まれています。そして、その上には美容室開店のときに撮った記念写真が置かれている。「私はこれがあったから、死なないで生きてこられた」

つまり、糸子の作った服によって品格と誇りを与えられた、その価値は失われないし、これからももっともっと多くの人々に品格と誇りを与え続けるべきだ、そんな大きな儲けとか名声とかに目移りするな、と暗黙に語っているのでした。そして、糸子は東京行きを止め、岸和田で洋裁屋を続けることを決めます。

 

このやり取りは、仕事の意味を深く考えさせます。洋裁に限らず、いつの時代のどんな仕事であっても、品格と誇りをお客さんに持ってもらうために働き、その結果自分自身の品格と誇りを保てるということなのではないでしょうか。

 

例えば、八百屋さんもいい野菜を手頃な値段で販売することで、それを使って晩御飯をつくる母親に品格と誇りを与えているといえます。また、夕食に使う漆のお椀をつくる職人も、それを使って食べてもらうことで、同じ料理であっても少しだけ豊かな気分で食べられることを願ってつくっていることでしょう。それは、使ってくれている人に品格と誇りを与えていることなのです。

 

このように、日本における仕事とは、単なる食い扶持を稼ぐという機能なのではなく、人の品格と誇りを保つための行いという面が強いのだと思います。だから、自らの品格と誇りのためにも、いくつになっても働き続けることを望むのでしょう。これは、日本が世界に誇るべき生活スタイルだと思います。

 

このような観点に立つと、今の自分の仕事はどのようにお客さんに品格と誇りを与えているのか、考えさせられます。そう考え続けることで、企業や個人の指針や基準が明確になっていくのではないでしょうか。

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