2010年3月アーカイブ

切れ味鋭い学者の指摘は、もやもやした不快感への解毒剤となります。今日で終わる印南一路慶應義塾大学教授の日経朝刊「やさしい経済学 『医療の分かりにくさ』」は、そういう連載でした。こういう見識ある論を読んだとき、いくばくかの税金投入されている大学の価値を、かろうじて感じることができます。

 

 

医療問題における健康格差問題、医療崩壊問題、医療費問題を取り上げ、問題設定自体が間違っていることを指摘しています。詳細はここでは触れませんが、なぜこのような問題設定の錯誤が発生するかについての、今日の見解はなるほどをうなずくことしきりでした。真の問題設定を妨げている原因を四つあげています。

 

    感情論に訴えやすく、その結果問題を単純化しがち

    自分たちが求める問題解決を実現すべく、問題設定をするかえる結論先行型議論が起きがち

    真の問題解決にはほど遠くても、一見問題解決したと見せられる

    深刻な理念の対立を避けることができる

 

問題解決の先送りを合理化するための方便となるように、問題設定をすり替えるわけです。

 

 

これは、企業でも全く同じですね。たとえば、・・・・。

    派遣労働者の活用が企業の競争力を保ち、国内での雇用も守る

→「国内正社員の雇用を守る」ことが、まだ国民の琴線に響くようです

    成果主義の導入が、社員のモチベーションを高め、企業を強くする

→総人件費圧縮の方便として成果主義を活用したことは周知の事実です

    増資することにより自己資本比率を高め、株主に報いることができるようになる

→一見自己資本比率向上は、好ましいことですが、真の問題は増資した資金を有効に活用して、希釈化した既存株主の保有価値を、向上させることができるかどうかです。

    新卒採用停止で人件費を削減する

→真の問題は、社員の新陳代謝を適切に進められるかどうかです。新卒採用での雇用調整が、どれだけその後の企業運営に悪影響を与えたかは、企業自身が深く理解しています。雇用(給与)の保障か、企業の健全化か、避けては通れない理念の対立です。

 

 

基本右肩上がりの経済であれば、問題の先送りも意味があったことでしょう。しかし、現在は逆です。早く高度成長のパラダイムから脱却しなければ、企業も国も衰退を免れることはできないでしょう。

 

今月来日して経済人や識者などと議論した韓国有力各紙の論説委員団がこう驚いていたと、今朝の日経にありました。

 

「誰と会っても韓国に学ばなければと言われて驚いた。五輪でキム・ヨナが真央ちゃんに買ったのでそのお愛想かと思ったが、こんなことは初めてだ。」

 

確かに、最近急に韓国に学べ的な論調が増えてきたように感じます。

 

学ぶこと自体はよいことですが、気になるには、対象を上に見るか下に見るかしかできない我々日本人の姿勢、というか癖です。80年代のバブルのころはアメリカからもう学ぶものはないという姿勢だったのが、崩壊後実際はアメリカンスタンダードをグローバルスタンダードと呼び礼賛。この構図は、戦中と戦後のアメリカとの関係の相似形のようでした。

 

中国との関係について、寺島実郎がこう書いています。

 

「日本人の中国に対する態度は、夏目漱石も語っているように、日清戦争を境にして激変したといわれる。日清戦争前の中国は、日本人にとって尊敬、信奉、敬服の対象だった。(中略)しかし、日清戦争に勝って、それが変わった。一転して中国を侮辱し始めるようになるのである。それまで、ある意味、劣等感さえ抱いてきたのが、『優越感』に反転してしまったのだ。」(「世界を知る力」)

 

なぜ、対等なパートナーとして対象を捉えられないのでしょうか。鳩山首相は、「日米を対等なパートナーの関係に」と言っていますが、歴史を見る限りそう簡単なことではないでしょう。

 

 

これは、最近も数多く話題となった合併交渉の破談にも共通するような気がします。成立したM&Aのほとんどが救済合併型です。対等合併はなかなか成立しませんし、成立してもうまく運営できる例はまれです。(JFEは数少ない成功事例でしょう)

 

合併相手を、強大な征服者か、逆に助けを求める貧弱な衰退者のどちらかで捉えてしまいがちです。これは日本人が、同じムラの中以外とは、対等な関係での付き合いの体験が少ないことが関係していると思わざるをえません。上か下しかないのです。加藤周一は、上か下か、上にもなり下にもなる関係(芸能者、白拍子など)の三パターンで捉えていました。いずれにしろ、日本の歴史や風土に根差す思考パターンであり、そう簡単には変えられないことでしょう。

 

こういう癖があるということを認識したうえで、他者との付き合いを深めていくしか方法はありません。

 

 

他者から学ぶことは、決して「上」から授かる/奉ることだけではありません。対等な関係だからこそ深く学べるという面も多いと思います。卑屈にならず、驕りもせず、虚心坦懐な姿勢こそが学びの極意かもしれません。

企業組織には、内部のアイデンティティを保つための見えない壁があります。壁が境界となり、ウチとソトを隔てて求心力を保つわけです。「ウチの部では・・・」と言いますね。

 

しかし、本当は壁ではよくないでしょう。壁ではなく膜であるべきです。壁は遮断することが目的ですが、膜は透過するものと遮断するものを選別する機能もあります。フィルタリング機能です。

 

組織は、外部環境の中に存在するのですから、否応なくその影響を受けます。それに対して、壁で囲うのか膜で包むのかで大きな違いが出てくることでしょう。

 

この不況下、顧客は費用対効果の高さを求めてくるようになってきているはずです。これまでのように、他社が買っているからとか、以前から使っているからという理由はなくなりました。顧客とは、こちらが思う以上に冷たいものです。

 

そういった変化に対して、組織の中は従来型のやり方を維持するのか、それともその変化を取り入れるのか。具体的には、例えばこれまでの年功型報酬を維持するのか、成果型報酬に切り替えるのか。

 

不況がサイクリカルなもので、いずれ景気が戻ると予測するのなら、ここは壁を作りじっと耐えるのもありだと思います。しかし、構造的な変化だと予測するのなら、その変化を取り込まざるをえません。膜を透過させて内部に持ち込むのです

 

しかし、単に入れ込むだけでは、膜の中は混乱することでしょう。かつての横並びの成果主義採用の失敗がいい例です。取り入れた後、組織内部で新たな均衡を図ることが必要です。組織が「変わること」とは、成果主義に切り替えることではなく、成果主義が機能するよう組織全体が新たな均衡点を見つけることなのです。つまりパーツの取り換えではなく、パッケージで変えるのです。

 

そのための柔軟性を、人間の細胞組織は持っています。何を透過させ何を遮断するかの判断と実行、そして透過後直ちに均衡させる適応の速さ、こういう賢さやしなやかさを企業組織が持つために、できることは何でしょうか。常に外界に素肌をさらすことと、組織の中の透明性を高く維持すること、そして適切な代謝を促すことでしょうか。

私がケースメソッドに出会って、はや22年も経ちました。1988年に慶應ビジネススクール(KBS)に入学した私は、経営学の知識もあまりないまま、突然ケースの海の中に放り込まれた気がしたものです。

 

ケースメソッドとは、「参加者がケース教材をもとにした討議を重ねることで、実践に備えうる叡智を紡ぎ、困難に立ち向かう姿勢と態度を涵養するための教育方法」です。また、ケースとは、現実の企業・組織の「経営の現場で業務の進行とともに隠れていた問題が生じ、担当者のみならず、そのマネジャーひいてはトップを巻き込む様態を描いた」教材です。(「実践!日本型ケースメソッド教育」高木晴夫・竹内伸一著より)

 

KBSを修了してからも、継続的ケースメソッドに触れてきましたが、やっと最近その醍醐味がわかってきたような気がします。

 

教育にも二種類あります。まだ、全く経験も知識もない分野について学ぶ教育と、ある程度の経験を積んだ分野において学ぶ教育です。前者の典型は小学校や中学校などの学校教育、あるいは企業の新人教育です。一方、後者は、企業のマネジメント教育がその典型でしょう。

 

ケースメソッドは、経験者に対する教育に適していると思います。なぜか。例えば、企業で管理職を務めるような人は、最低でも10年はビジネス経験を積んでいることでしょう。その間の経験の中で、様々な持論(My theory)を蓄積してきているはずです。また、様々な「ものの見方」(Mind set/Mental model)を意図せずかもしれませんが保有しています。それらの蓄積が、業務や判断の確実性、迅速性、的確性などの基盤となっているのです。

 

しかし、時にそれが足かせにもなります。裏返せば、「思い込み」「偏見」「頑迷」などのもとになりえるのです。それは、自分の経験による持論やものの見方に、他者の視点を入れないことから起きます。つまり、他者との相互作用の欠落です。

 

では、それを防ぐにはどうしたらいいか。人によっては、ある新聞記事を一瞥しただけで、そこに書かれた内容と自分の内面とを結びつけ、相互作用を起こし、そこから新しい学びを獲得する人もいます。そういう人が、すぐれた学習者です。しかし、それはそう簡単ではありません。

 

 

前置きが長くなりましたが、自己の内面(内部世界)と他者(外部世界)との相互作用を促すのに、効果的な方法がケースメソッドだと考えているのです。

 

新聞記事や哲学書、歴史書などと、自己の内面との相互作用を図れる人はそう多くはありませんが、自分が普段関わっているビジネスの領域であれば、内面に働きかけてくることは比較的容易です。経験と結びつきやすいのです。

 

多くのビジネスパーソンが集まって企業事例であるケースを題材にすることにより、参加者それぞれの多様な持論や「ものの見方」が発現してきます。それらを自己の内面と照らし合わせることにより、気づきが生まれるのです。偉い先生から教授されてもピンと来なかったことが、自分と似た問題意識を持つ方々との相互作用を経ることにより、腑に落ちるのです。経験者が「学ぶ」こととは、新しい知識を加えることではなく、自分自身が「変わる」ことです。学ぶ前とは異なる自分になることなのです。

 

 

ところで、ケースは、一種の「ものがたり」でもあります。概念化された理論をいくら教えられても、内面と結びつかなかったことが、「ものがたり」を通じて暗喩されると、案外結びつくことも多いものです。だから、ケースが教材としても有効なのです。

 

このようなケースを使って、多くの他者との相互作用を促すことができるケースメソッドは、経験豊富な方にこそ適した教育手法だと思います。

 

ただし、こういった相互作用を的確に促すには、「場づくり」あるいは「場のコントロール」が非常に重要です。それをリードする講師(ケースリーダー)の実力如何とも言えます。残念ながら、日本でその実力を持つ方は、まだそう多くはありません。それが、最も大きなケースメソッド教育における課題だと思います。そういった部分も含め、ホンモノのケースメソッドの浸透に貢献できればと思っています。

蓮池薫さんが、今朝に朝日新聞のインタビュー記事で、こんなことを言っておられました。

蓮池.jpg 

「どうしようもない感情というものが、人には必ずある。そのことを理解することが大切。そして、それを刺激してはいけない。」

 

北朝鮮に拉致され、無理やり人生を変えられてしまった人の言葉だけに重みがあります。私はそれを、感情と論理と価値観の折り合いの重要性だというふうに理解しました。

 

ちょうど、日韓合同の教科書検討会で、双方の認識の違いが明確になったり、またグーグルが中国政府の検閲に抗議して、本土から検索の撤退を決めたとの報道もされていました。

 

日中や日韓の間で近年取り組んでいる、合同の教科書検討会は、どうしようもない感情があることを双方に理解させる意味で、大きな一歩だと思います。

 

グーグルについては、感情というより中国政府の論理と、グーグルという私企業の価値観がぶつかった例ということができるでしょう。論理と価値観のすり合わせはやさしいことではありません。しかし、その対立軸を明確にしたという意味では、私企業であるグーグルに敬意を表したいと思います。

 

 

ところで、企業内におけるコンフリクトの大部分は、このような感情と論理と価値観(倫理観)の折り合いの稚拙さによるものだと思います。

 

例えば、富士通の社長退任問題にしても、様々な問題はありますが、突き詰めれば退任させられた野副社長の感情と退任させるべき合理的理由との間の折り合いが不適切だったからだと推測します。その上で、株主に対する説明責任、つまり企業倫理にも配慮が不足していました。

 

「折り合い」とは、非常にあいまいな日本語ではありますが、相手の立場を慮って、自分の立場との妥協点を見つけていく、という高度なコミュニケーションスキルということができるでしょう。

 

折り合いをつけることは、決して「臭いものに蓋をする」こととは違います。いったん、認識や思いの違いを双方で認識にした上で、「落としどころ」を見つける日本の知恵なのではないかと思います。

 

なんでもかんでも一つの正解を追及することを是とする一神教ではないことが、日本の強みになるはずです。

昨晩、よくいく日帰り温泉での出来事です。サウナに一人で入っていると、突然小学校低学年くらいの男の子が入ってきて、隣に座って話しかけてきました。

 

「ねえ、マンモスがいたくらいの地球の始めのころで、どんな生き物が好き?」

 

「そうだね、恐竜かな。」

 

「どの恐竜が好き?」

 

まんまと彼の恐竜談義に誘導されてしまいました。サウナが暑くなったのでしょう。

 

「まだ、出ないの? じゃあ、ドアの外で待っているね」

 

その後、露天風呂でも彼の豊富な恐竜の知識を拝聴することができました。

 

 

小学生低学年くらいまでは、彼のように自分と他人との間の壁はあまりないでしょう。でも、社会化するということは、ある意味その壁を作ることです。中学年くらいから、自意識も芽生え、日本人の大人になるための、ウチとソトの境界を体得していきます。最近、小学校の男子トイレで、大きいほうの用をたすことができない子供が増えており、男子トイレもすべて個室に改装する学校が出てきたとの記事を読みました。日本における社会化の行き過ぎた現象かもしれません。(ソトである学校で、ウチですべき大はできない!?)

 

ウチとソトの境界は、もちろん重要です。一方で、いずれ境界を下げることも学ばなければ、適切なコミュニケーションははかれません。では、それはいつ頃起きるのでしょうか。かつては、大人として社会で生きていくと認められる時期、つまり元服がその印だったのでしょう。現代で言えば、成人式?いや、きっと社会人として独り立ちした時に相当するのでしょう。

 

しかし、自分のことを考えても、新社会人になった頃は、まだまだ境界が残っていた気がします。境界をある程度コントロールできるようになったのは、思い返せば、社会人としての自分の貢献が、第三者(社内の人間ではなく、お客さんや取引先など)のヨソの人に認めてもらったときのような気がします。(小学校中学年頃から、随分長い時間がかかったものです)

 

 

便利な時代になればなるほど、そのタイミングは遅くなっていくのかもしれません。価値観やスタイルは、世代でどんどん変わっていますが、ウチとソトの境界のような、日本人の根底に横たわった思考の枠組みは、案外変わらず、ただ、時期や現われ方に変化があるだけなのかもしれません。

 

ウチとソトは、自分自身から始まって家やムラから国家、文化圏などまでが入れ子状態になっています。グローバルな環境でもまれる昨今、あらためてウチとソトという思考枠組みについて、考えてみる必要があるように思います。

ユニ・チャームの高原会長の「私の履歴書」は本当に面白いです。今日は、生理用品から紙おむつへの多角化の経緯が書いてありました。

高原さん.jpg 

生理用品でナンバーワン企業になったとたん、減収となった。花王の参入もあったが、最大の原因は慢心、気の緩みだと考えた高原さん。社内風土改善が必要と痛感し、なんと三年前日本市場に参入したP&Gがいきなりシェア90%を獲得した紙おむつ市場への参入をもくろんだのです。

 

とても合理的な戦略とは思えません。本業は花王に攻めまくられ大変な時期に、超巨大企業がどっしり構える新市場に参入しようなどと、およそ合理的な人は考えつかないでしょう。

 

 

案の定、社内も社外も大反対。しかし、経営会議で「反対するヤツは出てけ!」と怒鳴り、参入を決定してしまったのです。

 

なぜ、高原さんはそうまで紙おむつへの参入にこだわったのでしょうか。成功の確信があったのでしょうか。ここに、経営戦略のもう一つの形が見えます。SWOT分析などに基づく合理的戦略策定ではなく、組織が学習し進化することを最優先にした戦略策定といえると思います。

 

サントリーのビール事業の長年の赤字は、健全な危機感を組織に維持するための健全な赤字だとの論調はありますね。しかし、それはウィスキー事業というキャッシュカウあってのものです。高原さんは、本業が危ないからこそ、大変なリスクを抱えようとしたのですから、サントリーともぜんぜん違います。

 

そう考えると、ユニ・チャームの競争力の源泉は、組織の学習能力だと感じさせられます。いかに、組織内に緊張感を維持し常に進化、学習を続けさせることができるか、そこが他社に真似できない本質的な強みに違いありません。

 

連載にも出てきましたが、高原さんの「ノート魔」ぶりは有名です。(幹部研修をオブザーブされたときも、最前列に座って熱心にノートを取り、真っ先に質問していました。)このような姿勢が、全社に浸透しているのです。本当に強い企業です。

 

サラリーマン社長は、合理的戦略を選ばざるを得ないような風潮にあります。ユニ・チャームをはじめとしたオーナー系企業の多くが強いのは、非合理的戦略を取ることができるところにあるのかもしれません。

先週金曜、話題の長谷川等伯展を観てきました。金曜のみ20時までオープンにしているので、あえて金曜夜に行ったのですが、それでも大勢の人で、最後の「松林図屏風」は、全体を観ることは叶いませんでした。(すぐ近くでへばりつくのは止めてほしい!)

 

確かに、これだけ一同の等伯の作品が揃うことは画期的でしょう。能登の仏画家時代から晩年まで、等伯の人生を想像させる展示です。関白秀吉をめぐるライバル狩野永徳との軋轢も感じることもできます。

 

うまいのは当然として、あれだけスタイルを時代時代で変えていき、しかもどれも一流の作品を残す天才だと、よくわかりました。たまたま読んでいた内田樹と甲野善紀の対談本で、内田はこう書いていました。

 

いくら変化しても、変化の仕方は変化しない人が「凡人」であり、変化する度に、変化する仕方そのものまで変化する人が「天才」というにではないか。(中略)進化におけるこの「断絶」が天才の天才性の徴ではないかと僕は思います。

 

 

また、今朝の朝日新聞でのインタビュー記事で、モントリオール映画祭の創設者で選定ディレクターのセルジュ・ロジークが、「歴史上最高の映画監督は黒澤明だ。ジョン・フォードもチャップリンも素晴らしいが、あれだけいろいろスタイルを変えて、しかもすべて高い完成度を示せるのは黒澤明だけ」と述べていました。(また、うろ覚えですが)

 

内田氏の定義で、長谷川等伯も黒澤明も正真正銘の天才だと思います。

 

とこで、やはり「松林図屏風」は傑作です。下絵との説が有力だそうです   松2.jpgが、関係ありません。湿気を帯びた静寂の空気の中で、松が何を想いながらか、ダンスを踊り続けているように見えました。そこはかとなく、哀しさと気品をただよわせながら。

 

そこで思い出したのが、映画『落下の王国』に出てきた、長いスカートをはためかせながらワルツ?を踊るダンサーたちの姿です。時と空間を越えて夢想する、これが芸術を楽しむ醍醐味ですね。 落下の王国.jpg

最近、GNP世界第二位の座を中国にいつ追い抜かれるか、といった記事が散見されます。また、失業率の変動にも一喜一憂しています。なんとなく、へんだなあと思っていました。

 

人口13億人の中国と一億人強の日本のGNPを比較することにどんな意味があるのか。さらに、数ポイントの失業率の変動よりも、最近とみに日中多く見かける年金受給対象の高齢者の増加、すなわち労働人口の減少のほうが、はるかに経済へのインパクトが大きいのではないかと感じていました。しかし、政府の政策目標は、GDP総額であり失業率低下にあります。

 

 

そう思っていたところ、的確な解説を発見しました。日経朝刊3/12の「大機小機」の「人口減少時代の経済目標」というコラムです。

 

人口減少社会において、一人当たり所得が不変であってもGDP総額は減少する。ところが、一人当たり所得さえ同じかまたは増えるのであれば、経済規模は縮小しても構わないのだ。問題は一人当たり所得であって、経済規模は我々の福祉水準とは無関係なのである。

 しかも、その一人当たりGDPは、08年のレベルが96年よりも低く、ドルベースで国際比較するとOECD加盟国中19位というありさまである。

 

雇用については、失業率ではなく就業率(人口に占める就業者の割合)を目標とすべきだ。(中略)この失業率が低い方が良いことは当然だが、人口減少社会において問題となるのは、「働く意思を持つ人々」がどの程度存在するかなのである。

 人口減少経済においては、放置していると少子化と高齢化の進展により就業率が低下する。すると、就業者一人当たりの付加価値生産額(生産性)が同じでも、国民一人当たりの所得は低下してしまう。

 これを防ぐには、就業者一人当たりの生産性を高めるとともに、女性や高齢者の就業率を引き上げることによって、働く意思を持った人の数を増やさなければならない。

 

 

 

中国との順位争いや、失業対策、少子化対策ばかりにかかずらわっていても、日本経済の将来像は見えてきません。今の日本が追い求めるべきなのは、規模ではなく質であり、単純な成長ではなく豊かさを実感できるための成長であるべきです。

 

マクロの環境が大きく変われば、目標とすべき指標も変えるべきです。しかし、長く、人口増加やインフレが当然だった時代を生きてきた人間にとって、その前提を変えることは至難の技なのです。

 

目標指標はトップしか変えることはできません。歴史観と批判的思考力を持ったトップこそが、将来のビジョンを示し、その到達に資するあらたな目標を設定すべきです。

 

それができない場合は、政府であろうが企業であろうが、ガバナンスを変えるしかありません。昨年の政権交代は、そういう文脈の中で実現したと理解しているのですが・・・。

 

政官とのもたれあいの中でコントロール不能になったJALと、現在の日本がだぶって仕方ありません。

コンサルティングは、クライアント企業の依頼を受けて、活動し最終的に成果物を自ら完成させて提出することが普通でした。いわゆる医者と患者の関係です。

 

このような従来型のコンサルティングでは、患者は病気になるたびに医者にかからなければならないという宿命にあります。また、医者も複数のコンサルタントからなるチームで対応せざるを得ず、必然的にコストも高いものになります。

 

しかし、最近異なる動きが広がりつつあるようです。クライアントは、コストをできるだけ抑える必要性と、社内にコンサルティングのノウハウを蓄積する、すなわち内部の能力開発を同時に行うために、クライアントメンバーのプロジェクトチームに、コンサルタントが一人加わり、問題解決を図るというパターンが増えてきているのです。

 

クライアント側はそのやり方により、コア人材の育成とノウハウ蓄積、そしてコスト削減の一石三鳥を狙います。一方コンサルタント側も、ある意味で手足となる人材はクライアントが提供してくれるので、コンサルファームから独立してもやっていけるというメリットがあります。つまり、個人コンサルタントの活躍の場が広がっているとも言えます。

 

ただし、そこでコンサルタントに求められスキルは、コンサルファームにおけるスキルと一部異なります。当たり前ですね。コンサルとしての能力も経験も不足している(ほとんどない)クライアント側のメンバーを、うまく使い、しかも育成までを視野に入れなければならないのですから。名選手必ずしも名監督ならずと同じで、このスキルシフトは実はそう簡単ではありません。クライアント側メンバーを育成するとは、将来の自分の仕事を代替する人を育てるということでもありますし。

 

 

ところで、企業内研修の文脈では、研修の場で教育しながらもビジネスに直結する成果を期待する傾向にあります。つまり、人材開発と問題解決/コンサルティングが、両方の側から近づきつつあるわけです。

 

もう一つ。ある社内プロジェクト(例えばブランド再構築プロジェクト)における育成もOJTといえますが、これまで社内のリーダーが担ってきたOJTにおける育成責任を、外部のコンサルタントに担わせるという、いわばOJTの外部化が起こっているということもできます。

 

 

現在は、あらゆる部分で従来型の境界がなくなる、ボーダレスの時代です。過去のパラダイムに執着せず、軽やかに境界を越えるしなやかさが、実は競争力の源泉になるのかもしれません。

ライブドア、コムスン、村上ファンド・・・。数年前からベンチャー企業への旗色は悪く、近年はあまりベンチャーという言葉自体を聞かなくなりました。それを称して、日本は保守化してイノベーションが生まれなくなってしまうとのコメントも珍しくありません。

 

本当にそうなんでしょうか。そもそもベンチャー企業とは何を指すのか。リスクを取って新たに企業を興すことを指すのであれば、ずっと昔から営々と存在しています。開業率は、80年頃以降、5%あたりで推移しています。直近で見ると91年-93年の2.7%をボトムに04年-06年の5.1%までほぼ上昇を続けています。(「中小企業白書2009年版」)

 

世の中でいうベンチャーとは、それとは少し違うニュアンスで使われているように感じます。ITやサービス業などの既存大手競合が存在しないマーケットで起業し、急成長を遂げ、短期間で上場を果たし、若手起業家として名声を得るというイメージでしょうか。上場を手段ではなく、目的と考える人たちです。

 

確かに一時期、そういう起業家像がもてはやされた時期がありました。産業構造が大きく変わる時期には、いつの時代にもそういうことが起こります。それを煽る金融機関や投資家がいるからです。しかし、いずれ変化が落ち着けば、日本経済全体が、祭りの後の債務処理に追われるわけです。それが揺り戻しです。「踊る阿呆に見る阿呆」といいますが、見るだけでは済まずお金を入れるからです。

 

近年のミニバブルでは、産業構造変化の波(インターネットの進化)に加えて、マネー資本主義の世界的ブームが重なり、波が何倍にも増幅されました。それに踊らされ、一生かかっても使えないような莫大な資産を獲得することを夢見て起業する人を、ベンチャー起業家と呼ぶなら、自然な淘汰が今起きているにすぎないといえるでしょう。イノベーションとは別の次元の問題です。

 

最近では、上場などはなから目指さず、世の中への貢献を第一に事業をする社会起業家が、日本でも増えつつあります。前の世代の「踊る阿呆」の姿を見て、別の価値観で起業する人たちです。まだまだ萌芽ですが、そこにかすかな期待を感じます。しかし、それがまたファッションになってしまわないように、注意しなければなりません。

 

 

もし、日本でイノベーションを盛んにすることが目的であれば、付焼刃の起業家支援やハイリスク市場整備ではなく、大企業のスリム化を促すことに重点を置くべきと考えます。日本経済の非効率性は中小企業にではなく、何でも抱え込む習性のある大企業に温存されています。技術や人材などがそこから解き放たれて、初めてイノベーションがそこここで起こるようになるのではないでしょうか。

 

最近、モチベーションという言葉が、何かと殺し文句になっているように感じます。

「そんなことをしたら社員のモチベーションが下がってしまう。」

 

確かに、昔と比べて社員のモチベーション維持に、管理職や経営陣が苦心されているのはわかります。非定形業務が増える中、組織生産性は社員のモチベーション次第という傾向になっています。社員のロイヤリティーも昔ほど高くなく、気に入らなければ退職、というのも珍しくはありません。なので、社員のモチベーションに神経をとがらせているわけです。

 

長期的な生産性向上を期待できる施策(情報開示、複数キャリアトラックなど)の理由として、それが使われるのはいいのですが、できない理由としてモチベーションが使われることも多いように思います。「上司が部下を強く指導できないのは、部下のモチベーションに配慮しているから」といった場面です。

 

マネジメントとは、組織構成員に対して「短期の苦労を厭わず、長期的な恩恵を追求させる行為」ということができると思います。いいかえれば、短期的には苦痛が増えてやる気が低下するかもしれないが、それを克服することができるだけのビジョンを示し、勇気づけることこそがマネジメントなのです。

 

何事も短期と長期があります。最も安易なマネジメントは、将来のメリットを先食いし、今の満足度を高めるような行為です。(政府の国債発行がまさにそうですね。)こういう施策の理由として、モチベーションが頻繁に活用されている気がしてなりません。

 

だとすれば、経営者(管理職)の能力と「モチベーション」の使用回数は、逆相関にあるのかもしれません。もちろん、考えもなしの「俺についてこい」型マネジメントは論外ですが。

 

モチベーションという、なんとなく耳障りのいい「横文字」には、注意が必要です。心して使いましょう。

多少落着きを見せたトヨタのリコール問題ですが、数年後にはビジネススクールにおける重要な教材(ケース)となることは間違いないでしょう。きっと、教授やケースライターは、手ぐすね引いてウォッチしているに違いありません。

 

今回の問題は、経営上のあらゆるテーマを包含していると思います。私が思いつくのは、以下のような点です。

 

1)トラブル発覚時の広報のあり方

2)経営トップの外部コミュニケーションのあり方(平常時含め)

3)テクノロジーが大きく変化する際の対処のあり方

4)グローバル企業における意思決定メカニズム

5)技術志向と顧客志向の両立

6)ガバナンスのあり方

7)リーダー企業と国家の関係

8)成長のコントロール

 

 

以下、それぞれ簡単にコメントしてみます。

1)トラブル発覚時の広報戦略ですが、すでに82年に起きたJ&Jの「タイレノール事件」の有名なケースがあります。さんざん研究もされてきたテーマであるにも関わらず、なぜ今回トヨタは適切に対応できなかったのか(少なくとも、そう見えたのか)

 

2)上にも関わりますが、トップの役割は、内部においては最高責任者であり、また外部に対しては企業の代表としての顔であることは間違いありません。では、どういう顔としてコミュニケーションしたいのか、どういう場面であえてトップが顔となって外部にコミュニケーションすべきかの、方針を明確にする必要があると思います。

 

3)今回のリコールの一部は、電子制御に関するものです。今朝の日経によると、リコールの原因は、03年までは製造段階のミスと、設計段階のミスが半々だったのが、04年から設計段階の比率が急増し、09年度では7割にも達しているそうです。簡単に言ってしまえば、メカ中心の車づくりから、電子制御中心の車づくりへ04年から急速に変わってきているということです。その影響は、不具合の発見・対策を打ちにくくなっていることと、ある生産現場で製造された自動車に限定されていたリスクが、設計やソフトにのって世界中で生産された自動車へリスクが広がることを意味します。今、電気自動車への進化が話題ですが、実際は04年から電子化への技術革新が起きていると考えたほうがいいのかもしれません。その事実への対応が、まだ企業に出来ていなかった。

 

4)北米においてリコールの意思決定ができないことが、対応の遅れにつながったという指摘もあるようです。まさに、組織と意思決定の問題です。それが、リコール問題においてだけなのか、それともトヨタというグローバル企業の意思決定メカニズムそのものを問題にしているのは、それはよくわかりません。

 

5)技術担当副社長の会見を見ていると、技術に対するプライドが非常に高く、それがえてして顧客をないがしろにしているとの印象を与えてしまったようです。「悪いのは技術ではなく、使い方だ」と。理解はできますが、組織全体にそのような技術偏重があるとしたら、今後も問題は続くように思います。そのくらいトヨタは、多くのあらゆる顧客を抱えてしまったことを、理解すべきではないでしょうか。

 

6)日本企業の多くは、トヨタのように内部を重視するインサイダー・システム(IS)によっています。一方、アメリカはアウトサイダー・システム(OS)です。ISが、トヨタの高品質を実現したともいえます。しかし、ISではガバナンスが働きにくいのも事実です。今回の問題は、ISの弊害ともいえるかもしれません。グローバル日本企業にあったガバナンスの仕組みとはどのようなものなのでしょう。

 

7)トヨタはビッグ3の敵失もあり、世界一の自動車メーカーになりました。ビッグ3を抱えるアメリカ国民の心情はどうでしょうか。それまで、トヨタも北米で地域貢献もたくさんやってきたでしょう。半ばインサイダーとなっていると思っていたかもしれません。でも、そう単純ではないことが、今回露見したように思います。「出る杭は打たれる」のは日本だけのことではないのでしょう。

 

8)企業成長スピードのマネジメントは、古典的な経営の重要テーマです。4,5年前、急速な海外工場立ち上げに対して、トヨタの長老達が経営陣を諫めたということがありました。しかし、世界一間近のトヨタはスピードを落とすことはありませんでした。投資家など社外からの成長圧力も強かったのでしょう。アクセルを踏むのは簡単ですが、競争している時にブレーキを踏むことほど難しいことはありません。

 

 

以上、今回はトヨタが対象でしたが、他の日本企業で同じ問題が起きたとしても全く不思議ではないと思います。このトヨタケースを、十分研究する必要がありそうです。

バンクーバーオリンピックも終わってしまいました。今回のオリンピックで、多くの方の印象に強く残ったシーンは、女子フィギュア浅田選手のフリー直後のインタビューではないでしょうか。

 

「オリンピックは、長くて短かったです」と答えた後、溢れる涙をおさえることは、できませんでした。

 

そこで、私たち視聴者は、浅田選手の悔しさを一瞬にして知ったのです。では、彼女の悔しさをわかったのか?「わかる」と「知る」では、どう違うのか。そんなことを考えてしまいました。

 

こういう場面での「わかる」とは、共感を意味するように思います。友達の深刻な悩みを聞き、「お前の気持ちはわかるよ」という場面と同じです。

 

浅田選手の悔しさを、情報として「知る」ことは容易ですが、深く共感するには、想像力と自らの経験の量が必要でしょう。

 

 

「わかる」にも、もう一種類あります。先日、引っ越しをしたのですが、そこで作業してくれた引越し業者の手際の良さに、久しぶりにプロの仕事を見た気がしました。

 

引越し先に先回りして荷物が到着するのを待っていた私に、その引越し屋さんは、到着するとすぐに部屋に入り聞きます。「先ほど搬出した荷物の配置を教えてください。」私は、事前に配置をある程度決めていたので、細かく指示しました。私は荷物をすべて理解しているし、配置も決めているからいいのですが、彼は私の指示がわかるのか正直不安でした。正しく理解していないと、運びこむ順番を誤り、手間が大幅にかかってしまいます。しかし、一度説明しただけで、「わかりました」と事もなげにいい、頼りなさげなバイトに細かい指示を出しつつ、ほぼ完璧な順番で運びこみ、配置を終えたのです。迅速でした。資料なんかありません。

 

 

彼の「わかりました」は、対象物、プロセス、出来上がりイメージ、すべてが頭の中で出来上がっており、その通り実行できることを意味しました。つまり、行動に結びつく「わかる」です。

 

他にも「わかる」は、「分かる」「解る」「判る」などいろいろな漢字があり、微妙にそれぞれ意味が異なるのでしょう。

 

「知る」や「わかる」をどういう意味で使っているのか・・・、コミュニケーションって難しいですね。

 

ここまで書いて、「知る」にも実はいろいろな意味があるのではと思いだしてしまいました。また、こんど考えてみます。

オバマ大統領就任から一年以上経過し、ハネムーン時期は終わったようです。あの長い選挙戦からの熱狂もさめてきつつあります。ただ、アメリカという国があれだけの時間とエネルギーをかけて大統領を選ぶということには、大きな意味があるのだと思います。

オバマvs.jpg 

アメリカ大統領には、体力・気力、そしてあらゆるセグメントの人々を説得できる言葉の力が必要です。それも、付焼刃ではなく真の力です。それを証明するには、相応の時間が必要なのです。あの長い選挙キャンペーン期間は、そのテストなのであり、また訓練の場なのでしょう。

 

記憶に新しいところでは、GEのジャックウェルチCEOが後継者を選定するプロセスが、大統領選挙に似ていましたね。

 

翻って日本の社長就任プロセス。ほとんどが、前任者の指名でしょう。(近年指名委員会というのもありますが)それは、日本企業の構造や文化に合っていたのでしょう。一種の家督相続や部族長の選定プロセスに似ています。

 

トップに期待されるのは、組織の継承であり調整能力、そしてうまく神輿に担がれることでした。社長に選ばれるような人は、長い会社人生の中でそういう能力を磨き、生き残ってきたのです。期待能力は違いますが、長い選考プロセスを経てきたという意味では、アメリカ大統領と似ているとも言えなくもありません。

 

しかし、問題は日本企業のトップに求められる役割や能力が、バブル崩壊以降、特に08年のリーマンショック急速に変化していることです。経営環境変化に伴い、トップのあり方も変わってこざるを得ないでしょう。

 

 

昇格者研修というものがあります。企業内で階層を上がると、必要とされる能力や意識が大きく変わるため、昇格前後に短期間でそれらを修得させることが目的です。

 

会社組織の中で、もっとも昇格時に「世界」が変わる階層はどこでしょうか?平社員から管理職に上がるときでしょうか。いえ、違います。社長に就任する時です。特に最近、トヨタの社長会見や証言を見ていて、つくづくそう感じます。

 

トヨタはともかく、上場企業で社長就任前にどれだけの専門トレーニングが施されているのでしょうか。「就任一期目では、何もできなかった。二期、三期やって、やっと自分のやりたいことができるようになる」という社長のコメントを多く耳にしませか。そんな悠長なことで、今どき大丈夫なんでしょうか。アメリカ大統領ではありませんが、就任100日で必要な方向性を示し、基盤を固めるくらいでなければ、グローバル競争に生き残っていけないでしょう。

 

もっともトレーニングが必要なのは、社長候補(内定)者なのではないでしょうか。

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