2017年12月アーカイブ

NHKの「サラメシ」っていう番組、面白いですね。日本にはいろんな仕事があって、いろんな職場がある。そこにはいろんな人々がはたらいていて、当然ランチを取る。ランチに注目することで、いろんなことが見えてくる。

随分古い回で恐縮ですが、すごくいい話がありました。記憶を頼りに書き起こしてみます。



東大阪市にある中小企業経営者三代目Mさんは、父親から会社を継いだものの社員の確保に苦労していた。典型的な町工場に来てくれる若者なんていない。


6年前のこと、知り合いの経営者から技能実習生制度を活用してベトナムから若者を採用できることを聞いた。日本人の半分以下の給料で、真面目にどんな仕事に取り組んでくれるらしい。Mさんは早速制度を活用し、20代前半のベトナム男性三人を採用した。確かに彼らは、日本人の若者が嫌がる単純作業を黙々とこなしてくれる。Mさんは安い労働力を確保でき、また彼らは日本でお金を稼ぎいずれ母国で家でも建てるのだろうと考えると、素晴らしい制度だと思ったものだ。


しかし、半年が経過したある日、三人は突然Mさんに食ってかかった。リーダー格の青年は、片言の日本語でこう訴えた。「この会社潰れる。僕たちはバカじゃない。」Mさんは、最初何を訴えているのか理解できなかった。彼らは満足していると思っていたからだ。しかし、うすうす彼らの不満を感じとっていた経理を務めるMさんの妻は、涙が止まらなかったという。


やっとMさんは気づく。自分はなんてひどい仕打ちをしてきたんだと。三人は日本で技術を身に付けて、母国の発展に役立とうと大決心して日本にきたのだ。なのに自分は、彼らを安い労働力としか考えていなかった。ヒトとは思っていなかったのかもしれないと。それからMさんは、三人に難しい作業も教え任せるようにしていった。妻は週に三回は彼らのためにまかないを始め、皆で一緒に昼食を取るようにした。彼らに喜んでもらうように、ベトナム料理も勉強した。職場の雰囲気はよくなり、彼らの習熟度もどんどん上がっていった。やがて彼らは実習期間を終えベトナムに帰っていった。Mさんは、その後もベトナムから実習生を招き続けている。


仕事を拡大していったMさんは、昨年ベトナムに工場を設立した。現地で中心となっているのは、あの「この会社はつぶれる」といった一期生たちだ。


ここからいろんなことが見えてきます。

 ・労働者を機械とみるか、ヒトをみるか。ヒトをみたほうが生産性は高まる

 ・一般に日本の会社は労働者をヒトとみるが、途上国からの労働者は機械と見なす傾向がある

 ・小さな職場は「生産の場」でもあり、ヒトとヒトが関わりあう場であり「共同体」

 ・共同体では、食事という生きるために最も重要なことを共ににすることで結束が高まる

 ・共同体では、「育てる」ことが必須の機能であり、育てられたヒトがやがて共同体を支えるという循環が起きる

 ・しかし日本をはじめ先進国では、共同体の破壊が進んでいる。かつては日本では会社が共同体の役割を担ってきたが、それも弱まっている。もし人間にとって共同体が必要だとすれば、今後何がその役割を担っていけるのか


よく一体感があるという表現を使いますが、一体感とはどのようなものなんでしょうか?今朝の日経に、認知行動療法研修開発センターの大野裕さんの講演に関するこんなコラムが載っていました。

 

(前略)話し始めてしばらくは緊張が続き、ろれつがうまく回っていないように感じる。ところが、不思議なことに、しばらく話していると次第に緊張が解けてくる。さらに、聴衆がうなずきながら聴いているのは目に入ってくると、次第に高揚感のようなものが湧いてくる。聴衆と一体になったような不思議な感覚だ。そうするとしれまでの落ち込みや緊張はどこかに消え去って、表情は穏やかになり自然と笑顔になってくる。まさに人の存在の力を感じる瞬間で、聴衆に話させてもらったという思いを強く持つ。(後略)

 

 

すごくよくわかります。さすがに認知科学の専門家、すごくご自分や周囲の状況を客観的に把握し描写されています。私も同じような感覚を抱くことがありますが、それをうまく表現できませんでした。

 

最初、緊張のあまり自分自身は「閉じた」状態になっています。聴衆も同様に「こいつ何を話すんだろう」とやや不安な状態。自分もその聴衆の不安感を受けとめるので、相乗効果となってますますうまく話せなくなります。こうなるとバッドサイクルに入ります。

 

ところが、必死で話すうちに「うまく話そう」とか「聴衆はどう感じているんだろうか」とかの意識が飛んでいきます。とにかく話すのに精一杯で、意識する余裕もなくなる。無意識が自分を支配するようになると、余計なことを考えなくなり話に専念できるようになる。すると、少しずつ聴衆の心も「開いて」くる。それを自分も感じることができるようになる。すると自分も心を「開」けるようになる。そうなれば、心と心が通じ合い一体感を得ることができるのではないか。今度はグッドサイクルが回りはじめます。「聴衆に話させてもらった」という感覚は、自分自身と聴衆の相互関係が活発になり、聴衆から言葉を引っ張りだしてもらうような感覚です。

 

西田哲学に「主客合一」という言葉があります。自分と対象が分離されていない状態ということでしょうか。近代科学の二元論とは異なる世界観によるもので、この講演時の一体感がそれなのかもしれません。

 

この「主客合一」(とりあえずそう呼びます)に入ると、自己と他者が同じ水の中に入っており、その中で自己と他者それぞれが溶け出し混じりあうイメージになります。あるいは、自分の呼吸と他者の呼吸が連動しており、いかようにもその場をコントロールできるように思えてきます。舞台に立つ卓越した芸術家は、まさにこの状況をすぐにつくりあげることができるのではないでしょうか。この感覚を一度でも味わうと、どんな苦労にも耐えてまた味わおうと思えるに違いありません。

 

研修の場面でもいま述べたような状態を何度も、客観的(つまり当事者ではないオブザーバーとして)に感じてきました。講師と受講者が見えない糸で繋がって、その「場」を全員でつくりあげているイメージです。

 

そういう場を観察すると、ヒトは近代科学で定義されるような「独立した個人」ではない、もっと相互依存する開かれた存在だと感じます。「人間」という単語が、「人」と「間」の二文字でできているのは的を射ています。「ヒト」は、人と人との相互関係があって初めて「人間」になるのです。日本人はそのことを古来より知っていた。考えてみれば、「個人」の概念が伝わったのは明治維新後であり、まだほんの150年しか経っていません。近代科学の二元論だけを依拠するのは止めた方がよさそうです。

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