先日、文楽二月公演を観てきました。演目は、ご存じ「曽根崎心中」。見どころは、「天神森の段」道行きの場面です。道行きとは、心中のた道行き.jpgめ死地におもむく男女が、風景の中をひたすら歩く場面です。以下、そこでの語りの一部です。近松門左衛門の名調子、惚れぼれしますね。

 

鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契ていつまでも、我とそなたは女夫星(めおとぼし)。必ず添ふと縋りより、二人が中に降る涙、河の水嵩も勝るべし心も空も影暗く、風しんしんと更くる夜半

 

そもそも道行きという型があること自体が日本的です。会話は多くはなく、風景の中をひたすら歩く。しかし、移動する風景が二人の心情を雄弁に語る。語りも、人と風景が溶け合っているようです。そこに太棹(三味線)がさらに心情を盛り上げる。日本人にとって、風景は切っても切れない深い関係にあるようです。

 

 

話は変わりますが、日経夕刊1/18週に連載されていた元世界銀行副総裁の西水美恵子さんの話がとても面白かったです。特に面白かったのは、キャリアに迷っていた時きっぱり決めた場面です。

 

山の上のスキー場にロープウェイでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら、「何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ」という答えが、すうっと見えてきました。

 

合理的意思決定でも何でもありません。風景が彼女に意思決定させたとも言えます。実は、私も似た様な経験があります。移動中の新幹線の座席で、ノートにふたつの選択肢のプロコンを列記しながら、あることで迷っていました。いくら書いてみても結論はでません。そんな時に、車窓から快晴の空を背景にした富士山が見えたのです。見なれていた富士山ではありますが、その時はちょっと違って見えた気がします。そして、その瞬間迷いが晴れました。

 

非合理な意思決定ではありますが、最後の最後は風景の力が決めるのです。これは、日本人特有なのかどうかはわかりませんが、道行きにしても西水さんにしても、風景と人間の関係について、興味が尽きません。

「これからのビジネスパーソンには、コンセプチャル・スキルが重要だ」とは、いろいろなところで耳にするフレーズだと思います。

 

では、コンセプチャル・スキルって何?という質問に、どれだけの方が答えられるでしょうか?

 

 

「MBA経営辞書」(by Globis)によると以下だと説明されています。

コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも呼ばれ、物事を概念化して捉えたり、抽象的に物事を考えたりする能力とされる。

 

これではよくわかりませんね。グーグルで検索してみましたが、他のサイトでも似たような説明でした。

 

 

「一を聞いて十を知る」という言葉があります。頭の良さの代表的な表現でしょう。なぜ、頭のいい人は十を知ることができるのか。

        仮説1:頭のいい人は、たくさんの知識を持っているので、一に関連する知識をすぐに引っ張りだして、相手が伝えたいことを類推することができるから

        仮説2:頭のいい人は、相手が今この場面で自分に一を言うに至った背景情報を推測し、いいたいことを類推することができるから

        仮説3:頭のいい人は、一の言葉から、自分に役立ちそうな概念を引っ張りだし、それと自分の頭の中にある概念を重ね合わせて、さらにその概念を自分に日常レベルの事象に解釈し直すことができるから

 

どれも理由としてはありえそうな気がします。上記3つの仮説は、重なりあう部分もありますが、私は特に仮説3が学習には重要であり、その能力がコセプチャル・スキルだと考えています。

 

優秀な営業マンは、どんなお客さんとも話を合わせることができるといいます。それは、単に世間話のネタとなる情報を常に収集しているだけでなく、お客さんの話を概念化して、それを膨らませて返せるからではないでしょうか。

 

ベテラン管理職が、最近の若手とは話が合わなく困ると嘆くのも、別に若手がおかしなことばかりを話すからではなく、その管理職のコンセプチャル・スキルが劣っており、概念化して理解することができないからではないでしょうか。

 

最近話題のTVドラマといった、若手と会話するためのネタを集めるのではなく、メタレベルで会話できるように訓練しましょう。(失礼しました・・・)

最近、「ニューノーマル」という言葉を耳にすることが増えました。アメリカ発の言葉です。リーマン・ショック後の不況というトンネルの先には、従来と違う世界が待っているとの見方です。マッキンゼーの世論調査によると、支出を減らした人の過半数が、「景気が回復しても倹約を続ける」と答えたそうです。

 

感覚的には、日本も同様だと思います。私の世代は、物心ついてから三度の大きなバブルとその崩壊を経験しています。最初は、列島改造とオイルショックのセット。小学生だった私も、お菓子の値段が急に上がったことと、TVで観たトイレットペーパーの奪いあいは、強烈な記憶として残っています。

 

次は、ご存じ80年代後半からのバブルとその崩壊。円高不況脱出のために仕組まれたバブルが崩壊するのは必然でした。バブル時は、そもそも若年で貧乏だったのであまり恩恵に与っていませんが、崩壊の影響は人並にかぶりました。

 

そして、小泉改革と円安政策をきっかけにしたミニバブルとリーマン・ショックです。不動産屋が肩で風を切って歩く姿を見て、いつか見た風景だと思ったものです。バブル崩壊が日本だけでなく、世界的だったことが、過去二回とは全く異なります。また、日本の産業構造が、製造業主体からサービス主体にシフトしているため、政府の景気対策は過去二回ほど機能していません。(中国は機能しています)

 

さすがに、三度も、持ち上げておいて突き落される経験を積めば、いやでも学習します。つまり、過大な夢は抱かず、堅実な消費にならざるを得ないというわけです。

 

世代によって多少感じ方が違うとはいえ、これが日本独自の「ニューノーマル」なのではないでしょうか。少子高齢化と相まって、これが今後の日本経済や社会に与える影響は、計り知れないほど大きいのではと危惧します。

 

「ニューノーマル」とは、「Back to basic」だとも言えそうです。基本に帰れ。不況脱出ための小賢しい手練手管ではなく、長期的視点で本当に大切なものや、自分たちがもっとも得意とするもの、仕事や生きることの意味などを見つめ直してみるいい機会かもしれません。そうすれば日本も、もう少し落ち着いた大人の国になることでしょう。

 

企業の新入社員研修については、ほとんど関わったことがありませんが、近年盛んだなという印象は持っていました。先日、新入社員研修の講師を担当されている方のお話しを伺う機会があり、勉強になりました。

 

担当する研修では、論理思考からライティング、コミュニケーション、業務のシミュレーションまで、その内容は、驚くほど豊富。講師を担当する前に、模擬受講したのだが、私でも答えられないような難しさだった。クライアント企業の注文によっては、厳し目の指導もすることもあり、新人がその場で泣いてしまうこともあるよう。

 

研修を受けて配属された現場の先輩や上司は、新人の博学さ?と理屈っぽさで、面食らうことも多いらしい。そりゃ、そうだ。現場の経験が一切ないのに、理屈ばかり頭に詰め込んでも、すぐに役立つはずがない。現場の上司は大変だろうな。

 

その方は、講師を務めながらも、その効果には疑問を感じているようでした。

 

 

10年前のいわゆる企業研修フェアと近年のそれとの最大の違いは、新人や若手向けの研修プログラムの多さだと思います。特に、2004年頃からのミニバブルの大量採用が影響しているのではと思います。

 

新人獲得競争が復活し、学生に魅力ある企業だと思ってもらうには、豊富な新人・若手向け研修もアピーリングだったのかもしれません。また、大量に加わる新人を、現場では教育しきれず、外部研修会社に依存することも増えたのでしょう。OJTは、死語と課しつつありましたし。

 

 

その話を聞いて思い出したのが、私が新卒時に受けた新人研修と、唯一手がけた新人研修のあるプログラムです。

 

私は銀行に入行するとすぐに、2週間の新人研修に送りこまれました。町田郊外の研修所での缶詰合宿です。そこで、教育研修室指導のもとで、札勘(お札を数える)、加算機(大きめの電卓)、そろばん!の基礎技術を徹底的に訓練させられました。他にも財務分析などメニューはいろいろありましたが、よく覚えていません。同期は269名。40人くらいのクラスに分けられ、研修は進みます。クラス内のグループ対抗や、クラス対抗で、競わせることが基本だったと思います。2週間の研修で何を得たかといえば、先の基礎技術と同期の絆だったと思います。今思えば、銀行の意図も、そこにあったのだと思います。銀行でこれから長年いい仕事をしていく上では、同期の絆は、何よりも大事な財産ですから。そういう意味では、新人研修でしかできないことを、してくれたのだと感謝しています。(途中で退職したとはいえ)

 

 

それから、もう15年くらい前になりますが、一度だけクライアント企業に新人研修の1プログラムを開発し、提供しました。某大手通信企業の新人、約250名が対象です。依頼内容は、大学・大学院から社会人になりたての新入社員に、「社会と企業と個人の関係を理解させてほしい」という、今思い出しても難しいテーマでした。ようは、企業で働くうえでの社会人としての自覚を持たせてほしいということです。ここで、プログラム内容は書きませんが、非常に苦労しました。でも、最終的には受講者にもクライアントにも満足頂き、大きな達成感を味わったことを覚えています。

 

 

今年は、採用人数も大幅に絞られ、新入社員研修の形も変わっていくことでしょう。決して、「実施することに意味がある」というようなものには、していただきたくはありません。

今朝の朝日新聞に載っていたサッカー岡田代表監督と福岡伸一氏の対談が面白かったです。

 

福岡氏には「動的平衡」という著書がありますが、岡田監督はその概念をチームづくりの参考にしようとしているようです。

 

岡田監督がこんなことを話しています。

岡田監督.jpg 

フォワード選手がシュートすべき場面で、パスしてしまったとする。かつては、試合後そのビデオを見せながら、ここではシュートすべきだと指導していた。すると、その選手は後の試合で、ここはパスかシュートか迷ってしまった。同じ場面は二度とないのだから。今では、同じようなことが起きても、ミーティングで見せるビデオ作りを工夫している。過去パスで成功した映像をたくさん集め、その中に一つだけシュートして成功したシーンを混ぜておく。そして、他の選手にも聞こえるように、「今のは、いいシュートだった」という。

 

一方、守備の選手への対応はちょっと違う。防御は、ある程度がロジックだ。そうすべき理由を丁寧に説明する。

 

 

うろ覚えですが、こんな内容でした。攻撃と守備で対応が違うのも、言われてみれば確かにそうです。主導権が自分にある場合、必要なのは定石云々よりも、一瞬のひらめきでしょう。先手を取れるわけですから、そのアドバンテージを最大限利用すべきです。だから、迷わせるような指導はいけないのです。より重要なのは、定石を知っているかどうかよりも、判断スピードです。

 

それに対して、守備は後手です。不確実性が高い守りでは、できるだけリスクを最小化しなければなりません。そのためには、定石、ロジックに従うことが、もっとも失敗確率を小さくするのです。

 

あと、ビデオの使い方も面白いですね。多くのパスシーンにシュートシーンを挟み込む。選手は、パスする自分を見て満足しながらも、「シュートも悪くないかも」と気づく。そのちょっとした自信が、潜在意識にインプットされ、迷うことなく無意識のうちにシュートするかもしれません。フォワードには、指導より「気づき」のほうが有効なのでしょう。

 

これは会社でも同じです。銀行業務のようなリスク回避型の仕事では、ルールの徹底とロジックの理解が大切です。よって、指導が必要。一方、創造性を重視する仕事では、どんなに「創造せよ」と指導しても無意味です。本人の気づきを促す、場を整備することしかできません。その使い分けこそが、マネジメントだと思います。

 

生命科学を踏まえたサッカー日本代表チームができあがったら、結構ワールドカップで暴れるかもしれません。

ダイアローグ(対話)の重要性が、だいぶ企業の中でも浸透してきたように思います。効果的なダイアローグを進めていくには、問いかけの力が欠かせません。

 

これが実は非常に難しいのです。質問と何が違うのか?

 

質問とは、疑問を相手に投げかけ、答えをうることにより聞き手が満足する行為です。問いかけは、相手に対して、思い込みや固定したマインドセットに目を向けさせる行為です。従って、聞かれた人が、自分自身で気づいていなかった自分に気づき、満足するはずです。

 

的確な問いかけは、相手にメタ認知させるわけです。メタ認知とは、自分自身をもうひとりの自分が上空から眺めている状態のイメージです。(元ヤクルトの古田さんは、優れた捕手には、上から見ているもう一人の自分がいると、言っていました)

 

では、メタ認知を促す問いかけを発するには、どうしたらいいでしようか。これには、ある程度の経験が必要ですが、代表的な型もあるような気がします。

 

他にもあるでしょが、以下4つが思いつきました。

●前提を疑う:「そう言うけど、本当にそう?」

●可能性を広げる:「他の方法もあるんじゃない?」

●根っこを掘る:「それは、実はXXだからじゃない?」

●やり直しを問う:「もし、今だったらどうする?」

 

思い込みや偏見、勝手な前提によってがんじがらめになったと感じたら、だれかに問いかけてもらうとういいかもしれません。案外、自分のことを一番わかっていないのは自分だと、あらためて気づくかもしれません。

先週の土曜日、「サードプレイスコレクション2010というイベントに参加してきました。家庭でもない、職場でもない、「第3の場」の可能性について考えるというパーティーです。そこで、私が考えたのは、遊びと学びと仕事の関係についてでした。

 

一般に、「学び(勉強)」の反語のひとつは、「遊び」でしょう。また、「仕事」の反語のひとつも、「遊び」でしょう。すると「遊び」=「仕事」といえなくもないですね。(かなり、こじつけですが・・)

 

そこで、「遊び」とはなんだろうかという疑問を持ちました。すると、たまたま聴いていたFMラジオで松尾貴史氏が「遊び」の定義を話していました(誰かの受け売りだそうですが)。曰く、

 

「遊び」は4つの条件を満たしている。

1)    めまい:ジェットコースターに代表される不規則な身体的刺激

2)    物真似:ままごとに代表される何者かになりきること

3)    偶然:人生ゲームやギャンブルに代表される不確実性にさらされ、スリルを感じること

4)    競争:鬼ごっこやかけっこに代表される他者との競い合い

 

確かにどんな遊びも、何らかの形で4条件を満たしているような気がします。たとえば、私の謡の稽古も一種の遊びです。大きな声を出すことより、軽いめまいを覚えることもあります。もちろん先生を真似ることがベースであり、稽古仲間の進歩を意識するということは、実は競っているのかもしれません。謡い方の基本ルールはありますが、状況により変化することも多く、未熟な私から見れば偶然性に依存しているようにも思えます。この遊びの4条件を満たすから、謡も遊びとしてわくわくし楽しめるのかもしれません。

 

このような「遊び」から、学んでいることは確かです。子供は遊びから、社会生活の要素を学びます。学びが仕事に役立つこともきっとあるでしょう。そして仕事が充実すれば、遊びにも力が入ろうというものです。

また、反対の回転もありそうです。仕事を通じて学び、学びのプロセス自体が遊びになっていき、遊びの中から仕事のヒントがうまれるというサイクルです。

 

どちらにしても、遊びと学びと仕事は対立概念ではなく、それぞれ補完し合うものだと考えるべきでしょう。そうなると、先ほどの遊びの4条件を、学びや仕事にも適用してみたくなりますね。

 

ところで、土曜のパーティの帰りに、プレンゼンターの一人だった上田信行さんの著書「プレイフル・シンキング」を見つけ買いました。そこにこういうフレーズがありました。

プレイフル・シンキング
488335220X

プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態をいう。どんな状態にあっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創りだそうとする姿勢(中略)。プレイフルな状態を生みだすための思考法が、「プレイフル・シンキング」である。(中略)

 

人生を楽しく豊かにしてくれる一番の経験は、「学び」である。学びとは、学校や本での勉強ではなく、人やモノとのかかわりにおいて自分の頭で考え、発見し、創造していく学びのことだ。日々の実践を通して人は学んでいくのだと考えれば、働くということもダイナミックな学びの場だといえる。そして、楽しさの中にこそ学びがある。

 

「プレイフル・シンキング」とは、遊び心のことかもしれません。学びも仕事も、何事も遊び心をもってのぞめば、楽しく前に進んでいけそうな気がします。

昨日、日本CHO協会主催「スマートHRD養成講座」の第三(全四回)回を開講しました。企業で人材開発に携わる方々のレベルアップを図ることを目的とした講座です。一貫したテーマは、「経営戦略遂行のために人事・人材開発が何をすべきか」です。

 

初回は、拙著「人材開発マネジメントブック」(日本経済新聞出版)の内容を、ざっとインタラクティブレクチャー形式で行い、第二回は「花王―研修取組2006」というKBS開発ケースをつかって、ケースメソッドを、そして昨日の第三回はライブケースとして、旭化成㈱の事例を取りあげました。

 

 

同社労政・人事部長の元田勝人さんに来ていただき、「旭化成におけるグループ人事マネジメント」というテーマで約45分間講演いただいた後、三つの設問を提示しました。設問を簡単に書くと以下です。

 

1)分社化(2003年持株会社制に移行)に伴い,各事業会社独自の専門能力開発と、グループ全体で必要な能力開発をどうバランスとっていくか

2)求心力を高めるため、経営理念の浸透をいかにはかるべきか

3)グローバル展開加速に向けて、どのような目標と施策を打ち出すべきか

 

そして、グループごとに検討、発表し、元田さんも交え対話を進めました。

 

 

意見の詳細は書きませんが、会社や立場こそ違え、本質的な課題は多くの企業で共通だということがよくわかりました。受講者の皆さんは、「うちも全く同じなんだよな」などと言いながら、熱く発言されていました。皆さん、いくつかの共通するトレードオフに悩んでおられるのです。

 

問題の本質は共通でも、様々な理由により対応の方向性や打ち手、その反応は、会社によって異なります。なぜ、異なるかを認識することが、自社の特徴や状況を浮かび上がらせることになります。

 

ずっと企業の中で議論していても、なかなか自社のことは見えないものです。深い検討を進めるには、一度客観視してみることが必要で、そのためには、同じような問題意識を持った外部の人たちと対話することが最も効果的なのだと思います。

 

東大の中原さんではないですが、シリアス・ファンで対話するこういう「場づくり」を、もっともっとやっていきたいですね。

 

 

私の拙いファシリテーションではありましたが、最後に元田さんから、「今日はいろいろヒントをいただいた」とおしゃっていただき、少しほっとしました。(元田さん、ありがとうございました)

 

なお、次回(最終回)は、他社ではなく受講者自身の会社の経営課題を題材にして、対話を行います。みんなで真剣に知恵を絞り、具体的なアイデアを生み出す場にしていきたいと思います。

本日の日経朝刊、スポーツ欄のコラム「フットボールの熱源」に、こうありました。

 

あるJリーグの中心選手のこんな嘆きを聞いた。「うまくないたいと思っているのだけど、どこに問題があって、じゃあ何をどうしたらいいのかと、自分で考えないプロがいるんですよ。そういう選手を見ていると、もったいなあと思う」(中略)

 

サッカーについて、奥行きのある話のできない選手がわりと多い。それは普段サッカーについてとことん考え抜いていないからではないか。サッカーは監督やコーチが教えてくれるものと思っているのではないか。(中略)

 

選手の独学精神を育むことこそ、指導者の最も大事な仕事なのではないか。

 

 

これを書いている吉田誠一記者のサッカー記事には、以前から気になっていましたが、やはり面白い視点です。

 

Jリーガーですら、「学校の生徒」みたいになっている。いわんや、ビジネスパーソンをや。上司や先輩が自分を育ててくれると、待っているのでしょうか。

 

このコラムで一番共感したのは、最後のフレーズです。指導者とは、指導することよりも、選手が自分で学ぶように躾けることだと言っている点です。

 

 

数日前の「カンブリア宮殿」で、劇団四季の浅利慶太氏が、オーディションで何を見るのか?との質問にこう答えていました。

 

「部屋に入り、名前を述べた時点で、だいたいの才能はわかる。歩き方で、骨格や体の使い方がわかるし、話せば声量や声の質はわかる。しかし、わからないのはどれだけ根性があるかどうかだ。これが重要なのだが、取ってみなければわからない。」

 

そういう所には才能あふれる人しか集まりません。何がその後の成功を決めるかといえば、運と根性なのでしょう。根性は、独学精神にも通じる気がします。世界は違いますが、イチローにしろ、松井にしろ、有り余る才能に強烈な独学精神を持っているのは明らかです。

 

スポーツや演劇の世界であろうが会社であろうが、独学精神を育むことは、ものすごく大変でしょうが、「学び方を学ばせる」ことなら、なんとかできそうな気がします。そんなところから、地道に始めるのがいいかもしれませんね。

内田樹さんの「日本辺境論」に、こんな記述がありました。 

 

弟子はどんな師に就いても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。(「日本辺境論」P149

 

日本辺境論 (新潮新書)
4106103362

 

内田さんは、辺境人たる日本人は、こうして「中心」から学ぶための、素晴らしく効率のいい学びの技術を修得したのだと指摘しています。

 

 

また、世阿弥は「風姿花伝」にこう書いています。

 

上手は下手の手本、下手は上手の手本なり

 

上手が下手の手本は当たり前ですが、下手も上手の手本になると言っているわけです。上手にも悪いところがあり、下手にもよいところが必ずあるもので、自分の技能がある程度のレベルに達したら、「下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる(芸の一つに加える)こと」が肝要だとも説いています。つまり、すべてが師になり得ると。

 

 

いっぽう、比較の心が芽生え、自分が偉いと思ってしまう(慢心)と、学びが起動しなくなってしまいます。それを、世阿弥は、以下の言葉で指摘します。

 

稽古は強かれ諍識(じょうしき)はなかれ

 

諍識とは、慢心から生じる争う心のことです。他者を自分と比較して、劣ると見下すことです。そういう心を一切排除して、稽古に励めと説いているのです。稽古とは、古(いにしえ)をかんがえることだそうで、古来の型をひたすら真似ることです。そこに、比較対象はありません。世阿弥は、日本人の学びの大先生です。

風姿花伝 (岩波文庫)
4003300114

 

 

ところ、最近の職場で、「若手が学ばない」と嘆く声をよく耳にします。あるいは、上司の育成力が落ちているとも。

 

もし、以前は職場での学びが機能していたとすると、何が変わったのでしょうか。暗黙のうちに伝授されてきた、学びの作法が、現在職場で失われつつあるのかもしれません。

 

「上司は、若手に対して、なぜそれを学ばなければならないかを、合理的に説明しなければならない」、「最近の若手は、理屈で納得しなければ動かない」

 

といったフレーズもよく耳にします。確かにそういう側面はあるのでしょう。「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いが、話題になるような時代です。

 

しかし、そういう風潮が、日本人の強みであった学びの力を落としているのかもしれません。理屈はともかく、まず稽古(型を真似る)することで、学びを起動させるアプローチに立ち返ることが必要なのではないでしょうか。一見非効率に見えて、実はそれが最も効率的だという気がします。

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