組織変革と物語

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組織変革という言葉は、既に手垢がついてしまっています。手垢がつくということは、人によってその言葉の解釈がばらばらになっている状況です。にも関わらず、キーワードとしては頻繁に使用されるため、それぞれの解釈の違いを確認することなく、何となくわかった気になって使用され、コミュニケーション齟齬をきたすことが、まま起きることになる。

 

組織変革という言葉は、組織構造を変える、組織構造を変えないで担当者や役割を変える、社員の意識を変える(意識って何?)、企業文化を変える(文化って何?)、評価方法を変える、就業に関するルールを変える、などなど、様々で使われています。もちろん正解はありません。

 

私の定義は、「組織が持続的に成果を出し続けることができるような状態になっている」ことです。持続的に成果を出すためには、環境変化にも適応できなければなりません。Aという状態をBに変えるというイベントではありません。変革をイベントと解釈することがありますが、そうではなく、常に変化し続ける状態が組織変革の理想です。

 

優雅に川に浮かぶ白鳥が、実は水面下ではすごい勢いで足を漕いでいるイメージでしょうか。一見すると安定しているが、実は常に細かく変化している。

 

こうした組織変革を可能にする能力を組織のケイパビリティとするならば、それはSkillWillに分解できます。Skillとは、どうすれば実現できるかの知識を持ち、かつそれを実行できること。Willは、一般には意欲とか動機づけとか言われますが、向かうべき方向性や従うべき規範に沿って動いてしまう心の状態だと解釈しています。つまり、戦略がこうだからこっちに向けて行動しようと意識することではなく、無意識にそう行動してしまう。インストールされている。

 

自動車に例えれば、アクセルやブレーキ、やハンドルがWillで、エンジンがSkill。スムーズに運転しているときは、足の操作やハンドルは意識することなく勝手に反応するでしょう。


SkillWillが揃って組織のケイパビリティ―といえるのです。そして、組織が置かれた環境によって、SkillWillを操作する必要があります。

 

Skillを向上させるために、上司が指導したり研修したりします。では、Willはどうやって獲得・向上させるのでしょうか?

 

その前に、Willとは何かをもう少し考えてみる必要がありそうです。組織のWillを形づくるものは何か。

 

私は、それは物語だと思います。個人的な例で恐縮ですが、私は約30年前に新卒で銀行に入行しました。就職活動中、当初私は銀行にお堅いネガティブなイメージを持っていました。しかし、リクルーターや人事部の方々と会ううちに、それは少しずつ変わっていきました。時代はまさに金融自由化元年といわれた頃。銀行は自由化、グローバル化に対応するためにこれまでとは異なる人材を必要としている、そんな言説に共感していきました。自分の中でそういう物語をつくりあげたのでしょう。

 

しかし、入行してみるとその物語は木端微塵に吹き飛びました。銀行という組織は、これまで通りの物語に従って動いていた(当たり前か!)。人事部は本当に新しい物語を信じていたのかもしれません。しかし、それは人事部や経営幹部の一部にしか共有されていない、希望的物語だったのです。そのギャップのため、二年で私を含め二割近くの同期が退職しました。(原発神話も、日本国民全体を巻き込んだ壮大な物語でした・・。)

 

物語に類した言葉に、「思い込み」や「前提」などありますが、それらはいわば点です。物語は面であり、広がってあらゆる思考や行動に影響を及ぼします。また、物語は組織を構成する人びと全体に共有され、自分だけ別の物語を生きるということは、ほぼ不可能です(私が辞めたように)。こうして組織文化ができあがります。

 

企業の環境が大きく変わる場面では、物語を編み直すことが必要になることがあります。(それをイベントとしての組織変革ということもできます)

 

まず、その組織が持つ物語をひも解いて、それを言語化し意識化することから始める必要があります。組織の内部の人間だけでは、その作業は難しいでしょう。全ての壁と天井が赤に塗られた部屋でしか暮らしたことがない人は、その部屋が赤いなんて知りようがないのですから。

 

現在の日本のあらゆる組織で、こういった作業が必要なのではないでしょうか。私は、それを組織を耕す作業としてイメージしています。

もうすぐ東京での会期が終了することに気付いたので、慌てて昨日上上野の森美術館に観に行ってきました。

 

初めての時間枠予約制でしたが、いいですね。平日昼間とはいえ、観客が殺到するのは明らかなので、予約制は安心感があります。私は13時入場枠を購入。14時半まで入場可能で、その次は15時入場。入替制ではありません。

私は待ち時間なしで14時くらいに入りました。ロッカーの空きもあり、まあまあの時間だったでしょうか。

 

入場すると同時にイヤホンガイド渡し場所。普段はイヤホンガイドは借りないのですが、それも代金込み(2500円)なのでつい借りてしまいました。また、全展示作品の紹介文が記載された小冊子も、全員に配られました。これも代金込み。正直、あまり大したことはかかれておらず、ほとんど見ませんでした。フジサンケイグループが主催すると、こういう展覧会になるのだなと、妙に納得。絵画好きというよりも、フェルメールの名前につられてくる方を主な対象としているのがありあり。フェルメール作品をこれだけ持ってくるには相当の費用が掛かったでしょうから、こういった方式で入場者を増やすのは合理的と言えば合理的。でも、絵画好きにとってはちょっと複雑な心境。

 

さて、展示全49作品中39作品は、同時代オランダ作家の作品。それらが展示された5部屋を通り過ぎて、やっとフェルメール作品だけの部屋に辿り着く。驚いたのは、最初の5部屋も人だかりができていたこと。皆さん、イヤホンガイドと小冊子で、絵画の読み取りに専念のご様子。私はさっさと、人だかりを抜けて一目散に最後のフェルメール部屋に直行。フェルメールの8作品が一堂に会した部屋は、さすがにすごかった。(「赤い帽子の娘」だけは12/20で展示終了。代わりに、「取り持ち女」が1/9から展示。数年前にドレスデンで見た作品でした。)フェルメールの作品は、全世界で35作品しか発見されていないのに、そのうちの9作品を日本でみられるのは、確かに画期的なことです。

 

フェルメール作品は物語を感じさせます。観る者の想像力を刺激し、各々が勝手に自分でストーリーを思い描かせる力が、ものすごく強いですね。

 

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例えば、「ワイングラス」ではグラスをまさに開けようとする女性をじっと見つめる男性。片手は既にワインボトルに。早く注ぎたくてしかたない風情。リュートやステンドグラス。少しだけ乱れた卓上が意味深です。あと、床の市松模様が微妙に歪んでいます。手前の市松は奥のそれにくらべて、上から見た確度で描かれています。つまり、奥に比べて手前の床が少し落ち込んで見える。遠近法として不自然です。なぜ、あえてフェルメールはそんなふうに表現したのか。そこの想像力を刺激されます。ワインを飲む女性が、酔っていることの表現か、はたまた女性が「堕ちていく」ことの暗示か。空間がゆがんでいるのです。

 

歪んでいるのは空間だけではありません。時間も歪んでいる。ワイングラスは、ほぼ飲み干されており空に見えます。であれば、もっと女性はグラスを傾けている(120度くらい?)はずです。でも、そうはなっておらず、75度くらの角度しかついておらず、不自然です。女性は、空になっているにも関わらず、グラスを口から離したくない。離すと男性から注がれてしまうからか。必死の抵抗に見えなくもない。そういった女性の気持ちが、あるはずのないワイングラスの確度に表現され、また女性がいやで長く感じる時間をも描いているように、私には思えます。

 

有名な「牛乳を注ぐ女」の牛乳の流れと壷の角度のズレも、フェルメール

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の意図を感じます。本来、壷の底に少しでも牛乳が見えていないとおかしい。観る人は、その微妙なずれに視点を集中してしまう。その時に脳の中で傾く壷と牛乳の流れが動き出す。私は動きを感じました。つまり、フェルメールは絵画でありながら動画を観るような効果をつくりだしたように思えるのです。

 

他の作品についても、いろいろ想像が膨らみますが、このくらいにしておきます。ホンモノの作品は、やはりすごい!!イヤホンガイドや小冊子に頼ると、こうした想像力がはたらかなくなってしまわないか心配です。それは、本当にもったいないことです。

名画の誉れ高くても、なぜか観てない映画があるものです。「ディア・ハンター」は、私にとってその筆頭でした。1978年製作なので、当時は中学生か高校生。アカデミー賞受賞も評判は聞いていましたが、きっとその重さに食指が動かなかったのでしょう。ベトナム戦争の余韻がまだ残っていた時代でもあります。

 

その後、やはりその重さと地味さゆえ映画館でのリバイバル上映もほとんどなかったのではないでしょうか。そのためこの齢になるまで、観ていませんでした。

 

しかし、最近4K版での再映が始まっており、満を持して観てきました。三時間を超える上映時間があっというまに経ってしまった印象です。この名画を4Kで復活させてくれたこと、感謝に堪えません。

 

主演マイケル役のロバートデニーロが、とにかくカッコ良い。高倉健を意識したのではと思うくらい、しぶくて優しく、でも女性には弱い、そんな人物像を見事に演じています。また、製鉄所の仕事仲間でいっしょにベトナム戦争に徴兵された、ニック役のクリストファー・ウォーケン、同じくスティーブ役のジョン・サベージ、ふたりとも狂喜と狂気と哀切をきめこまやかな演技で表現しています。また、若きメリル・ストリープが本当にきれい!今の恰幅よい貫録はまったく想像できません。

 

4Kゆえ映像もとても鮮明で素晴らしい。炎が飛び交う溶鉱炉、結婚披露パーティで踊り狂う群衆、一転して静寂の鹿狩りを行う山地、そしてベトナムの怪しい貧民街、どれも4Kだから鮮明に奥行きを感じることができるでしょう。(比較してないので想像ですが)

 

さて、2019年の現時点に観ることによる感慨です。

・アメリカの製鉄会社も活気があり、そこで働く労働者には固い結束があった。トランプ支持のラストベルト地帯は、こういう時代を懐かしんでいるのだろう

・労働者でも、休日には山小屋を拠点にして鹿狩りができるほどの余裕がある。そんな豊かなアメリカがあった

・主人公らはロシア系の移民末裔のようで、それに強いプライドを持っている。現在はどうなっているのだろうか?

・こういった地方では、ベトナム戦争に反対する運動は目立つことはないようだ。裕福な大学生は戦争反対が大勢だが、労働者は怖れながらも国のために戦地に向かう若者を、敬意を持って送り出している

 

そういった今観ての感慨はともかく、この映画の普遍性は時代を超えるものであることは間違いありません。

 

製鉄所の街でともに働き遊ぶ、おそらく幼馴染の三人。この三人の友情と心情の変化がメインストリームで流れ、そこにいくつかの話が絡みあっていきます。

 

戦地でいっしょに捕虜になった三人。そこでの恐怖のロシアン・ルーレット体験。やっとの思いで脱出し救援ヘリコプターに救助されたものの、ニックだけが機内に残り、マイケルとスティーブは力尽き、川に落ちてしまう。ここから三人の運命が分かれる。マイケルは、ロシアン・ルーレットの恐怖で頭がおかしくなりさらに落下時に足を骨折したスティーブを南ベトナム軍のジープに任せ、自分はひとり歩いて逃走。

 

その後、助かったニックはサイゴンの米陸軍病院に収容される。特に怪我や病気はないものの精神的に不安定で、米国帰還が許されます。米国に残した恋人リンダ(メリル・ストリープ)の写真だけが生きる支えなのでしょう。彼は米国にかけることができる軍人専用電話からリンダに電話しようとしますが、途中でダイヤルから指を外し、そのまま立ち去る。その後は、他の兵士が電話機を確保しようと争う。そのシーンがとても印象的です。想像するに、一人だけ助かった自分が、恋人に電話することに罪悪感が芽生えたのでしょう。自分を助けてくれたのはマイケルだ。このまま帰国していいものなのか悩む・・・。

 

一人英雄として帰国したマイケルは、ニックの恋人リンダを訪れる。マイケルは、以前からリンダに片思いしていたことが、描かれています。彼も戦地でリンダの写真を持ち続けていた。そして、行方不明のニックの代わりにリンダを手に入れる。マイケルはそこに罪悪感を抱くが、気持ちを押さえることはできなかった。マイケルは、スティーブが既に帰国しているが家族とは暮らしていないことを知り、彼がいる病院を訪ねます。スティーブは両足を失い車いす姿で入院しています。家族に迷惑をかけたくない彼は、家に帰りたくないという。マイケルはそれを理解します。

 

スティーブは、サイゴンから定期的に大金が送られてくると話します。誰からかはわからない。それを聞いたマイケルは、気づきます。ニックが生きてサイゴンに留まり、足を失ったスティーブに贖罪の気持ちからお金を送っているのだと。マイケルは三つのことを考えます。ひとつは、ニックの気持ちに応えるためにも、スティーブは家族のもとに戻るべきで自分がそうせるという決意。もうひとつは、ぬくぬくと帰国しニックの恋人であるリンダと幸せを掴もうとする自分への怒り。そして、贖罪の気持ちからも、何があってもニックをベトナムから連れ戻すという決意です。

 

そしてサイゴンで再会したニックは、マイケルだと認識しすらできないような廃人になっていた。必死でマイケルは、故郷の山や木、鹿狩りの話をして思い出させようとする。一瞬、ニックは思い出したかのように微笑する。が、その直後自分で打った小銃の弾丸が頭を貫く・・。

 

きつい仕事をしながらも楽しく暮らしていた若者の人生をこうも変えてしまったのは、戦争です。マイケル・チミノ監督は、戦闘シーンはほとんどなしに、戦争の残酷さ、愚かさを見事に描き切りました。しかし、単なる反戦映画ではありません。

 

なぜ、タイトルが「ディア・ハンター」なのか?戦争にいく直前と、還ってきた直後にマイケルは仲間と鹿狩りにでかけます。行く前のマイケルは、鹿を「一発」で仕留めることが大事だと言います。それは鹿を苦しませないためです。帰還後の鹿狩りでは、大きな牡鹿を追い詰めるものの、ざわと逃がします。ベトナム戦争で、楽しみの為だけに殺される鹿と同じ立場にたったマイケルは、動物や大自然の一部である自分自身に気づいたのではないでしょうか。単なる反戦映画ではなく、人間の傲慢さや愚かさ、しかし一方で仲間を思いやる崇高な心も持つ人間を描いたのです。鹿狩りする山岳シーンは、神の存在を意識させるような荘厳な映像です。


「経済は全体から個をみるが、芸術は個から全体をみる」と言う言葉がありましたが、まさにそんな作品でした。

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http://cinemakadokawa.jp/deerhunter/

2019年 新年のご挨拶

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謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年注目された言葉の中で、私が最も印象深かったのは、ノーベル賞を受賞した本庶佑特別教授の「教科書を信じないこと」でした。あらゆる権威や常識に疑問を持ち、自分の目で納得する姿勢を大切にすべきとのメッセージだと理解しました。


2019年は、あらためて「学習能力」の開発について突き詰めていきたいと考えています。

ご存知の通りテクノロジーの進化はますます加速し、急速にビジネス環境を変えています。
しかし、いくらテクノロジーが進化しても、それを使いこなすべきヒトの適応力が追いついていかなければ、社会がその成果を享受することはできません。

残念ながら日本は、テクノロジー進化以上にその点で遅れをとっているようにみえます。そして、それを克服する鍵は学習能力だと思うのです。

学習とは、「外部からの刺激を受容して、それに意味を見出し(解釈)、目的に合致するように自分の思考や行動を柔軟に変えていくこと」だと私は定義しています。外部からの刺激にはいわゆる知識も含まれますが、それだけではありません。舞台を観たり、星空を眺めることなども貴重な刺激です。

そういった学習を妨げる主な原因は受容や解釈にあり、例えば「教科書」に書かれた常識や思い込みに囚われたり、曖昧で不安な状況に耐えきれないことだと感じています。しかし、自分自身ではなかなかそれらに気づかないものです。だから他者、しかもできるだけ自分とは異なる他者との「対話」が必要なのです。(我々日本人は、本当に対話が苦手です。)


今年も社会の変化は加速することでしょう。それゆえ、個人や組織の学習能力開発の重要性は、ますます高まっていきます。そういった分野で有効なサポートができるよう、まずは私自身の学習能力向上に努めて参りたいと思います。


本年も引き続きご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます


2019年1月7日


株式会社アダット
代表取締役社長 福澤 英弘

ここのところの人材開発のトレンドのひとつは、ダイバーシティ教育でしょう。女性管理職比率が低い、もちろん役員においても。また外国人の役員も少ない、などといったことが、新聞等でも盛んに指摘されます。もちろん、ダイバーシティには他にも、人種、宗教、障碍、LGBT、年齢、世代などいろいろな多様性があります。

 

ある尊敬する経営者から、なぜ企業においてダイバーシティが必要だと思うか?と質問されたことがあります。

 

不確実性の大きい経営環境においては、組織の中にも多様性を保持したほうが変化へ対応しやすく、また創造性も高まるからじゃないでしょうか、と教科書的な回答をしました。

 

するとその方はこうおっしゃいました。

「創造性とか変化対応とか、みんないろいろ理屈をつけるけど、経営者はそんなことは考えていない。もっとも企業が勝ち続けられるフォーメーションを考えれば、必然的に多様化した集団になるんだ。」

 

私は、目から鱗が落ちた気分でした。世間ではダイバーシティが目的化しているが、ダイバーシティは目的ではなく手段です。すくなくとも、民間企業においては。本来の目的は、企業が強くなることです。

 

では、なぜ本来の目的を追求することを忘れ、目的化した手段に汲々としているのか。考えてみましょう。

 

・日本では、少なくとも戦後の高度成長期においては、画一的な労働者(つまり非多様性)を基盤にした組織が有効だった(理由は明らかでしょう)

・ヒトは何らかの共通的を持った人びとで集団を形成したがり、その集団を維持する力がはたらく

・その結果、集団内でメリットを配分するとともに、異なる集団を排斥することで集団の結束力を高める

・そうした環境に長期間置かれることで、それに都合のいい「理論」ができあがり、集団内で信念として共有されていく

(例:女性は数字に弱いので高度な仕事にはむいていない、など)

・そうした「理論」は、無意識のバイアス(そもそもバイアスとはアンコンシャスなもの)となってその理論にそった思考や行動を導く

・集団において、そう考えるのは自分だけじゃないと認識されれば、さらにそのバイアスは強化されていく

・そうしたバイアスのもとでは、たとえ「理論」を否定するような事象が起きたとしても、やがて肯定する事象に変化しがち。その結果、やはり「理論」は正しかったと確信される=ピグマリオン効果(予言の自己実現)

(例:数字に強い女性がそれを活用できる仕事を任されてとして、周囲の男性の協力が得られず、やがて他の部署に異動させられてしまう。そして、やっぱりな、と周囲の男性は安堵する)

 

かつては、こうした画一化が合理的だったとしても、経営環境は変わっていき、環境不適合となっていくわけです。しかし、こうした状況は、ヒトの心理面に深く刻まれるため、なかなか脱却できません。そのため、グローバルで競争している企業は、海外企業との競争に負けていくことになります。このままではまずいということになり、「ダイバーシティ」が大事だ!ということを言いはじめたのです。

 

しかし、人びとはなかなかぴんときません。それは、ダイバーシティを重視しなくても、まだまだ生き残れる企業の方が大多数だからでしょう。腐っても鯛、世界第三位のGNPを誇る日本です。まだまだ国内市場は大きい。減ったとはいえ、まだ規制で守られている業界は多い。また、グローバル企業からみると、日本は限界市場であると判断し、本気では参入しようとしない。だから、生産性が多少低くても生き残っていける。(日本企業のホワイトカラー生産性が低いのは、それが維持できるからです)

 

こうして、役所や経済界が旗を振っても、日本全体の「空気」にはなっていない。上辺の形だけ整えて、やり過ごそうとする。(社外取締役の起用など、手段が目的となり実施することで安心する)

 

保守的大企業の「空気」を変えるには、まだまだ力不足なんです。

 

しかし、このままでいいのでしょうか?私は典型的な「ゆでがえる現象」だと思います。まだまだ、と思っているうちに茹で上がってしまう。では、どうすればいいか。

 

これまで培ってきた「理論」を、ひとつひとつ否定することは非効率です。それよりも、これまで集団に守られてきた社員の思考パターンを変えさせる必要があります。それには、

・自分が当たり前だと考えていることを、必ずしも他者はそう考えない現実を見せる

・相違が発生するのは、自分はある「フィルター」(バイアス)を通してものをみる特性があることを気づかせる

・同様に、他者も独自のフィルターを持つことに気づかせる

・従って、自分と他者に相違があり、それを受け入れる必要があること認識させる(異文化受容)

・異文化を受容する能力には個人差があることを理解し、それを高めるための方策を知り実行する

 


上記のプロセスは、考えてみればダイバーシティ教育に限るものではありません。ヒトが社会の中で生きていくためには、絶対に必要なスキルです。だから、本来これらは、学校教育や家庭内教育でなされているべきかもしれません。


もともと集団主義の傾向が強い我々日本人が、たまたまアメリカの庇護のもとで長期にわたって巨大な国内市場で成長を謳歌してきたのですから、社会や組織における多様性の必要性を感じなかったし、したがって教育しなかったのも当然かもしれません。

 

しかし、明らかに時代は変わりつつある。他者との違いを認めて、その違いを最大限活用するスキルが、今後さら不可欠になることは間違いありません。ダイバーシティ教育という狭いスコープで捉えるのでは、手段の目的化を脱することは、茹で上がるまでできないでしょう。今からでも、教育すべきだと考えます。

 

昨晩、和泉流狂言「狐塚」を観ました。(国立能楽堂の企画で、先月は同じ狐塚を大蔵流で観ました。ストーリーはほぼ同じですが、設定が微妙に異なりました)

 

簡単にストーリーを説明するとこうです。

 

今年は豊作。狐塚にある田を群鳥に荒らされては大変と、主人は太郎冠者に田にいて鳥を払うことを命じます。やがて真っ暗闇になり、一人っきりの太郎冠者はだんだん不安になります。狐塚というくらいで、そのあたりは狐が人間を化かすと評判だからです。

 

次郎冠者はひとりで番をする太郎冠者のことが心配になり、様子をみにいきました。真っ暗やみなので、「ほーい、ほーい」と呼びかけます。その声を聞いた太郎冠者は、いよいよ狐が化かしにきたと思い込み、恐ろしさのあまり、招くふりをして捕え縛り上げます。次に、主人も心配になり来ますが、同じように縛りあげられてしまいます。

 

恐ろしさのあまり二人とも狐だと信じ込んだ太郎冠者ですが、やがて二人の反撃をうける・・・という話です。

 

いたってシンプルな話ですが、人間の本質を的確に描いているといえるでしょう。人間は想像しなくてはいられない生き物です。だから、一人ぼっちでしかも真っ暗で心細いと、すべてが悪い方に想像してしまうのです。防衛本能がはたらくのかもしれません。

 

そうなると合理的な判断はできなくなります。様子を見にきた太郎冠者と主人の姿が本人そのものに見ても、よくぞそこまで化けたものだと、逆に警戒心を高めてしまいます。

 

こういうこと、よく聞きませんか?私がすぐ思いついたのは、自分が三顧の礼で連れてきた後任の社長を、二人続けてクビにして、自分が社長に復帰した某社の創業者二代目です。彼はひとり暗闇を心の中に抱え、不安でしかたがないのでしょう。だから、自分が連れてきた後任社長が狐に見えて、自分を騙しているのではと思いこんでしまう。外から来た社長は、誠意をもってその二代目と話し合ったかもしれません。でも、誠意を示されればされるほど、「うまく化けた」とますます警戒心を高めてしまう。

 

こういうことは、この会社のみならず、いたるところで起きているのではないでしょうか。

 

室町時代から人間の本質はまったく変わっていない。よくぞ、600年も前の狂言作者は、そうした人間の本質をシャープに切り取ったものだと、あらためて感心します。すごいもんですねえ。

先週の土曜日、東京芸術劇場でのエル・システマ ガラコンサートに行ってきました。エル・システマとは、1975年にベネズエラで設立された組織で、子供たちがオーケストラやコーラスに参加することで、音楽を学び、集団としての協調性や社会性を育み、コミュニティとの関わりをつくることを目的としています。日本では、東日本大震災をきっかけに2012年に設立されました。福島県相馬市、岩手県大槌町、そして2017年には長野県駒ケ根市と東京でも活動を開始。そうした活動の、いわば発表会がこのガラコンサートです。

 

第一部は、相馬子どもオーケストラ、大槌子どもオーケストラ、駒ケ根子どもオーケストラの合同演奏会です。ベネズエラから、エル。システマの先輩でもあるデュダメルに師事した21歳の指揮者エンルイス・モンテス・オリバーさんが来日し、指揮しました。想像以上に上手で、子どもとは思えないほどの演奏。特に、バイオリンソロの半谷くん(高一)は、なかなかのテクニックでした。

 

第二部は、昨年に続き東京ホワイトハンドコーラスの子どもたちによる演奏です。ホワイトハンドコーラスとは、聴覚障害や自閉症、発声に困難を抱える子どもたちが、音楽に合わせて白い手袋でパフォーマンス(手歌・サイン)するものです。歌詞からサインを作るのも子どもたちです。声を出さなくてもコーラスができるという、素晴らしい発想ですね。

 

今年は、こうした「サイン隊」に「声隊」が加わりました。声隊は、視覚障害で目が見えない子どもたちです。舞台向かって右側にサイン隊が並び、左側に声隊、舞台左端に伴奏ピアノの配置。それぞれの隊に、指揮者の先生がつきます。

 

視覚障害の子どもたちは、ピアノの伴奏に合わせて大きな声で歌い、その声を受けた指揮に合わせて聴覚障害に子どもたちがサインでコーラスを奏でる。奇跡的なコーラスだったと思います。何よりも、どちらの子たちも楽しそう。でも、ここに至るまでは相当の苦労があったと思います。支える人たちには頭が下がります。( サイン隊と声隊の合同練習の動画をみてみて下さい。)

 

眼が見えないからできないのではなく、伴奏を聴いて歌ってサイン隊を導く。また、聞こえず声がうまく出せないからコーラスできないのではなく、指揮に合わせて体で歌を表現する。そのパフォーマンス観客に伝わり、それが指揮者や伴奏者にもフィードバックされ、さらにコーラスに反映されていく。

 

無いものを嘆くのではなく、あるものを活かして全体に貢献する。それがこのホワイトハンドコーラスの意味だと思います。そうしたプロセスに参加することで、誰もが楽しみや喜びを感じることができる。こうした姿に共感しない観客はいません。人類は、補い合い支え合うことで生きのびてきました。その本性が、こういう場面には意識せずとも発露してくるような気がします。

 

普段は忘れてしまいがちな、こうした本能を思いださせてくれる、貴重な機会でした。

時間の感覚

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今月初め、能の発表会に出演しました。(その稽古段階のことは、前々回書きました。)なんとか仕舞を舞い終えたのですが、舞台上で舞っている最中、すごく地謡が遅く感じました。

 

説明しておきますと、仕舞は能舞台で一人で舞うわけですが、後ろに地謡、すなわち伴奏ともなるコーラス隊のようなものでしょうか、がプロの能楽師が4人座り、その謡に合わせて舞うわけです。

 

舞手は謡に合わせる必要がありますが、そこは素人とプロ、地謡がある程度舞手に合わせてくれます。地謡4人のうちリーダーとも言える地頭は、普段稽古していただいている観世喜正先生なので、稽古と基本的には同じ条件になります。

 

それにも関わらず、本番では地謡のスピードが普段の稽古の時よりも、すごく遅く感じたのです。この詞章の部分ではこの動き、というようにある程度セットで体に浸みこませているので、舞台上で「あれ、まだこの詞章??」とずれをやはり感じてしまいました。だから、稽古の時よりも動きが先に行ってしまうため、長めに停まって待つようなことが起きてしまいます。幸い、以前のようにそれが理由で頭が真っ白!という惨事には至りませんでしたが、違和感はぬぐいきれません。

 

私と同じように感じる稽古仲間もいたので、思い切って終演後の懇親会の時、先生に質問してしまいました。

「本番では地謡がいつもより遅いように感じるのですが、なぜなんでしょうか?」


先生は、こうおっしゃいました。

「普段の稽古と違って、本番では4人で地謡を務めるので、どうしても普段と同じにはならないのかもしれませんね。」

 今思えば、先生も随分気を使ってお答え下さったのでしょう。

 

その後、舞台を撮影したDVDが手元に届きました(もちろん有料です)。恐る恐るそれを観たときの第一印象は、なんて自分は速く動いているのだろう、でした。焦ってこんなに速く動いているので、相対的に普段と同じスピードの地謡でも遅く感じたのだろうと、納得しました。

 

本番の時にはそれほど自分が速いとは感じませんでしたが、DVDで観ると明らかに速く感じます。

 

その後、念のため演技時間を測ってみると、230秒でした。

 

あれ、あれ?? これって、稽古の時先生が模範で舞ってくれたとき(iPhoneでの撮影を許されます)の時間と全く同じだ・・・。

 

なんと、時間は多分稽古の時と本番では、違っていなかったのです。本番の映像をみると、イメージの中での私の稽古時や本番の時よりも速い。

 

・稽古の時に自分が感じたスピード

・本番の時に自分が感じたスピード

・本番の映像を観たときに感じるスピード

 

絶対的なスピードは、どれも230秒で変わらない。

にも関わらず、これら3つのスピードはどれも違っているように感じる。

 

先生の仕舞を動画でみると、絶対的な時間は同じでも、随分とゆったり動いているように感じます。時間の流れがゆったりしているのです。

 

脳が感じる「時間」というものは、主観的に自分がつくりあげたものなんですね。だから、先生の素晴らしい動きは長く感じ、私の稚拙な動きは速く感じる。速く目を逸らしたいからなのかもしれません。また、動いている自分自身が感じる時間の流れと、それを動画で恐る恐る観ている自分の時間の流れも異なる。

 

凍結した下り坂で車を運転していて、ロックして道から落ちそうになったことがあります。危うく落ちずに済みましたが、その時の光景はいまでもまじまじと覚えています。スローモーションのようでした。

 

これも人間の感じる時間は、主観的であいまいなものという例でしょう。

 

まだ、時計が普及していない時代、人びとはこういった主観的な時間の流れの中で生活していたはず。きっと、今とは全く異なる世界が広がっていたことでしょう。いったい、どんな感じだったのでしょう?

 

「問い」を発する能力

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企業研修の講師にとって、最も重要な能力は何だと思いますか?

私は「問い」を発する能力だと思っています。

 

一昔前であれば、講師は先生であり、受講者が知るべき知識を与える者という位置づけだったかもしれません。でも、今はそういう知識はいくらでも一人で学ぶことができます。eLでも本でも動画でも。一人では獲得が難しいからこそ、わざわざ忙しい中皆が集まって行うのが、集合研修なのです。

 

では、一人では難しいこととは何でしょうか?それは「思考」すなわち「考えること」と「自分を客観視」することだと思います。

 

一人でも考えているという方もいるでしょうが、哲学者でもなければ、深い思考を一人で巡らせるのはなかなか困難です。人は基本的には怠惰な動物なので、一人だとどこかで安易に妥協してしまうからです。私もよくあります。考えて続けるものの、「まあ、いっか」で終わり。

 

相手(他者)がいると、そうもいきません。相手から発せられた問いに対しては、考えて答えなければならない。だから、深く考えるきっかけになる。

 

この問いを発するのが講師であり、講師は問いによって受講者の思考を適切に起動させるのです。だから、最も重要な能力なのです。

 

ただ、この「適切に」が難しい。何でもかんでも、「なぜ?」、「So what?」を繰り返せばいいのではありません。

 

問いによって、講師が意図する方向に、受講者の思考を起動させる必要があるのであり、そこにはストーリーが必要です。あるストーリーを想定した上で、その流れに導くような問いが良い問いです。但し、誘導ではだめです。受講者が自らの意思で、その流れに沿って思考を進めていると感じさせなければなりません。水飲み場に連れてこられたのではなく、点々と落ちている餌を少しずつ食べながら歩んでいたら、そこに水飲み場があった。だから飲もう。というイメージです。「水を飲む」とは「気づき」を得ることの比喩です。

 

こういう問いを、臨機応変に発するのは非常に難しい。しかし、問いにはいくつかのパターンがあることに最近気づきました。ある研修を後ろでオズザーブしているときに、書き出したのが以下です。

 

・具体的な事例を挙げさせる

・理由を考えさせる

・ある事象が起きたときに、それに付随して起こる「結果」を推測させる

・(上と近いですが)ある現象が起きるメカニズムを類推させ、それに適用してアウトプットを求めさせる

・自分なりの評価を、理由とともに説明させる

・多くの現象を抽象化することで、共通項を見つける

 

ある知識を前提として、それを活用して上記のような問いを発することで、受講者の思考を起動させる。そして、その結果自らの力でなんらかの気づきを得る。

 

こういったプロセスがとても大切なのです。講師とは、その口火を切る役目です。あまり良くないのは、講師と受講者が一対一の関係で、Q&Aを繰りかえすような状況です。他の受講者を巻き込むことが必要です。

 

講師が発した問いに受講者Aが思考し答える。その答えに対し、受講者が新たな問いを発する。それに対して、受講者Cが答える。受講者はそれぞれの見方を持っているので、それらを交差させる。こうした連鎖こそが、集団で集まって研修を実施することの価値なのだと思います。理想は最初の問いすら、受講者が発することです。

 

こうなると、講師の役割はどんどん薄れていき、勝手にクラスが回っていく。この場をうまくマネージするだけで、何も教えたりはしない。ときおり、問いを発するだけ。クラスから講師の存在が消えることが理想です。そうなったとしても、受講者は講師に満足し、感謝することでしょう。「今日はとても勉強になったし、何より楽しかった。ありがとうございます」、と。

 

以上、企業研修における講師の能力として述べましたが、これは一般企業のマネジャーにとっても同様に重要な能力です。人を育てる、あるいは人に動いてもらうとは、適切な問いを発することなのですから。

 

意識を消す

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仕舞の舞台に立つと、信じられないことが起こります。普段の稽古では失敗したことがないことを本番で失敗したり、途中で頭が真っ白になってしまうことさえあります。

 

一方で、うまくいった時は舞台を降りた後で、自分がどう動いたかをほとんど覚えていません。だから、本当にうまくいったのか確信がないのですが、仲間はそう言ってくれます。逆に、失敗したときには、その時の情景をくっきりと記憶しています。だからつらいのです。

 

こういった現象は私だけではなく、話しを聞く限り、他の人にもほぼ同じように起きるようです。

 

なぜ、こうなるのかずっと考え続けてきましたが、最近そのヒントらしきものに辿り着きました。それは、「意識」の働きによるという仮説です。

 

20世紀末から脳の研究は各段に進歩してきています。それによると、人は意識をしてから行動するのではなく、(無意識に)行動の選択がなされた数百ミリ秒後にそれを自覚(意識)して行動することが多くの実験により証明されています。つまり、意識を過大に重視すべきではない。

 

仕舞の稽古では意識を重視しています。伴奏ともいえる謡を聞き、詞章のこの部分であればこの動きだというように、言語と行動をセットで記憶するように稽古しています。そして、そのタイミングが少しでもずれると、動きを修正するように意識します。

 

失敗するときは往々にして、ずれを認識しそれに修正をかけようと意識するときです。その後に、頭が真っ白になってしまうことが多いように感じます。つまり、強い緊張のもとでは、意識が立ち上がると本来できる体のはたらきを覆い隠して、できなくしてしまう。意識とは、妨害電波のようなものではないでしょうか。だから、うまくいった時は意識が立ち上がっておらず、その結果記憶があまりない。意識とは邪念や煩悩の親戚のようなものかもしれません。

 

そこで、能舞台上にひとりで立ち、通して舞う稽古の時、出来るだけ意識を立上げないように努めてみました。普段、どうしても動きを忘れてしまうのが怖いので、ついつい次の動きを考え用意しようとしてしまいます。それをしないようにしました。それができるようにするために、地謡の謡(うたい)を聴くことだけに集中するのです。他のこと(次の動きとか)を一切考えないで、謡に体を全て晒すイメージです。そうすると、意識ではなく体が勝手に舞台という空間の中を動いていくような感覚で、仕舞を終えることができました。意識は最小限だったと思います。稽古では意識しても、本番では意識を消す。

 

 

話題の本「ホモ・デウス」にこういう記載がありました。米海軍は兵士の脳に電気的刺激を与えることで兵士の感覚をコントロールする実験を続けており、「ニューサイエンティスト」誌の女性記者がその取材を許されました。記者は、狙撃兵の訓練施設を訪れ、戦場シミュレーターに入ります。巨大なスクリーンに銃を持つ敵が次々と現れ攻撃してきます。それを打ち殺していく。

 

記者はこう振り返ります。

「なんとか、一人撃ち殺すたびに、新たに三人の襲撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった。」

 

次に脳へ電気信号を送る特殊なヘルメットをかぶり、同じことを繰り返す。すると、先ほどと打って変わって落ち着き払い、次々と敵を打ち殺すことができた。しかも時間を感じなかったという。記者はその体験をこう語ります。

「愕然としたのは、生まれて初めて、頭の中の何もかもが、ついに口をつぐんだことだった・・・自己不信と無縁の自分の脳というのは新発見だった。頭の中が突然、信じられないほど静まり返った・・・(中略)私の心には怒りと敵意に満ちた小鬼たちが住みついていて、私を怖がらせて、やりもしないうちから物事を諦めさせてきたけれど、やつらを別とすれば、私は何者だったのか?そして、あの声はみな、どこから聞こえてきていたのか?」

 

私が謡に身を任せて意識が立ちあがるのを防いだのと、記者が特殊なヘルメットをかぶったことは、脳の神経作用の上では同じようなことだったのかもしれません。スポーツの世界で語られる「フロー」も同様とも思えます。

 

米海軍の実験という事実に薄気味悪さを感じますが、私の仮説を裏書きするようなものであり、いささか心強くもあります。

 

理由が分かれば対応もできる。もうすぐ、舞台本番です。稽古で一度だけ体験できたことが、本番でも実現できるのか、怖くもあり楽しみでもあります。

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