「問い」の難しさ

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先週の金曜の夜、アカデミーヒルズでの講座「宇宙研究から学びとるビジネス感度」、私がモデレータを務め開講しました。「異分野から学ぶビジネスエッセンスシリーズ」の第二弾企画。6月に開講した第一弾は、「能から学ぶ」でした。能は私も習っていますので、事前にある程度イメージはつかめましたが、今回は全く門外漢の宇宙研究です。かなり不安でした。

 

ゲストスピーカーの高梨さんは東大EMPでの授業で慣れておられるので、講演は安心してお任せできましたが、問題は講演後のグループ討議と発表の時間です。講演とほぼ同じくらいの時間を取っています。

 

このシリーズの企画コンセプトは、異分野で活躍する人の話や経験から学ぶことであり、学びを最大化するために同じ参加者と対話してもらうことに特徴があります。単なる講演会でも学びはありますが、他者と対話することでさらに学びが深まるはず。また、他者がどう学んだか、ということからの学びもあるはずです。

 

講演後に感想を述べあうという形式でもいいのですが、対話を効果的なものにするために、「問い」を用意します。あくまで対話のきっかけとしての問いなのですが、問いには企画者側の意図を織り込むことができます。講演する高梨さんとアカデミーヒルズの担当者といっしょに知恵を絞りました。

 

高梨さんは、かつてのように一般の人びとの暮らしに天文学や宇宙を織り込んで欲しいので、そんなことを考えさせるような問いを希望していました。また東大EMPでは、研究者が悩んでいるような課題について受講者がヒントをくれるようなことも時々起るそうで、そんなことにもなればいいなと考えました。

 

しかし、それをどう問いにできるか。当初は、ストレートに以下の問いを考えました。この問いに合うような講演内容を、高梨さんにしてもらおうというわけです。

 

①「現代の生活に天文学を織り込むことに意味があるとすれば、それはなぜか?どうすれば織り込むことができるか? 」


②「最先端の宇宙研究者の悩みについて、あなたの立場からどんなアドバイスができるか?」 


しかし、何度も考えるうちに、この問いは難しいのではと思うようになりました。講演する高梨さんにとっても、こたえる参加者にとっても。また、この問いを考えることで、「ビジネス感度」につながるかも、疑問です。

 

悩んだ末、講座前日以下に変更することにしました。

 

n  1.

 ・宇宙的視野というものがあるとすれば、それは何だと思いますか?

 ・宇宙的視野を持つことで、あなたの生活(公私問わず)は、どのように変化する可能性があると思いますか?

 ・そのために、あなたは何をしますか?

 ・多くの人々が、宇宙的視野を持てるようにするためには、どうすればいいでしょうか?

 

n  2

 ・大いなる未知を探求する宇宙研究者の思考や感性には、どのような特徴があると思いますか?

 ・その中で、あなたが取り入れたいと思うことは何ですか?

 ・それはなぜですか?

 ・実際に取り入れるために、何をしますか?

 

これでも、まだ十分難易度が高いと思いましたが・・・。

 

当日は、5グループ中2グループが問1を、3グループが問2を討議し発表していただきました。思いの外、討議は盛りあがり、質の高い発表と質疑がなされました。

 

講演内容への満足度が高いことは最初から予測できましたが、その後のグループ討議と発表にどれだけの価値を感じていただけたか・・。

 

幸い、アンケートには以下のようなコメントがありました。

 

・ディスカッションした皆さんの意見が良かった

・グループワークがあったおかげで、様々な意見を聞くことができ参考になった

・ディスカッションで意見を出しあえたのが良かった

・いい話し合いができた

・グループワーク、発表と日頃はあまりできない体験もできて良かった

・グループワークの課題がやや難しかったが、ブレインストーミングできて、他の方々の話も聞けて学びになった

・MITAKAを使っての講義、そこから学び取る視点のグループ課題設定が非常に良かった

 

 

グループ討議と発表の時間を講演に回して欲しかった、というようなコメントがなく、ほっとしました。レベルの高い参加者に助けられました。

 

このフォーマットで、テーマを変えながらいろいろ試してみたいと思います。

映画を観て大きく魂が揺さぶられ、しばらく動けなくなることは滅多にありません。しかし、「祈り」三部作と呼ばれる、「祈り」(1967年)、「希望の樹」(1976年)、「懺悔」(1984年)を観た後、三本ともその滅多にないことが起きました。

 

これらはジョージア(グルジア)のテンギズ・アブラゼ監督の代表作です。これまで、私はこの監督を知りませんでした。何と無知だったことか。三本と詩的で哲学的で美的。時代はそれぞれ異なりますが、故国ジョージアの歴史と伝統を徹底的に掘り込むことで、普遍性を獲得しているのが素晴らしい。

 

「祈り」の冒頭に、「人間の美しい本性が滅びることはない」との詩が読まれます。これが、三部作を通してのメッセージになっているのでしょう。「美しい本性」を否定するような不条理な現実が、どの作品でも描写されます。しかし、微かな光は垣間見える。

 

「祈り」は日本初公開。

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ノクロームで描かれた、宗教劇のようなこの作品には、ほとんど台詞がありません。白と黒の対象が鮮烈で、色を全く必要としません。とにかく映像が神秘的で美しい。現実のものとは思えないほど荘厳な風景。

 



「希望の樹」になるともう少しストーリーらしきものがあります。ロシア革命前のジョージアの地方における、因習の愚かしさを描いた作品ですが、そんな一言では語ることは、この作品への冒涜でしょう。田舎の因習にとらわれる民衆だけでなく、革命を叫び子供に教え込もうとする男、昔の思い出に生きて村をさまよう年増の女。彼女はま

kibounoki.jpgるで、能に出てくる「女物狂い」のようにも見えます。奇跡を信じて希望の樹を探しまわって亡くなる父親と、父を送り出すその娘たち。賢さと因習を代表する村長。そして、悲しい結末を迎える若くて美しい娘と貧しい牧童。どの登場人物も、現代に通ずる何らかの人間像を表しているような気がします。いつのまにか、どちらが正常でどちらが異常かわからなくなる。どちらも人間には違いない。



そして、遺作ともなった「懺悔」。内容よりも、制作の顛末を書きます。この作品は、ジョージア出身のスターリンによる1930年代の大粛清を描いています。しかし、1984年はまだソ連時代。KGBが跋扈していた時代になぜ、制作することができたのか。ソ連崩壊時に外相だったシュワルナゼは、ジョージア出身です。アブラゼ監督は、旧知のジョージア共産党第一書記だったシュワルナゼにこの映画の脚本を見せたそうです。戦慄した彼はモスクワの検閲を回避するため、ジョージア独自制作が許されていた2時間のTVドラマ枠を利用することをアドバイスし、実行されました。大変な苦労を経て制作された作品を試写で観たシュワルナゼは、監督と抱き合って「これは必要な映画だ」と述べたそうです。

 

当局からいくつかの修正を指示され、その作業を行っている間にビデオテープが流出、ひそかに民衆の間に広まり熱狂の輪が大きくなっていく。一方、KGBからの警戒も強まる。

 

ちょうどその頃、モスクワではゴルバチョフが登場しペレストロイカの風が吹く。そうして198611月に公開され、ペレストロイカの象徴に。この「懺悔」が、ソ連崩壊を後押ししたようにも思えます。アブラゼ監督の勇気とシュワルナゼという政治家の存在が、映画を通じて時代を動かしたのかもしれません。

 

公開から3年後の1989年の秋、私は留学していたストックホルムから、学生訪問団の一員として、ソ連を訪れました。ペレストロイカから揺り戻しが起こりかけているような時期で、まだまだソ連は暗く貧しく、そして少し怖かった。その時の風景とこの作品をだぶらせて、希望の大切さと人間の勇気の偉大さを噛みしめました。


最近最も注目されるM&A交渉は、富士フィルムによるゼロックスの買収案件でしょう。当初はすんなりいくかと思いきや、ゼロックスの大株主アイカーン氏の反対でこじれてきています。友好的なMAだったはずが、敵対的なM&Aになりつつあるという状況。

 

今後どうなるかは予断を許しませんが、富士ゼロックスの存在がキーになることでしょう。富士ゼロックスは1962年、富士フィルムとランク・ゼロックスの50%ずつのJVとして設立されました。当初は、ゼロックス製品をアジアで販売する販社でした。しかし、徐々にキヤノンなど競合日本メーカーが現れ、日本市場に適応した製品が求められるようになり、富士ゼロックスも生産機能に加え、製品開発機能も備えるようになっていきました。

 

富士ゼロックスの商圏はアジア地域に限定されているため、アメリカやEUの市場では販売できません。しかし、ゼロックス本体の製品では欧米市場ニーズに応えることが難しくなり、ゼロックスは富士ゼロックスから製品の提供を受けて欧米市場に販売していくようになります。

 

徐々にゼロックスの経営は厳しくなり、2001年ゼロックスは所有する富士ゼロックスの株の25%分を富士フィルムに売却します。これで、富士ゼロックスの株式は、75%を富士フィルムが、25%をゼロックスが保有となりました。

 

そしていよいよ今回の一連のM&A騒動は、名門ゼロックスを富士フィルムが完全買収する計画です。交渉決裂した場合、ゼロックスと富士ゼロックスとの契約が解除され、袂を分かつ可能性もあります。

 

問題はゼロックスが富士フィルムとの関係を断って、単独で生き残れるかどうかです。ゼロックスは富士ゼロックスから製品を入手できないならば、と競合であるコニカミノルタやリコーに納入の打診をしたが断られたとの報道もあります。断られるのは当然でしょう。

 

一方、富士フィルムは、これまで販売できなかった欧米市場に富士フィルムのチャネルを使って、富士ゼロックス製品を販売できると豪語しています。ゼロックスはアジア市場にチャネルを持たないだろう、と添えながら。複写機はフィールドサービスが重要なので、容易には新規市場には参入できません。

 

ここまで富士フィルムが強きに出られるのは、相対的に強力な製品を持つ富士ゼロックスの株式を75%押さえているからですが、そもそも富士ゼロックスが単なる販社から組織能力を高めて、現在のメーカーとしての競争力を獲得したことが極めて大きい。さらに、JV設立時には市場として魅力が小さかったアジア市場が急成長し、一方でその反対に欧米市場は縮小を続けるという逆転現象。遅れたアジア市場を割り振られた富士ゼロックスにとっては、怪我の功名でしょう。

 

しかし、なぜ富士ゼロックスはいわば師匠を超えるような組織能力を獲得できたのか、ずっと不思議でした。そこには、日本の製造業が磨いてきた「現場発の経営革新」の存在があったと、本書を読んで知りました。QCとか現場主義といえばトヨタですが、他にもその能力を磨いてきた企業があった。

 

本書「現場主義を貫いた富士ゼロックスの『経営革新』」は、日本企業が強かった秘密を、具体的に教えてくれる名著だと思います。過去形を現在形にするための、ヒントがたくさんあります。

現場主義を貫いた富士ゼロックスの"経営革新"―品質管理、品質工学、信頼性工学、IEの実践論―
土屋 元彦
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対話的教養の実践

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東京大学が社会人のリーダー育成機関として開設した6か月間の エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(EMPがこの10月で十周年を迎えます。開設時からその存在は知っていましたが、内容についてはよく知りませんでした。本日、東大EMP特任教授の高梨さんとお話する機会があり、初めてそのユニークさを理解しました。いわゆるビジネススクールとは全く異なり、最先端の教養・知恵に重点を置いています。

 

近頃、ビジネスパーソンの間で「教養」が一種のブームになっており、幹部研修で取り入れている企業も増えつつあるようです。そこでは、その分野の権威と目されている先生が、確立された専門知識を受講者に講義し伝えます。それとも全く異なります。

 

東大EMPでは、その分野の第一線の研究者が講師を務めることは同じでも、現在進行形の研究成果や、まだわかっていないこと、研究上の限界や悩みなどを話すそうです。完成された知識を伝えるのではなく、講師の現在進行形の研究活動をさらけ出すのです。普通、大学教授も務める研究者は、未完成の研究成果を広く開示することには強い抵抗感があります。しかし、東大EMP内限定ということで、講師にはそれを期待しているそうです。

 

つまり、知識としての教養を伝授するのではなく、その研究者が日々悩み苦闘している姿から、知を創造する何らかのメカニズムを受講者に掴み取ってもらうことを目的としているわけです。これはホンモノの教育です。

 

講師のレクチャーの後で、受講者との質疑応答がなされますが、そこにこの教育のエッセンが垣間見えます。当初は、なかなか質問ができません。できたとしても、質問者が持つ思考の枠組みの中で質問をするため、どの業界出身なのかすぐわかってしまうそうです。銀行員は銀行員らしい、役員は役員らしい質問しかしない。講師の思考枠組みと質問者の思考枠組みが少しでも噛み合えばいいですが、そうでなければ、全くすれ違ってしまう。

 

しかし、二ヶ月くらい経つと、質問内容が明らかに変わってくるそうです。質問者は、講師の思考枠組みを理解した上で、それに沿って質問するようになる。さらに三ヶ月目くらいになると、東大EMPが想定したレベルで質疑応答ができるようになる。質問者は講師の思考枠組みの範囲を理解しているのは当然ですが、さらに講師の研究対象の外にあるにも関わらずその研究と関連を持つと考えられることに関する質問をするようになる。講師はどうしても狭い専門分野を深く掘り下げるため、その外にはなかなか想いが至らない。その急所を質問者が突くわけです。

 

講師は、はっとさせられる。講師自身も発見があるのです。こうなると、どっちが先生かわからなくなる。

 

高梨さんは面白い表現をしていました。

開始当初は「雀の学校」。

 

チイチイパッパ チイパッパ

すずめの 学校の 先生は

ムチを 振り振り チイパッパ

生徒の すずめは 輪になって

お口を そろえて チイパッパ

 

三ヶ月も経つと「めだかの学校」になる。

 

めだかの 学校の めだかたち

だれが 生徒か 先生か

だれが 生徒か 先生か

みんなで 元気に 遊んでる

 

 

ここで行われる質疑応答が日常でもできるようになれば、あらゆることから学ぶことができるようになることでしょう。「対話」とは、本来そういった思考とコミュニケーションの作法なのだと思います。ソクラテスではありませんが、ホンモノの教育は、対話によってなされるのです。


そういえば、6/19に大澤聡氏の以下の言葉を転記していました。

少し変形してその文脈に接続させる、これも教養のひとつのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。


まさに三か月目以降の質問は、対話的教養を実践している。東大EMP,恐るべし。羨ましい限りです。

 

PS.数多くのセッションの中で人気高いのは、哲学と高梨さんが担当する天文学だそうです。

五感を使って

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人間は五感を駆使して外部から情報を受容して、認知システムや情動に取り込んでいきます。ただ残念ながら、我々はそのうちの一部の受容器に偏っているように思えてなりません。特に視覚です。そして視覚の中でも特にテキスト情報への依存度が圧倒的に高い気がします。

 

最近のTV番組には、テロップ(字幕)が頻繁に出てきます。聴覚障害者への配慮とはどうも思えません。流れる文字にどうしても本能的に視線が向いてしまいます。敵を発見するための、動物としての本能です。

 

文字を追うことで、映像や音声からの情報量は必然的に減ってしまいます。それにも関わらず、テロップを挿入するのはなぜなのでしょうか?

 

五感を駆使する機会が減り、その能力を失いつつあるのではないか、そんなことを気付かせてくれる映像に出会いました。

 

 

6/23の朝、何気なくTVを付けたら「沖縄慰霊の日」の式典が生中継されていました。しばらくして始まった、地元中学三年生の自作の詩の朗読に括目させられました。

sagara.jpg

 

https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00e/040/310000c

 

この毎日新聞の記事にある動画にはテロップがついています。また、下の方には詩が文章(テキスト)で書かれています。

 

以下の順番で読む(観る)ことをしてみたら面白いと思います。

・まず、文章で詩を読む

・次に動画を、字幕を追いながら観る

・最後に動画を、字幕を隠して(手前に本を置いたりして)観る

 

いかがでしょうか?

テキストが、いかに豊かな情報を圧縮してしまっているかが実感できると思います。テロップの弊害も。一方で、機会さえあればまだまだ受信する力は保持できそうな希望も持てる。

 

なにより、この詩を書いて朗読した相良倫子さんの表情と声は、この詩を書くに至った思いなどの膨大な情報を発信しています。それを、視聴者である私たちは精一杯にアンテナを広げて受信できる。もし現場にいたら、それこそ五感をフル回転してもっともっと受容し、刺さったことでしょう。人間の能力って素晴らしいですね。

 

ところで、相良さんのすぐ後に、首相が祝辞を述べました。残酷なほど乏しい情報量で、ほとんど受信できませんでした。

 

教養とは何か

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雑誌などでビジネスマン向けの教養特集などが組まれるようになって、だいぶ時間が経ちました。最近は欧米人と深く付き合うには西洋美術の知識が必要だとして、その手の本も売れているようです。

 

教養とは豆知識みたいなものなんでしょうか?大澤聡氏は、最近ブームの教養を指して「知的サプリ」と言っています。

 

そのO大澤氏が三人の碩学(W鷲田清一、T竹内洋、Y吉見俊哉)と対談した「教養主義のリハビリテーション」(筑摩書房)が面白いです。さしあたり鷲田さんとの対談から、気になる言葉を備忘録として抜書きします。

 

 

 

哲学とは理論の発明ではなく発見。人びとの暮らしの中で生きられている大切なものを発見する。そして、言語化する。W

 

一見遠く離れたもの同士が、実は同じ構造に支えられていたり、同じ要素を抱えていたりする。それを発見することも教養でしょう。O

 

優れたデザインには、人をパッシブにしないという特質がある。・・・優れたデザインが備えている要素にはあと二つあって、そのひとつが多義性です。・・・・良いデザインはなにが起こるかわからない方向に開かれている。・・残るひとついは批評性です。W

 

臨機応変に意味や機能を組み替えることができるのも教養です。O

 

少し変形してその文脈に接続させる、これも教養のひとつのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。O

 

理論がそのまま通用しないような場所こそが「現場」と呼ばれてきました。W

 

現場的教養は、OJT的にその都度臨機応変に対応していく中で獲得されるメチエの集合体のようなものですね。その意味ではボトムアップ型。・・場数が増えるほど裾野が広がって、その分上に向かう力も高まる。そのときに考えないといけないのは「総合」のモメントでしょう。O

 

我々が直面している問題の大半は答えがでません。少なくとも一義的なソリューションはありえない。そこで、「問題」と「課題」を分けて考える必要があるんじゃないでしょうか。ここでいう問題は解決されるべきもののこと。なくなるのがいい。それに対して、課題はだれにも事態を解消することができない。決定的な解決策はない。もっとも基盤的な次元において解決の道筋がすぐには見えない、そんな難問を突き付けられている。けれど、取組み続けなければならない。その取組自体に意味がある。W

 

諸学問の連関のマップをまず頭に入れておいて、それから個別の議論に入っていく。まさに一般教養のプロトタイプですよね。・・その可能性のひとつが「現場的教養」と「対話的教養」の組合せです。それぞれの現場から立ち上がってきたメチエを対話の中でつなぎあわせていく。そういうネットワーク的な教養がありうるのではないか。O

 

詩や思想書を読む中で、自分とは全く異なる感受性や思考に触れることによって、それまで自明だと思っていたことがぐらぐら揺さぶられる。自分の前提や基盤が不明になっていく。そういう経験が読書にはあります。W

 

読む前と読んだ後とで自分の組織が再編される。その結果、周囲が異化されてそれまでと違ってみえる。O

 

教養がある人とは、たくさんの知識を持っている人という意味ではありません。そうではなくて、自分(たち)の存在を世界の中に空間的にも時間的にもちゃんと位置づけられる人のことを指しています。つまり、自分を世界の中にマッピングできるということ。そしてこの世界を平面ではなく立体で捉える。・・ひとつの対象を複数の異なる角度から観察するということです。W

 

そこで、自分とは異なるタイプの思想家なり作家なりの本を読むことが重要になります。著者との対話を通してこそ、思いもよらなかった補助線をいくつも引くことができるようになる。そうした補助線を獲得することをとりあえず教養と考えるといい。W

 

昔も今も教養のポイントは自分でコンテクストを編むことにあるのかもしれません。僕たちは歴史的な存在です。コンテクストの中にいる。ところがそのコンテクストは見えない。自分なりにマッピングするということは、とりも直さず、なぜ自分がこういう存在なのかを知るということですね。・・自分のメンタリティのバックグラウンドが分かると自己変革のきっかけにもなる。W

 

教養とはまさに自由になるための術です。自由と言うと、自分を様々に絡め取ってくる制度から解き放たれるようなイメージがありますが、僕は自由とはむしろ自分が生きていく上でのコンテクストを自ら編んでいけることだと思います。W

 

ところがアートにはそうした目標がないんですよ。・・とにかくわくわくすることをやりたい。その「わくわく」のイメージが互いに違っているから、アイデアを出しあって、ああでもないこうでもないと議論をしながら形にしていく。そして、最後に「これだ!」というものができる。これって多文化共生社会そのものじゃないですか。価値観を共有しないままでもみんなで一緒にやれるのがアートなんですよね。・・素手でやっていくということ、そして価値観の共有を前提にしないで生活のコンテクストを編んでいく能力。これからの社会にとって最も大切な能力でしょう。W

 

前傾姿勢で走り続けるあり方に限界が来ている。その時々の関係性のネットワークの中で、「いま・ここ」をどう組み直すかを判断していかないといけない。ゴールが流動化した時代には、教養も別のモデルを用意しないといけない。さらにそのとき、「わくわく」がそこにあるといい。O

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)
大澤 聡
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ヒトは安易にラベルを貼り理解したつもりになって、それを前提として様々思いや思考を発展させるものです。ラベルを紋切型(ステレオタイプ)に貼ることで、善悪、損得といったようにばっさばっさと二分し、どちらかに決めていきます。認知エネルギーを最小化するために、人類に備わった能力といえるでしょう。

 

しかし、得てしてそれは間違う。世の中に絶対正しいとか絶対に得といったものはありません。でも、それを知っていてもどうしてもラベルに頼ってしまうのが人間。そのことに気づかせてくれる機会は、とても貴重です。私にとって映画は、その貴重な気づきのツールなのです。

 

さて、カンヌでパルムドールを取った 「万引き家族」は、まさにそういった映画でした。映画で描かれた、思い込みを揺さぶる問いかけをいくつかあげてみましょう。(上段が常識で、下段は映画で語られる別の見方) 

 ・他人の子どもを黙って連れ出して一緒に暮らすことは誘拐犯罪である

  →虐待された子供を保護しただけで、身代金も要求していないから誘拐ではない

 ・子供に万引きの仕方を教えてはいけない

  →子供が生きていくために必要なことで教えられることは万引きくらい

(刑事にそう語る彼の気持ちを想像してみたい)

 ・死んだら届けて葬式をあげ、火葬しなければならない。勿論年金も停止

  →生前世話をしたのだから、法的家族でなくても死後も年金を代わりに遺族年金として受け取っても構わない。そのためには死亡を届ける必要はない

 ・老人が死亡しても届けず年金を代わりにもらい続けていたということは、カネ目当てで老人と同居していたということ。そこに愛情や絆などない

  →当事者である老人が望んでいた。お互いにつながりを感じていた

 ・愛情とお金のやり取りは同時には成立しえない

  →愛情とおカネの交換が明示されておらず、かつ双方が暗黙の了解をしているのであれば成立しうる

 ・子供が二ヶ月も失踪したにも関わらず、捜索願を出さないということは、両親が子供を殺したからに違いない(マスコミ目線)

 →子供を虐待していたから、それがばれるのが怖くて届けられなかった

 ・子供は学校に通って勉強しなければならない

  →「学校とは家で勉強できない子供が仕方なくいくところ」

 

他にもたくさんあります。

最後の学校の話は、小学校に通う同じ年頃の子供をみて、男の子(息子相当)が語る台詞です。彼は本が好きで、実際に家で教科書を読んで勉強しています。

 

事件が明らかになった後、尋問する若い刑事に、彼は問います。「なんで、学校に行かなければならないの?学校でしかできないことって何?」

 

刑事は一瞬いい淀み、「・・・友達と絆を結ぶことかなあ」(記憶曖昧ですが)と自信なさそうに応えます。いじめ問題が途絶えない現在の学校は、果たして友達と絆を結ぶところと言い切れるでしょうか?そう思っているのは、そう思いたい大人だけかもしれません。その方が、都合がいい。

 

こうした大人のご都合主義による常識や思い込みに、疑問を投げかけ続けることに、この映画の価値があると思います。

 

家族って何だろう?法律ってなんだろう?マスコミやそれに従う大衆って何だろう?学校ってなんだろう?この先には、政府や国家って何だろうという問いかけも用意されている気がします。だから、文部科学大臣がパルムドールを取った是枝監督に会って祝福したいとの申し出を、監督は以下のコメントを出して断ったのだと思います。

 

「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」

 

立派ですね。芸術家はこうあるべきだと思います。

他者から学ぶ

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学びとは、入力情報に対応し自分が変化することと、いうことができると思います。そして、学びの入力情報には二種類があります。知識やノウハウといったコンテンツ情報と、体験や物語といったコンテクスト情報です。また、入ってくる情報の発信元は、つきつめれば自分自身か他者の2つです。

 

自分自身から発せられた知識とは、「記憶」された知識であり、それは認知のもとになりますが、学びとはいえませんので除外します。こうして三つの学びは浮かび上がってきます。

 ・知識(ノウハウ)x 他者

いわゆる「教育」ですね。先生から正解を教わること。読書やEラーニングでもそれは可能です。しかし、正解のない世界ではなかなか通用しませんね。そこで、近年着目されているのが、

 ・経験X自分

そう、「経験学習」です。自分の経験を内省し、マイセオリーを抽出(概念化)し、それを実験し行動するというサイクルをまわしていくことです。体験というコンテクストから、自ら知識をつくりあげることともいえます。実際に仕事を覚えるということは、このプロセスを経ます。上司が教えればわかるというものでもない。自分で苦労して掴み取る。重要ですね。しかし、自分の経験からだけで十分でしょうか?

 ・経験X他者

他者の経験から学ぶ必要がでてきます。自分の経験であれば体感しているのでわかりやすいのですが、身体が異なる他者の経験を自分なりに解釈して概念化することは、容易ではありません。しかし、学びの材料が最も豊富なのは他者の経験であることは間違いない。学習能力の高い人とは、学校の勉強ができる人ではなく、他者の経験から学ぶ能力の高い人だと言えそうです。

 

他者の経験から学ぶには、他者と身体性を伴うインタラクションがあると有利でしょう。情報量が圧倒的に増えるからです。物理的な「場」の共有が不可欠です。また、他者の経験のバリエーションとして、他者の学びから学ぶこともあると思います。同じもの、同じ現象に触れたとしても、それをどう感じ、解釈し、そこから何を学ぶかは人それぞれです。しかし、なかなか他者がそこから何を学んだかを知る機会は少ない。対話して初めてシェアできます。シェアすれば、なるほどそういう観方もあるのだなと気づき、そういう考え方を取り入れることも可能になります。しかし、これも「場」が不可欠です。

もうひとつ。例えば同じ職場の仲間うちでも「他者から学ぶ」ことはできますが、いかんせん同じ世界で同じものばかりに触れているため、魅力的な他者性がどうしても低い。また、先入観や前提、常識が学びを妨げます。それで、出来るだけ自分と遠い世界の他者と触れることが必要になります。しかし、そういう機会はなかなか自分だけで作ることは難しい。

 

昨晩、六本木アカデミーヒルズで「"能"から学びとるビジネス感度」と銘打った講座を実施しました。「能を学ぶ」ではなく「能から学ぶ」です。もう少し丁寧に書けば、「能という世界最古の舞台芸術と、それを担う能楽師の経験から、ビジネスパーソンとしての学びを見つけ出す」講座です。かなりチャレンジなテーマにも関わらず26名の方に参加いただきました。

 

2時間半の前半で、生身の能楽師(観世流シテ方宮内美樹さん)の話を聞き質疑応答し、後半でグループに分かれて以下の「問い」について討議し、発表してもらいました。

 

1:現存する世界最古の舞台芸術といわれる能は、なぜ約650年もの間、日本人に支持され続けてきたのでしょうか?

グローバル化が進む現代において、今後さらに活性化するには何が必要でしょうか?また、そこから企業や組織は何が学べると思いますか?

2

能を鑑賞したり稽古することで、どのような能力がつく、あるいは呼び覚まされると思いますか?それはビジネスの世界でどのような意味を持つでしょうか?

 

なぜ宮内さんにご登場願ったかといえば、能楽界の内部にいながら、客観的に能を捉えることができる稀有な方だからです。

 ・8年間の社会人経験(キャリア官僚)の後、8年間の内弟子修行を経て独立

 ・男性社会における女性

 ・外国人に対しても指導(英語・フランス語)

 

グループ討議がどこまで深まるかが最も心配でしたが、ふたを開けてみると我々が予想していたより、はるかに深い議論をされ、またそれを全体でシェアすることで、さらに深い学びができたのではと思います。今回の受講者のレベルが皆さん高かったためです。能楽師という遠くの他者を提示し、対話の場をつくったことで、「他者の経験」から深い学びができることの手応えを掴むことができました。

 

さらに嬉しかったのは、能楽師の宮内さんもすごく学びになったとおっしゃったことです。こうした試みを続けていきたいと思います。

今年のカンヌ映画祭で、是枝監督がパルムドールを受賞しました。日本でも話題になりましたね。嬉しいものです。それに関して、いろ

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いろな報道がありましたが、私の心に残ったのは、審査委員長を務めたケイト・ブランシェットさんの映画祭を総括した「今年のカンヌは、インビジブル・ピープル(見えない人びと)に光を当てた映画が多かった」という言葉と、それに対する是枝監督の反応です。

 

是枝監督はこう応えました。

 

自分の作品も確かにそうだと思った。「万引き家族」は社会から排除され、取り残された人たちが、不可視の状態でそこにいる。発見されたときには犯罪者としてしか扱われない。「誰も知らない」の子供たちもそうだった。

 

そのことが彼女の「インビジブル」という言葉を聞いて、自分の中で言語化された。それまでは言葉にできていなかった。(中略)外から与えられた言葉で、自分の作家としてのスタンスがクリアに見える瞬間がある。有り難い。

 

そもそも「見えない人びと」に光を当てること自体、容易ではありません。スルーして何も見えないのは、自分が構成している主観の世界には存在しないからです。物理的には存在しても、主観の世界には存在していない。人はそのようにできているからです。

 

しかし、芸術家は異なる目を持っています。客観的に世界を見ることが得意なのです。だから、先入観や偏見にとらわれずに、客観的に見ることができるのです。ただ直観ではあるでしょう。

 

そして芸術家は直観的に捉えたものを、それぞれの表現手段(映画など)を使って表現します。

 

その結果、我々凡人も、芸術家などの視点の異なる他者と対話(映画鑑賞)して初めて「見えて」きます。

 

しかし、芸術家もなぜそれに自分はこだわったのか、自覚していないことも多いようです。是枝監督は「言語化」できなかった。言語化とは、具体の世界を抽象の世界に引き上げることです。今回是枝監督は、ケイト・ブランシェットさんから「インビジブル・ピープル」という言語をもらいました。なるほど、自分がずっと表現したかったことはそれだったんだ、と自覚できたのです。

 

今後、是枝監督は抽象化されクリアになった自分のこだわり。すなわちインビジブル・ピープルを、自分自身の主観の中に取り入れて、さらに豊かな映像世界をつくりあげていくことでしょう。

 

ここまで書いたのは、主観と客観、具体と抽象という二軸によるマトリクスの中をぐるぐる移動することの事例です。

 

私たちは、ひとりでは学ぶことはできない。(芸術家ではないとしても)視点の異なる他者と対話することで学んでいくのです。どんなものからも学んで成長を続ける人がいます。そういうひとは、このマトリクス上を高速度で回転しているのだと思います。

 

では、その原動力は何なのか?

 

世界をもっと深く知りたいという好奇心でしょうか?安易に自分を納得させて楽になろうとは思わない、自分自身に対するプライドでしょうか?

 

う~ん、まだよくわかりません。

「リアル」とは

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「リアル」とか「リアリティ」という言葉は、何を意味するのでしょうか?自分の眼に見えたものそのものが「リアル」なのだと、笑い飛ばされそうですが、本当にそうでしょうか?

 

カエサルが、「人は見たいものしか見えない」といったらしいですが、その通りだと思います。見えたからといってそれがリアルとは言えないですし、見えないものにリアルが宿ることもある。つまり、厳密に言えば、人は眼(網膜)で見るのではなく脳で見るのです。(これには最近の脳科学の研究で、様々な検証がなされています。)

 

先日、能「放下僧」を観ました。兄弟による父殺しの犯人への仇討ちがテーマです。路上で面白おかしく歌や踊りを披露する大道芸人(放下)に化けて、諸国を歩きまわり、やっとのことで仇を見つけます。兄弟はコミカルに謡い踊りながら、陣笠を深くかぶり用心する仇に少しずつ近づきます。コミカルな謡や踊りとかたき討ちがせまる緊張感のコントラストが、否応にも見物(観客)の気分を高めます。黒澤明の映画のようです。

 

しかしその瞬間、仇は陣笠をその場に置いて、ゆっくり舞台から去っていきました。慣れない見物は、きっと仇が気付いてこっそり逃げたと思ったかもしれません。

 

そして、残った陣笠に近づいた兄弟は、本当に一瞬の動きで置かれた陣笠の辺りに斬りこみました。殺気が感じられました。斬られる仇は実際にはそこにはいません。しかし、陣笠が仇の象徴となり置かれ、兄弟は「リアル」にはいないが、そこにいる(はずの)仇を斬り捨てたのでした。私には、ものすごいリアリティを感じました。斬り捨てられた仇の姿が見えたのです。

 

もし、普通の芝居のように仇役の役者がそのまま舞台に残り斬殺されたとしたら、どう見物には見えたでしょうか?斬られ断末魔の声をあげる役者にリアリティを感ずるでしょうか。多分、あまり感じないと思います。これが能独特の引き算の表現です。

 

能は、人は脳で観ることを熟知してつくられています。だからシンプルなのにリアルなのです。

 

芸術の多くは、つくり手の想いや感情、美意識を、何らかの媒体を使って「形」にします。絵画や彫刻であったり詩であったり演劇であったり。いわば膨大な想いを圧縮して、鑑賞者に届けるわけです。鑑賞者はそれを自分の脳の中で解凍して、つくり手の想いを受容する。こうしたコミュニケーションが、つくり手と鑑賞者の間でなされるのです。

 

このような関係性は芸術だけに限りません。人と人との間には、常にこの圧縮-解凍が繰り返されています。「リアル」とは、圧縮-解凍のプロセスで再現されることに対して捧げられる評価なのかもしれません。

 

リアルを感じるには、それなりの能力が必要だとも言えます。

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