2011年12月アーカイブ

 

「経営とはトレードオフにおける意思決定である」

ある経営者が言ったこの言葉は真実だと思います。例えば、利益を追求するのか、雇用を守るための成長を追及するのか、どちらかを選ぶことが経営者の仕事です。

 

しかし、ときに両方を目指すことが戦略上重要なことがあります。かつてのトヨタは品質とコストという従来トレードオフと考えられた分野において、その両立を実現させました。これがイノベーションです。

 

先日亡くなったスティーブ・ジョブズは、人間性と技術の交差点に立つことで世界を変えようとしました。アップル創業の頃は、最先端技術を駆使したコンピュータは、人間性の対局に位置づけられていました。彼は、そのときから既にそういったトレードオフの常識に対抗しようと考えていたのです。彼がアップル復帰直後、原点回帰を狙って作製されたTVCMは、

それを如実に物語っています。世界がやっと彼のイメージに近づいてきたところで、残念なことに亡くなってしまったのです。本当のイノベーターは、思想家でもあります。

 

ところで、個人と企業の関係はトレードオフでしょうか?「企業は人なり」の立場であれば、トレードオフであるはずもありません。総論はそうです。でも、ミクロの局面に立てば、トレードオフだと感じる人は多いのではないでしょうか。そこに組織の難しさがあります。しかし、これからの企業は、そこを乗り越える必要があるでしょう。以前に書いたカヤックなどは、その萌芽だと思います。

 

そういった環境では、経営戦略と個人との関係はトレードオフであってはいけません。企業が望む戦略を個人に浸透させるという考え方は、トレードオフの発想です。それでは創造性は生まれてきません。ジョブズの「人間性と技術の交差点に立つことで世界を変える」というような壮大なビジョンの下で、それに心酔した人々からその時々の戦略が内発的に生まれてくる、経営者はそれらを実現するための場作りをする、そんな組織がこれからの強い組織なのではないかと思います。

 

そのためには、ジョブズではないですが、人間性と戦略の交差点に立つ役割が必要になるのではないでしょうか。かつての古き良き日本企業では、経営者が常にその交差点に立っていたように思います。ソニーの井深氏、森田氏、ホンダの本田氏、松下電器の松下氏などが思い浮かびます。しかし、現在多くの企業では、それらが分断されているのが一般的です。中途半端な株主重視の経営を志向しだした多くの日本企業の経営者は、それを放棄したように見えます。

 

では、どうしたらいいのか?これを考え続けることが私にとっても、2012年の大きなテーマと考えています。

田中角栄というと、どうしても金権政治家のイメージが付きまといます。今太閤と呼ばれた田中は、栄華を極めながらバカなことをしてしまいそれまでの評価を台無しにしたところまで秀吉と似ています。

 

ところが、中国では非常に尊敬されているそうで、娘の田中真紀子まで訪中時には、大変な歓迎を受けていました。72年に北京を訪れ日中国交正常化を成し遂げたことは、リアルタイムでTVニュースを見ていたので、知っていますが、ニクソンに出し抜かれたから行ったまでで、なぜそこまで中国で敬意を払われるのか、日本での評価の低さを考えると不思議でした。


しかし、本書を読んでその理由がはっきりわかりました。日中双方にとっても偉大な働きをした傑出したリーダーでした。私はこれまで知りませんでしたが、日中国交正常化交渉は、驚くほど政治的に難しいものだったのです。詳細は、本書を読んでいただくとして、田中が盟友大平外務大臣と官僚をいかに活かしたかに、興味をそそられました。

 

私が好きなシーンです。

 

北京でのトップ交渉のある夜、交渉に行き詰った交渉団の面々は、落ち込んで食事に手をつけられませんでした。そこで田中だけが楽しげに振舞っていたそうです。周恩来首相に罵倒されて落ち込む高島条約局長に田中は言います。

 

「高島君、ご苦労だったな。あれ以上周恩来が言ったらな、俺はガーンとやり返すつもりでいた。だけどまあな、来たばっかりだし、喧嘩をしにきたのじゃないしな。ともかく、飯食ってからまた考えようや」

 

生真面目な大平が喰ってかかる。

「そんなこと言ったって、じゃあ明日からの交渉をどう持っていくのか。」

 

田中はこういって笑ってみせる。

「大学を出たやつはこういう修羅場になると駄目だな」

 

大平は珍しく感情をむき出して言う。

「修羅場なんて言うが、明日からどうやってやるのだ、この交渉を」

大平は家族に遺書を託し、命懸けでここにきているのだ。

 

田中はにやりとし、

「明日からどうやって中国側に対案を作るなんて、そんなことを俺に聞くなよ。君らは、ちゃんと大学を出たのだろ。大学を出たやつが考えろ」

 

この言葉に、全員が顔をほころばせ、部屋中が笑い声に包まれた。

 

田中は、大方針を示したうえで、信頼する部下には任せるといったら本気で任せた。あとは周囲が気持ちよく働けるように最大限の支援、心配りをみせたという。

 

 

もうひとつのエピソード。

晴れて交渉妥結し調印後、一同は飛行機で上海に向かう。日中首脳を乗せた特別機が北京を飛び立つと、過労気味の田中は周の目の前で寝入ってしまう。二階堂が「起こしましょうか」とい焦ると、周は、「二階堂さん、寝かしておきなさい」と笑みを浮かべた。目のやり場に困る雰囲気となったとき、その場を救ったのは大平だった。大平が周の話し相手になり気配りを見せたのだ。大平のほうがはるかに過密日程だったのに。田中が起きたのは、上海空港着陸後だった。

 

周と田中、そして大平、この三人の信頼関係なくしては、日中の関係は今と異なってものになっていたかもしれません。

 

首相秘書官も務めた小長啓一は、田中は政治家のリーダシップに必要な以下4つの要素を全て備えていたと言う。

    企画構想力

    実行力

    決断力

    人間的な包容力

 

40年も前の出来事が、今もなまなましく感じられ、憧憬とともにこれからのリーダーの姿を考えさせられる、優れた本でした。

映画監督の森田芳光さんが昨日亡くなりました。それほど森田監督の映画を観たわけではないのですが、ちょっと気になる監督でした。商業映画デビュー作「の・ようなもの」はとても印象に残っています。


の・.jpg公開は1981年とありますが、私が観たのはたぶん翌82年。大学入学のため上京した年です。細かいストーリーは覚えていませんが、落語家の風采のあがらない弟子(志ん魚/しんとと)が主人公(伊藤克信)で、多少恋愛話も絡むのですがなんという出来事もなく、淡々と日常が過ぎ去っていくという話だったと思います。

 

ただ、今でもよく覚えているシーンは、つきあい始めた彼女の家で両親に会って披露した落語が下手だとバカにされ、落胆しながら下町を一晩かけて歩くシーンです。栃木弁で何やら語りながら、合間合間に「・・・・しんとと、しんとと・・・」と自分で合いの手を入れて歩くのです。そして、あたりが明るくなるにつれて、その語りが力強くなっていったように記憶しています。本当になんていうこともないシーンなのですが、それが妙に印象深く、頭の中から「しんとと、しんとと」というフレーズがいつまでも抜けませんでした。

 

今思えば、はじめて東京に出てきた漠然とした不安、自信の無さ、の・ようなものが、志ん魚とダブって共鳴したのかもしれません。でも、映画を観た時は、全くそんなことは思いませんでした。

 

一晩歩き通し朝方到着した家の前で、はにかんだ表情の彼女が待っていたと記憶しています。だからと言って何も起きません。でも、なんだかそんなシーンにもほっとした。少しの希望が見えたからかもしれません。

 

それまで私にとっての映画とは、ドラマチックなものだったと思います。しかし、この映画は全然ドラマチックではない。でも、心に引っかかる。そんな、映画のあり方を学ばせてくれた映画だったように、今は思います。

 

 

私にとっての森田芳光は、「の・ようなもの」の監督であり、大学入学時のなんともいえない不安と期待とゆるーく流れる時間を映像に残してくれた監督であり、映画の可能性を広げてくれた監督なのでした。

自らや他者の経験から学ぶことの重要性は、いたるところで強調されていますが、実際にやろうと思うと容易ではありません。特に、長年企業で経験を積み、高いポジションにいる方は、成功体験も多いわけで、自己否定に結びつくかもしれない学びへの抵抗が強いのは当然です。でも、それではいけないとも強く思っているはず。皆、ビジネス上の悩みを抱えているのですから。

 

グループ企業を数多く抱える某大手企業から、グループ企業に経営者としてこれから派遣される方、派遣後1年以内の方を対象とした研修を、先日お手伝いしました。受講者20名は30代から50代、派遣される企業の規模も業種も様々です。

 

これほど多様な受講者を、どうひとつのプログラムで学んでいただくか、なかなか難しいテーマです。そして、結局行きついたのは、相互の経験から学びあうというアプローチです。7人程度の3グループに分かれます。Aグループはこれから出向する方、BとCは既に出向されている方で、事業の関連性が近くなるような2グループに分けました。

 

各グループにはファシリテーター(講師)が入ります。非常に難易度の高いファシリテーションが要求されます。受講者は百戦錬磨揃いで、しかも事業は様々なのですから。理屈を振りかざす講師は、すぐに見抜かれ見下されてしまいます。講師自身が豊富な経験と豊かな人間性を持っていなければ、太刀打ちできません。講師には事前に、出向先企業の概要と各受講者の問題意識を記述してもらった提出課題を熟読して臨んでもらいましたが、何が出てくるかは蓋を開けてみなければわかりません。

 

受講者が持っている宝ものを引きだして、それらを相互に提供しあうこと、そしてそこに、少しの意見と新たな視点を付与することも講師には期待されます。考えただけで恐ろしくなるような役割です。

 

結果から言えば、三人の講師は見事にその役割を果たしました。何がうまかったのか。身近で観察していた私は、共通のやり方を見つけました。それが、「掘って、上げて、つなぐ」というプロセスです。

 

前日夜宿題としてレポートを課しました。Aグループの課題は、「就任後90日間で何を実行するか」、BとCは「事業戦略を実行するための3か年計画の骨子」です。それぞれ、いくつかのサブクエスションがあります。その宿題を順々にグループ内で発表してもらい意見交換していきます。事業内容の詳細を知らない他のメンバーもコメントできるような進行が必要で、発表中も受講者や講師から適宜質問が飛ぶことになります。発表者は予想外の質問に。思わず考え込んでしまうこともあります。これが「掘る」プロセスです。

 

これでメンバーは、どんどんミクロの世界に入りこんでいきます。居酒屋談義とは、酒の力を借りて掘っていくことで、ここでは講師の適切な裁きや突っ込みが酒の代わりを果たすともいえそうです。しかし、これだけでは居酒屋談義とそうかわりません。そこで「上げる」プロセスが必要になるわけです。

 

うまく掘られたことで、メンバー間で感情面も共有された状況(共感)を、講師が概念レベルに引き上げます。講師から、「それって、ようはこういうことですよね」というフレーズ聞かれます。帰納法のように、ミクロの世界をある概念に昇華します。さらに講師は、その概念を補強するような自らの体験を加えることもあります。

 

こうして、感情面だけでなく理性面でも共有することができます。理性で共有するには、概念レベルで共有しなければならないからです。ミクロでは全く異なる世界だと思っていたことが、概念化してみれば自分が置かれている状況と同じだと理解することができます。こうして「つなぐ」ことができるようになるのです。「つなる」ことで、他者へ真剣にアドバイスできるようになりますし、またアドバイスを真摯に受け入れることができるようになるのです。

 

このような「掘って、上げて、つなげる」プロセスがあってはじめて、他者や自分の経験から学ぶ回路が通じる、そういう光景が3つのグループから見えてきました。その結果、学びの連鎖が起こり、目を輝かせて時間を忘れての語り合いが続きます。それは、後ろから見ていても素晴らしい光景でした。そしてラップアップでは、クラス全体で各グループでの学びを共有。(かなりベテランの)大人の学びのひとつの理想型のように感じました。

 

これまで経営戦略は、競争戦略と同義で扱われてきたと思いますが、最近どうも違和感を持っています。

 

そもそも競争戦略論は80年代に、HBSのマイケル・ポーター教授の「競争の戦略」から世の中に広まった言葉です。その本では、低成長にあえぐ米企業が、限られた市場の中で競合に対して強みを発揮しシェア拡大するための戦略を分析しています。隠れた前提は、市場が成熟しておりビジネスモデルの独自性余地は小さく競合とは同じ土俵で戦い、競合を市場から退場させることを最終目的とする、です。まさに伝統的な戦争のアナロジーです。80年代国内オートバイ市場におけるホンダとヤマハの競争などはそうだったのかもしれません。

 

でも現在では、これが競争だという事業が思い浮かびません。例えば、アップルとサムソンは、スマートフォンやタブレット端末の特許で対立していますが、iPhoneのデバイスにはサムソン製が多数使われています。また、トヨタは虎の子のHV技術を、日産をはじめ多くの競合メーカーに提供しています。そこには、上記のような前提はありません。それは戦略ではなく戦術だとの反論もありそうですが、戦略と戦術の峻別は無意味です。

 

では、現在の企業の経営戦略とは、どのような原則、前提に基づいているのでしょうか。

 

フランスの軍人戦略家ボーフルは、著書『戦略入門』(1963年)の中でこう書いています。

 

『勝利』という概念は、敵対する者との関係ではなく、自分自身が持つ価値体系との関係で意味を持つ。このような『勝利』は、交渉や相互譲歩、さらにはお互いに不利益となる行動を回避することによって実現できる。

 

決して相手をせん滅することが「勝利」ではなく、あくまで「自身の」(「世間の」ではなく)価値体系の中で争点を定め、その争点において自分の目的を達成することこそが「勝利」だと定義しているわけです。これは、近年の経営戦略の本質を喝破しているように思えます。

 

こういった戦略のパラダイムの変化は、人の生き方のパラダイム変化をも反映しているように感じます。つまり目指すべきゴールは、他人が決めた物差しに従って決めるのではなく、自分自身の価値観のもとで自らが決める。相対的な勝利ではなく絶対的な勝利。ただし、それは容易なことではありません。数年前に、「No.1よりもOnly1」というフレーズが流行りましたが、どこか現実逃避のにおいがしました。競争に疲れ、自分さえ満足していればそれでいいんだ、という甘え。

 

厳しい自己規律のうえでのOnly1(本人はOnlyにはこだわっていないはすですが)は生易しいものではなく、多くの挫折や苦悩を経てはじめて到達できる境地です。芸術家を見ていればよくわかります。果たして現在の日本の個人や企業、政府がそうした葛藤を乗り越えて独自の戦略を描けるかどうか。

 

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で、日本人社会の特徴として、人間の評価は「何を行うか」ではなく、「各々いかなるところを得ているか」でなされる、と書いています。そういう文化をどこかで変えなければ、勝利はまだまだかもしれません。

最近iPad2を買ったのですが、やっぱりアップルはすごい。機能のみならず使用者体験という面での品質は、圧倒的です。例えば、別売り純正品のカバー(液晶面をガードする

ipad2.jpg

覆い)がすごい。風呂のふたのように4つに区切られているため、1/4ずつ開けることができます。カバーを閉じると液晶画面が消え、開けるとすぐ液晶が灯り画面が現れます。それだけでもすごいのに、少しずつつまり1/4ずつ開けていくと、それに合わせて液晶がだんだん明るくなっていくのです。機能としては重要ではありませんが、体験としては素晴らしい。これがトータル品質です。これだけの品質へのこだわりがあったから、現在のアップルのブランド力があると言えます。あるいは、そういうブランドを築くためには、そこまでの高品質が不可欠だったともいえます。つまり、ブランドと品質は相互補完しており、ユーザ-に高い価値を提供する。

 

消費者にとって、高い価値と高機能は同一ではありません。例えばインドで売っているサムソン製TVは、日本メーカー製の半額ですが、どのチャンネルでもクリケット試合の点数が画面隅に表示されるようになっているそうです。インドで人気のクリケットは、試合時間が68時間もかかるので、途中で他のチャンネルも見たくなるというニーズに応えているわけです。画面解像度なんかよりもクリケットの点数のほうが遥かに重要なインドの消費者にとっては、サムソン製のほうが高価値なのです。

 

ハイスペック(高性能)=高価値=高級=高価格、という呪縛に囚われた日本企業の多くは、市場から駆逐されてしまうのではと、不安になってしまいます。高い技術力で高性能の製品を作れば、自ずと売れてその結果高いブランドが築けるだろうという思い込み。でも、たとえ高性能セグメントで成功したとしても、なぜか利益率は驚くほど低い。そんな企業は、マーケティングを色ものとして扱っているような気がします。(質の悪い製品を無理して売るために、マーケティングが存在すると考えているふしもないではありません)

 

かつてのDRAMに始まって、携帯電話、液晶、薄型TVと敗退の歴史がどんどん積み重なっています。このままでは自動車までそうなりかねません。そして、マーケティングの重要性は、消費財のみならず産業財にも急速に及んできています。アップルのように、ブランドと技術が相互補完的に高めあっていくことがマーケティングの本質であり、今の日本企業にそれが最も欠けている。日本から、かつてのソニーのような企業は、もう生まれないのでしょうか。

 

70年代のオイルショック以降の売れない時代に、「売る」ためのマーケティングが脚光を浴びた時期があります。それに対して、現在は「体質転換」のためのマーケティングが求められているのかもしれません。

先日、「日本の田舎は宝の山」著者でNPO法人「えがおつなげて」の曽根原さんの講演とその後のワールドカフェに参加してきました。ワールドカフェでは、農村と都市をつなぐことに関心にある(取組んでいる)方々との対話ができ、とても刺激的でした。当たり前ではありますが、私が知らない世界がこんなにもあるんだなあと実感させられました。特に若い人たちの間で。

 

そんな中で感じたことのひとつは、「人間は自分や自分の置かれている環境のことがわからない」ということです。近年、特に3.11以降、都市住民の田舎志向はとみに高まっているそうです。都会での強いストレスから逃れたい、自然の中で自分を見つめ直したい、安全な食生活をおくりたいなど、さまざまな理由があることでしょう。

 

一方で、農村の人々は都会に対するコンプレックスがあり、田舎は不便でだめだと思っています。いいことなんてなんにもない。そんな田舎に便利な都会から田舎暮らしに憧れた人々がやってくる。なんか、おかしいぞ、信用できない、と農村の人は疑心暗鬼になっているのではないでしょうか。山梨県では、30%以上の空き家率だそうですが、都会からの知らない人に空き家を貸してもいいという人は1%にも満たないそうです。いろいろ理由はあるでしょうが、根っこのところでは、自らの魅力と都会からの移住者の心が理解できないからだと想像します。

 

つまり、農村と都会のつながりが難しい大きな理由は、農村の人々が田舎の魅力を理解していないからだと思います。都会の人々に農村の魅力を理解させる取り組みは数多くなされその成果も出ています。しかし、今の障害は農村の人々が田舎の魅力を本質的には理解していないことではないでしょうか。逆説的ですが、もし自らの宝の山を理解していれば、もっと寛大になれる気がします。「田舎は宝の山」と思うべきは、都会人以上に田舎の人々なのかもしれません。

 

そうなると田舎の人々に田舎の魅力を再認識させる取り組みが必要になります。その方法は、外の人に発見してもらうことです。俳句の黛まどかさんが、地方での句会に関連してこう書いています。

 

よそ者の目を持ちこむと、土地の魅力が再発見できる。地方と地方、都市と地方、ジャンルとジャンルをつなぐことです。

 

これは企業でも全く同じで、自社の持つ魅力や強みを驚くほど理解していないことがあります。同様に弱みもですが。これまでの日本企業は、終身雇用を前提としており、よそ者の目がほとんど持ち込まれてこなかったのです(たとえ社外取締役を増やしても変わらないでしょう)。その結果、オリンパスのようなことが起きたり、本来の企業価値を実現できないアンダーバリュー状態が持続されることになります。これは、企業組織だけでなく一個人においても同様です。

 

単純にとなりの芝生の青さを羨むのではなく、自らの中の宝の山を見つけること、それが今の日本社会にとって、あらゆる場面で必要なことなのかもしれません。

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