2012年2月アーカイブ

日本人は集団主義であり、個人では弱くても組織になると強いという定評がかつてありました。今はどうでしょうか?

 

ここでいう組織を強くする個人の能力の源泉は、自己を犠牲にしてでも集団のために尽くすという精神と、他者を慮り協調する能力のことだと思います。こういうことは小さい頃から刷り込まれてきています。学校は、基礎知識以外はそれらを学ぶために存在していると言っていいほどです。個性重視の掛け声も、あくまで自己犠牲と協調を乱さない範囲の中での個性だったのではないでしょうか。

 

大学はどうだったか?それほどの教育方針はなかったと思いますが、モラトリアム期との位置づけで、その間にそれぞれが多くの場合偶然にいろいろな経験(学問はわずか)を積んで、結果として高校までとはやや異なる社会や集団の中で生きる術や自分なりのもの見方や価値観を学んできたような気もします。(最近は就職予備校のようだと聞きますが・・)

 

そして、就職した企業では。大学時代になんとなく獲得したわずかな価値観を消去して、その企業独自の価値観を一から植え付けることが行われてきました。もちろん、学生時代とは全く異なる社会人としての厳しさはありますが、植え付け自体は高校時代までに戻るようなもので、当初抵抗感はあったとしても、時間とともになじんでいく。それが日本で養成される集団主義の姿でした。

 

ところが、バブル崩壊後日本企業では、そういった集団主義では組織が持たないことに気づきます。海外企業との競争に勝てないのです。そこで、自律を重視し自立した人材を求めるようになりました。でもそんな人材がどこにいるのか。たとえ社内にいたとしても、組織では異端児です。多くの場合、それまでの文化に適応してしまうか、あるいは適応できずに辞めてしまうかのどちらかです。そもそも特定の個人に期待するのではなく、組織そのものを変えていかなければ無理です。それには時間がかかります。日本はそれに、これまで20年近くの時間をかけてきたといえます。もちろん、全ての企業が一斉にそれに取り組んできたわけではなく、業種によってまだら模様でした。最後に残ったのが電力会社であり、それが変わるきっかけが原発事故というのは、悪い冗談のようです。

 

学校教育から遡って手をうつ必要があるのは当然ですが、企業は生き残りのためにはそれを待つ余裕はありません。

 

最も今のビジネスパーソン(「リーダー」だけではありません)に欠けており、かつ必要不可欠な能力は「集団を営む能力」だと考えています。もちろんそれは集団に協調することではありません。自分たちでルールを作って守ったり、相手との関係や集団のあり方に不満がでてきたときに、それを相手や集団に返して議論していく能力です。組織や集団を維持強化することよりも、それらを新たに立ち上げたり、変えていくことのほうが優先順位が高くなっているにも関わらず、それに組織の能力や風土が追いついていない。(大企業の経営会議や取締役会を想像してみてください)

 

こうした教育は、学校でも企業でもこれまでほとんどなされていませんでした。唯一教育の場として認識されていたのが実践での「修羅場」です。しかし、全てのビジネスパーソンに修羅場を用意することはできません。いかに、修羅場に代わる場を仕組みとして用意できるか。

 

ここに新たな研修の意味が出てくると考えています。研修の場は、安全が確保されている実験場ともいえます。そこで、自分の善悪や好き嫌いの感覚を見つめて表現し、他者からの反応をもらう。そうした交換作業を通じて、自分がこれまで身につけてきた価値観やものの見方を自覚し、それをより望ましいと考えるものにつくりかえていく。そのプロセスを繰り返す。集団を立ち上げ営むうえで必要不可欠な、自己認識と他者理解、そして他者受用力を、模擬的な相互関係を積む中で獲得していくのです。

 

集団を乱さず維持していく力から集団を立ち上げ営む力へ、まずは経営層の頭の中から変えていく必要があるでしょう。

限界集落の真実: 過疎の村は消えるか? (ちくま新書)
山下 祐介
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限界集落は非効率なので、どこか一か所にまとめてコンパクトシティをつくり、そこに移住すれば、医療も公共サービスも徒歩圏内で得られお年寄りも幸福になれる、こんな論調がしばしばみられます。確かに効率化は図れるでしょうが、なんとなく違和感がありました。震災復興でも、同じような視線を感じます。

 

こう語る人々は、東京などの「中心」にいます。中心からは「周辺」が見える。だから、中心が周辺のために「考えてあげる」というスタンスです。そこから出てくる施策は、必ずしも周辺の人々が望むことではありません。

 

例えば昨日の朝日新聞で被災したカキ漁師の畠山重篤さんはこう語っています。

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「これからの家の再建にどこの木を使うべきか。ハウスメーカーは安い外材で建てようとするでしょう。でも河の流域には戦後植えた杉などがたくさん残っているのです。間伐が進めば、森に光が入って養分が蓄えられ、やがてそれが海に流れ込んで海を豊かにする。私たちはしばらく住宅や木材の関連でアルバイトをしながら海が蘇ってくるのを待ち続ける。それが私の復興へのシナリオです」

 

中心は確かに安く家を建てるための情報をたくさん持っているでしょう。でも、周辺が望むのは安く建つ家ではなく、地域の暮らしの復興のはずです。

 

『限界集落の真実』で著者の山下祐介は書いています。

「中心にいる人ほど、周辺が見えない構造があり、全体が見えないまま、思い込みから行う実践が、破滅に導くことがありうると思うからだ。不理解から来る破壊的作用。実際、既にこの二十年ほど、我々はそれをどれだけ日本各地で見たことだろう」

 

「中心の側からは、周辺が見えない。それに対して、周辺は全てを見通している」とも言います。したがって、周辺の側からの主体的な行動が重要になります。

 

しかし、まだまだ「知らしむべからず、寄らしむべし」の姿勢は健在で、知っている中心が知らない周辺に対して与えるという構造が続いています。周辺もそれに慣れてしまい、寄ることかせいぜい陳情という行動しかしてこなかったのかもしれません。中心も周辺も、そのパラダイムから脱却せねばなりません。

 

とはいえ山下によると中心よりも周辺から変わりつつあるそうです。周辺から中心はどのように見えているのか。20年くらい前であれば、憧れの存在でした。中心の情報を求め、中心に似ることを人も街も目指す。現在はどうか?中心が幸福だと考えていることと、周辺が幸福だと考えていることは、ずれてきていないでしょうか。知らないのは中心だけなのかもしれません。

 

先日も、さいたま市のアパートで餓死した親子(と飼い猫)が発見されました。東京での死者の年金不正受給の問題も一昨年話題となりました。限界なのは、周辺ではなく中心ではないのか。

 

先の山下はこうも書いています。

「この限界集落の問題の裏側には大都市コミュニティーの暮らしの問題がある。大都市住民の孤立、無力さ。このことと、限界集落問題は表裏一体のものと理解すべきだ」

 

では、どうすればいいのか。必ずしも解はありませんが、中心が周辺を指導するというパラダイムを変えることがまず一歩だと思います。山下はこう言います。

「中心と周辺とが意図的に結び合わさることで、今までにはない相互作用が始まり、新たなアイデアや実践が生じてくる可能性がある。」

 

このことは企業組織においても同じではないでしょうか。本社が中心で、現場は周辺。中心は周辺が見えないが、周辺は中心を見通している・・・・。周辺が見通しているものを中心が受け止め周辺の実行に支援をする、そんな構造が今求められているのではないでしょうか。

ここ数年、元気のない日本人を勇気づけるためのノスタルジー趣味なのか、「坂の上の雲」が盛り上がっておりましたが、震災以降は「坂の下」に投げ捨てられたものに少しずつスポットがあたっているように思います。

 

録画しておいたEテレ番組「日本人は何を考えてきたのか 第二回 森と水とともに生きる ~田中正造と南方熊楠」をやっと観ましたが、現

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在の日本にとって重要な示唆を与えてくれた番組だと思います。明治期と現在の問題は、根底でずっと続いているのだとよくわかります。

 

田中も南方も、単なる自然/環境保護活動とは一線を画し、人間がこの地上で生きていくということの本質を、あらゆる角度から問い続けた。「森」から着想された南方の思想は、宇宙の相似形である森を破壊することは、必然的に人間を破壊することになるということだと理解しました。我々日本人にとっては、理解しやすい思想だと思いますが、西欧の科学や効率の思想とは相いれません。

 

 

ところで、先日日本科学未来館で開催中の「ウメサダタダオ展」にいってきました。印象に残る彼の言葉がいくつもあったのですが、そのひとつが「探検があらゆることを教えてくれた」というものです。近年、彼ほど自分自身の体を使って思考し、しかもそれにもとづいて行動した日本人はいないのではないでしょうか。その原点がジャングルや砂漠、極地などへの探検だということは、南方が森をその思想の原点としたことと相通じるものがあるように感じました。日本オリジナルな思想は、自然との関係性の中から生まれるということなのでしょう。

 

南方同様「知の巨人」の梅棹は、軽々とジャンルの壁を乗り越えます。そもそも誰かが作った既存のジャンルなど、彼にとってはどうでもいいものなのです。日本の学者では希有なスタイルです。それは、やはり自然界と

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直接向かい合わざるをえない探検がベースにあるからなのでしょう。そんな、真っ白な脳味噌がとても羨ましく感じました。

 

梅棹の情報整理法は大変有名ですが、実際のカードなどの展示をみて、それは脳の活動をリアルなモノ(カードやホルダーなど)で再現しているように見えました。その独特のツールは、「忘却のためのツールだ」といった記述がありましたが、リアルなモノで脳の活動と似た作業をするプロセスのなかで、同時に脳も作用し情報は脳の必要な個所に収容されていたのではないでしょうか。つまり、忘れてもいいように情報をカードに蓄積しておくのではなく、そもそも脳での処理は終わっているので記憶する必要がない。「知識」が必要になったときは、リアルなカードをぺらぺらとめくるだけで、脳に格納されている情報が適切に連結されて「知識」として出てくる、そんなイメージではないかと推測します。つまり、カードは知識を引き出すためのスイッチにしかすぎず、重要なのは整理のプロセスではないか。だからこそ、あれだけ膨大なエネルギ―を費やして、情報整理に精力を傾けたのではないでしょうか。その意味では、カード類は確かに脳に通じる外部脳なのです。

 

情報整理と言うことだけであれば、現在はデータベースを駆使することでいとも簡単に梅棹以上のことができます。でも、それはあくまでデータベースに過ぎずスイッチにも外部脳にもなりえないでしょう。それが、リアルな肉体の力なのです。

 

もうひとつ面白かったのは、「ハードからソフトへ、物質から情報へ、そして経済から文化へ」という文明進化に関する認識です。頭の二項目は言い古されていますが、三項目は新鮮です。また、「日本は文化による安全保障を目指すべき」ということも言っています。やっと文化の意味を、あらためて見つめ直すときにきたのだと思います。

昨晩、文楽二月公演第三部(18時半開演)を観に(聴きに)にいってきました。先日懇意にさせていただいている人形遣いの方から、夜の部の入りがいまいちと伺っていたのですが、案の定八分程度の入りで、普段いく週末とはだいぶ雰囲気が異なっていました。ちょっと頑張れば仕事後でも気軽に行けるので、興味がある方はぜひ足を運んでみてください。演目は、定番中の定番「菅原伝授手習鑑」と、一種の怪獣もので八岐大蛇が珍しい「日本振袖事始」です。対極の二演目ですが、文楽初心者には最適なラインナップと思います。

 

先の人形遣いの方によれば、橋下大阪市長は大阪での公演をちらっと覗いたもののそれっきり、それで文楽助成金の大幅削減を打ち出したそうです。その方いわく、好き嫌いはあるでしょうが、せめて三回はじっくり観て判断して欲しかったとのこと。数少ない大阪を基盤とした芸能でしかも世界文化遺産の文楽です。「儲かり」はしないでしょうが、文化の価値を認めるべきでしょう。本物の文化は、損得に関係なく何があっても守って継承させていくべきです。

 

ところで、科学技術や経営手法の進歩は、一般大衆の手には入らなかったホンモノを、モドキを開発することで誰にでも手に入るようにした、という大きな貢献があったと言えるでしょう。たとえば、絹に対する人絹(レーヨン)、注文服に対する既製服、昆布だしに対する味の素(うま味調味料)、演劇に対する映画、映画に対するTV番組・・・、いくらでも思い付きます。国民厚生の観点からは、非常に大きな貢献です。

 

しかしその一方で、それらは所詮モドキに過ぎないということも事実です。レーヨンはどこまでいっても絹の価値を超えられません。もちろん絹にない新しい価値を備えているかもしれませんが。

 

一番怖いのは、ホンモノの価値を知らないがためモドキで満足してしまい、その結果ホンモノが滅んでしまうという現象です。悪意を持ってホンモノを滅亡させようとしているのではなく、単に関心がないだけです。あるいは、ホンモノにはそれ相応のコストがかかるため、経済合理性に基づけば好ましくないと判断されるからです。その土俵に立てば、それが正解かもしれません。

 

しかし、それでいいのでしょうか。以前糸井重里さんの「不要だからと(消費を)削っていくと魂を小さくする」ということばを紹介しましたが、それと同じことだと思います。経済合理性も大事ですが、それでは測ることができない人間らしい感情や感覚を、もっともっと大切にしていくべきです。

 

バーチャルも含めたモドキだけの世界でも、生活していくことはできます。でも、もっともっと「楽しい」ことが世界には山のようにあるのです。その世界に入っていくためのきっかけが、ホンモノに触れることではないでしょうか。

 

私はこれからの時代、世界中でホンモノ回帰が起こると予感しています。どれだけのホンモノに触れ手に入れるのか、それが人間の豊かさの一つの基準になっていくように思います。

 

では、ホンモノとは何か?それはまた今度じっくり考えてみたいと思います。

人間の成長を最も阻害するのは、「わからない」ということを恥ずかしいことだとする暗黙の前提ではないでしょうか。

 

そんなことを考えたのは、昨晩のふたつのできごとです。ひとつは、アカデミーヒルズでの夜間オープンセミナー「損得計算入門講座」をオブザーブして感じたこと。

 

講座の冒頭に講師からこう話がありました。

「途中でも構わないので、わからないことがあれば手を挙げて質問してください。今日の内容をすべてわかっている人はそもそもこの講座に参加していないはずです。だから、わからないことは恥ずかしいことでもなんでもないんです。講師にとって、一番怖いのは誰も質問しないことです。その場合、わかっていると理解してクラスを進めますが、最後に『よくわからなかった』とアンケートに書かれたりするんですよね(笑)」

 

講座はどう進んだか?

前半はわりと、恐る恐るながら質問がいくつか出てきました。ところが、次第に内容が複雑になるにつれて、質問がでなくなっていったのです。明らかにわからなそうな表情の受講者もいますが・・。

 

受講者はほとんど知らないもの同士です。そこで仮に無知だとバカにされたとしても、大した影響はありません。でも、そういう問題ではなく、「わからないということを他人に知られてしまうことは恥ずかしいことだ」という社会的前提に抵触することが、自分として許せないのかもしれません。それほど大人にとっては強固な前提です。

 

では、小学校三年生の子供ではどうでしょうか?昨晩帰宅後、前日録画しておいた番組ETV特集 輝け二十八の瞳 ~学び合い支え合う教室~」を観ました。

三年生14人が、わからないことを友達にきくことで進んでいく「学び合う教室」のドキュメンタリーです。以下、番組HPからの引用です。

 

そんな「学び合い」の出発点は「わからない」と問うこと。
しかし、従来の一般的な「一斉授業」では正解を求められるのが常識のため、 子どもにとって「わからない」をさらけ出すのは難しい。
子どもたちは葛藤を経験しながら、お互いの「わからないこと」を認め合い、高め合っていく。

 

ある男の子(写真の子)はこう言いました。

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「一学期は、わからないということが恥ずかしかった」

当初は、算数の計算問題の答えを書き写すことに一生懸命だったそうです。

 

でも彼はその後、クラスの口火を切る「わからない」を毎回発するようになりました。そこから授業が動くのです。

 

無邪気な三年生の子供ですら、わからないことは恥ずかしいことだとの前提に縛られていたのです。

 

みんな「わからない」から学びあい成長していく、そんな当たり前のことが子供も大人も「わからない」。その結果、本来誰もが持っている潜在能力を発揮できない。こんなもったいないことがあるでしょうか。暗黙の前提のこわさです。

 

ひとりひとりの能力を最大限発揮できるような社会にしなくては、日本はこれから没落する一方でしょう。その出発点は、「わからない」をいう勇気にあるように思います。

ここ数日、日本の大手電機メーカーの大幅な赤字決算が、立て続けに発表されています。震災、タイの洪水、そして円高、確かに日本企業にとって極めて厳しい環境であることは確かです。しかし、赤字を発表する経営陣が、それらを言い訳に利用しているように見えてなりません。まるで、「誰が社長でも、今期は利益出せないよ」と開き直っているように見えることすらあります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、ですか・・・。

 

今回の赤字は構造的なものであって、決して震災などの一過性のものではないことに気づくべきです。TVが売れないのは、円高だからではなく、魅力的な製品を出せないからです。多くの経営者はあまりに他責に陥っているようで、非常に不安です。

 

これまでの日本企業はスペックでの競争が得意でした。また、それを顧客も評価してきました。ところが今は違います。薄型TVに代表されるように、スペック面での進化は、顧客の認識レベルを超えるところまでいきついてしまいました。つまり、「もうたくさん」なのです。そうなると、あとは価格競争しかありません。他国の競合も、そのレベルのスペックに到達しているのですから。

 

この構図はあらゆる製品において実現しており、かつそのスピードはどんどん速まっています。スペック競争に代表される機能的価値の商品価値に占める割合が、どんどん低下しているのです。

 

では、機能的価値以外にどんな価値が重要になっているのでしょうか。それが意味的価値です。主観的価値とも言えます。つまり、定量的にその良さを説明するのは難しいけれど、「好きだから」少々高くても買うという場合に、顧客が余計に支払う金額で表現されるものです。マーケティングの世界ではそれをブランドと呼ぶのかもしれませんが、ブランドの源泉となる何かです。

 

現在、最もそれが得意なのがアップルでしょう。日本でいえば無印良品や任天堂(Wii以降ぱっとしませんが)もそれに近いかもしれません。また、かつてのSONYもそうでした。

 

なんとなく日本企業は、機能的価値創造は得意なのだが、意味的価値創造は苦手という風潮がありませんでしょうか?今回赤字決算発表をした経営者の言葉の端々にそんな印象を受けます。私は決してそんなことはないと思います。それは言い訳にすぎない。日本人ほど、意味的価値を好み、受け入れ、対価を支払ってきた国民はいないでしょう。たしかに、ここ十数年はデフレの波にさらされ、低価格志向は高まっていますが、それは表面的な現象だと思います。

 

たとえば、桃山時代以来のお茶椀を愛でる伝統。機能的価値はほとんどわずかのモノに対して莫大な値段がついてきた。そう、意味的価値のかたまりです。

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歌舞伎や能、落語といった芸能を、数百年にわたって大事に育ててきた。役者の機能的価値には、どれだけのものがあるでしょうか。日本人は意味的価値を高く評価し、また生み出す高い能力を備えているのです。高い美意識を持っているといういい方もできます。でも、それらをどこかで忘れてしまった・・・。

 

あらためて、自らの原点に立ち返り、自らの強みを認識し、活かす方法を考えてもいいのではないでしょうか。それなくしては、日本の再起はあり得ないように思います。いや、それどころか意味的価値の競争では、日本は世界のどの国にも負けないはずです。

 

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