2017年1月アーカイブ

マネジャーとリーダーが同じ意味で使われ、その結果当事者が混乱することが多いようです。

 

マネジャーという言葉は、従来あった管理職の翻訳として使われてきた経緯があります。本来管理職とは、労働組合員に対立する概念で、経営者の委任を受けて組合員を管理し、経営者の意図するように行動をさせる役割だったと思います。だから、管理職になると組合員でなくなる。

 

経営者は組織が大きくなると、自分の意図が末端にまでなかなか伝わりにくくなり混乱するので、レイヤーを作り管理可能な組織に分割していって、その小さな集団を任せる相手がマネジャーです。

 

別の言い方をすれば、組織の拡大に伴って増す複雑性をできるだけ小さくするために、管理職が必要なのです。目的は、不確実性の低減なのです。

 

こういった経緯から、マネジャーの役割は以下に整理できます。

 

1.  経営者の意図を解釈して部下に適切に伝える(短期スコープ)

2.  管轄する組織の業績が大きくぶれないように、部下を指導したり、組織の関係性を良好に保ったり、そのために関係者間の調整を図る(短中期スコープ)

3.  長期的な不確実性を低減させるために、部下を育成する(長期スコープ)

(指導は短期的スキル向上のため、育成は長期的成長のためと整理できますが、もちろん重なってきます)

 

最後の部下育成は、本来はマネジャーの役割とはいえません。なぜなら、育成の成果が出るのはずっと先のことであり、その時にはもう自分の部下ではなくなっている可能性も高いからです。にもかかわらず、その責任を引き受けるのは、終身雇用が前提の日本企業においては、自分の将来を支えてくれる若手が必要不可欠であり、長期的には自分のメリットにもなるからです。その前提で、経営者マネジャーに育成を委任し、マネジャーはそれを引きうける。ただし、その前提が疑わしくなってきている現在、部下育成は大きな問題にぶつかっているのです。

 

ところで、リーダーは全く異なる概念です。日本で頻繁に使われるようになったのは、バブル崩壊あたりではないでしょうか。リーダーとは、集団の「結果」を出すことに責任を持つ人です。極端に言えば、マネジャーは結果(ビジネスでは数字)を出すことよりも、担当組織の不確実性低減のほうが大事です。しかし、リーダーは逆です。不確実性などよりも、今の結果のほうが遥かに大事。そう、成果主義の考え方に基づきます。だから、バブル崩壊後の業績不振に苦しむ日本企業は、少しでも今の数字を上げるために、成果主義を取り入れリーダーを重視したのです。現在、成果主義の看板を下げる企業は増えていますが、リーダーはますます重視されているようです。そこに、矛盾があります。

 

 もう少し言えば、マネジャーは経営者から委任された「役職」であり、リーダーは本来役職ではなく「役割」です。この差は大きい。役職とは経営者から公式な責任と引き換えに人事権という武器を与えられる立場です。しかし、「役割」にはそういう武器は与えられません。逆に言えば、そういう武器がなくても責任を果たすことができる人だけが、「リーダー」だとフォロワーから認められるのです。

 

だから、リーダーは必ずしもその組織内の上位者である必要はありません。ある状況において最もその役割を果たせる人が、その場でのリーダーになればいい。リーダーシップとは、組織の成果を出すための能力です。いわゆるフォロワーであっても、組織の成果創出のためのリーダーシップの発揮の仕方があります。強い組織とは、全員が状況によってリーダーになれ、しかもそれぞれの立場でリーダーシップを発揮できる集団です。

 

ここまで述べてきたように、マネジャーとリーダーは、正反対とは言わないまでも大きく異なる概念です。経営側も管理者側も社員も、この二つの概念を混同して使っているため、様々な問題が発生しているのではないでしょうか。

 

今の日本企業により求められているのは、リーダーであることは間違いない。そこで、組織の成果を出すことができるリーダーの役割をもう少しブレイクダウンしましょう。いろいろな考え方はあると思いますが、私は以下の4点を重視します。

 

1.  自組織のゴールを定義する

2.  先頭を切ってリスクを引き受ける

3.  腹を括って決める

4.  メンバーそれぞれに合った形で影響力を行使する

 

これは大きなテーマなので、またじっくり整理していきたいと思います。

 

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今年は「本物」にこだわりたいと先日書きました。では、本物とは何か?私の中では、本物には「美」が宿っていると勝手に理解しています。

 

例えば、私は骨董を観るのが好きですが、無意識のうちにそこに「美」を探しているように思えます。うまく説明できないけれども、魅かれる、引き込まれるようになるものに美を感じるようです。(美を感じるから引き込まれるともいえますが)そういうモノは、やはり本物だと思います。では、なぜ引っ込まれるのか。これまでよくわかりませでした。

 

人間は何を美と感じるのか、たまたまカントがこのようなことを書いていることを見つけました。

 

われわれの想像力は、通常、知覚に従い、それほど自由に動かせるわけではないない。けれども、音楽を聴き絵画をみることによって、想像力は日常を離れて自由に遊ぶ。(中略)それらが現実に存在するわけではない。それは知覚ではないのだから想像であり、しかも想像力は作品の導きに従うのだから、無意味な混乱に陥ることにない。そのようなときにわれわれは美を感じる。

 

つくり手による一定のガイドのもとに、想像の翼をどんどん広げることができる対象に、美を感じるようです。自分自身の知覚能力には限界があります。理性が大きく幅を利かせる日常においては、想像力を使う機会はそれほど多くはありません。というか、あまりに想像力を逞しくさせ過ぎてしまうと「変な人」になってしまいます。

 

でも、人間の本能は、想像を巡らせることに喜びを見出す性質があるようです。そこが、他の動物との最大の違いかもしれません。

 

私なりの「美」に触れたとき、想像力がフル回転を始めます。制約のない自由な物語が勝手に紡ぎだされますが、言葉(知性)では表現できません。そんなときに美を感じているようです。本物でなければ、そんな想像力は起動しません。よく優れた芸術作品は『精神性が高い』と表現されますが、作り手の想像力と観たり触れたりする鑑賞者との想像力が、深いところで交錯することが「精神性」のことなのかもしれません。

 

「美」に近い感覚に、「崇高」があります。カントはこう説明しています。

 

満点の星のように、あまりにも巨大なものを見ると、それが無限であると頭(理性)ではわかっても、その細部を想像していく過程には限りがなく、いつまでたっても終着点を見いだせない。気持ちは無限の大きさへと引き上げられるが、ひたすらそれに見とれるしかない状態になってしまう。感性的知覚がきっかけとなって、理性が把握する無限を埋めていこうとする想像力のはたらきがいつまでも終わらない。この状態が崇高である。

 

私は、夕暮の風景に崇高を感じることがあります。無限から発された作為の全くない美、そこに崇高を感じるようです。宗教体験もそれに近いのかもしれませんが、よくわかりません。

 

どれだけAIが進歩しても、このような美、崇高といった感覚をコンピュータが理解することはできないでしょう。人間ならではの能力を、もっともっと大切にしていきたいですね。人間のゆるぎない土台にある「確実」なものです。

「企業の能力」開発

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企業が持続的に維持・成長するには、企業の能力を高めなければなりません。当たり前ですね。では、「企業の能力」を高めるとは、どういうことでしょうか?

 

この場合の「企業」という言葉には、個人と部門(チーム)と企業体の三つが内包されていると考えると理解しやすいと思います。企業体は部門の集合体であり、部門は個人の集合体です。

 

次に、「企業の能力」を高めるためには、この三つの主体の関係性に着目する必要があります。それらは重なっているものでもあり、外から影響を与えるものでもあります。主体でありながら客体でもあります。

 

少し話はそれますが、このうち日本企業で特に重要なのは、部門(チーム)です。もう少し詳しくいえば、「職場」です。職場とは、顔の見える人々の集団です。大企業であれば、「課」でしょうし、中小企業であればそれが「部」であったり「会社」であったりするでしょう。個人は「職場」に埋め込まれているイメージです。

 

さて、企業の能力を高めるために、どのような手段を取ることができるでしょうか。その主体に直接働きかける方法と、「場」や環境を整えることで間接的に影響力を行使する方法の二つがあります。

 

一般によく行われているのは、「企業」が「個人」に直接、間接に働きかける方法でしょう。研修やMBOインタビューなどが直接で、人事・評価制度、予算制度などが間接にあたります。企業から部門を経由して個人に働きかけるという一方向の流れです。スピードは劣るけれどもカスケードダウンで、確実に会社の意図が浸透されるというスタイルです。経営環境の変化が少ない時代であれば、これで十分でした。

 

しかし、現在は経営の不確実性が高まり、安定性よりもスピードや変化への適応力が重要になっています。そうなってくると、これまでの一方向の流れでは柔軟かつ迅速に適応ができません。そこで、三つの主体間の相互への働きかけが必要になってきます。賢い「企業」(本社)の指示を待っている間に、競争に負けてしまうリスクが高いからです。変化を察知した主体が、それ以外の主体に迅速に働きかけることができるかどうかが、あるいは主体自らを変化させることができるかどうかが、生き残りの決め手になってきていると考えます。

 

もう少し具体的に、能力開発の場面を想定してしましょう。例えば、「部門」が「企業」に働きかける動きも必要になってきます。自部門(A)の能力を高めるには他のX部門との協働作業が必要であるとA部門が判断すれば、自ら動いてX部門に働きかける。本来、部門間調整は本社の役割ですが、それを待っていては遅れてしまう。本社は追認すればいい。結果としてA部門が「企業」に働きかけたことになります。

 

あるいは、「個人」が「企業」の能力開発のために働きかけることも必要です。例えば、そのための直接的手段としてモラルサーベイがあります。しかし、ただアンケートを取って分析するだけでは無意味です。サーベイの結果によって企業を動かすくらいに本気でなければなりません。そのくらいの緊張感を持って企業は個人の働きかけを受容して、初めて企業として変化に適合できる能力を開発することができるのです。

 

このように、個人と部門と企業の双方向の関係性という観点で、企業の能力開発を図っていくことが、不確実性のますます高まる2017年、必要になってくると思います。そのためには、多少強引にでも関係性に「介入」することも検討すべきでしょう。

2017年新年のご挨拶

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(1/4にメール発信した新年のご挨拶です。少々遅くなりましたがアップしておきます。)

謹んで新年のお慶びを申し上げます。


2016年を振り返ると、いよいよ不確実性が常態化してきたと実感せざるをえません。一年前に、誰が英国がEUを離脱すると、誰がトランプ氏が米国大統領に就任すると予測したでしょうか。

こんな時代、何を拠りどころにしたらいいのでしょう。

私はあえて、Authenticity にこだわりたいと思っています。
Authenticityとは、「本物であること」という意味ですが、オックスフォード英語辞典によると、「その起源に議論の余地もないこと」とあります。

私の解釈ですが、Authenticityとは歴史に裏付けられたストーリーと、それに由来するどっしりした基軸を根底に持っている人やモノだと思います。

まずは、自分にとっての「Authenticity」とは何かを見つめ直す必要があります。

さらには、他の人あるいは組織を「Authenticity」たらしめているものを見定め、それに敬意を払うことができるようになりたい。


Authenticityの代表ともいえる、マザー・テレサの言葉です。

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits; for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


2017年、「本物」にふさわしい思考をしていきたいと思います。


本年も引き続きご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

福澤英弘

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