2015年2月アーカイブ

沢木耕太郎氏も朝日新聞の映画評にたしか書いていましたが、日本語タイトルは誤解を招きやすい不適切なものだと感じます。「おくりびと」を意識したのでしょうが。

 

原題は「 Still Life」、あえて日本語にすれば「静物(画)」でしょうか。この映画を象徴するいいタイトルです。

 

静物画は静謐ですが、そこはかとなく鑑賞者に訴えかけます。そして、描かれた物は、時間を超えて誠実にそこにじっと佇んでいる。主役のジョン・メイはまさにそんな人物です。

ジョン.jpg

 

孤独死者の家族を探し出し、宗教を突き止め、死者が望んだであろう葬儀を執り行うべく最善を尽くす。でも、ほとんどの場合、参列者はジョンのみ。やっと探した出した親族や友人も、いろんな事情があり列席しない。でも、ジョンはその仕事を誠実に、たんたんと続けます。

 

彼の生活には、その仕事以外には何もありません。食事すら毎回同じ魚に缶詰とリンゴとトーストと紅茶。食卓はまさに静物画。

 

食卓.jpg

誠実で丁寧な仕事は非効率でもあります。上司はそんな彼に言います。「葬儀は遺族にためにやるのに、遺族はそれを望んでいない。なのに、何故そんなに時間をかける必要があるんだ。」

 

確かに一理あります。葬儀とは、遺族が亡くなった悲しみにけじめをつけるために行うのかもしれません。それを区切りにして気持ちを整理し、前に進んでいく。死者の為ではなく遺族のための儀式であれば、確かにジョンの「仕事」はやり過ぎかもしれません。

でも、ジョンは死者に対する敬意を持って仕事をしている。孤独だった死者に対して、せめて最後くらいは敬意を払って送ってあげたい。それがジョンの意志であり、彼の生きがいなのです。

 

そんな色あせた静物画のような彼の日々に、ある日変化が訪れます。解雇を通知され、最後の仕事となったビリー・ストークの葬儀案件。ビリーは偶然、ジョンの向かいの部屋で暮らしていました。ジョンはそんな彼を他人とは思えなかったのかもしれません。

 

仮病を使ってまでの懸命な調査の結果、ビリーの人生が少しずつ明らかになってきます。親族や友人を探し当てますが、彼らはビリーに好意を持っておらず参列には消極的。最後に探し当てた娘・ケリーですら。

ジョンとケリー.jpg 

しかし、ジョンはケリーに会ったことで何かが変わります。一方で、ジョンに会って参列を勧められた人々も、ジョンの誠意によって少しずつ変化するようです。ジョンは静物の世界から、色と動きのある世界に足を踏み入れたように見えました。ケリーのためにも、ビリーの葬儀を素晴らしいものにしたい。そのために、ジョンは自分のために購入していた、見晴らしのいい墓地区画までも提供しました。


そして、ケリーの参列を取りつけた帰り道。お揃いのマグカップを買って、バスに乗ろうと道を渡ろうとした瞬間・・・。またも静物画の世界に戻ります。ジョンは、交通事故で死んだのです。

 

ジョンとビリーの葬儀は同じ日に執り行われました。ジョンが手配したビリーの葬儀は、ケリーをはじめジョンが説得した多くの友人・親族が参列し、ジョンが望んだものになりました。一方、ジョンの葬儀は彼の後任によって、いたって事務的に執り行われた。

 

墓地.jpg

墓地でケリーと、ジョン入った霊柩車が交差します。ケリーは、なんとなく気配を感じたもののビリーの埋葬に戻ります。そこはジョンの墓地になるはずだったところ。ビリーは多くの友人・家族に看取られ埋葬され、その少し先でジョンが旧知だった墓堀人だけによって埋葬される。この不条理!でも、これが人生、Lifeなのです。

 

でも、監督は最後にジョンにやさしく寄り沿います。ジョンの墓場に、周囲の墓場から一人また一人と、過去にジョンが葬儀を執り行った死者たちが集まってきたのです。この場面は、仏教的な死生観を感じさせるものでした。

 

ジョンの仕事は絶対的に正しかった。死者は言葉を発することはできませんでしたが、ジョンの仕事に感謝していたのです。仕事とは、上司に評価されるためにするものではなく、関わる人々に感謝されることをすることなのです。

 

色あせた静物画のようなジョンの生き方と、一瞬垣間見えた鮮やかな色と動きのある暮らし、そして再びの静物画。でも最後の静物画は、やさしい色に染まっていたように私には見えました。監督は小津作品を意識したそうです。なるほど・・・、品格のあるいい映画です。

考えに考え抜くということは、やったことがない人には、その意味が分からないものです。経営者は最終判断に責任を持つわけですから、最終的には誰にも頼ることはできません。経営判断とは、すべて正解がないわけですから、どれだけ考え抜けばそれでいいという限度がありません。だから、死ぬ気で考え抜かなければならないのです。

 

それに対してそれ以外の社員は、最後は判断を委ねる上司がいます。もちろん、自分の役割においては考え抜いて結論を出す努力をするでしょうが、最後は上司に判断を委ねる道が残されているため、自ずとブレーキがはたらいてしまうものです。

 

本音で言えば、「これだけ考えたのだから多分この判断で行くべきだろう。でも、最後的には上司の判断に従わなければならない。経験豊富な上司は、私よりも優れた判断をする力を持っているだろうから」

 

組織ではたらく人間ならば、こう思ってしまうのは仕方のないことだと思います。しかし、こういう状況であっても、どこまで突き詰めて考え抜けるかには個人差があります。私はそれを「知的強靭さ」と呼んでいます。どこまで我慢して諦めず徹底的に考え抜くことができかどうかの能力です。それは、経営者を目指すべき人には不可欠の能力です。

 

ある企業で、次の執行役員候補を対象とした研修を行っています。そのプロジェクトオーナーである副社長は、この研修でこの「知的強靭さ」の開発を狙っています。同時に、各メンバーが「知的強靭さ」をどれだけ持っているかを評価しています。より持っているメンバーを次の執行役員に抜擢したいと考えているのです。

 

もちろん、「知的強靭さ」を獲得するのは本来研修ではなく、実務の場面でしょう。修羅場体験の中で、どれだけ苦しんで考え抜き判断し行動してきたか、その経験がその人の「知的強靭さ」を育むのです。

 

しかし、そういう経験をすべからく候補者全員にさせられるとは限りません。組織の細分化が進み、成熟化とそれに付随する管理強化とリスク回避の流れの中で、そういう機会が日本の多くの企業の中で減少しているからです。

 

そこに模擬的修羅場としての研修の役割があるのです。メンバーはチームで、経営陣に新規事業提案を行います。しかし、何度も突き返されます。調査分析して綺麗にまとめることは得意なメンバーですが、経営陣の琴線にはなかなか触れることができません。経営陣から見ると、本気で考え抜いたようには見えないからです。

 

経営陣は日々本気で考え抜いているため、メンバーの本気度レベルは直観的にわかります。だから、まだまだ足りないと感じ、突き返すのです。

 

一方で、メンバーのほうは、何が足りないのかよくわかりません。不足箇所をわかりやすく示してほしいと経営陣に頼みます。しかし、経営陣にとっても、それは論理的に説明できるようなものではないのです。

 

メンバーは悩みます。「これ以上考えたって時間が過ぎるばかりだ。それよりも、まず具体的に見える小さなことから始めることでもいいじゃないか。」それが本音です。

 

メンバーは、経営陣のように本気で考え抜いた経験がないため、もっともっと考え抜けば突き抜けたアイデアが出る、とは思えないのです。それは非常に不快な状態です。フラストレーションが高まります。そこで「知的強靭さ」が試されるのです。不快から脱しようと思う人は、ブレーキをかけ考え抜くことから降ります。

 

私がこれまで見てきた中で、こういった意味での「知的強靭さ」を持つ人は、必ずしもIQのような知的レベルとは関係がありません。視座の高さとか自分を客観視できる力とか、周囲の人に配慮する力とか、逆に時に調和を壊す勇気を持つとか、そんな能力と関係が深いようは気がします。(田坂さんはそれを 「知性」 と定義していました)

 

一度、考え抜くことに成功した人は、自分の考え抜く力に自信を持つため、次からも考え抜くようになります。ブレーキが外れるのです。こうなるとグッドサイクルに入り込み、ぐんと成長します。今その分水嶺にメンバーは立っているのです。

 

経営陣は、こういった状況をわかっているため我慢して突き放しているのですが、残念ながらメンバーはわかっていません。そこがこういった研修の難しいところです。

 

近年、持株会社化する企業が増えています。それまでは、主となる企業の下に多くの子会社がぶら下がっているのが普通でした。それを持株会社の下に、コア事業を担う会社とノンコア事業を担う会社群を並列にぶら下げる形態への移行が、持株会社化です。

 

持株会社化するメリットは、グループの経営資源を機動的に有効活用できることでしょう。そして、さらにはシナジー効果を発揮させることも期待されます。

 

不確実性の高まる経営環境のもとで、コア事業の成熟はどんどん進み、それを変革するために、グループ内にある子会社が持つ経営資源を活用する必要性が高まっているのでしょう。

 

しかし、企業とはいったん親子関係にあると、どうしても上下関係となってしまい、相互の学習は難しいものです。それは、持株会社の下で並列関係だと定義したところで、そう簡単に変わるものではありません。つまり、箱(ハード)は変えてもそれだけでは意識(ソフト)は変わらないという、いつものパターンです。そこで、組織開発への期待が高まります。


先日、昨年持株会社化したある企業グループで、グループ連携を主目的にしたワークショップを行いました。

 

実は昨年までは、コアを担う親会社(以下C社と呼ぶ)の部長を対象に、その企業グループの将来を考えてもらうワークショップを実施していたのですが、昨年持株会社化したことをきっかけに、今年は思いきって受講者をC社以外のノンコア事業を担う会社群(以下N社と呼ぶ)からも集めることにしたのです。

 

メンバーは部長クラス20人で、C社からは4人、残り16人はN社群(7社)からです。シャッフルした4チーム(5人/チーム)それぞれに、後で述べる課題についてアウトプットを作ってもらいます。

 

規模も社会での認知度も社員の学歴もC社とN社群では、圧倒的に差があります。それらをミックスしてうまくいくのか不安でした。C社メンバーが主導してしまい、N社メンバーは議論に加わることができないのではないか?C社メンバーは、N社メンバーや事業内容に関心を持ってくれるだろうか?

 

課題は二つ。

1)このままでいったら10年後の当企業グループはどうなるか?

自分たちは、10年後にどんな企業グループにしたいか?

2)それを実現するために、X社の持つ経営資源をどうグループ全体で活用していくことができるか?

 

X社には、チームごとにそれぞれ別のN社がアサインされています。各チームには最低一人は、アサインされた当該企業からのメンバーが入っています。その方の情報や問題意識をベースに、他の企業のメンバーとともに智恵を出していくわけです。


ポイントは、X社をどうするかではなく、X社が持つ経営資源をどう活用して、当企業グループを成長させるかです。つまり、X社はグループにとって宝の山になりうる、しなければならないという意識を皆に持ってもらいたいのです。

 

皆もともとC社のことはよく知っているのですが、他社のことはほとんど知りません。そのため、最初に長めの自己紹介をしてもらいました。これまでの仕事内容、現在の仕事内容、現在の組織と自己の課題の3点を発表してもらったのです。これで、俄然他社の事業内容やメンバーに対して興味が湧いたようです。当初の心配は杞憂でした。


チーム内での討議も、C社メンバーに引っ張られることもなく、皆が積極的に発言していました。この点も杞憂でした。素人だから見えることも多く、斬新な意見が多数出てきました。素朴な質問というのは、いつもパワフルで鋭いものです。

 

これまでは、グループ企業社員同士が対等に議論する機会がなかったため連携もうまく図れていないようでしたが、今回のワークショップのように意図的にその場を作ることで、十分グループ連携が図れるのではという自信のようなものが芽生えました。

 

今回のワークショップは、いわばキックオフで、これから各チームが自主的に活動し、4月にその成果を社長に発表することになっています。アウトプットの質も重要ですが、それ以上にグループ企業間の連携が促されるような組織風土を醸成することを社長は期待しています。

 

組織を開発するきっかけに携わることができて、私自身刺激的で楽しかったです。この後の展開もすごく楽しみです。

 今年に入ってまだ一ヶ月しかたっていないのに、以下のような出来事が続けざまにありました。

 

17日 仏政治週刊誌「シャルリー・エブド」への襲撃

117日 安倍首相がエジプトで、「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援を約束する」と演説

120日 イスラム国が日本人人質二人と2億ドルの交換を要求

126日 「九条の会」発足時の呼びかけ人で東大名誉教授の奥平康弘氏死去

129日~21日 「21世紀の資本論」著者トマ・ピケティ氏来日

131日 ワイツデッカー元ドイツ大統領死去

21日 後藤健二さん殺害の動画配信

 

それぞれが連動しているわけでもなんでもありませんが、私の中ではなんとなくつながってしまいます。因果関係ではなく共時性的なつながりです。

 

そのつながりの中で、さまざまな疑問が湧いてきます。

 

表現の自由はどこまで尊重されるべきか?

多様性の尊重を妨げるものは何か?

自己責任と国家の役割との関係は?

国民を守るのは軍事力か平和主義か?

同盟とは何のためのなされるのか?

テロを撲滅するのは軍事力か貧困対策か?

成長と格差はバランスできるのか?

できないとすれば、どう優先順位をつけるべきなのか?

テロとは何なのか?

国家自身によるテロ行為は行われていないのか?

表現の自由があっても、「口をふさぐ」のはなぜなのか?

過去と現在、そして未来はどのようにつながっているのか?

日本は世界に中でどのような「国」になりたいのか?

自分はどのような「国」に住みたいのか?

それに対して、自分は何ができるのか?

 

これらに正解はありません。

 

田坂広志さんが「知性を磨く」でこう書いています。

 

「知能」とは「答のある問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力

 

「知性」とは「答の無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力

 

 

今、問われているのは、我々の知性の力だと思います。



知性を磨く― 「スーパージェネラリスト」の時代 (光文社新書)
田坂 広志
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