ヒトの能力: 2018年6月アーカイブ

五感を使って

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人間は五感を駆使して外部から情報を受容して、認知システムや情動に取り込んでいきます。ただ残念ながら、我々はそのうちの一部の受容器に偏っているように思えてなりません。特に視覚です。そして視覚の中でも特にテキスト情報への依存度が圧倒的に高い気がします。

 

最近のTV番組には、テロップ(字幕)が頻繁に出てきます。聴覚障害者への配慮とはどうも思えません。流れる文字にどうしても本能的に視線が向いてしまいます。敵を発見するための、動物としての本能です。

 

文字を追うことで、映像や音声からの情報量は必然的に減ってしまいます。それにも関わらず、テロップを挿入するのはなぜなのでしょうか?

 

五感を駆使する機会が減り、その能力を失いつつあるのではないか、そんなことを気付かせてくれる映像に出会いました。

 

 

6/23の朝、何気なくTVを付けたら「沖縄慰霊の日」の式典が生中継されていました。しばらくして始まった、地元中学三年生の自作の詩の朗読に括目させられました。

sagara.jpg

 

https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00e/040/310000c

 

この毎日新聞の記事にある動画にはテロップがついています。また、下の方には詩が文章(テキスト)で書かれています。

 

以下の順番で読む(観る)ことをしてみたら面白いと思います。

・まず、文章で詩を読む

・次に動画を、字幕を追いながら観る

・最後に動画を、字幕を隠して(手前に本を置いたりして)観る

 

いかがでしょうか?

テキストが、いかに豊かな情報を圧縮してしまっているかが実感できると思います。テロップの弊害も。一方で、機会さえあればまだまだ受信する力は保持できそうな希望も持てる。

 

なにより、この詩を書いて朗読した相良倫子さんの表情と声は、この詩を書くに至った思いなどの膨大な情報を発信しています。それを、視聴者である私たちは精一杯にアンテナを広げて受信できる。もし現場にいたら、それこそ五感をフル回転してもっともっと受容し、刺さったことでしょう。人間の能力って素晴らしいですね。

 

ところで、相良さんのすぐ後に、首相が祝辞を述べました。残酷なほど乏しい情報量で、ほとんど受信できませんでした。

 

今年のカンヌ映画祭で、是枝監督がパルムドールを受賞しました。日本でも話題になりましたね。嬉しいものです。それに関して、いろ

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いろな報道がありましたが、私の心に残ったのは、審査委員長を務めたケイト・ブランシェットさんの映画祭を総括した「今年のカンヌは、インビジブル・ピープル(見えない人びと)に光を当てた映画が多かった」という言葉と、それに対する是枝監督の反応です。

 

是枝監督はこう応えました。

 

自分の作品も確かにそうだと思った。「万引き家族」は社会から排除され、取り残された人たちが、不可視の状態でそこにいる。発見されたときには犯罪者としてしか扱われない。「誰も知らない」の子供たちもそうだった。

 

そのことが彼女の「インビジブル」という言葉を聞いて、自分の中で言語化された。それまでは言葉にできていなかった。(中略)外から与えられた言葉で、自分の作家としてのスタンスがクリアに見える瞬間がある。有り難い。

 

そもそも「見えない人びと」に光を当てること自体、容易ではありません。スルーして何も見えないのは、自分が構成している主観の世界には存在しないからです。物理的には存在しても、主観の世界には存在していない。人はそのようにできているからです。

 

しかし、芸術家は異なる目を持っています。客観的に世界を見ることが得意なのです。だから、先入観や偏見にとらわれずに、客観的に見ることができるのです。ただ直観ではあるでしょう。

 

そして芸術家は直観的に捉えたものを、それぞれの表現手段(映画など)を使って表現します。

 

その結果、我々凡人も、芸術家などの視点の異なる他者と対話(映画鑑賞)して初めて「見えて」きます。

 

しかし、芸術家もなぜそれに自分はこだわったのか、自覚していないことも多いようです。是枝監督は「言語化」できなかった。言語化とは、具体の世界を抽象の世界に引き上げることです。今回是枝監督は、ケイト・ブランシェットさんから「インビジブル・ピープル」という言語をもらいました。なるほど、自分がずっと表現したかったことはそれだったんだ、と自覚できたのです。

 

今後、是枝監督は抽象化されクリアになった自分のこだわり。すなわちインビジブル・ピープルを、自分自身の主観の中に取り入れて、さらに豊かな映像世界をつくりあげていくことでしょう。

 

ここまで書いたのは、主観と客観、具体と抽象という二軸によるマトリクスの中をぐるぐる移動することの事例です。

 

私たちは、ひとりでは学ぶことはできない。(芸術家ではないとしても)視点の異なる他者と対話することで学んでいくのです。どんなものからも学んで成長を続ける人がいます。そういうひとは、このマトリクス上を高速度で回転しているのだと思います。

 

では、その原動力は何なのか?

 

世界をもっと深く知りたいという好奇心でしょうか?安易に自分を納得させて楽になろうとは思わない、自分自身に対するプライドでしょうか?

 

う~ん、まだよくわかりません。

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