ヒトの能力: 2014年10月アーカイブ

先日、狂言師で人間国宝の野村萬さんによる三番叟を観ました。三番叟は、翁の後半で狂言師によって演じられる部分ですが、そこを切り出して独立した演目として演じられることも最近は多いようです。文楽では、定番となっていますね。

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さて、その三番叟ですが、ご覧になった方はおわかりのように、非常に激しい動きをともないます。それを、昭和五年生まれということですから、84歳の野村さんが演じるのです。しかし、その動きはシャープで、まったく歳を感じさせません。さすがに、動きが止まっているときには、息が上がり呼吸音が最後列の私にも聞こえてきましたが、声を発するときには何事もなかったかのように、朗々とした声を見所内に響かせました。以前野村萬斎さんによる三番叟(翁の一部として)も観ましたが、動きのキレでは若い萬斎さんにも引けを取っていませんでした。まさに驚異的!

 

しかし、能楽師では決して野村萬さんが特別なのではありません。90歳過ぎても、衰えを見せない方もおられます。一般人とは鍛錬のレベルが違うとはいえ、同じ人間とは思えないほどです。それは、なぜなのでしょうか?鍛え方と同時に身体の使い方に秘密がありそうです。「正しく」身体を使えば、いくつになっても(野村萬さんのように、は極端ですが)健康に生活できるに違いない。

 

問題は、何が「正しい」身体の使い方なのかです。能楽師の動きは、武士の動きに準じているそうです。どんな時にでも、命懸けで戦う準備ができている身体。それは、長い時間をかけて獲得した、日本人の生活習慣や身体特性を踏まえた、無理なく最大限効率的に動くことができるような身体の使い方なのです。

 

能楽師も(多分)武士も、ほとんど椅子は使いません。一方、中国では古くから椅子が発達してきました。ハンスウェグナーも中国の椅子を参考にして作品をつくっています。日本にも、遅くとも奈良時代には遣唐使らとともに中国の椅子は輸入されています。日本人は舶来品を日本的に改良し、大元のもの以上のものを作り上げる民族ですが、なぜか椅子だけは発達してきませんでした。椅子好きの私にとって、これは謎でした。

他にも、我々日本人の歩き方。欧米人のそれと比べると、明らかにカッコ悪い。それは足の長さとか体型によるものではありません。歩き方そのものです。それはなぜなんでしょうか?

 

こういった疑問に答えてくれたのが本書です。日本人がそのまま海外から輸入したところで、こと身体性に関わることはうまく取り入れることができなかった。頑張れば頑張るほど、みっともなくなる。それは欧米人から見てもそうです。そこで、日本人の身体性をきちんと認識し、それに合った体の使い方や道具を作り、使いこなすべきなのです。

 

とにかく西洋に追いつこうとあくせく頑張ってきた時代には、そんなこともまだ考える余裕はなかったことでしょう。しかし、成熟社会となり、自らの豊かさを再認識すべきときには、あらためてそういった足元を見つめる必要があるのではないでしょうか。もしかしたら、そうすることが真のグローバライゼーションにつながるのかもしれません。

椅子と日本人のからだ (ちくま文庫)
矢田部 英正
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近頃ビジネスパーソン向けの雑誌や書籍で、「教養」が採りあげられることが増えてきました。採りあげはするものの、「今、なぜ」の疑問に答える記述は、あまり目にしたことがありません。そこで、自分なりの考えをまとめてみようと思います。

 

二つの理由があると思います。ひとつはグローバル対応です。つい最近までの日本企業のグローバル化といえば、輸出、工場設立、チャネル開拓といったのでした。しかし、近年はドメスティックと考えられてきた食品業界や消費財企業までもが、積極的に海外進出しています。それらの業界は地域性が高いため、必然的に海外企業のM&Aが増えています。その結果、日本企業の経営幹部層が、海外企業の経営幹部層と深く付き合う必要性が飛躍的に高まってきています。

 

そういった場面でのコミュニケーションで求められるのは、言語能力以上にコンテクストの共有です。知識はもちろんのこと、価値観や思考スタイル、ものの見方などが、ある程度共有できなければ、本当の意味でのコミュニケーションは成立せず、信頼関係も表面的になりがちです。

 

ここでいう共有すべきコンテクストの多くが、いわゆる「教養」なのです。宗教や歴史、哲学や論理学、科学、芸術、世界経済、政治などあらゆる知識や思考が含まれるでしょう。それらを基盤として持ったうえで、さらに該当するビジネスに関する専門知識や経験知を駆使して、交渉したり説得したりしなければなりません。旧制高校・大学で学んだ旧世代の日本企業経営者は、そういったベースとしての教養は持っていたそうです。彼らが高度成長を支え、世界における日本のステータスを高めてきたのでしょう。

 

しかし、戦後の教育では、圧倒的に教養面が欠如しているのではないでしょうか。自分自身そう思います。下手をすれば高校時代から文系・理系と専門化され、幅広い視点を身に着ける機会は乏しかった。そのつけが、グローバルでの人間的信頼関係構築を迫られた今、回ってきているのではないでしょうか。

 

次にふたつ目の理由。政治、経済、科学、あらゆる面において世界の不確実性が高まっているからです。一昔前までのように、過去の経験を踏襲すれば間違いないのであれば、教養は必要ありません。それよりも、先輩のやり方や限られた業務知識を確実に知って再現できさえすれば良かったのですから。つまり、既定の「ものの見方」や「判断軸」を堅実に守ればよかった。

 

それが現在は、どうでしょう。大自然も含め千年に一回の「想定外」が頻発しています。確実なことなど、何もなくなってしまったかのように。そうなると、これまでの判断軸では対応できません。あらゆる角度からものごとを捉えて、その意味合いを自分自身の頭で解釈しなければなりません。ひとつの物差しでは通用しない時代に突入したのです。

 

そうなると、できるだけ多くの多面的な判断軸を持つことが、生き延びる可能性を高めることになります。その多面的な判断軸を養う、もっとも有効な知識や手段が「教養」にあるのです。だから、今、教養を人々は求めているのでしょう。

 

話は変わりますが、先日バイオリニストの五嶋みどりさんの演奏会に行っ

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てきました。五嶋さんというと、パガニーニなどのクラッシク音楽を聴いてきたと思われたかもしれませんが、そうではありません。現代音楽だけの演奏会でした。テープから流れるコンピューター音との合奏もありました。彼女は今、現代音楽に注力しているそうです。


彼女ほどのクラッシク奏者がなぜ現代音楽なのか。これは私の推測ですが、演奏のレベルをもうワンランク上げるためには、ただひたすら練習するだけではだめで、それとは異なるものに傾倒することが必要だったのではないでしょうか。彼女は既にアメリカの音楽大学の教壇にも立っていますし、自らの財団を設立して途上国での支援活動も行っています。そういった活動も、視野を広げることで彼女の演奏レベルを高めることに役立ってきたことと思います。そして近年、現代音楽の演奏をも究めることで、さらなる高みを目指しているのではないかと思うのです。

 

自分が得意なことを得意な世界だけで継続することは、安全ですし安心です。しかし、さらなる成長はつかみにくい。そこであえてリスクを取って、異なる世界に飛び出してチャレンジすることで成長を促すことができるの。それができるかどうかが、人間にとって大きな分水嶺だと思います。


そういうリスクを取ってチャレンジする精神も、実は広い「教養」によって獲得されるのではないでしょうか。教養は、様々な観点で「世界」の成り立ちを理解するのに役立ちます。だからこそ、既存のひとつの考え方に凝り固まらずに、しなやかに判断し未知のリスクも取ることができる。芸術家もビジネスパーソンも、成長のために教養は不可欠なのです。

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