ヒトの能力: 2009年7月アーカイブ

十数年前、社会人向け教育にたずさわるようになって、盛んに耳にするにもかかわらず、いまいち理解できなかった言葉が「気づき」でした。

 

気づきは、英語に訳すと何なんだろうと、ずっと疑問でした。Noticeではないでしょう。先日、ある方からDiscoveryではないかと教えていただきました。

 

「発見」のニュアンス、なるほどと思いました。この場合、発見する先は外ではなく内面です。内面に本来あった何かを、あるきっかけで自ら発見するわけです。大事なのは、他者から指摘されて気づく(notice)ことではなく、あくまで自分自身で発見することです。

 

子供に対して、気づきという言葉があまり使われないのは、子供はまだ内面に発見すべき何かを、あまり持っていないからかもしれません。

 

一方、経験を積んだ社会人は、内面に多くの知識や経験の引き出しを持っています。何かのきっかで、そのうちのいくつかと外部からもたらされた新たな知識がくっついて、「なるほど!」となるのでしょう。

 

 

「なるほど」も面白い言葉です。将棋で、歩が金に「成る」といいますが、昔から持っていたそれほど役に立たない知識が、外部刺激や新たな知識との結合によって、「歩」から「金」になるプロセスが「成程」なのかもしれません。

 

そう考えると、適切な「気づき」をたくさん得るには、

        できるだけ経験に基づく多くの知識を保有する(記憶していなくても)

        できるだけ多くの外部刺激に接する

        先入観にこだわらず、一見関係なさそうに見えるものともの(こととこと)に、関連性を見つけたがる

 

といったことが必要そうです。

 

つまり、思いこみを廃し、柔らかい感性で、好奇心を持ち続けるということでしょうか。

 

 

ビジネスパーソンを対象とする企業研修で目指すのは、気づきの機会を提供することです。知識の提供ではありません。受講者の「気づきのメカニズム」を起動させることが、良い研修と言えそうです。

 

ただ、気づきは、研修の場で得られることはまれで、何か変な「ひっかかり」のようなものを持ち帰ることが一般的かもしれません。

 

それが発言としては、「なんか考えさせられた・・・。」と表現されます。「ひっかかり」が「気づき」となり、「成程」になるのは、やはり現場においてでしょう。

 

それを前提に、研修の企画は考えられるべきだと思います。

最近、「集合知」という言葉をよく耳にします。多くの人々の持っている「知」を集合して、価値をうみだしていくことを表しているのだと思います。2005年頃のWeb2.0ブームあたりから、とみに露出が増えたようです。SNSなど人をつなぐシステムの普及が拍車をかけました。

 

ヒトをつなげば「知」がうまれると、ナイーブに考えるのは無理があるでしょう。

 

 

「賢い人」は、情報や知識、経験が豊富なことは間違いありませんが、それは必要条件にしかすぎません。「物識り」は世の中にたくさんいますが、その多くは、単なる物識りにとどまっています。

 

賢い人は、保有している豊富な情報群のなかから、適切なものをいくつか瞬時に引っ張りだし、それらを組み合わせてアウトプットします。組み合わせパターンや、アウトプットの表現も、その「場」に合わせることが巧みです。

 

これは、一人の脳の中で起きている作用で、それを複数の脳で行うことが「集合知」なのだと思います。その実現のためには、適切な「場」とともに、一人一人がそれに対応できる「フォーマット」を身につける必要があります。

 

 

異業種勉強会やパーティーなどに参加することは、集合知実現のきっかけになりえるでしょう。しかし、そこでうまく立ち回れる人とそうでない人がいますが、その差は何なんでしょうか。社交性といった、単純なことではなさそうです。

 

システム開発の世界に、「Self-describing Digital Object」という考え方があるそうです。

 

        Self-describing:この人は「ナニモノ」か、が一目瞭然。他者が関心を抱く何か、を持っていることが伝わりやすい。かつては、所属企業名の入った名刺が、そのためのツールだったが、現在ならブログや著作か?

        Digital:他者とのインターフェースを持っている。コミュニケーションスキルや合理的思考、マナー、礼儀、場の空気を読むこと、豊富な話題など、ひとことで言えば共通言語、共通思考ツールを持っている。また、多少使用言語が異なっても、それを的確に変換(翻訳)できる

        Object:アウトプット志向で、常にいくつかの目的をもって人々と接する

 

こういう基本フォーマットを備えた多様な個が、適切な「場」に集合すると、集合知が生まれやすいのだと考えます。

 

 

言うは易しで、なかなかそうはできませんが。

麻生総理は昨日、与党内の総選挙時期をできるだけ先延ばししたい勢力と折り合いをつけて、総選挙を8/20に実施することを決定した、と新聞にあります。

麻生首相.jpg 

ここでの「折り合いをつける」の意味は、妥協するというほどの意味でしょう。

 

私は、近頃「折り合い」をつけるという言葉が気になっていましたので、その記事を読んだ瞬間、そんな使い方はよしてほしいと思ったのです。

 

 

大切な人を亡くしたとき、あるいは大切な何かを失くしたとき、人は茫然とし混乱し、平衡を保てなくなります。二度と太陽は登らないと思うかもしれません。

 

ましてや、自分をそんな状況に追い込んだ者が存在する場合、その「犯人」を憎まざるをえません。しかし、憎悪の先にあるものは憎悪でしかなく、平安ではありません。それが頭ではわかっていても、そうしてしまう。

 

そういった状況で、その犯人を「許す」ことは、簡単なことではありません。でも、許すことは、相手のためでなく、自分のためです。実は、なんとか許したいのです。

 

責める対象、言いかえれば許す対象がいる場合は、まだいいかもしれません。それがない場合の悲しみや落胆は、どう整理すればいいのか。でも、人間は強い。なんとかします。

 

このような自己の内面のはたらきが、「折り合いをつける」ということではないでしょうか。決して、「諦め」とは違います。より前向きで成熟した心の働きだと思います。

 

 

時間はそれに大きな役割を果たすことは間違いありませんが、それだけではありません。

 

 

以前、何かの本で読んだことがあります。

 

ある若者が問います。「大人になるってどういうことだろう?」

大人が答えます。「大人になるってことは、いろいろなことに折り合いをつけられるようになることだ」

 

大人になることは、簡単ではありません。

これは最近自分の中で気にいっている言葉です。

 

研修の初めに、講師は受講者の自己紹介してもらうことが多いです。自己紹介の言葉の最後に、「今日は多くのことを持ち帰りたいと思います」と締めくくる方がとても多い。この場合の「こと」とは、知識であり情報のことを指しています。

 

意識的なのか無意識なのか、役立つ情報を獲得することを目的しているようです。でも、情報獲得が目的であれば本やウェブを熟読したほうが、はるかに効率的です。

 

せっかく、わざわざ多くの時間をさき、交通費もかけて会場まで足を運んでいるのですから、本では得られないものを目的とすべきでしょう。それは何でしょうか?

 

一つは、エネルギーだと思います。講師や他の受講者たちからもらう、また場そのものからもらうエネルギーです。

 

二つ目は、思考を促す刺激です。講師含め他の方からダイレクトに、「それはどういうこと?」と質問されれば、思考せざるをえません。また、他者の発言を聞くだけでも、「本当にそうか?」と思考が刺激されます。

 

良い本は、文字によって思考を刺激しますが、それには著者の非常に高い力量が求められます。「場」を共有していれば、比較的容易に思考を刺激されます。

 

三つ目は、他者とのネットワーク構築です。同じ目的意識を持ち、時間と空間を共有し、真剣に対話した他者とは、強い絆を結びやすくなります。

 

 

大切なのは、「情報の量より思考の量」です。思考の量を増やせば、場のエネルギーは高まります。また、思考を繰り返し、それをぶつけあうことが絆を強くします。

 

思考の量を増やす方向で、いろいろな場面を見つめ直してみましょう。

 

何度経験しても講演や講師を務める前は緊張します。直前の緊張感は、あまり気持ちの良いものではありません。

 

何度も話したり講師をした内容であっても、です。当たり前ですが、相手(聴衆や受講者)は毎回変わります。また、私自身も毎回、体調や考えなども変わります。まさに、毎回一度切りの真剣勝負です。

 

 

そういえば、高校生の時、ある地理のベテラン先生が、

「お前たちは、教師は同じ授業ノートを使って、同じ内容をレコードのように話すだけで楽だと思っているだろ。そうじゃない。毎年度末、授業ノートは捨てる。そして、新年度はまた新たな授業ノートを作っているんだ。」

と、何かの拍子で授業中に話したことを思い出しました。

 

その時は、へー、無駄なことやっているんだなと思う反面、その先生の矜持のようなものを何となく感じたものです。

 

 

かつて、同じ内容だと、多少安心しリラックスして臨むこともありました。内容はほとんど頭に入っているので、あまり準備もする必要がありません。でも、たいていそういうときは、満足いく講演やクラスにはなりませんでした。

 

「ここまで準備したんだからもうじたばたしても仕方ない」という場合のリラックスと、「これまで何度もうまくいってきたらから心配ない」というリラックスでは、全く質が異なるようです。前者は、緊張感のあるリラックスで、後者は緊張感のないリラックス。

 

 

緊張感のある研ぎ澄まされたリラックス状態をつくる方法は、今のところ毎回ぎりぎりまで真剣に準備することくらいしか思いつきません。稽古、稽古、とにかく稽古だ、という選手や演者の言葉をよく聞きますが、(恐れながら)同じ心境なのでしょうか。

 

 

今思いついたのですが、緊張感のあるリラックスは、座禅をしている時の心理に近いような気がします。

 

 

 

近年、日本人の知的レベルの低下が著しいということは、多くのメディアで取り上げられています。私自身は、あまりそう感じたことはなかったのですが。

 

 

先日、企業研修用ビデオ(DVD)を制作・販売する会社の方と話す機会がありました。この業界に長くいると、顧客企業が望む教材のレベルから、ビジネスパーソンのレベルの低下がよくわかるそうです。

 

そういう教材を購入する企業の裾野が広がり、その結果、レベルを下げてほしいとの要望が増えることも考えられますが、どうもそうでもないようです。

 

まず、家庭で躾けるべき内容を、企業内教育で学ばせたい、躾けたいとの要望が増えたそうです。これは、教育全般のレベルの問題です。

 

また、例えば英語教育でも、これまでであればTOEIC600700点以上を目指すような教材が売れていたが、最近は350点くらいを対象としたニーズが増えているそうです。これも裾野が広がったからではなさそうで、受講者の出身大学などは、あまり変わっていないとのこと。

 

ビデオ教材は、ドラマ仕立ての映像を観させた上で、人事部員などが講師となって、受講者に考えさせ議論させ、その後解説の映像を観せるといった使い方を想定していそうです。ところが、最近は企業から、最初から解説も観させるようなつくりにしてほしいと要望されることが増えたそうです。講師役が、どうその場を仕切っていいかわからないので、単に見せるだけにしたいのではないか、と推測していました。一般社員のみならず、人事部員のレベルも落ちているのでしょうか。あるいは、そこまで手間をかけたくないのでしょうか。

 

 

書店で売れている本といえば、すぐ使えそうなビジネス知識を噛み砕いて丁寧に教えるような本か勉強法、収入を○○○倍増やす法!みたいな本ばかり。

 

ある程度普遍的な知識から、自分の仕事や生き方に役立ちそうな部分を見つけ出し、そんないくつかを組み合わせて内面化していく力が、総じて落ちているのかもしれません。だから、すぐ使える知識やノウハウをひたすら探し続ける。

 

でも、そんな自分にぴったり合った本などあるはずがありません。(だから出版業界は、そこの品揃えを増やそうとするのでしょう)情報が増えれば増えるほど、本当に自分に必要な情報が入手しづらくなる。だから、さらに情報を追い求める。悪循環です。

 

 

ビジネスパーソンの知的レベル低下と氾濫するビジネス書。双方強化しあいながら、我々日本人はどこに向かっているのでしょうか。

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