ヒトの能力: 2009年6月アーカイブ

爆笑問題出演のNHK番組「日本の教養」が面白いです。どこが面白いかというと、毎回異なる学界の権威者に対して太田が、すごく常識的な疑問や突っ込みを入れるところです。大学や学会では、絶対出てこないような意見です。

 

権威者の立ち位置は、それぞれの専門分野にあります。それに対して、太田の立ち位置は、単なる素朴な一個人にしかすぎません。でも、その太田の質問や意見に、権威者がたじたじとなったり、妙に感心したりするのです。普通は、権威者の発言に一個人が感心するはずなのに。

 

逆説的ですが、普通は権威者=教養、なんでしょうが、この番組を観ていると、時に太田が教養を体現しているように感じることがあります。そこが、何とも面白いのです。

 

 

そうなると、教養とは何だ?との疑問がわきます。正解などないのでしょうが、私は「世界を把握し、そこに自分を位置づける力」だと定義しています。

 

来週から、東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」が開催されます。今回の目玉は、名作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」です。

我々は・・・.jpg 

まさに、この言葉です。この疑問に答えるべく学問は発展してきたと言うこともできるでしょう。きたところ、行くところ、それは世界の捉え方を表していると思います。そして、その世界に自分自身がどう関わるのか、それれが「何者」の意味ではないでしょうか。所詮、最後は主観にしかすぎないでしょう。

 

この疑問に、それぞれの角度から切り込んでいったのが、特定の学問分野です。権威者は、ある一場面での権威にしかすぎません。それに対して、太田は主観的な総体として、切り込もうとしているのです。だから、教養を感じるのかもしれません。

 

では、どうすれば教養を身につけることができるのか?

大きなテーマですので、別途考えてみようと思います。

ウェブを活用した学習で、学習効果をもっとも左右する要素は何でしょうか?

 

東大の中原先生に伺ったのですが、画面上のインストラクターがどれだけ美しいか、だそうです。それを裏付ける研究論文もあるらしいです。それじゃあ、教育工学の役割とは何なんだと、嘆いてもおられましたが・・。

 

まあ、それはそれとして、美人やイケメンインストラクターがいなければ、どうしたらいいでしょうか?インタラクティブな機能がない、一方通行型のEラーニングで学習効果を上げることは容易ではありません。

 

視聴者の集中力との勝負です。どんなにためになるコンテンツでも、一人で画面に向かって学習するのに、30分集中させることも難しいそうです。

 

なぜでしょうか?

一方通行型では、「疑問→思考→アウトプット→フィードバックによる内省→次の疑問」のサイクルを回すことができないからではないでしょうか。最近のEラーニング教材では、これに対応するデザインを導入しているものもあるようです。最新のインストラクショナル・デザインの知見を組み込んで。でも、猿の学習実験(クイズに正解するとご褒美)を見ているようで、あまり魅力的ではなさそうです。

 

 

そこで思いついたのが、最近どのTVチャンネルを回しても放送している、複数のタレントが解答を競うクイズ番組です。 クイズ番組.jpg視聴者は、回答者の答えの理由などを聞いて、自分の考えと比較しながら観ているのではないでしょうか。つまり、他者の思考を鏡としながら自分自身も思考をする。そして正解に対しても、他者の回答と自分の回答それぞれを対照して理解する。そんなプロセスに、視聴者は模擬的に自分も番組に参加しているように感じるのではないでしょうか。

(そういう研究があると面白いのですが)

 

 

実際研修でも、自分なりの解答を持った上で、他者の発言や他のグループの発表を聞くと、大いに学習効果はあると感じます。自分が考えもしなかった思考プロセスが、いくつも見えたりするからでしょう。講師が解説するありきたりの解答よりも、ユニークな他受講者の考えに刺激を受けることも多いようです。

 

「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺がありますが、読経だけでなく禅の公案(修行者と師との間の問答)を盗み聞いていたら、小僧もはるかに賢くなることでしょう。

 

こんなクイズ番組スタイルのEラーニング、面白いと思いませんか?

自分の声をテープで聞いたり、写したビデオを見ると、死ぬほどイヤじゃないですか?写真すら見たくないです。たとえ、傍から見てすごくきれいで魅力的な人でも、同じような反応を示しますよね。自分がなんとなく抱いている自分自身のイメージと、ギャップがあるからではないでしょうか。

 

また、お気に入りのレストランで、ある日突然味がおちたり、サービスが悪くなると、もう一切次から行きたくなくなりませんか。冷静に考えれば、おちたとはいえ、まだ他のよく行く店よりは、レベルが高かったりするにもかかわらず。

 

いまだにばたばたしている定額給付金ですが、手に入れるまでにすごく時間がかかって、もう忘れたころに受け取っても、たぶんたいして嬉しくないのではないでしょうか。驚きがなくなれば、もうけものだから散財してしまおうなんて思わなくなる。既にもらって当然のお金なんですから。

 

入社同期よりもわずかボーナスが千円多かっただけで、大喜びした人を知っています。

 

 

このように、ヒトは絶対基準で評価するより、自分が勝手に抱いたイメージと比べて評価する癖があるようです。それとズレているとすごく感動したり、逆に落胆します。

 

逆に言えば、自己イメージつまり期待値をいかにコントロールするかがポイントになってくるわけです。営業、マーケティング、交渉、部下管理、そして学習の場も。期待値のコントロールがうまくいくと、多くの問題は解決しそうな気がします。

 

 

ところで、先日教育系TV番組制作の方に伺ったのですが、90年くらい以降に生まれた人は、自分の映像や声に触れても、全く違和感を覚えないそうです。生まれた時から自分の姿を親に撮影され続けて育ったため、他者に映る自分のイメージと自分自身が抱く自己イメージが一致している(私たち大人は、そのギャップに嫌悪感すらいだく)からではないかとのことでした。だから、写されることも全然平気なんだそうです。ちょっと大げさですが、長い人類の歴史の中で、初めての人類なのかもしれません。このイメージの一致が、自分自身を客観的に見ること(物理的姿ではなくメタ認知のレベルで)にどう関係するのか、興味が湧くところです。

教え手(先生)が情報を伝達するという学習モデルはもう古い。学び手自身が、外部とのインタラクションを通じて知識や知恵を創出しなければだめだ。

 

今や、この考え方は常識になりつつあります。では、どうやって第三者が知恵の創出を促すことができるのでしょうか。「では、考えてみてください」と、問いかけてみたところで、思考が進むでしょうか。

 

学習に関わるものにとって、大きな課題だと思います。そのヒントは、芸能や演劇にあるような気がしています。

 

説明や解説、飾りがいっぱいのTVドラマやバラエティーは、古い情報伝達型学習のイメージです。その時は、面白かったり、ためになったと感じるかもしれませんが、あとに何も残りません。

 

その正反対が能です。友枝昭世さんがこう言っています。

 

「能は、あえて全てを語りません。(中略)どう悲しいとか、どうつらいといった具体的な説明を避け、表現を惜しむことで、作品の世界は舞台の上だけで完結することはなく、観る人ひとりひとりの中でそれぞれの物語が創られていく。」

 

また、演劇や落語における「間」も観客の思考や想像を促します。平田オリザさんは、こう書いています。

 

「間をとるということは、すなわち観客が想像力の翼を広げる時間なのです。(中略)観客の想像力を見積もって、その範囲内で間を取ることが重要です。(中略)『やっぱり、オレもそう思っていたよ』と、あたかも観客が自分で気がついたかのように仕向けるのが、演出の仕事です。そのためには、どうしても、一度観客の脳の中に、無意識の選択肢をいくつも作っておいて、その中の一つを、観客があたかも自分で選んだかのように誘導していかなくてはならないのです。」

 

このように間接的に相手の想像力を覚醒させ、思考を導く技術を教え手は身につけなければなりません。

 

ただ、教える側に立つと、どうしても沈黙が怖くなってしまいます。受講者は、間が長いとは思っていないにも関わらず、講師は我慢できなくなり説明してしまう光景を何度も目にしてきましたし、自分でも味わいました。講師は、先のことも見えているだけに間が短く感じてしまうのです。こうして、想像や思考の機会を奪ってしまうのです。自分では、なかなかわからないものです。

 

 

相手を誘導しないことによって、「場」をコントロールする。これがプロですね。

 

今朝の日経朝刊の「大機小機」に、「レッテル貼りはやめよう」といったコラムがありました。すぐにレッテル貼りをすることは、真の問題解決にはつながらず、却って解決の妨げになってしまうのでやめようという趣旨でした。

 

特に最近は、市場経済信奉者はXYで、Xが主導した政策はすべて間違っていた、という乱暴な議論が横行しているように思えます。かつての自分は市場経済急先鋒だったが今は違う、という自らレッテル貼りをする懺悔録までベストセラーになる始末です。きっと、戦中もこんな感じだったのだと想像できます。

 

では、なぜ我々日本人はレッテルを貼りたがるのでしょうか。

    レッテルを貼ることで、問題解決につながると漠然と思っている

    他者にレッテルを貼ることで、自らの立場(レッテル)を明確に世間に示すことができ、保身できそうと考える

 

前者は、本質的な問題解決をしたがらないということの裏返しに思えます。では、なぜしたがらないか。安易に結論にたどりつくことは、心地よいものですが、論理を詰めて結論までたどりつくことは、結構しんどいことです。なかなかそれに耐えられないのです。

 

しかも、ここに至るまでに、いくつもの誘惑が待っています。

「もう、そのくらいでやめとけよ」

「みんな、冷やかにお前を見ているぞ」

「そんな理屈どおりじゃないぞ、世間は」

「悪いことは言わない。大人になれよ」

 

さらに、たとえ結論にたどりついても、今度は他者にそれを理解させるという、より高いハードルが待っています。最終ゴールは、とてつもなく遠いのです。

 

 

このような難しい局面でも、真実を追求する力が「知的強靭さ」です。

偉大と言われる、経営者(ヤマト運輸の小倉さん、ホンダの本田宗一郎など)や政治家、学者は、すべてこの知的強靭さに秀でていたのだと思います。知性と信念の双方を兼ね備えていた方々です。

ヤマト小倉さん.jpg 

どうすれば、それに近づけるのか。まだまだ先は長いです。

SWOT分析、PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)、3C分析・・・・、これからはいわゆる経営戦略を学ぶに際して、必ず登場する分析ツールです。経営戦略=これらのツールを学ぶこと、としている書籍や講座もあるほどです。

 

神田昌典氏も先週の週刊東洋経済でコメントしていましたが、これらはほとんど20年以上前に提唱されたものです。少なくとも私が20年前にビジネススクールにいた時には、既に定番でした。

 

考えてみればおかしな話です。これだけ経営環境の変化が激しいにもかかわらず、20年以上前のツールが有難く教えられている。それらの有効性がなくなったわけではないとしても、せめてそれらを超える考え方やツールがもっと一般的になってもいいのではないでしょうか。

 

このような現象は、日本においてだけではないかと思います。では、なぜ?

以下は、私の仮説です。

 

複雑な問題を、ある程度誰もが理解できるように概念化し、その解法をパッケージ化し大衆化する。それによって、広く問題解決の手法が流布する。これが、アメリカ企業や経営学界のアプローチです。

 

もちろん、そこでのパッケージ(ツール)は、汎用的なものではなく、状況に応じて活用者がうまく使いわける性格のものです。ツールを知っていることより、使いこなすことに意味がある。当然のことです。

 

しかし、それらが日本にもたらせられると、そうは理解されません。極端に言えば、問題解決の魔法の杖と捉えられるのです。なぜか?

 

日本での学びでは、古来より「型」を重視してきました。型とは、一子相伝で代々伝承される家の秘法のようなものです。伝承される方は、その有効性などに疑問を持ってはいけません。ただ、間違いなく記憶し、有難く使用するのみです。他の選択肢はないのです。また、それに代わるものを見つけようともしません。従っていれば、間違いないのです。それが型です。いわば、それさえ知っていれば間違いない、魔法の杖です。

 

経営ツールを輸入した際に、ツールを型と無意識に解釈したのではないでしょうか。型ですから、それに疑問も持たないで、ただひたすら使い続ける。

 

輸入業者は、魔法の杖とは言わないでしょうが、受け入れる側がそう勝手に期待すること自体は悪いことではありません。そうして、何となく双方で魔法の杖の幻想が膨らんでいく。

 

お気づきのように、これは単に経営戦略の分析ツールやフレームワークだけのことではありません。

 

巷で売れている手軽な経営本や自己啓発本は、ツールをさも型や魔法の杖だとの共同幻想の結果売れているような気がしてなりません。たとえ高価な大工道具を手に入れたからと言って、家が建てられるわけもないのです。

 

何にしろ、本質を学ぶことは難しいものです。

 

 

 

 

 

 

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