ヒトの能力: 2009年10月アーカイブ

現在の世界の最大の特徴は、不確実性ではないでしょうか。あらゆる施策や行動は、不確実性を所与として組み立る必要がありそうです。これは日本においては、ちょっと大げさかもしれませんが、戦国時代以来のことかもしれません。

 

このような時代におけるリーダーのあり方について、一橋大学の野中郁次郎名誉教授が書いておられました。(日経ビジネス09/10/12号)野中さん.jpg

 

■賢慮型リーダーとは

賢慮を備え、絶えず変化する現実に即して仮説の立案と実践による検証を無限に繰り返すプロセスをマネージする。そして、現在よりも良い未来の創出につながるイノベーションを起こす。

 

     賢慮型リーダーに求められる6つの能力

1) 多くの人に受け入れられるコモングラッド(共通善)の達成に結びつくような目的を設定する

2) 知識や知恵を生みだす相互作用を促進する「場」をタイムリーに設ける

3) 変化し続ける現実を凝視し、その背後にある本質を直感的に見抜く洞察力を持つ

4) 直感的に見抜いた本質を概念に転換する

5) 概念を大きな物語に仕立て、それを周囲に語って説得し、実行に移していく政治力を持つ

6) 自分の能力を、実践を通じて組織の中に広げ伝承していく

 

     賢慮型リーダーを育成するには

哲学や歴史、芸術、文学といった幅広い分野の教養を身につけさせる。さらに、限界に挑戦するような修羅場を経験させる。そして、最も重要なのは、手本となる人と体験を共有させること。その立ち振る舞いを体得しつつ、自ら手本を超える職人道の場。そのためには、新しい徒弟制度をつくる必要がある。

 

 

うーん、いずれも深い言葉です。全くもって、納得させられます。ものすごくハードルは高いですが、ひとつ言えることは、日本の伝統に沿ったものだということです。やはり、案外ヒントは身近にあるのかもしれません。

今週月曜から、いよいよNHK教育TVで、「連続人形活劇 新三銃士」が始まりました。脚色の三谷幸喜さんと同様、「新八犬伝」で育った身としては、思わず力が入ります。

 

 

三谷さんは、この作品で訴えたいことは「関わろうとする力」だと述べていました。しかも、あえて「関わる力ではなく」と前置きして。

三谷.jpg 

私が勝手に解釈するに、「関わる力」とは、「関わることを可能とするのに必要な力」という意味でしょう。具体的には、コミュニケーション能力だったり、情報収集・発信力であったり、相手の考えを読む力、質問力などなど、ビジネス書売り場に行けば、いやというほど積まれている本のタイトルのようなものです。

 

もちろん、こういったスキルはあるに越したことはありません。でも、それ以上に大切なものは、「関わろうとする力」だと三谷さんは言っているのでしょう。

 

どれだけスキルを修得しようと、本を読み漁り、自己啓発系セミナーに通ったところで、得られるものはたかが知れています。(逆にあまりに、期待が大きいと、獲得できない自分を責める傾向があるそうです。アエラ先週号の勝間VS香山対談は必読!)

 

そんな表面的なエネルギーの使い方をするより、「関わろうとする力」を呼び覚ますことのほうが、はるかに重要です。そして、関わろうとするプロセスの中から、否応なく「関わる力」が付いてくるのだと思います。

 

(以前も書いた気がしますが)「凡庸な教師はただ、しゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は、自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に日を点ける。」と、ウィリアム・アーサー・ワードも言っています。

 

 

子供を対象とする人形劇の脚色家としては、とても素晴らしい視点だと思います。でも、どうやら三谷さんは子供の教育的視点というよりも、大人になりきれず「こもっている」若者(いったい何歳まで??)を見据えての発言のようでした。

 

肉体的にはこもっていないとしても、精神的にはこもっている大人はたくさんいることと思います。もしかしたら、自己啓発本の読者もそうかもしれません。

 

 

目先の損得に振り回されず、「新三銃士」でも観て、「関わることの喜び」を体感しようじゃないですか!

先日の日経「やさしい経済学」で、こんな記載がありました。

 

米国では学歴として経営学修士(MBA)などの大学院卒が非常に高く評価されているが、日本では少なくとも文系についてはそうとは言えない。日本では、大学院卒はより高い生産性を示すシグナルであると雇い主である企業や組織からはあまり考えられておらず、生産性の高い学生たちが必ずしも大学院に進学しない状況が生じている。(学習院大学教授 神戸伸輔)

 

MBAについては、残念ながら確かにその通りだと思いました。つい最近、あるハーバード・ビジネス・スクールMBAの経営者が、若手ビジネスパーソンから質問されました。「これからビジネススクールに行こうかと考えていますが、MBAは日本の企業でどう評価されるのでしょうか?」

 

回答はこうでした。「日本企業では、MBAが仕事ができるなんて幻想は抱かない。ただ、リスクを取って自分に投資するガッツは評価するかもしれない。」

 

 

このような事例から、MBA(日本・海外問わず)のイメージと実態が乖離している事象が浮かび上がります。

 

個人には根づよいMBA願望があるようです。それは、「MBA=企業から評価される」とのイメージがあるからでしょう。高い留学費用を回収するには、収入が大幅に上がることが前提となります。それを期待しているのです。また同時に、MBAが職業の選択肢を広げると期待しています。

 

かつて、その期待も一部満たされていました。日本に進出した外資系企業が、優秀な日本人社員を確保するために、相対的に高額給与で大量の中途採用をしたからです。そこに、日本人MBAホルダーが吸収されたのです。

 

では、なぜ外資系企業は、あえてMBAホルダーを選んだのか。生産性が高いと判断したのか。もちろん英語力もありますが、MBA以外になかなか優秀な日本人社員を採用できなかったからのようです。ある意味消去法だったのかもしれません。ある外資系企業人事部長がこう言っていました。「MBAホルダーが欲しいんじゃない。優秀な日本人が欲しいんだ」

 

 

さて、今はどうか。受け皿となっていた外資系企業の多くは、人員削減や日本からの撤退を行っています。イメージを支えてきた要因の一つがなくなりつつあるのです。世界経済における日本市場の影響力を考えれば、その傾向は強まりこそすれ弱まることはないでしょう。つまり、イメージがはがれ、実態が表出してきています。

 

 

そもそも日本においてMBAは生産性が高いと評価されないのは、日本でのビジネスへの有効性という面で教育内容に問題があるか、日本企業の体質が特殊だからでしょう。

 

個人の側は、費用対効果に見合う大学院(ビジネススクール)かどうか、教育効果を冷静に見極めなければなりません。あるいは、別の選択肢は、MBAが良いシグナル効果を発揮する日本以外で働くか、自ら起業することです。

 

一方、日本企業で働く可能性の高い日本人を多く抱える国内のビジネススクールは、本当に生産性が向上するような教育内容へと改善しなければなりません。そのためには、何をしたらいいのでしょうか?過当競争に陥りつつある中で。

 

もう一つ考えるべきは、日本企業が(既存カリキュラムの)MBAを評価するような体質に変わっていくかどうかです。少なくとも、欧米ではMBAは高い生産性のシグナルとなっているのですから、不可能ではないでしょう。教育内容が変わるか、企業の体質が変わるか、いずれも困難な道には違いないでしょう。

 

 

政府から奨学金をもらって、ドイツに一年間滞在していた友人のアーティストが、任期を終え帰国しました。それで、先日、築地のお寿司屋さん(安くてびっくり!)に友人が集まって、帰国祝いをしました。

 

ところが、一ヶ月弱日本にいて、またドイツに戻るそうです。奨学金はもちろんなくなりますが、アーティストビザを取得でき、もう一年残ることに決めたのです。

 

 

それほど、ドイツの生活や制作環境が良いのだそうです。何が、そんなに日本と違うのでしょうか?

 

「ドイツでは、私はゴミじゃないの。日本ではゴミだったけど。」

 

彼女は、奨学金をもらえるくらい、日本でもある程度成功しています。ゴミなんかじゃありません。

 

「日本では、アート関係者以外の人と親しくなればなるほど、いやな思いをする。だんだん親しくなると、『それで生活できるの?』『いい大人が、好きなことをずっと続けていられて羨ましい。(暗に:世の中そんなに甘くない。いつまでも続かないよ)』みたいに、まるで、悪いことをしているように言われるの。もちろん、本人に悪気はないのはわかる。でも、それって、私にお前はゴミだって言っているのと同じ。」

綿引.jpg 

「ドイツでは違う。アーティストに対して、なんだか敬意みたいなものを感じる。だから、日本と違って、いろんなことがスムーズなの。私は、ここではゴミじゃないから。」

 

確かに、彼女は一年前より生き生きしているように感じました。のびのびと創作活動に集中出来ているのでしょう。それを見ると、どんな障害があっても、ドイツ滞在を延長するのは、当然に思えました。

 

でも、日本人の一人として考えさせられました。こうして、有能な日本人が一人日本から離れていく。

 

彼女が言うように、みんな悪気はないんです。親身に心配しているのです。なぜ、こうなってしまうのでしょうか。

 

私たちはどうしても、無意識に区別して判断してしまう習性があるようです。そして、自分とは違うと判断すると、自分を守るために無意識に修正を迫るか、排除に向かう。

 

 

よく、「多様性を受け入れよう」というスローガンを耳にします。でも、「受け入れる」という行為は、具体的にどういうことなのでしょうか?

 

私は、まず「判断を留保する」ことではないかと思います。でも、それはなかなか簡単ではありません。判断をするのではなく、相手の言動の背景にあるものを推測する。そうすると、何となく相手が理解できるような気がします。

 

 

世の中、「論理的思考力を高め、合理的に判断をできるようにしよう!」という風潮があります。でも、あえて判断を留保することを学ぶことも重要なのではないでしょうか。

 

 

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