ヒトの能力: 2011年6月アーカイブ

人材育成の場面でも「守破離」という言葉がしばしば出てきます。型を体に覚え込ませる「守」と、そこに独自色を加える「破」、そして自分だけの世界を築きあげる「離」です。いま、新ためてこの守破離の意味を再確認したほうがいいと思います。

 

「オンリーワン」や「個性重視」などの言葉に踊らされて、若手に型を刷り込む前に、「破」や「離」の機会を与えようとする傾向があるのではないでしょうか。そうすることが若手の「モチベーション」を高めるからと説明します。確かに先のことなどわからない若手のモチベーションは一時的には高まるでしょう。しかし、そんなモチベーションは長く続くものではありません。だとしたら、また次なるエサを与えるのでしょうか。

 

そういう風潮の背景には、数年前までの採用競争があったのかもしれませんが、一番大きいのは若手を育成する立場の上司や先輩が、そもそも自分たちが培ってきた型に自信を持てなくなっているからではないでしょうか。

 

確かに自分たちが育てられた頃と、環境は大きく変わっていることでしょう。しかし、変わらないものもあるはずです。その峻別がうまくできないのかもしれません。長く伝えられてきた型には、必ず継続されてきただけの理由があります。その本質を理解しないまま、表面的な形だけを主張しても部下には伝わりません。

 

逆に本質となる核さえ押さえていれば、多少形がゆがんでいても問題ありません。環境に合わせるだけの柔軟さが必要なのです。そして、さらにその上で新しい時代のエッセンスをくわえていけばいいのです。

 

 

300年以上の歴史を持つ老舗は、決して過去の形を継続することに腐心しているわけではありません。かえって、時代に合わせて柔軟に変身を遂げています。しかし、型すなわち核は徹底的に守り続けています。例えば、京都という都市そのものがそうです。

 

本質は何なのかを追求しつづける愚直さや、自信を持って型を伝える姿勢が、今あらためて重要性を増してきている気がします。

日本が近代化、あるいは西洋化するにしたがって個人のアイデンティティが必要になってきました。それ以前は、個人という概念はなく、●●村のXXさんの三男坊で、こと足りたのです。職業も人生の過ごし方も、生まれた時点でほぼ決まっていました。そこに「個人」はありません。アイデンティティとは、『自分が自分自身に語って聞かせる物語』と精神分析医のR・Dレインはいいました。そんなもの不要だったのです。

 

しかし、その後世の中は変わり、自分の人生は生まれにこだわらず自分で決められるようになりました。自由です。しかし、自由と責任はセットですから、さまざまな苦労が新たに加わりました。当たり前です。すべて自分で決めなければならないのです。でもこれは、人によっては苦痛です。他人や世間に決めてもらったほうが楽だからです。それまでは、親や部落の長の一存にしたがってさえいればよかったのですから。ここから近代人の苦悩が始まります。必然的に「私は何ものか?」「なんのために生きているんだ?」という疑問に立ち向かわなければならなくなりました。これはつらい。

 

そこで、昭和初期にはそこに天皇という軸が設定されました。それですべてが決まります。楽と言えば楽です。そして、戦後は天皇の代わりを見つけなければなりませんでした。そこに現れたのが「会社」という概念です。疑似コミュニティーである会社は、前近代の「部落」の代替物となりました。そこでは、難しいアイデンティティは不要でした。「XX会社の課長です」で、ほぼすべて通じます。個人はやはり不要でした。

 

しかし、時代は再びめぐり「グローバリズム」というものにさらされ、「会社」コミュニティーが崩壊を始めます。一生面倒をみてくれると思っていたのに、そうじゃないと急に言われたのですから。そりゃ、慌てます。それがバブル崩壊後に起きたことです。「会社員」は一斉に不安に陥りました。何を信じればいいのか?自分はいったい何だったんだ?と、やはりアイデンティティを探さなければならなくなったのです。その隙間には様々なものが入りこみました。古くはオウム真理教をはじめとした新興宗教、おカネ、資格、MBA、オタク、怪しげな自己啓発セミナーなどです。もちろんそれぞれに意味はあるものばかりですが、あいまいな不安が支えていることは事実です。

 

そして東日本大震災を経た現在。被災者は、これから新たなアイデンティティを見つける長い旅に出ることになるでしょう。これまで培ってきたアイデンティティは否定され、現状を受け入れる「物語」を紡ぐ必要があります。これはつらい作業です。

 

また被災者だけに限りません。例えば、東京電力をはじめとした電力会社社員は、程度は違うかもしれませんが、同じようなアイデンティティ・クライシスに陥ることが予想されます。

 

さらには、効率至上主義、株主至上主義を標榜してきたグローバル企業は、経営スタイルの修正に迫られるでしょう。それは社員の意識の修正をも強いるはずです。やっと見つけたグローバル競争の申し子というアイデンティティの否定を迫られるかもしれません。彼らも被災者と同じように、自分の「物語」を語り直すことが必要なのです。

 

新し物語を紡ぐのに必要なのは、過去と折り合いをつける勇気と自分を客観視して未来に広がった物語を構想する想像力ではないでしょうか。自分の物語を想像できる人は、他者の痛みも想像できるはずです。

セコム創業者の飯田亮さんが日経ビジネス6/6号で、率直に語っています。

震災後の危機対応がいかに迅速だったかといった企業記事は多いですが、トップ直々にダメだったと認めることはとても珍しい。そこに飯田さんの大きさを感じます。飯田さんは、失敗の原因を想像力の欠如に求めています。長いですが引用します。

 

 

世の中、想定外という言葉は使ってはいけないんですよ。そうすると、免罪符をもらったように、何もかもが終わりになっちゃう。

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経営というのは、想定外をつぶしていく作業です。「そこまでやってできなきゃ仕方ない」と淡白に考えるか、想定外をつぶすためにエネルギーを注ぎ込むか、それが企業の成否を分ける。

 

その時に必要なのは想像力だよね。今回の震災をみていても社会全体が想像力を失っているように見える。(中略)

 

私はね、想像力というのは思考の粘着性から生まれると考えているんですよ。あきらめずに考え抜く。その粘着性が想定外の領域をつぶし、新しいビジネスを生み出していくわけでね。日々の仕事に流されている時には想像力は必要ないんですよ。

 

 

知的強靭さは、成功するビジネスパーソンに共通する資質だと認識していました。徹底的に考え抜くことができなければ、自信を持って意思決定できません。「できる人」は、そういうしつこさを持っています。それができれば、最後の最後は神に委ねることができ、冷静でいられます。

 

飯田さんは知的強靭さとほぼ同じ意味あいで思考の粘着性という言葉を使っていると思いますが、想像力もその成果だという着眼は新鮮でした。想像は偶然やひょんなきっかけでできるものではなく、粘着の結果できるものなのです。

 

 

さらに、「妄想」と「想像」は異なる、そこを共通認識として持つべきです。20mを超える津波を妄想するのではなく、想像するのです。

 

「妄想」とは、そのひとことで斬って捨てるために使われます。なぜ斬って捨てられるのか、それは「常識」に反するからでしょう。では「常識」とは何か?それは「多くの人々に信じられている考え」といえます。では、なぜ「多く人々に信じられている考え」に従うのか。それは責任回避の気持ちが少なからずあるからではないでしょうか。判断を「多くの人々」という他者に委ねることで、失敗しても自分の判断力のせいではないと責任を回避できるからです。

 

いうまでもありませんが、リーダーといわれるような人は、安易に常識で判断し、他者に判断を委ねてはいけません。そんなことをしても、リーダーの責任からは逃れられません。なぜなら、リーダーは結果がすべてだからです。つまり、リーダーに(好ましくない事態に対する)妄想という言葉はあってはならず、想像を膨らませる義務があるのです。もし、間違ったら仲間を死に追いやることにもなるのですから。リーダーの覚悟とはそういうものです。

 

 

「想定外」という言葉は、そういったリーダーの責任を回避するためのものだったのです。飯田さんに、そう教えられました。震災以来、想定外という言葉になんとも言えない気持ち悪さを感じていたのは、そういうことだったのだとわかりました。

イチロー選手が打席に入るとき、毎回必ず同じ独特の運動をしますね。あれがルーティンです。それをすることで、打席に集中することができるように見えます。

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ルーティンと集中はどのような関係があるのでしょうか?ルーティンとは考えなくても自然にできる動きです。「考えなく」というよりも「考えない」ことが集中に効く気がします。あえて考えないために、身体を作動させるとも考えられます。

 

昔からひらめきは三上でうまれるといいます。枕上、厠上、馬上です。枕の上はリラックスと睡眠によって頭が整理されることによるのでしょう。トイレは、狭い密室空間がいいのか、・・よくわかりません。馬の上は、現代なら自動車を運転しているときでしょう。私も、運転中はいいアイデアがうかびやすい気がします。あと、散歩中。

 

運転中に考え事をしては危ないと怒られそうですが、運転に必要な注意力は無意識に発揮しています。それは確信があります。ただ、あとで思いだせないだけです。こういう、ある意味思考の自由が制約を受けている状態のときに、よいアイデアが浮かぶのです。

 

逆に、頭も体も余裕があり「さあじっくり考えろ」というときはダメです。不思議です。

 

私の仮説なのですが、そういう余裕のある時はいろいろ複数の別のことをコマ切れに考える、言い方を変える

と、少し考えてはまたすぐ別のことを考えることを繰り返すような気がする、ようは集中してないのです。思考のキャパに余裕があると、ついそんな頭の使い方をしてしまう。でも、聖徳太子でもあるまいし、同時に多くの思考はできない。だから、だめです。

 

ところが、運転したり乗馬したりして一定量の注意力を使用していると、思考のキャパが小さくなるので、そもそも複数のことを考えようとはしなくなる。したがって、ある一点に思考力を集中させることが容易にできる。だから、よいアイデアが浮かぶのではないでしょうか。私は靴磨きをしているときも、運転中と同じようか感覚があります。身体と思考は、こんな風に連結しているのかもしれません。

 

さて、イチロー選手に話を戻すと、彼のルーティン運動も打席に集中し思考を活発にする上では、同じような作用を果たしているのかもしれません。そして、それが次

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の身体動作の呼び水となる。私の運転や靴磨きとイチロー選手の運動を同じレベルで語るのは非常に僭越ではありますが、そんな感じがしています。

 

身体と思考の関係、なかなか深いテーマだと思います。

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