ヒトの能力: 2009年5月アーカイブ

「ほとんどビョーキ」で一世を風靡(?)した山本晋也監督が、こんなことを書いていました。(うろ覚えですが)

山本晋也監督.jpg 

中学生くらいの頃、映画にはまった。周りの大人達は映画=不良と思って顔をしかめた。そんな中で自分が大きな影響を受けた祖母は、こう自分に言った。

「映画を観ることは品行の悪い行いだが、品性を高めることにはなるかもしれない」

 

この言葉が監督の人生を変えたそうです。

 

品行とは、その時代の常識的行動基準に合うか合わないかではないでしょうか。だから時代によって変わるものです。

 

 

80年代、私も「トゥナイト」での監督のレポートを楽しみにしていました。当時を知る男性はご存じと思いますが、そこではまさに日本における「風俗」の進化を感ずることができました。ロマンポルノを撮っていた監督ですから、そのルポは楽しくかつ鋭いものでした。でも、なぜか「下品ないやらしさ」や「じめじめした暗さ」はあまり感じませんでした。それは、監督の品性にあったのだと、先の記事を読んで思い至ったわけです。

 

 

品行は時代によって変わっても、品性はいつの時代にもひとつのあるべき基準のようなものがあるように思います。つまり、普遍的なのではないでしょうか。

 

 

そういえば、小津安二郎監督は、

「品行は直るが、品性は直らない」と言っていたそうです。

 

品性は、長い時間をかけて蓄積され、形成されるものなのでしょう。一夜漬けではどうにもなりません。いやはや、どうしたものでしょうか・・・・。

ヒトが必要とする新しい情報や知識を外部や内部から得て、修得することを学習と呼ぶならば、学習のゴールは修得することです。

 

では、修得とはどうなることでしょうか?分かりやすいのは、「使える」ようになることでしょう。では、どうすれば、使えるようになるか。

 

学習を初歩段階から順に並べていくと、以下のように進展していくと考えます。

 

1)(知識を)記憶した -暗記

2)納得し、記憶した -納得

3)長期的に記憶が維持された -強化された暗記

4)忘れてしまっても、自分で創りだせる -使える!

 

いわゆる受験勉強は「暗記」で、関心の薄い科目の知識は、ほとんど残っていませんね。でも、納得感や美しさを感じた知識は、暗記にそれほど苦労しなかったと思います。でも、数年も経てば忘れてしまいます。

 

長く記憶されているのは、知識を与えられたのではなく、自分で見つけ出した場合ではないでしょうか。小学校4年生くらいの頃、理科の授業では年度の最初に教科書が配られると同時に、先生に回収されてしまいました。学年末まで、手本にはありません。授業は、先生との対話で進められたように思います。

 

ある時、唾液にある液体を落とすと赤紫色にそまる実験をしました。子供心に、色が変わるのに感銘を受けました。生徒はみな、その澱粉に反応する液体の名前を知りたくなったのですが、先生は教えてくれません。「これは、とても大切な液体だ。先生に教わるのでなく、自分たちで調べなさい。」といい、あとは自由時間にしたのだと思います。私たちは、図書館で必死に探したのだと思います。子供向けの参考書などなく、難しい百科事典などにあったのでしょう。

 

結局、子供たちが独力で、その液体の名前を探り当てました。その「ヨウ素液」という名称は、今でも忘れません。

 

その後、一度もヨウ素液を見たことはありませんので、それほど重要だったかどうかは疑問ですが、私に「自分で見つけたものは忘れない」という教訓を残してくれたように思います。

 

さらに、見つけ出すだけでなく、自分で創りだすことで、さらに「使える」レベルが上がります。たとえば、標準偏差の公式は中学で習うでしょう。でも、単に記憶しただけでは、すぐ忘れてしまうのではないでしょうか。

 

なぜ、標準偏差という指標が必要で、それはどういう考え方で生まれたのか、そのプロセスを自分自身でたどっていけば、決して忘れません。いや、忘れても自分で組み立てられるので、「使える」のです。

 

ここまで来て、初めて学習したと言えるのではないでしょうか。知識を単に記憶するだけであれば、本で十分です。受け身ではない、主体的活動を組み込んだ学習を設計することがますます、重要になっています。

評価と決定は一体のものだと思っている方は多いのではないでしょうか。評価するから決定できる。決定するには評価が必要だ。それはそうでしょう。でも、評価と決定との間には、大きな大きな溝があります。

 

 

骨董の目利きになるためには、本物をどれだけ観たかはとても重要です。でも、ただ観ただけでは、本当の眼は養われないと言います。では、どうすべきか。

 

身銭を切って、なけなしのお金を清水の舞台から飛び降りるつもりで、自分が本当に欲しいと思う骨董を買うことです。それも、青山二郎.jpgできるだけたくさん。もちろん、まがい物を掴まされることもあるでしょう。しかし、そういう傷が多ければ多いほど眼が鍛えられるのだそうです。

 

私の数少ない経験でも、何となくそれを感じます。単に、観ているだけの時と、買うつもりで観るときでは、本気さが違うのです。理屈ではありません。当然、学習効果も全く異なります。

 

 

自分は安全地帯にいて、評価するだけ、批評するだけなら簡単です。でも、自分がリスクを背負って「買う」という意思決定をすることは、全く次元の異なる世界に踏み出すことなのです。

 

 

これは、骨董の世界に限るものではないでしょう。私は、評価だけでなく、リスクを取って決定した人に敬意を払いたいと思います。成功、失敗はそれほど重要ではありません。人として付き合いたいか、学びたいと思うか、を決めている基準も、そんなところにあるような気がします。

 

他人はともかく、そもそも自分自身が決定し行動できる人間でありたいと切に思っています。

初めて時間価値を財務理論で学んだときは、結構感動しました。そうか、確かに明日もらう一万円より、今もらう9,500円のほうがありがたいかもしれない。

こういう合理的な思考は、さすがだなと感心したものです。

 

バブル崩壊後、日本企業は競って成果主義を輸入し採用しました。お題目はともかく、それによって給与総額を引き下げることを狙ったと思われても仕方ないでしょう。目先のコスト削減が大事で、その後どなるかは深くは考えていなかったようです。このような先のばし体質は、日本企業に特有かもしれません。

 

時間価値すなわち割引率を、日本人は他の国に比べて大きく想定しているのかもしれません。

 

 

4月から始まった高速道路1000円均一サービス。国民は喜んで、それまであまり使わなかった自家用車を引っ張りだし、大した目的もなしに高速道路に繰り出しました。今、割引を受けなければ損だとばかりに。

 

しかし、冷静に考えれば、割引原資は自分たちの税金で賄われており、いずれそのしわ寄せが自分たちを襲うであろうことは明らかです。

 

一方政府も、目先の景気対策最重視で、将来の借金も、地球環境への悪影響もすっかり忘れて大盤振る舞いです。つまり、国民も政府も目先が大事なのです。いいかえれば、「将来のことはわからない、今を楽しもう」ということです。

 

 

日本企業は、長期的視野で経営すると評価されることもあります。一見、それと高い割引率は矛盾しているようですが、私はそうは思いません。例えば、長期的取引慣行が、その代表として示されることがあります。多少高くても、古い付き合いで安心できるところからしか買わないとういやつですね。

 

購買担当者が、最も重視するのは下方リスクです。大きな成功かつ大きな失敗の可能性のある選択肢と、小さな成功かつ小さな失敗の可能性のある選択肢であれば、間違いなく後者を選びます。前者は、会社の将来に大きな貢献をする可能性を秘めているかもしれないにもかかわらずです。それより、今失敗することを極端に恐れるのです。つまり、将来よりも現在を重視しているのです。ただ、それが低リスクの安定的経営を可能としているともいえるでしょう。

 

終身雇用はどうでしょうか。これも長期的経営の代表とされていましたが、優秀な社員をできるだけ早い時期に囲い込むための業界ぐるみの仕組みということもできるでしょう。将来確保できるかどうかわからないので、新卒一括採用で確保(青田買いもあり)し、あとはゆっくり育てる。10年経って、実は優秀ではなかったと判明しても、退職はさせません。そんなことをすれば、新卒採用が困難になりますから。そうなると必然的に会社が急成長しない限り、中途採用はできません。

 

このような日本企業の行動は、目先のキャッシュより長期的継続的な利益を重視しているように見えます。その意味では長期志向と言えるかもしれません。

 

ただ、決して長期的ビジョンに基づいて戦略的行動を取っているというわけではなく、仲間うちの目先の局地戦(当然現在重視)の結果、幸いそうなっているに過ぎないのかもしれません。

 

 

奈良時代に編纂された、大衆歌を集めた「東歌」を分析した加藤周一は、こう書いています。

 

「時間の概念についてみれば、地方の大衆の世界はすぐれて『現在』の世界であった。(中略)唯一の現実は、今・此処において、直接に感覚的にあたえられ、実際の行動の対象としてあらわれるところの、他人および身近な自然から成る日常的世界であった」(「日本文学史序説」より)

 

 

時間の概念は、非常に抽象的なものです。古代から日本人は抽象的概念が得意ではありませんでした。それは、現在の企業行動にも正しく継承されているように思えてなりません。

 

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)
加藤 周一
4480084878

3/27にご紹介した(http://www.adat-inc.com/fukublog/2009/03/cafe.html)「caféから時代は創られる」を、ゴールデンウィーク中にやっと読了しました。

 

4434122746 caf´eから時代は創られる
飯田 美樹
いなほ書房 2008-09

by G-Tools

 

本を読む前に、著者から内容をお聴きしたという珍しいケースでしたが、いやはや、やはり本は自分の力でしっかり読まないとだめですね。全然、本質を理解していなかったことがわかりました。それだけ、刺激に満ちた素晴しい本でした。

 

いろいろ刺激を受けたのですが、今日は中で述べられている「偶発力」について書いてみたいと思います。

 

 

Caféにただ通えばいいのではなく、そこでの偶然の予期せぬ出会いを楽しみ、そのチャンスを自分のものにしていく力を、本書では「偶発力」と呼んでいます。

 

偶発力を活かした出会いを、さらに創造に結び付けるには、「着想力」が必要でしょう。私はそれを、「ある事実から知識や着想を得て、意味のある形で別の事実や知識と結びつけることにより、行動を促す新たなアイデア/知識を創出」する能力と定義しました。(「人材開発マネジメントブック」P73

 

 

本書では、ピエール・ルヴェルディの以下の言葉で、着想力の重要性を紹介しています。

 

「イメージは精神の純粋な創造物である。それは、比較から生まれえず、多少とも隔たった二個の実在の接近から生まれる。近づけられた二つの実在の関係がかけ離れ、しかも適切であればあるほど、そのイメージはいっそう強烈で、いっそう感動と詩的現実性をおびるだろう。」(ここでの「接近」は、着想とほぼ同じ意味だと思います。私が言いたかったことは、こういうことでした。)

 

 

このような、偶発力や着想力(本書では、着想力という言葉は使われていませんが)を可能にするのは、何でしょうか。

 

野中郁次郎さんの言葉を引用しながら、

「出会いがあっても、それをどうつかみ、どう生かすかという偶発力がなければ創造にまで導かれるわけではないということである。ところで、偶発力をつけるためには、『小さなことでも見逃さない直感、それに偶然に起こる現象に心を開いて受け入れること』が大切である。」

 

と著者は述べています。それを促す「場」が重要であり、それがcaféなのです。これも同感です。

 

 

私は人材開発の文脈で着想力について考え、本書の著者の飯田さんはcaféという「場」(その構造も含んだ)の文脈で偶発力を考えたのです。

 

同じ山を別のルートで登っていたのが、ある時ばったり出会った、そんな楽しさと興奮を、本書を読んで味わったのでした。

 

飯田さん、ありがとうございました!

哲学者の鶴見俊輔さんが、ETV特集で非常に含蓄のあることをおっしゃっていました。うろ覚えですが、以下のような言葉です。

鶴見俊輔.jpg 

「ハーバード大学在学中(注:16歳で入学、19歳で卒業!)、大学にヘレンケラーが来訪され、こんなことを言われた。『私は大学で多くのことを学びましたが、社会に出て全てunlearnしました。あなたもunlearnしなければなりませんよ。』unlearnという言葉を初めて聞き、最初意味がわからなかったが、だんだんわかってきた。単純に学んだことを忘れるということではない。学んだ知識を、いったんその厳密性から解き放ち、日常で使える知恵に変えるということなんだね。つまり『学びほぐす』ことだ。」

 

私もunlearnという言葉は知っていましたが、そこまで理解していませんでした。合理的で普遍的であっても、それは学問的厳密性の世界でのみ価値があることで、実践の世界では通用しないことが普通です。だからといって、それを否定すればいいというものでもないでしょう。理論を実践に適用できるように学びほぐすことが、現実の世界では必要なのです。

 

その後の鶴見さんの学問及び社会活動は、まさに学びほぐしから生まれた活動だったように感じます。

 

学びが学びほぐしになっていくには、以下のようなプロセスを経るように思います。

    知識として理解する

    他人に説明できる

    実践活動に適用できる

    自分の経験を通じて解釈し直す

    自分の経験に基づく言葉で語ることができる

 

自分の言葉になっているか、すなわち血肉化しているかどうかが大切なのだと思います。

 

そして、学びほぐしに終わりはなく、人間が経験を積み重ねるにつれて異なる『ほぐし』がなされることでしょう。当然、人が違えば、異なる『ほぐし』がなされます。そういった、いくつもの学びほぐしが交差、つまり対話されることにより、さらに進化するとともに共有知になっていくのではないでしょうか。

 

学びほぐしの技術、それは「Learning engineering」と呼べるような領域なのかもしれません。面白そうですね。

 

 

 

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