ヒトの能力: 2016年1月アーカイブ

文脈力と物語り

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年末年始に読んだ「史上最大の決断」(野中郁次郎、荻野進介著)は二つの意味で面白かった。ひとつは、米英がいかに戦略的に戦争を進めていたかがわかったこと、もう一つは将軍らのリーダーシップスタイルがさまざまであり、ノルマンディー上陸作戦においては、アイゼンハワーのそれがベストフィットしていたことが分かったことです。

 

後者に関連して、書いてみます。

 

リーダーにとっての判断基準とは、究極的には自らの信念しかありません。そして、信念を形成するには、歴史的構想力文脈力が欠かせません。チャーチルは類まれな歴史的構想力を、アイゼンハワーは、類まれな文脈力を身につけていたそうです。文脈力とは、文脈の察知、変換、創造に関わる知の作法。

 

見えないものを見、一見関係なさそうなもの同士の間に道筋をつけるパターン認識の文脈力こそが、あらゆる職業に必要な至高の能力だと、著者は強調します。そして、物語の関係性に対する洞察を深めるのはリベラルアーツの知識です。

 

文脈力とは、例えていえば夜空にきらめく星々から、星座を想像する力に近いかもしれません。星と星を結び付けて物語をつくる力。

 

スティーブ・ジョブズも似たようなことを語っています。彼の有名なスタンフォード大学でのスピーチ。

 

彼は、大学を中退し気儘にいろんな大学の興味ありそうな講義に潜り込んでいました。リーズ大学もそのひとつ。ちょっと長いが引用します。

 

リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。

 もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。

 

ジョブズも、過去の一見無関係な星々を、無意識に結び付けて自らの物語を綴ってきたのでしょう。意図を持って文脈をつくったアイゼンハワーと、結果的に振返ってみれば文脈を作ってきたジョブズ、立ち位置は異なりますが、卓越した文脈力を持つということでは共通だと思います。

 

これまで「物語(ものがたり)」という言葉を使ってきましたが、言いたいのは名詞の「物語」(story)ではなく、動詞の「物語り」(narrative)です。名詞の「物語」は、始めと終わりを持つ構造体です。(「あるとき、お爺さんとお婆さんが山に洗濯にいきました」で始まるような「お話」)一方、動詞の「物語り」は、そのプロセスを関係付けて統一的な意味をつくる言語行為だそうです。(例えば、太平洋戦争で日本は、「八紘一宇」や「アジアの解放」などと物語り、侵略戦争を進めたわけです)

 

つまり、歴史とは客観的事実ではなく、未来を創るための「物語り」だともいえます。リーダーは、そういった未来を物語る力なしに、複雑で不確実で正解のない状況で、意思決定できるだけの信念を持てるでしょうか。逆にいえば、ものがたられる未来像によって支えられた固い信念を持つリーダーに、人々は付いていくのではないでしょうか。

 

昨日、哲学の先生に「説明と記述は異なる」と教わりました。「説明」とは、客観的に事象を語ることであり、「記述」とは自らの行動を主観に基づいて語ること。高村光太郎の有名な詩、「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる。・・・・」でいえば、その状況をただ説明しても何の感慨もありませんが、「僕」が語り記述することで、全く聞き手の感情が違ってきます。

 

文脈力とは、一人称で主体的に、人々を動かすように記述する力と言えるのかもしれません。

 

 

史上最大の決断---「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリーダーシップ
野中 郁次郎 荻野 進介
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主体性の問題

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謹賀新年

 

今年は、「主体性」について考えていこうと思っています。

 

まず、私の主体性の定義はこうです。

 

正解のない問題に直面したとき、常識や先入観に囚われず前提を疑って考え抜き、自らの価値観や信念に基づいて自らの責任で判断し行動すること。同時に、自らのよって立つものは不十分だと認識し、常に他者から謙虚に学び続けること。

 

補足説明します。

 

正解のある問題への対応では、主体性は重要ではありません。正解への最短距離を最速で走るのみですから。主体性が求められるのは、正解のない問題に直面したときです。

 

正解がないとき、人間はどうするか。多くは常識や過去の経験からの知識を参照しようとします。しかし、ほとんど通用しません。自分が暗黙に抱いている前提そのものが間違っていることが多いですからです。

 

そうなるとどうするか。責任転嫁を図ります。「XXにそう書いてあったからこうしよう。もし間違ったら、XXのせいで自分のせいではない。」

 

こんな子供みたいなことは考えないと思うかもしれませんが、「競合のX社が参入したから、わが社も至急参入しよう」というのと、まったく同じです。多くの一流企業だってこう考えるのです。原因は自分ではなく他にある。これでは自らの責任での判断とはいえません。

 

もし、他者に委ねず自分の責任において判断するとなったら、その判断基準は最終的には自らの価値観や信念にならざるを得ないでしょう。特に選択肢すら明示されておらず、自分で選択肢から設定しなければならない場面では。

 

これは、リスクを取る態度ともいえます。リスクを取らないということは、「太いものに巻かれる」ということです。正解のない世界では、太いものと一緒に転落する可能性が高いのです。

 

リスクを取ることと「無謀」とは違います。無謀とは、ロシアンルーレットに挑むようなもので、自分で全くコントロールできない勝負をすることです。一方、リスクを取るということは、結果のバラつきは大きいが、そのような状況でも適切な準備をすれば「自分」の結果のばらつきは小さくできると確信したうえで、ある選択をすることです。

 

こういった判断と行動が取れる人は、主体的といえそうです。しかし、えてしてこういう人は自己主張が強い唯我独尊になりがちです。「私の判断は正しい。なぜならこれだけ考え抜き、準備しているのだから。だから、他者も私の判断に従うべきだ」と。

 

一件、主体的な人に見えますが、二つの問題があります。ひとつは、周囲がついて来ないこと。人間は必ずしも合理的ではなく、感情に縛られるため、正解を正解と思いたくなくなるからです。これでは、集団の成果は出せません。

 

もうひとつは、謙虚さが薄れ学ぶ意欲がなくなって成長が止まってしまうこと。そうなると自らよって立つ価値観や信念や判断力が現状に合わなくなっていくかもしれず、「好ましい」主体性の持続可能性が低くなってしまいます。(ここでは「好ましくない」主体性を、唯我独尊の独りよがりとします)

 

つまり、謙虚な学ぶ姿勢があって、初めて持続的な主体性を獲得できると考えます。

 

このように、(持続的)主体性を獲得するには、多くのハードルを越えなければなりません。

 

 

私の過去の経験からは、仕事においてパフォーマンスを規定するのは、知能やスキル以上にこの主体性だと確信しています。知能やスキルの個人差なんて知れています。しかし、主体性のレベルの差は非常に大きく、かつ本人は(上の人も下の人も)その差にあまり気づかない。主体性レベルの高い人は、時間はかかるかもしれませんが、着実に成長し最後はトップに立てる。

 

では、(マネジメントの立場から)どうすれば主体性を持たせることができるのか。主体性を、主体的にではなく、他者からの働きかけで高めることができるのか、これは言語矛盾のようにも思えます。

 

特に日本人は、集団主義が強く周りばかり見てしまって主体性が低いと言われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

 

サッカー女子なでしこジャパンも昨年活躍したラグビー日本代表も、主体性レベルの非常に高い集団に見えます。その実現のもっとも大きな要素は、やはりリーダー(トップ)の働きだと思います。佐々木監督も、ジョーンズ・ヘッドコーチンも、それぞれの方法で選手の主体性を育んだのだと思います。

 

つまり、トップの振舞い次第で、メンバーの主体性を高めることはできると思うのです。これは企業でいえば、経営陣の責任です。

 

日本企業を強くするには、やはりトップ層すなわち経営陣を強化することがもっとも強力でありかつ近道だと思います。

 

昨年の東芝の問題や、新国立競技場設計の問題などをみても、トップの主体性欠如がはなはだしい。こういうトップのもとで、社員がどれだけ主体性を持って判断、行動しようとしても、結果は推して知るべしでしょう。

 

 

2016年、「主体性」をキーワードに、人材・組織開発に取り組んでいきたいと思います。

 

 

 

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