ヒトの能力: 2009年3月アーカイブ

TVドラマ、映画、演劇、歌舞伎、文楽、狂言、能・・・

 

いずれも一応ストーリーがあって、演じ手が演じたものを客が観るという形式のエンタテイメントですが、何の順で並べたと思いますか?

 

そう、観客の想像力を必要としないと私が考える順です。「リアル」な順ということも言えるかもしれません。

 

昨日、加藤健一事務所の「川を越えて、森を抜けて」という芝居を観ました。演劇は、能よりは「リアル」ですが、TVや映画よりは作り手側の制約が大きいものです。詳細は省きますが、芝居の中のある部分で、私は感情移入ができませんでした。つまり、個人として「リアル」を感じなかったのです。それは、脚本がどうとか、役者がどうという問題ではありません。あくまで、私個人の内面と芝居の世界がつながらなかったのです。

 

そう考えると「リアル」とは、具体的とか目に見えやすいということではなく、自分の内面とどれだけつながっているかということだと思います。だとすると、TVドラマより能のほうがリアルであるということも、十分あります。いや、実際そうです。文楽の人形や能面は固まっているにも関わらず、多様に表情を変えます(そう見えます)。

 

想像に依存するということは、観客の内面と演じ手の世界のつながりが無限大に広がる可能性を秘めているということなのです。想像に依存しないTVドラマでは、リアルであるがゆえに、つながりの程度が限定されてしまうような気がします。

 

教育の分野でも同じではないでしょうか。学び手に「リアル」(具体的という意味での)なものを与えればいいわけではありません。想像力を刺激し、思考を活発にさせるきっかけを与えることで、学び手の内面を刺激し、徐々に独自の世界を形づくっていくのではないでしょうか。

加藤健一事務所.jpg

研修を提供する側には、二つのパターンがあります。ひとつは、コンテンツ重視がとでも言いましょうか、緻密なティーチングプランと講師用教材が用意され、講師に依存しなくても、一定のサービスが提供できるパターンです。大量の講師が用意でき、規模を追求することができます。

 

もうひとつは、講師がティーチングプランも教材も用意するパターンです。多くの場合、その教材は、開発した講師しか使えません。開発者が他者の使用を許可しないことも多いですが、そもそも他者では使いこなせないという前提があるのでしょう。

 

大量生産型か、職人芸型ということもできます。その中間は、ないのでしょうか?私はあると思います。

 オーケストラ.jpg

音楽の世界では、作曲家が楽譜に落としたものを、演奏家が独自の解釈で演奏します。また、演劇の世界では、劇作家が書いたシナリオが、演出家と俳優によって演じられます。これらは、大量生産でも、職人芸でもないでしょう。

 

楽譜やシナリオは、生み出した人が便宜上紙に落としたものに過ぎず、それ自体は絶対的なものではありません。

アイデア(作曲家)→楽譜(作曲家)→演奏(演奏家)

矢印の間には、とても大きな距離があり、解釈する余地はとても大きいのではないでしょうか。

 

アイデア、楽譜、演奏は、いわばコンテンツです。しかし、矢印のところではコンテクストを読み解く、擦り合わせのプロセスがあります。作曲家と演奏家の間のコンテクストのぶつかりあいとも言えましょうか。それがあるから、時代や状況が変わっても優れたコンテンツは生き残っていくのです。

 

さらに、演奏家や俳優は、現場で観客ともコンテクストを交換するのです。

アイデア(作曲家)→楽譜(作曲家)

             感情(観客) ⇒演奏(演奏家)

 

研修教材と講師と受講者の間でも、それと同じ関係が構築できるのではないでしょうか。コンテクストを操ることができる教材開発者や講師こそが、ホンモノだと思います。

 

人間は、極限状態に陥ると、別の「誰か」が現れ、導いてくれることがあるといいます。エベレスト世界初登頂を成し遂げたヒラリー氏が、疲れで朦朧となりながらかろうじて歩いていると、自分の頭の後ろに人間の存在を感じ、指示を与えて続けてくれた。だから、遭難せず生還できた。という話を読んだことがあります。

 

また、能では夢幻能といって、僧の夢に死者の亡霊が現れ、ひとしきり思いを述べて、目覚めとともに消えていくという形式があります。 夢幻能2.jpg  死者が夢枕に立つということも、それほど珍しいことではないようです。これらは、死者が強く思い残したことがあって、それを夢の形で生きている人に伝えると解釈されることが多いようですが、この世の人の潜在意識にある、ある考えが、死者の言葉を借りて顕在化すると考えることもできるのではないでしょうか。ヒラリー氏も同様です。

 

人間の認識は、所詮自分の頭に中にある記憶パターンと、その時の心持ちに適合するかどうかでなされると思います。人間は見たいものしか見ないですし、想定外のことは受け入れられないものです。

 

そんな人間が、極限状態や夢に頼らず、自分の認識の外に踏み出すには、どうしたらいいのでしょうか。ひとつは、自分が無知な存在であると自覚することでしょう。無知だから、外に光を求める強い意志が生まれる。

 

さらに、自分自身をもう一段階上から客観的に見つめることができるようになれば、認識の枠を破ることができそうです。元ヤクルトの古田選手が、優れた選手の条件として、常にもう一人の自分が自分を見ていることと言っていました。松下幸之助氏は、それを自己観照と言っています。

 

無知を知覚し、とらわれから放たれ、鳥瞰的に自己を見られる。

どちらも、禅の教えに通じると思います。

論理思考力を鍛えることが重要だということに、反論を唱える人はほとんどいないでしょう。しかし、95年に、バーバラミント著「考える技術 書く技術」(ダイヤモンド社刊)を山崎康司さんの企画・翻訳で出版した頃は、まだ、「日本ではこんな理屈っぽい本は売れない、そもそも日本の組織では論理思考はネガティブなんだ」と言われたものです。 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
Barbara Minto 山崎 康司
4478490279

 

 

 

本書のタイトルは、簡潔かつ的確だったと今でも思っています。

 

(論理的に)考えることは重要である。分かりやすく書くためには、考えなければならない。従って。手を使って、ひたすら書くことにより、考える力も鍛えられる。

 

考えたことを的確に表現する技術だけでなく、書ことによって考える技術の重要性が、このタイトルから伝わったのではないでしょうか。

 

私の問題意識は、もうひとつあります。本書では、書くことを「文章を書くこと」と前提しています。もちろん、それが一番分かりやすいのですが、さらに「数字で書くこと」も考えることと不可分の関係にあると考えます。

 

数字で思考を深め、思考を表現する技術です。こと企業経営に関する限り、多くの事象は、文章(例えば、「手当の付かない残業が、組織の収益性を下げている」)と、数字(例えば、「労働時間を10%削減することにより、生産性が15%アップし、収益性は3%向上する」)の両面で表現できます。

 

 

数字で思考し表現するにも、論理思考は欠かせません。文章における論理思考力は、考え書くことにより鍛えることができます。では、数字における論理思考力は、どうやって鍛えることができるのでしょか。

 

このような問題意識に基づき、2007年に「定量分析 実践講座」(ファーストプレス刊)を執筆しました。定量的に分析する力と、数字における論理思考力を結びつけようと考えたわけです。 定量分析実践講座―ケースで学ぶ意思決定の手法
福澤 英弘
490324153X

 

 

しかし、もっと効果的に鍛える方法がある気がしています。それは、エクセルです。数的思考ツールとして、エクセルを活用できないかと模索しています。

思考停止という言葉は、よく耳にします。では、どういう時に思考停止するのでしょうか。

以下の3パターンがあるのではと考えます。

 

1) 関心がないので、思考が進まない

2) 関心はあるのだが、とっつき易い結論や解決策をすぐみつけ、それ以上思考しなくなる

3) 予想もつかなかった状況に、途方にくれ思考が一時停止してしまう

 

関心がない場合とは、例えば経営会議などで、他部門に関する議論には参加しないといったケースです。あるいは製品開発部門の社員に、どれだけ顧客の声を聞かせてみても、反応がないというケースもあります。このパターンは、関心を持たせる仕組みを導入することにより、思考が進むようになることはよくあります。

 

予想もつかなかった事態に直面した場合は、多くの人間が思考停止するようです。95年の阪神大震災を経験した方に伺うと、よくそうおっしゃいます。一般には、仕方のないことでしょう。こういう事態においても、思考停止しないだけの能力を持った人が、首相や大企業のトップになるべきなのでしょう。

 

とっつきやすい結論に飛び付き、そこで思考停止するパターンは、結構厄介です。95年頃

、「MBAマネジメントブック」MBAマネジメント・ブック
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という本を出版しました。簡単に言えば、ビジネススクールで教えている経営学のフレームワークをまとめた本です。企業研修でもテキストとして頻繁に使用しました。その頃、ある企業の研修の場で、講師がこの本を指してこう言いました。

「こういう本があるから、考えなくなるのだ。書いてあるフレームワークに当てはめただけで、考えた気になってしまう。こういう悪書を出すやつはけしからん」

教室後ろでオブザーブしていた私は、居づらい雰囲気になりましたが、言っていることは正しいと思ったことを覚えています。

 

人間は、結論が出ない状態を不快に感じ、嫌います。だから、思考するわけですが、不快から早く逃れるために、安易な解決策に走ってしまうのです。その場合、多くの場合その解決策は、世の中的には認められているので、罪悪感は抱きません。そこで、思考が停止するのです。状況だけ見れば、悪いことではないようにも見えます。でも、その安易な解決策は、普通正しくありませんし、本人もうすうすそれに気付いているのです。人間はそういうものです。

 

そこで、本当にそうか?と、疑問を持ち、思考を続ける「知的強靭さ」を持ちたいものだと思います。安易な結論を、いくらでも簡単に入手できる、便利な世の中になるにつれ、思考停止が広まっていくようで怖いです。

先日「不況時の研修」 という記事を書きました。

 

不況時には、残念ながら多くの企業は、研修費用を削減します。そのような状況下、社員それぞれは、自己学習へどのような対応をするのでしょうか。各方面の方々から伺った話を総合し、不況時の社会人自己学習について、あくまで仮説を書きたいと思います。

 

企業や業種による差は大きいとはいえ、それ以上に差が大きいのは世代でしょう。非常に大ざっぱですが、管理職前後とそれ以前(仮に、若手と呼ぶ)で、区別されます。

 

若手は、企業に頼らないで生きていけるように、目に見えやすい(わかりやすい)スキルと資格の獲得を目指します。アカデミーヒルズのライブラリーの稼働率は、昨年秋以降、急に高まっているそうです。また、資格系社会人学校の学生数も大きな伸びを示しています。「勉強法」系の書籍も相変わらず好調です。

 

この層は、資格に代表されるように、第三者が見て分かりやすいスキルの獲得を目指すようです。ビジネススキルにしても、ベーシックな会計、マーケティング、論理思考といった知識やスキルです。この層のうち、ビジネススクールなどの(時間も含む)投資費用の大きい学習に、どれだけ振りむけるかは不明です。一般に、好況期のほうが、自発的転職が増える傾向にあることから、不況期には投資リスクを取らなくなることは予想されますが。

 

一方の、管理職前後の層です。好況期には忙しくて、自己啓発の時間が取れなかった人が、残業が減ったことにより学習時間を確保できるようになるとも考えられます。しかし、組織の中核にある彼らは、リストラの影響でかえって仕事が増えてしまうこともあるようです。

 

若手のように、スキルアップして転職をという夢を描きづらくもなっています。日本全体が不景気なら、どこへ行ってもそうは変わらない。だとしたら、これまで培ってきた経験が活きる、今の会社で何とか頑張ろうと、考えがちです。

 

そう覚悟を決めたものの、では会社を盛り立てるべく、自己のスキルを高めるために投資をするか、というとそうでもなさそうです。ただでさえ、可処分所得は独身若手より少ないところにもってきて、給与の削減幅も若手より大きい。給与は減るが、仕事は減らない。でも、責任は大きくなる。

 

給与とポジションが上がることが予測できる好況期であれば、特定専門スキルを向上させるための投資も厭わなかった中堅社員も、不況期には不安が先に立ち、投資に慎重になってしまいます。

 

 

以上、仮説ベースで書いてみました。結論としては、こんな時こそ企業が、会社の中核を担う管理職前後の人材開発投資に、力を入れるべきだと考えます。そうでないと、多くの日本企業の屋台骨が揺らいでしまのではと危惧します。

古典は、読むたびに、その時点での自分に訴えかけるものがあります。

 

能楽の始祖ともいえる世阿弥が、「花伝書」の中で、初心について書き残しています。(白洲正子著「世阿弥」より) 世阿弥―花と幽玄の世界 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
白洲 正子
4061963945

 

二十代半ばとは、良い芸の生まれる時節である。名人を向こうに廻しても、若い人のほうが評判が良かったりする。観客も、新しもの好きなので、必要以上に持ち上げ、本人も思い上がる。この年頃の美しさを「初心の花」という。この、一時的な花を真実の花と思いこむ、その慢心が真実の花から遠ざける。

 

義太夫の竹本住大夫にこんなエピソードがあります。26歳くらいの頃、自分でも満足いく語りができ、観客も大喝采だった。誇らしい気持ちで、舞台を降りると当時六世住大夫だった父が、近寄ってきて「上手ぶってやるなっ!」と怒鳴り、張倒された。

 

初心の花から、うまく脱皮できるかどうかが大切です。さらに、真実の花を目指して、その後初心はどのような役割を果たすのでしょうか。

 

世阿弥は、「花鏡」で再び初心に触れています。

 

初心忘るべからず。現在の自分の程度を知るために、若年の頃の未熟な芸を、スタート地点として忘れてはいけない。忘れると、初心に逆戻りしてしまう。

 

初心時代から盛りの年頃を経て、老年に及ぶまで、その時々に似合った芸風をたしなむべきである。時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。

 

過去に演じた一つ一つの風体を、全部身につけておけば、すべてにわたって厚みが出る。時々の初心忘るべからず。

 

 

初心の花や時々の初心は、どんな人にでもあるものだと思います。未熟だった初心の頃の記憶を削除するのでもなく、また懐かしむのでもなく、今の自分の程度を測る起点として忘れない。そして、常に時々の初心を追及していく。そんな厚みのある人生を送りたいものです。

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