ヒトの能力: 2014年1月アーカイブ

昨日の理化学研究所小俣方晴子研究ユニットリーダーらによるSTAP細胞開発のニュースほど、日本の将来への希望を見せてくれたことは近年

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ありません。私には科学的な価値を評価できる能力はありませんが、リーダーが女性で、しかも30歳という若さであることは、驚くべきことだということはわかります。30歳では、大学や一般企業であれば、助手や研究補助職であるのが普通なのに、リーダーとして世界的発見(発明?)を成し遂げたのですから。これまでの縦社会の日本の常識を超えています。なぜ彼女、そして理化学研究所チークはそんなことができたのか?

 

寺田寅彦は、科学者は頭の良さと悪さの両面が必要だと書いています。長いですが抜粋引用します。(下線by fukuzawa

 

論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。

 

しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁なければならない。

 

(以下、頭のいい人の弊害と悪い人の効果が対象されます)

頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。

 

それで、研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘されなかった意外な難点に出会うこともある。
 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。

 

 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけているやっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

 

頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。


 頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。
 頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが自分の仕事のあらは見えないという程度の人がある。そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。

 

頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。

 

最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。

出所:「科学者とあたま」昭和8「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫

 

 

どうですか?小俣方さんは両面に秀でた方であり、かつ「頭の悪さ」の価値を認める先輩研究者たちに恵まれていたのでしょう。環境や場の大切さも実感します。

 

これは科学者だけでなく、全ての人の成長に共通の事実だと思います。個人的にも、びんびん響きました。

以前読んだ仏教書に、「考えることをやめるべき」との教えがありました。正確にいうと、「無駄な考えをやめるべき」ということです。人間は考える時間があると、つい悪い方ばかりを考えてしまいがちです。最悪なケースを想定して、それに備えるという生物としての防衛本能なのかもしれません。

 

最初は何とも思わなかったのが、だんだん考えていくうちに「これはまずいかもしれない」と思いだし、最後には最初とは正反対の結論を出すことがありませんか?そして、たいていそういうときは、最初の直観が正しかった経験、私は何度もあります。四書五経のひとつ「大学」に「小人閑居して不善をなす」とういう言葉がありますが、これも同じことを言っているように思います。

 

無駄な考えとは妄想であり、それをするくらいなら考えないほうがいい。では、何が無駄でどうやってそれを知るのか、それが理性なのかもしれません。ことほどさように「考える」ことは難しい。

 

以上はインドや中国での見解ですが、日本固有の捉え方もあります。日本語の「考える」の語源をご存じでしょうか?ワキ方能楽師安田登さんの「あわいの力」によると、「か身交ふ」だそうです。「か」は接頭語でなので、もとの意味は「身」が「交ふ」、つまり身体が「交わる」状態を指すそうです。身体が交わるときに、すなわち思考が生まれる。(西田哲学の「主客合一」も想起されます)

あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)
安田登

by G-Tools

 

自分の身体が、外の何かと接点を持つことで、思考が生まれると考えるのです。これは、インタラクションの価値を明確に示しているように感じます。では、何と「か身交ふ」のがいいのでしょうか?安田さんは自然が最もいいと言います。

 

鳥のさえずりや葉のそよぎ、川のせせらぎの音を聞きながら歩いていると、いつしか「外」の自然と「内」の自己が「交わ」って、自分が普段思いつかないようなことが引き出されてきます。

 

すごく納得感があります。私も近所の新宿御苑を散歩していると、いろいろアイデアが浮かんできます。

 

さらに安田さんは、対象は自然に限らないと言います。

 

思考する対象と自分が「か身交ふ」ことも大事です。思考する対象と身体的に交わる、その時に思考する対象と自己との境界はあいまいになり、そこに思考が生まれるのです。(中略)環境や対象からの刺激を受けながら、身体という「あわい」でさまざまなことに思いを巡らす状態、それが「かんがる」という行為なのです。

 

日本の優れた「手仕事」、現場主義なども、こういう視点で見れば納得いきます。頭で考えると妄想になりがちですが、対象にどっぷり使ってインタラクションすることで、「考え」が身に下りてくるイメージでしょうか。

 

元来われわれ日本人は、頭で考えるより身体で考えるほうが得意なのでしょう。現在、「思考力」の強化が学校でも企業でも求められています。そこでの思考力は、合理的思考のことでしょう。確かに合理性は弱く、強化すべきと思います。しかし、頭で発する合理的思考の強化が、「か身交ふ」力を弱めているとしたら、その弊害は大きい。既にその兆候が出ているのかもしれません。

 

妄想ではない合理的思考と「か身交ふ」力、この両方のバランスこそが最も重要なのだと「考え」ます。

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