ヒトの能力: 2012年11月アーカイブ

映画「ショーシャンクの空に」をご覧になった方は多いでしょう。94年の作品ですが、今もレンタルDVDショップでは人気作品だそうです。公開当時、日本でもアメリカでも興行収入はそれほどでもなかったのに。恥ずかしながら、私も先日初めて劇場で観ました。ロングセラーに納得、素晴らしい映画でした。

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ティム・ロンビンス演ずる主人公の無期懲役囚アンディーが刑務所で苦労しながら脱獄する話、と言ってしまえば身も蓋もないのですが、人間の性(さが)を非常に鋭く描いている作品です。私の中に強く残ったのは、希望と自由の関係についてです。

 

1)自由なしX希望なし

無期懲役囚に、自由も希望もありません。そうして囚人を廃人にしていくのだ、という台詞がありました。

 

2)自由なしX希望あり

しかし、アンディーは希望を見つけようとします。それに対して、モーガン・フリーマン演ずる無期懲役囚レッドは、「ここで希望は危険だ」と諭します。希望が叶えられないことがわかっている状況で希望を持つことは、結局自分を追い詰めるのだと言いたいのです。30年以上仮釈放を拒絶され続けているレッドが、自分を守るために思い至った心境なのかもしれません。

 

3)自由ありX希望なし

年老いた囚人ブルックスは、仮釈放が決まり暴れます。刑務所を出たくないからです。半世紀ぶりに壁の外に出て、あてがわれたスーパーで働くブルックスは、やはり苦しみます。今の自分にどう希望を持てばいいというのか。自由であるにも関わらず希望は持てない。いっそのこと自由なんてないほうがいい。そして、自殺します。

 

4)自由ありX希望あり

もちろんこれが最もいいに決まっています。

アンディーの脱獄が成功した後、レッドもブルックスと同じように仮釈放され、ブルックと同じ部屋に住み、同じスーパーで働き、やはり同じように絶望しかかります。ブルックスと違ったのは、脱獄直前アンディが彼にこっそり伝えた秘密の場所を目指そうとの、かすかな希望を持ったことでした。規則を破りその場所へたどり着いたレッドは、アンディーからの手紙をみつける・・・。

 

 

人間にとって、必ずしも自由、あるいは希望があることが好ましいとは言えない。どちらかがないのであれば、両方ないほうが幸せということもありえる。それがリアリティーなのでしょう。今の日本の閉塞感は、自由であるにも関わらず希望が持てない、ブルックスのような人々が多いからなのではないでしょうか。反対に、高度成長の頃は、いろいろ不自由はあったでしょうが、これから良くなるという希望を多くの人々が共有できていた。

 

これから総選挙ですが、政治家の役割は、国民になんらかの希望を与えることです。また企業で言えば、経営者の役割は社員に希望を与えること。一番手っ取り早いのは、利益を沢山稼いで給料を増やすという形での希望です。それができるのであれば、それも一つの方法でしょう。でも、もしそれが難しくなったら、どんな方法で希望を与えるのでしょうか。形式的には自由であっても、希望が持てないのであれば、ブルックスと同じです。だとすると、希望を持つことを目指すよりも、自由を束縛される方を望んでしまうかもしれません。なんだかんだ文句を言っても、「上(うえorおかみ)に決めて欲しい」と、どこかで望んでいるとすれば、既にその兆候があるかもしれません。

 

それが国レベルになると、強いリーダーを求めるという傾向になるでしょう。それが行きつくと独裁者願望になります。そうならないためには、ひとりひとりが自分の頭でよく考えること、そして自分なりの希望を見つけることだと思います。他人がどういおうと、過去がどうだろうと関係ない。自分自身の基準で判断し希望を持つのです。レッドの忠告を無視して希望を持ち続けたアンディーのように。

 

大きな失敗は、当初のまだ慣れていない時ではなく、慣れた時に起こるといいます。それは、慣れによって油断が生じるからだと思われます。一方、慣れていない当初は緊張のあまり小さな失敗をすることも多い。

 

企業研修で、複数のクラスがあるため、同じ講師が同じ内容のセッションを複数回、別の日に別の受講者に提供することがよくあります。

 

その場合に、受講者満足度が徐々に上がっていくケースと、逆に下がっていくケースがあります。もちろん講師は毎回真剣に取り組んでいます。その違いはどこからくるのでしょうか?上がっていく理由は明らかです。回を重ねることで改善が進むからです。

 

下がっていく理由として、先に書いたように慣れが油断を生じさせ、緊張レベルが下がりそれが受講者にも伝わることが考えられます。ただ、これは油断して事前準備を怠るということではありません。その点講師は真面目です。油断は、準備段階に顕在化するのではなく、研修中に発生します。講演であれば、関係ありませんが、受講者とのインタラクションを重視して進めるスタイルですと、瞬間の反射神経と集中力が要求されます。それがどうやら鈍るようなのです。慣れは確かにあります。慣れることで、受講者の反応がある程度予測可能になり、それが集中力を低下させるのではないでしょうか。結局、最初の回の評価が最も高かったということはしばしば起きます。

 

これは演劇の俳優にも通じるそうです。平田オリザ著「わかりあえないことから」によると、人間は何かの行為をする時には必ず無駄な動きが入るそうです。優れた俳優は、それを適切に演技の中に入れ込んでいける。この「適切」が難しく、天才といわれる俳優はこれに長けているそうです。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
平田 オリザ
4062881772

 

普通の俳優は稽古を繰り返すうちに、この無駄な動きが少なくなっていき、結局演出家から「なんだか最初の頃のほうがよかったなあ」といわれてしまう。人間というものは、それじゃいけないとわかっていても、慣れると自分が変わっていってしまうものなのです。講師も同じなのかもしれません。

 

では人間である講師はどうすればいいのか。慣れのメリットすなわち過度な緊張感を抱かないということを残しつつ、適度な緊張感を維持する、それが大切だと思います。そのために、毎回常に自分に課題を課すことです。進め方を毎回少し変えてみるのもいいですし、毎回新しい要素を少し加えてみるのもいいでしょう。そうすることで、改善を図りつつ緊張感も維持できる。

 

ただ、俳優の場合は演出家がそういったアドバイスをできますが、講師の場合多くはその役を担ってくれる第三者がおらず、自分自身のメタレベルでそれを認識しプランを考える必要があります。(私は可能な限り、その演出家の役割を担おうとしています)講師とは、大まかな脚本で受講者という共演者と同じ舞台で演ずる俳優なのです。

 

 

ところで、人間たる俳優はリアルな演技をするために、「適度な無駄」を何度やっても同じように再現させる必要があります。つまりロボット化です。一方、同じ動きしかできないロボットは、プログラムの中に「適度な無駄」を入れ込むことで、人間っぽいリアルな動きを出すことができそうです。人間とロボットが両極端から同じ「リアル」を目指すわけです。この両者が同じ舞台で演劇を行ったらどうなるでしょうか。

 

平田氏と大阪大学の石黒浩教授は、実際にアンドロイド演劇として実行しています。私も先月、アンドロイド版 「三人姉妹」を観てきました。本当の自分と演じる自分の違いとは? 何に人間は共感するのか? 人間と非人間の違いは? などいろいろ考えさせられる舞台ではありましたが、まだ私の中では消化しきれていないように感じます。

三人姉妹.jpg

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