ヒトの能力: 2015年2月アーカイブ

考えに考え抜くということは、やったことがない人には、その意味が分からないものです。経営者は最終判断に責任を持つわけですから、最終的には誰にも頼ることはできません。経営判断とは、すべて正解がないわけですから、どれだけ考え抜けばそれでいいという限度がありません。だから、死ぬ気で考え抜かなければならないのです。

 

それに対してそれ以外の社員は、最後は判断を委ねる上司がいます。もちろん、自分の役割においては考え抜いて結論を出す努力をするでしょうが、最後は上司に判断を委ねる道が残されているため、自ずとブレーキがはたらいてしまうものです。

 

本音で言えば、「これだけ考えたのだから多分この判断で行くべきだろう。でも、最後的には上司の判断に従わなければならない。経験豊富な上司は、私よりも優れた判断をする力を持っているだろうから」

 

組織ではたらく人間ならば、こう思ってしまうのは仕方のないことだと思います。しかし、こういう状況であっても、どこまで突き詰めて考え抜けるかには個人差があります。私はそれを「知的強靭さ」と呼んでいます。どこまで我慢して諦めず徹底的に考え抜くことができかどうかの能力です。それは、経営者を目指すべき人には不可欠の能力です。

 

ある企業で、次の執行役員候補を対象とした研修を行っています。そのプロジェクトオーナーである副社長は、この研修でこの「知的強靭さ」の開発を狙っています。同時に、各メンバーが「知的強靭さ」をどれだけ持っているかを評価しています。より持っているメンバーを次の執行役員に抜擢したいと考えているのです。

 

もちろん、「知的強靭さ」を獲得するのは本来研修ではなく、実務の場面でしょう。修羅場体験の中で、どれだけ苦しんで考え抜き判断し行動してきたか、その経験がその人の「知的強靭さ」を育むのです。

 

しかし、そういう経験をすべからく候補者全員にさせられるとは限りません。組織の細分化が進み、成熟化とそれに付随する管理強化とリスク回避の流れの中で、そういう機会が日本の多くの企業の中で減少しているからです。

 

そこに模擬的修羅場としての研修の役割があるのです。メンバーはチームで、経営陣に新規事業提案を行います。しかし、何度も突き返されます。調査分析して綺麗にまとめることは得意なメンバーですが、経営陣の琴線にはなかなか触れることができません。経営陣から見ると、本気で考え抜いたようには見えないからです。

 

経営陣は日々本気で考え抜いているため、メンバーの本気度レベルは直観的にわかります。だから、まだまだ足りないと感じ、突き返すのです。

 

一方で、メンバーのほうは、何が足りないのかよくわかりません。不足箇所をわかりやすく示してほしいと経営陣に頼みます。しかし、経営陣にとっても、それは論理的に説明できるようなものではないのです。

 

メンバーは悩みます。「これ以上考えたって時間が過ぎるばかりだ。それよりも、まず具体的に見える小さなことから始めることでもいいじゃないか。」それが本音です。

 

メンバーは、経営陣のように本気で考え抜いた経験がないため、もっともっと考え抜けば突き抜けたアイデアが出る、とは思えないのです。それは非常に不快な状態です。フラストレーションが高まります。そこで「知的強靭さ」が試されるのです。不快から脱しようと思う人は、ブレーキをかけ考え抜くことから降ります。

 

私がこれまで見てきた中で、こういった意味での「知的強靭さ」を持つ人は、必ずしもIQのような知的レベルとは関係がありません。視座の高さとか自分を客観視できる力とか、周囲の人に配慮する力とか、逆に時に調和を壊す勇気を持つとか、そんな能力と関係が深いようは気がします。(田坂さんはそれを 「知性」 と定義していました)

 

一度、考え抜くことに成功した人は、自分の考え抜く力に自信を持つため、次からも考え抜くようになります。ブレーキが外れるのです。こうなるとグッドサイクルに入り込み、ぐんと成長します。今その分水嶺にメンバーは立っているのです。

 

経営陣は、こういった状況をわかっているため我慢して突き放しているのですが、残念ながらメンバーはわかっていません。そこがこういった研修の難しいところです。

 今年に入ってまだ一ヶ月しかたっていないのに、以下のような出来事が続けざまにありました。

 

17日 仏政治週刊誌「シャルリー・エブド」への襲撃

117日 安倍首相がエジプトで、「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援を約束する」と演説

120日 イスラム国が日本人人質二人と2億ドルの交換を要求

126日 「九条の会」発足時の呼びかけ人で東大名誉教授の奥平康弘氏死去

129日~21日 「21世紀の資本論」著者トマ・ピケティ氏来日

131日 ワイツデッカー元ドイツ大統領死去

21日 後藤健二さん殺害の動画配信

 

それぞれが連動しているわけでもなんでもありませんが、私の中ではなんとなくつながってしまいます。因果関係ではなく共時性的なつながりです。

 

そのつながりの中で、さまざまな疑問が湧いてきます。

 

表現の自由はどこまで尊重されるべきか?

多様性の尊重を妨げるものは何か?

自己責任と国家の役割との関係は?

国民を守るのは軍事力か平和主義か?

同盟とは何のためのなされるのか?

テロを撲滅するのは軍事力か貧困対策か?

成長と格差はバランスできるのか?

できないとすれば、どう優先順位をつけるべきなのか?

テロとは何なのか?

国家自身によるテロ行為は行われていないのか?

表現の自由があっても、「口をふさぐ」のはなぜなのか?

過去と現在、そして未来はどのようにつながっているのか?

日本は世界に中でどのような「国」になりたいのか?

自分はどのような「国」に住みたいのか?

それに対して、自分は何ができるのか?

 

これらに正解はありません。

 

田坂広志さんが「知性を磨く」でこう書いています。

 

「知能」とは「答のある問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力

 

「知性」とは「答の無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力

 

 

今、問われているのは、我々の知性の力だと思います。



知性を磨く― 「スーパージェネラリスト」の時代 (光文社新書)
田坂 広志
4334038018

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