ヒトの能力: 2009年11月アーカイブ

経験を積んでくると、だいたい状況を把握すれば、解決できそうな問題かどうかのあたりがつくようになってきます。もちろんその時点では、どうやって解決するかの筋道が見えているわけではありません。でも、何となく雰囲気?でわかります。

 

 

クライアント(お客様)の異常事態に対処することを常態としているコンサルタントは、特にその鼻が利きます。

 

クライアントは、その時点ではまだ漠然とした「悩み」を抱えています。「悩み」とは、今の自分の力ではどうにもならないと感じている苦境のことです。たとえば、カリスマ創業経営者がまだ健在の企業で、指示待ち文化が浸透しており経営幹部が育たず、経営者から「なんとかせー」と迫れ、苦境に陥っている人事部長がいるとしましょう。それは、「悩み」です。

 

コンサルタントは、クライアントの悩みを聞き、即座に「問題」になるかどうかを判断します。「問題」とは、自力で解決できると思われる苦境のことです。なぜそうなっているのか、創業経営者はどう認識しているのか、そして彼に何を選択してもらうべきなのか、社員や他の経営陣はどのように理解しているのか、経営上の意思決定は実態としてどうなされているのか・・・、などの「問い」を立てるのです。

 

問いが整理できれば、おおむね解決できそうかどうかのあたりがつき、この時点で「問題」かどうかが認識できます。問いへの仮説が設定できれば、さらに解決の筋道が見えてきます。「悩み」が「問題」に転化するということは、そういうことです。

 

 

国際関係論では、DangerRiskを区別しているそうです。Dangerとは、関与するファクターが多過ぎて、手のつけようのない危険のことです。イラクやアフガニスタンがそうなのかもしれませんね。一方、Riskとは、関与するファクターが考量可能であるので、管理したりコントロールしたり、ヘッジしたり出来る危険のこと。(終戦直後の日本は、情報収集を怠らなかったアメリカにとってRiskだったのかも。)従って、外交の要諦は、DangerRiskに変換することなのだそうです。悩みと問題の関係に似ていますね。

 

一般に「仕事ができる人」とは、このような変換作業をスムーズに行う能力が高い人だといって間違いないでしょう。

昨日の日経朝刊「経済教室」で、一橋大学のアメージャン教授が、近年のビジネススクールの変化について書いています。その変化とは、以下4点だそうです。

1)    ビジネススクールがグローバルに広がっている

2)    研究に力を入れるようになっている

3)    社会起業が重視されるようになっている

4)    教授法が、ケース・メソッド中心からフィールドスタディ、ゲーム、シミュレーション、コーチングなどへシフトしている

 

4)    の背景としては、全人格教育を目指すべきだとの考えがあるという。自己認識能力や対人能力を高め、経営にとどまらず世界が抱える問題の知識を深め、能力を実地に試す機会を与えるようになったという。そして、それらは日本企業が得意とする分野であり、日本の企業や大学が世界に貢献すべきと言っています。

 

私の解釈は、かつて欧米のビジネススクールとはハードスキルを学ぶところだったのだが、それでは企業のニーズに応えられないことがわかったので、ソフトスキルを重視するようになったというものです。ハードスキルとは、ファイナンスやマーケティングのように科学的に学ぶことができるスキルであり、ソフトスキルとは、リーダーシップやモラールのように体験的にしか学べないスキルのことです。

 

ハードスキルはどんどん、ロジック中心の科学の方向に進みました。ビジネススクールの教授の論文には驚くほど数式がたくさん出てきます。ビジネスマンはほとんど見たことがないような。それは、教育の専門分化も促したことでしょう。それが、研究重視の方向なのかもしれません。(専門化、科学化は教員にとって望ましいことのようです:DHB 20059月号参照)

 

 

私はケースメソッドが減少しているのは、その必要性が減少したからではなく、本当のケースメソッドをリードできる教員が減少しているからではないかと踏んでいます。科学化の方向性とケースメソッドは必ずしも一致しないのです。なぜなら、ケースを教えるにはある特定の分野の知識だけでは無理です。ケースは素材であり、様々な分野から切り込むことができます。自分が苦手の方角から質問が来たら、なかなか答えられるものではありません。でも、経営は総合的・統合的なものなのです。

 

そのような場合、優秀な教員は、その分野に詳しい学生に議論を振るでしょう。そういった、臨機応変なインタラクティブ能力が重要なのです。でも、これも科学化と一致しません。

 

全人格教育も重要ですが、それを大学に期待すべきなのでしょうか?ビジネスには、ハードスキルもソフトスキルも必要ですが、その議論は時代遅れの感がありませんか。本当にビジネスパーソンが学ぶべきなのは、情報が不足して不確実な状況で、いかに意思決定の精度を上げ、その実行を推進するかです。その観点から、カリキュラムもそして、教員の質も見直すべきなのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、今リーダーシップほど、曖昧な日本語はないと思っています。人によって解釈がかなり異なるのです。そこで、最近は、その言葉をできるだけ使わず、別の言葉(カタカナ以外)を使うようにしています。

 

 

 

またまた、益川敏英さんの「私の履歴書」です。今朝、師である坂田昌一先生について、以下のような記述がありました。

坂田.jpg 

ある日、私が院生会議の結果を先生に報告することがあり、坂田先生の研究室を訪ねた。用件が済んで部屋を出た後、ノートを置き忘れたに気づき、ノックもそこそこにお部屋に入った。すると先生がモップで床をぬぐっている。さっき私が泥まみれの靴で汚したところの後始末をされていたのだ。

 「益川、そんな泥靴で入ってくるやつがあるか」とか「足跡をふいておけ」としかれば済んだ話だが、決してそういうことはおっしゃらない。我々が萎縮せず、気軽に議論をしに来られるように気を使っておられたのだろう。(日本経済新聞「私の履歴書」09/11/13より)

 

 

「ドアを開け放っておくので、いつでも話しにこい」という上司に限って、訪ねると「すまん、すぐ出なきゃならん。また来てくれ」。「今日は無礼講だ。言いたいことを言え」というから、恐る恐る言ったら、不機嫌になってしまう。そんな経験、誰にでもあるのではないでしょうか。要するに、上に立つ者が、「自分はこんなにオープンで、寛容なんだ」と思いたいだけなのかもしれません。

 

本当にオープンで自由闊達を求める上に立つ者は、フォロワーに対して自分の存在感を感じさせないうちに、そうなる雰囲気や状況を作っているものだと思います。「オープンでやろう」と気勢を上げる者ほど、オープンでない者はいません。

 

益川さんのように、モデルとなる師がいることは幸運なのかもしれません。そう、上に立つ者は、「上司」ではなく、「師」をめざすべきなのです。

 

上司は、会社のルールで決まる存在に対して、師とはフォロワーが自ら選ぶものです。そして、何らかの理由でrespectされる存在です。どうすれば、師になれるかを考えていけば、「上に立つ者としての振舞い」も見えてくるかも知れません。

今朝の日経「私の履歴書(益川敏英氏)」に、こんな言葉がありました。

益川氏.jpg 

高校生くらいの知識ですらすら読める水準の本ではない。でも、本というのは面白いもので、時間を置いて少しずつ目を通すと、以前はわからなかったところが、突然理解できたりする。それは自分も気づかないうちに、知識が蓄積されるためだ。

 

 

こういうことって、ありますよね。時間を置くということが、大切なのでしょう。きっと、新しい知識は、すぐには既存の知識とは結合されない。しかし、時間をかけることにより、脳の中にある関係しそうな知識との間で、結合したり、補完したりして、新たな位置(意味合い)を確保するのではないでしょうか。

 

これは、科学系の本だけのはなしではなく、小説でも、音楽でも絵画でもそうです。初めて聴いていいなあと思った曲が、何度も聴くうちに飽きてくることも多いですね。でも、最初は、「ふーん」くらいにしか感じなかった曲でも、何度も聴くうちにすごく良くなり、しかもずっと飽きないということは、多くの方が経験することではないでしょうか。(もちろん、初めて触れて一気に刺さる傑作もありますが。)

 

前者は、既存の体系の中で、すぐに位置を占めることができるので、簡単に理解できるのですが、それ以上のものにはなり得ない。いずれ埋没する。しかし、後者は、脳の中で新たなシナプス結合が起き、全く新しい刺激となる。そして、深く刻みこまれる。こんなことが起きているのではないでしょうか。

 

そう考えると、知的喜びも、美的喜びも脳の中では同じ現象なのかもしれません。大事なのは、常に新たな刺激、結合を追い求める姿勢なのでしょう。

ハイパフォーマー、コンピテンシーなど、数年前には非常に話題になりました。最近は、あまり聞かないような気がしますが。社内で高い成果をあげている個人の行動特性を、抽出して、採用や育成、場合によっては評価にまで活用しようというものだったと思います。

 

しかし、いうまでもありませんが、優秀なAさんのやり方や考え方を真似れば、成果が上がるというようなはずもありません。人には、人それぞれ自分にあったスタイルがあるはずですから。そういう、優秀者の型にはめようとして、失敗した企業も実は多いのではないかと思います。(そういう事象は、あまり表には出てきませんが)

 

そんなことより、自分にあったスタイルをどうやって見つけさせるかが、重要だと思います。そのためには、自分自身の過去の経験や失敗などを振り返ってみる必要があるでしょう。そこでは、他者とのダイアローグが有効です。

 

ただ、内省だけでは、成長イメージがわかないでしょう。そこで、ロールモデルの存在が重要になります。理想は、ある一人の上司が、それであることでしょう。しかし、それは現実には、難しいことです。

 

そこで、ある突出した実績を上げた人たちの成功要因を分析するのです。そこには、行動・思考特性もノウハウも、いろいろ入ってくるでしょう。それを抽出して、真似することが目的ではありません。抽出された要素を、材料として、対話をするのです。そこでは、「こんな真似は私にはできない」だとか、「こんなだけなら、私もできそう」などと、他者との対話の中で、自分のスタイルや価値観にあった方法を、イメージしていくのです。

 

やはり、ここでもダイアローグが重要ですが、ポイントは対話する際のネタ、材料です。材料の工夫次第で、内省しかつ成果を高めるためのヒントをつかむことも可能になるはずです。あとは、それを実行し、体験学習のサイクルを回すことです。

 

このように、コンピテンシーモデルを作り、それを社員に示せばすむという時代から、もう一歩も二歩も進んで、自らのスタイルを見つけ持論を生みだすことを支援する時代に入りつつあるように感じています。

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