他者との対話を通じで学ぶ:カンヌ映画祭から

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今年のカンヌ映画祭で、是枝監督がパルムドールを受賞しました。日本でも話題になりましたね。嬉しいものです。それに関して、いろ

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いろな報道がありましたが、私の心に残ったのは、審査委員長を務めたケイト・ブランシェットさんの映画祭を総括した「今年のカンヌは、インビジブル・ピープル(見えない人びと)に光を当てた映画が多かった」という言葉と、それに対する是枝監督の反応です。

 

是枝監督はこう応えました。

 

自分の作品も確かにそうだと思った。「万引き家族」は社会から排除され、取り残された人たちが、不可視の状態でそこにいる。発見されたときには犯罪者としてしか扱われない。「誰も知らない」の子供たちもそうだった。

 

そのことが彼女の「インビジブル」という言葉を聞いて、自分の中で言語化された。それまでは言葉にできていなかった。(中略)外から与えられた言葉で、自分の作家としてのスタンスがクリアに見える瞬間がある。有り難い。

 

そもそも「見えない人びと」に光を当てること自体、容易ではありません。スルーして何も見えないのは、自分が構成している主観の世界には存在しないからです。物理的には存在しても、主観の世界には存在していない。人はそのようにできているからです。

 

しかし、芸術家は異なる目を持っています。客観的に世界を見ることが得意なのです。だから、先入観や偏見にとらわれずに、客観的に見ることができるのです。ただ直観ではあるでしょう。

 

そして芸術家は直観的に捉えたものを、それぞれの表現手段(映画など)を使って表現します。

 

その結果、我々凡人も、芸術家などの視点の異なる他者と対話(映画鑑賞)して初めて「見えて」きます。

 

しかし、芸術家もなぜそれに自分はこだわったのか、自覚していないことも多いようです。是枝監督は「言語化」できなかった。言語化とは、具体の世界を抽象の世界に引き上げることです。今回是枝監督は、ケイト・ブランシェットさんから「インビジブル・ピープル」という言語をもらいました。なるほど、自分がずっと表現したかったことはそれだったんだ、と自覚できたのです。

 

今後、是枝監督は抽象化されクリアになった自分のこだわり。すなわちインビジブル・ピープルを、自分自身の主観の中に取り入れて、さらに豊かな映像世界をつくりあげていくことでしょう。

 

ここまで書いたのは、主観と客観、具体と抽象という二軸によるマトリクスの中をぐるぐる移動することの事例です。

 

私たちは、ひとりでは学ぶことはできない。(芸術家ではないとしても)視点の異なる他者と対話することで学んでいくのです。どんなものからも学んで成長を続ける人がいます。そういうひとは、このマトリクス上を高速度で回転しているのだと思います。

 

では、その原動力は何なのか?

 

世界をもっと深く知りたいという好奇心でしょうか?安易に自分を納得させて楽になろうとは思わない、自分自身に対するプライドでしょうか?

 

う~ん、まだよくわかりません。

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このページは、ブログ管理者が2018年6月 1日 15:53に書いたブログ記事です。

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