ヒトの能力: 2009年2月アーカイブ

先週開かれた「加藤周一さんお別れの会」で、大江健三郎さんお別れの会.JPG『日本文学史序説』にある留学時代の森鴎外がナウマンに反論した話を引いて、
「相手を完全に理解せよ、そして自分の弱点を見抜け」
という加藤さんの言葉を、若い人へのメッセージとして紹介されました。

 

 

私は、『日本文学史序説』を読んでいないので、大江さんの意図を正しく理解していないかもしれませんが、とても重たい言葉だと思います。相手を理解しようとすることはできます。しかし、人間は、自分の思考を通してしか理解できないため、完全に理解することなど不可能と思えるほどです。

 

では、どうすべきか。相手を理解する前に、起点となる自分自身を理解しなければならないでしょう。特に、人は自らの弱点には目をそむけがちです。だからこそ、知らず知らずのうちに、自分の弱点からゆがんだ形で相手を理解してしまうのです。自分が潜在的に弱いと感じている部分が、相手は強いと感じると、無意識に抵抗してしまうことってありますよね。そうならないように、弱点を中心に自分自身の思考特性を見抜いておくべきなのです。

 

さて、自分や相手を理解するにしても、どのような面を理解すればいいのでしょうか。「私は、○○な傾向を持つ人」、と言ってみても、そこには無限の切り口があります。状況によって、切り口を使い分けるのが好ましいのかもしれませんが、私を含め多くの人はそれほど器用ではありません。そこで、何らかのフレームワークが欲しくなります。

 

抽象的な思考が好きな人と、具体的でないと思考できない人がいます。また、論理的思考が得意な人と、直観的に思考するタイプの人がいます。この二軸で、思考タイプを分類することは、説明力が高いような気がします。

 

また、人間は、思考特性とともに行動特性も持っているでしょう。行動の癖を理解しておくことは意味があります。思考は簡単には見えませんが、行動は一目瞭然なので、即相手に影響を与えるからです。相手に対して本当の自分を表現できるか、高いエネルギーレベルで相手に向かうことができるか、一方、時に自分を抑え相手を受け入れることができるか、こういった他者に対する行動の癖を知っておきたいものです。

 

大人とは、自分自身と相手を、(思考と行動特性にとどまらず)深く理解し、適切な対応を取ることができる人のことをいうのかもしれません。道は遠し、です。

(尚、上記の思考特性と行動特性については、「エマジェネティクス」http://www.egjapan.net/で学びました。)

「すぐ伝わる」と「深く伝わる」。

 

東京芸術大学の布施英利准教授 布施准教授.jpgが、エンタテイメントと芸術の違いを、こう表現していました。エンタテイメントは娯楽と言い換えたほうがいいと思いますが、良い表現だと思いました。芸術作品といわれるものは、触れた時にはそれほど感じなくても、あとでじわじわと何らかの感情が芽生えてきます。展覧会で絵を観にいったとき、一巡した後で何だかひっかかって、また観たくなる絵ってありますよね。

 

マンマ・ミーア!.jpg

 

 

先日、映画「マンマ・ミーア!」を観ましたが、まさに一級の娯楽作品でした。当然、観てすぐ楽しめます。深くはありませんが、それでいいのです。誰も深さを期 待してそれを観ないでしょう。しかし、深く考えさせられる映画もあります。私は、どちらかというとそっちが好きですが、気分で観分けていると思います。

 

 

 

 

 

日常生活や仕事の中でも両者は、使い分けられているはずです。とはいえ、時代のスピード感がどんどん速くになるにつれて、「すぐ伝わる」が優勢になっているのではないでしょうか。

 

「すぐ伝わる」と「深く伝わる」は、一見両立しそうで、するのは難しいように感じます。ルーティンの世界では「すぐ伝わる」を重視すべきですが、複雑で困難な局面や教育の場面では「深く伝わる」ことが大切です。そのアクセントを、時間に追われ中で、なかなかつけづらくなっているのではないでしょうか。

 

教育の世界でいう「気づき」とは、外部からの情報が刺さるように伝わり、その結果これまでの前提を覆すほど深く自己認識することでしょう。それは、芸術に触れることと同じなのかもしれません。自分自身を成長させるためは、芸術に数多く触れ、気づきを促す感性を磨いておくことも必要なのかもしれません。

昨日、ある講師から経営幹部向け研修の内容について相談を受け、意見交換をしました。その際、受講者が求めるのは、個別解なのか普遍解なのかについて議論になりました。

 

受講者の特性やレベルによって、講師への期待内容が変わります。あるグループの受講者は、自分が業務ですぐ使える解答、つまり個別解を求めます。研修内容が、自分の属する業界や業務とかけ離れていると、役に立たないと考える傾向にあります。たとえば、メーカーの技術者にサービス業の企業の事例を語っても、自分とは違うという態度をしばしば取ります。

 

別のグループの受講者は、必ずしも個別解を求めません。個別事例を使って考えさせるよりも、普遍的な答えを求める傾向にあります。例えば、「(それが普遍かどうかは別にして)グローバルスタンダードではどうなんだ」とか、「理論的には、正しいのか」といったことを気にするようです。普遍解を知りたいという単純な好奇心もあるでしょうが、普遍解から自らの個別解に展開することができる能力を備えているのでしょう。研究者や大学の先生の講義を、もっとも有効に活用できる人たちです。

 

最後のグループは、普遍解であろうが、別の個人にとっての個別解であろうが、あまり気にしません。自分の仕事とは程遠い仕事に関するノウハウ、すなわち個別解からも自らの個別解に解釈し直すことができるのです。

  他者(講師含む)の個別解 → 普遍解 → 自分にとっての個別解

こういう思考ができる人は、オープンな姿勢を持ち、どんなものからも学ぶことができる、学習能力が高い人なのです。

 

このような人には、できるだけ多くの事実をぶつけることが望まれます。しかも、できるだけ生々しいリアルな事実です。表面的な事実や理論をいくら提示しても、なかなか満足しません。講師の(極端に言えば)人生をさらけ出すような、真剣なぶつかり合いを求めているのです。講師にとって、楽な相手ではありません。しかし、うまくいった場合の受講者の学びの深さは、講師冥利につきるものでしょう。また、講師自身が学ぶことも多くあります。

 

講師にとって、対する受講者グループが、上記のうちのどれに属すかを見極めることが大切です。それによって、多くの抽斗の中からどれを選ぶかが決まってきますし、アプローチも決まってきます。

鉄腕アトム1.jpg今年は、手塚治虫没後20年ということで、様々な催しが企画されているそうです。NHKも手塚治虫のいくつかの番組を放送しています。たまたま、昨日観た番組で、山下達郎さんが「アトムの子」という自作曲について述べていました。

 

山下さんは、子供からの手塚ファンで、20年前に手塚が亡くなったことを聞き、あらためて「鉄腕アトム」を読みなおしてみたそうです。そうしたら、いかに自分が手塚漫画によって育てられかたを痛感し、そして「アトムの子」を書いたそうです。

 

いうまでもなく、「アトムの子」とは、アトムの血を分けた子という意味ではなく、鉄腕アトムという漫画によってさまざまなことを学び、影響を受けて成長して来た人という意味です。同じ番組で、坂本龍一さんも手塚漫画から、例えば、戦争は絶対良くないことだということを学んだと言っていました。ただ、頭ごなしに戦争は悪だと先生に言われたとしても、たぶん自分は理解しなかっただろうとも言っていました。

 

たまたま一昨日の夜、やはりNHKでロックの歴史をゲストと観客が語るという番組をやっていました。観客は、ロックに大きな影響を受けてきたほとんど40代以上のおじさん(と少しのおばん)30人くらいです。見た目は、必ずしもロックぽくなくても、語る言葉は熱いです。つまり、「ロックの子」なのでしょう。

 

「○○の子」という言われ方ができる人を、少し羨ましく感じました。彼らは、○○によって生き方や考え方の軸ができているのです。しかも、その軸は自分が大好きで選んだものです。考えてみれば私のまわりにもいました。ガンダムの子、竜馬がゆくの子、宝塚の子、などなど。

 

人が成長する上で、なんらかの指針や軸、あるいは視点は必要です。価値観と置き換えてもいいかもしれません。2日のブログで書いた師匠の殿堂の佐藤さんは、先生からの一つの問いが生きていく上での視点を与えたのです。佐藤さんのような「心に刺さった一言」も、いつも日光のように浴びている○○も、形は違いますがどちらも、人の成長に影響を与えるという意味では、同じ教育なのかもしれません。

 

では、教育をする立場になった○○の子は、今度はどうやって自分の子供や部下たちを成長させることができるのでしょうか。

きのう、アダットパートナー講師でもある藤井清孝さんの「グローバル・マインド」出版記念講演が、八重洲ブックセンターで開催されました。私もその出版に少しだけ関わっていたこともあり、聴講してきました。100席のところ、120人の予約を受け付け、さらに当日参加で立ち見の方もおられるほど盛況でした。

4478007659グローバル・マインド 超一流の思考原理―日本人はなぜ正解のない問題に弱いのか
藤井 清孝
ダイヤモンド社 2009-01-17

by G-Tools

 

 

講演の内容も良かったのですが、質問への回答が、さすがと唸るほど素晴らしいものでした。今回は、その質問のひとつへの回答について考えてみたいと思います。

 

それは、

「藤井さんは、どんな言葉でほめられたたら最も嬉しいですか?」という質問です。

質問者自身も言っていましたが、これはその人の生き方や価値観を如実に表すことになる質問です。

 

藤井さんも、しばらく考えた末、まずこう答えました。

「マッキンゼー時代は、『うちに来てよ』とクライアントから言われるのが一番嬉しかった。『いいコンサルタントだね』と言われると、それは暗に『コンサルタントとしては、優秀だが、実業は無理だろ』と言われているように感じた」

これは、かつてコンサルタントをしていた人間として、非常によく分かります。コンサルタントとしての評価に満足している人は、コンサルタント以上にはなれません。現状維持はがまんできないのです。

 

さらに、続けました。

「今なら、『藤井さんらしいですね』と言われるのが最も嬉しいですね。良くも悪くも私自身のことを理解してくれた。伝わったということですから」

 

いっぱんに、「あなたらしいですね」という言葉は、必ずしも褒め言葉ではありません。暗に「だから、あなたはだめなんです」と言っている可能性もあるわけですから。でも、それも含んで、ありのままの自分を理解してくれることが嬉しいというのは、なかなか言えるものではないでしょう。そこには、もちろん自信もあるでしょうが、それを超えて人と素直につながることに最大の価値を置いているからではないでしょうか。

 

褒めることは、人の動機付けの中でも最も重要なものの一つです。では、どうすれば相手は褒めらたと感じるのか。単純ですが、難しい問いです。相手の価値観を理解する感性がなければ、褒めることもできないということを、あらためて感じさせられました。

 

ところで、私は何と言われてほめられたいか?うーん、むずかしいです。

自分にとっての師匠とは、どういう人でしょうか。

普通の人は、落語家や職人と違って、別に誰かに弟子入りしているわけでもないですし、私淑している人がいるわけでもありません。

昨日の新聞に、作家の佐藤亜紀さんが面白いことを書いていました。

大学生の頃、英文の先生から「嵐が丘」を読んだかと尋ねられ、そんなものは中学生の時に読んだと自慢顔で答えたところ、「それで、本当にわかったのかい」と聞き返された。胸騒ぎを覚えて、あらためて読み返してみても中学生時代とそれほど違いはしなかった。でも、この胸騒ぎは以後もやむことがなかった。

この問いひとつで、その先生は佐藤さんの「師匠の殿堂」入りしたそうです。この、なんだか分からない胸騒ぎは、ずっと佐藤さんの考え方に影響を与えているのです。そんな問いかけをする人が、自分にとっての師匠なのかもしれません。決して、手取り足とり指導してくれる人ではなく。

19世紀イギリスの教育学者ウィリアム・アーサー・ワードという人がこんなことを書いています。

「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に火をつける。」

「それで、本当にわかったのかい」の一言は、佐藤さんに静かに決して消えない小さな火をともしたのでしょう。こういった師匠は、自分の周りにいく人もいるのに、ただ自分がそれに気付かないだけなんでしょうね、きっと。それに気付くかどうか、その差がヒトの学習能力を決めるような気がします。

 

 

このアーカイブについて

このページには、2009年2月以降に書かれたブログ記事のうちヒトの能力カテゴリに属しているものが含まれています。

次のアーカイブはヒトの能力: 2009年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1