ヒトの能力: 2010年1月アーカイブ

先週の土曜日、「サードプレイスコレクション2010というイベントに参加してきました。家庭でもない、職場でもない、「第3の場」の可能性について考えるというパーティーです。そこで、私が考えたのは、遊びと学びと仕事の関係についてでした。

 

一般に、「学び(勉強)」の反語のひとつは、「遊び」でしょう。また、「仕事」の反語のひとつも、「遊び」でしょう。すると「遊び」=「仕事」といえなくもないですね。(かなり、こじつけですが・・)

 

そこで、「遊び」とはなんだろうかという疑問を持ちました。すると、たまたま聴いていたFMラジオで松尾貴史氏が「遊び」の定義を話していました(誰かの受け売りだそうですが)。曰く、

 

「遊び」は4つの条件を満たしている。

1)    めまい:ジェットコースターに代表される不規則な身体的刺激

2)    物真似:ままごとに代表される何者かになりきること

3)    偶然:人生ゲームやギャンブルに代表される不確実性にさらされ、スリルを感じること

4)    競争:鬼ごっこやかけっこに代表される他者との競い合い

 

確かにどんな遊びも、何らかの形で4条件を満たしているような気がします。たとえば、私の謡の稽古も一種の遊びです。大きな声を出すことより、軽いめまいを覚えることもあります。もちろん先生を真似ることがベースであり、稽古仲間の進歩を意識するということは、実は競っているのかもしれません。謡い方の基本ルールはありますが、状況により変化することも多く、未熟な私から見れば偶然性に依存しているようにも思えます。この遊びの4条件を満たすから、謡も遊びとしてわくわくし楽しめるのかもしれません。

 

このような「遊び」から、学んでいることは確かです。子供は遊びから、社会生活の要素を学びます。学びが仕事に役立つこともきっとあるでしょう。そして仕事が充実すれば、遊びにも力が入ろうというものです。

また、反対の回転もありそうです。仕事を通じて学び、学びのプロセス自体が遊びになっていき、遊びの中から仕事のヒントがうまれるというサイクルです。

 

どちらにしても、遊びと学びと仕事は対立概念ではなく、それぞれ補完し合うものだと考えるべきでしょう。そうなると、先ほどの遊びの4条件を、学びや仕事にも適用してみたくなりますね。

 

ところで、土曜のパーティの帰りに、プレンゼンターの一人だった上田信行さんの著書「プレイフル・シンキング」を見つけ買いました。そこにこういうフレーズがありました。

プレイフル・シンキング
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プレイフルとは、物事に対してワクワクドキドキする心の状態をいう。どんな状態にあっても、自分とその場にいる人やモノを最大限に活かして、新しい意味を創りだそうとする姿勢(中略)。プレイフルな状態を生みだすための思考法が、「プレイフル・シンキング」である。(中略)

 

人生を楽しく豊かにしてくれる一番の経験は、「学び」である。学びとは、学校や本での勉強ではなく、人やモノとのかかわりにおいて自分の頭で考え、発見し、創造していく学びのことだ。日々の実践を通して人は学んでいくのだと考えれば、働くということもダイナミックな学びの場だといえる。そして、楽しさの中にこそ学びがある。

 

「プレイフル・シンキング」とは、遊び心のことかもしれません。学びも仕事も、何事も遊び心をもってのぞめば、楽しく前に進んでいけそうな気がします。

本日の日経朝刊、スポーツ欄のコラム「フットボールの熱源」に、こうありました。

 

あるJリーグの中心選手のこんな嘆きを聞いた。「うまくないたいと思っているのだけど、どこに問題があって、じゃあ何をどうしたらいいのかと、自分で考えないプロがいるんですよ。そういう選手を見ていると、もったいなあと思う」(中略)

 

サッカーについて、奥行きのある話のできない選手がわりと多い。それは普段サッカーについてとことん考え抜いていないからではないか。サッカーは監督やコーチが教えてくれるものと思っているのではないか。(中略)

 

選手の独学精神を育むことこそ、指導者の最も大事な仕事なのではないか。

 

 

これを書いている吉田誠一記者のサッカー記事には、以前から気になっていましたが、やはり面白い視点です。

 

Jリーガーですら、「学校の生徒」みたいになっている。いわんや、ビジネスパーソンをや。上司や先輩が自分を育ててくれると、待っているのでしょうか。

 

このコラムで一番共感したのは、最後のフレーズです。指導者とは、指導することよりも、選手が自分で学ぶように躾けることだと言っている点です。

 

 

数日前の「カンブリア宮殿」で、劇団四季の浅利慶太氏が、オーディションで何を見るのか?との質問にこう答えていました。

 

「部屋に入り、名前を述べた時点で、だいたいの才能はわかる。歩き方で、骨格や体の使い方がわかるし、話せば声量や声の質はわかる。しかし、わからないのはどれだけ根性があるかどうかだ。これが重要なのだが、取ってみなければわからない。」

 

そういう所には才能あふれる人しか集まりません。何がその後の成功を決めるかといえば、運と根性なのでしょう。根性は、独学精神にも通じる気がします。世界は違いますが、イチローにしろ、松井にしろ、有り余る才能に強烈な独学精神を持っているのは明らかです。

 

スポーツや演劇の世界であろうが会社であろうが、独学精神を育むことは、ものすごく大変でしょうが、「学び方を学ばせる」ことなら、なんとかできそうな気がします。そんなところから、地道に始めるのがいいかもしれませんね。

教えることは学ぶこと。これには二つの意味があると思います。ひとつは、教える現場での学び、二つ目は準備段階での学びです。

 

 

ひとつめ。

特に企業研修の場では、講師も受講者も「学ぶ」という一点においては同等です。受講者がビジネスパーソンの場合、講師より経験でも知識でも上回ることは珍しくありません。また、自分(講師)にない視点を提供してくれます。なので、講師が、教えながら受講者から学ぶのは当たり前のことです。

 

 

ふたつめ。これが、ものすごく重要です。

講師を務めるには、膨大な準備が必要です。担当するテーマについて、講師は豊富な経験や知識を持っているのもまた当然ですが、それらは断片的な経験や情報、知識の蓄積であり、倉庫に雑多にぶち込まれている状態です。とはいえ、本人はどこに何があるのかは把握しており、必要があれば割と容易に引き出せます。

 

ところが他者に教えるとなったら、話は全く別です。他者たる受講者に、そんな倉庫をただ見せても、何がなんだかわかりません。

 

そこで、倉庫内の棚卸と整理が必要になります。これが大変です。まず、何が教えるのに値するのかの仕分けが要ります。そこでは、一定の概念化がなされるはずです。単なるデータや情報ではなく、ある目的に合致した知識のレベルに抽象化しないと、伝えることはできません。

 

次に、教えたい情報や知識(コンテンツと呼びましょう)が、それぞれどういう関係にあるかを整理します。一見ばらばらに見えるコンテンツにも関連性があります。そして、学ぶのに最も役立つのは関連性だからです。

 

次には、学び手の頭の構造を想定した上で、コンテンツを展開する流れ、すなわちストーリーを創る必要があります。やはり、ドラマチックな展開のほうがインパクト強く学び手の頭に入りますので、それも意識したいです。自分が言いたい順番と、他者が知りたい順番(すなわち渇望感)、そして他者が理解しやすい順番は異なります。

 

このように、結構大変です。このプロセスは概念化とコミュニケーションのプロセスともいえます。つまり、他者の視点を組み込んだ(したがって独りよがりではない)経験学習がなされているとも言えるのです。非常に効果的な学習がなされるはずです。そして、それは大きな財産となります。一度、このプロセスをやりおおせれば、自分の頭の中が整理できるだけでなく、経験学習の仕方も体得できるからです。そうなれば、学習能力もぐんとアップするでしょう。

 

こんなに素晴らしい体験を、外部の講師だけにやらせておくのはもったいない。研修といった特殊な状況に限定せず、社員が教える機会を、もっともっと増やすべきだと思います。忙しさにかまけて教えないと、自分も学べなくなるのです。ただし、倉庫を開けるだけでは意味がないことは、言うまでもありません。正しい手順に従いましょう。

 

「本物にどれだけ触れてきたかが、長い目で見れば人間としての能力や魅力の大きな差につながってくる」

 

昔何かの本で読んだことがあり、それがずっと頭の中に残っています。流行に左右されるものでない本物は、人間の核を形成するのに大切だと思います。

 

また、田中清玄がこう書いていました。

 

「あらゆる物質は、核がなければ結晶しない。人間も同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。」

 

核とは、歴史に耐えてきた本物なのでしょう。本物に触れ、そこから何かをつかみ取り、自分自身の核を形成していく。そのことの重要性を、思い出させてくれたのが、1/4の日経朝刊に掲載されていた、今井賢一氏による「経済教室」の論稿でした。

 

東京の強みは、「多様な技術・文化変換装置」としての優位性にあるそうです。世界のあらゆるハード・ソフトの技術と文化を吸収し、修正し、複製を超えて再創造し、違うものに変換して再び世界に戻す能力にかけては、東京は世界一だと論じています。

 

そして、東京にそれが可能なのは、東京の奥に存在する京都・奈良に「歴史に培われた本物」があり、それにつながっているからだといいます。本物につながっているからこそ、新しいものを貪欲に取り入れ変換することができる。

 

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私も10年前くらいまでは、京都・奈良との接点がほとんどなく、東京の喧噪に流されているように感じていました。その後、仕事の関係で関西方面に行く機会が増え、京都・奈良にも何度も通うようになりました。そこで、何度も「なんだ、こういうことだったのか」と、現在と過去のつながりに気づかされたものです。それによって、少しは物事を立体的に捉えることができるようになった気がします。

 

 

都市も人間も、その意味では全く同じなのでしょう。日本という国や日本人として、まだまだ誇りを持ち世界に発信できるものがたくさんあります。何かと元気がなくなる話題が多い今日この頃ですが、歴史に培われた本物を核として、世界に貢献することを考えていきたいものです。

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