ヒトの能力: 2009年4月アーカイブ

昨日あるFM番組で、歌謡曲の歌詞を研究している大学准教授が、90年代になって急に「自分らしく」とか「本当の自分」といった歌詞が増えたと言っていました。そういえば、たしかにオンリー1とか自分探しの旅といった言葉は、かつてはそれほど耳にしなかったように思います。自分らしさを追求しながら、空気も読まなければいけないのですから、大変です。

 

思春期に、生きていくことの意味を模索することは、文明社会になってからは通過儀礼のごとく自然なものとしてあり続けています。しかし、それとは少し違うニュアンスのようです。

 

果たして、自分らしさとか、本当の自分を見つけることなど可能なのでしょうか。そもそも、本当の自分など存在するのでしょうか。劇作家の平田オリザさんが、「自分らしくないことを悩むのではなく、自分がそこでの役割を演じ切れないことに悩むべきだ」といったこと(うろ覚えですが)を、昨日朝日新聞に書いていました。

 

もし、何となく自分らしくないなと感じたとすれば、そういう自分こそがまさに自分らしいのだと思います。自分らしさ追い求める姿勢は、正解が常にあって、それを見つけ出さなければならないという姿勢と重なって見えます。

 

そもそも正解などないし、仮にあったとしても、一体いつ誰がそれを正解だとして丸をくれるのでしょうか。

 

平田さんが言うように、人間はいろいろな側面を持っています。つまりいろいろなペルソナ(仮面)を使い分けているのです。今のペペルソナ.jpgルソナを演じ切る力こそが、生きていくために必要なスキルのように思うのです。

 

そう考えると、かつて、俳優は俳優らしい、政治家は政治家らしい、大学教授は大学教授らしい顔つきをしていたように思います。いったいいつの頃から、ペルソナより「自分らしさ」を追い求め、表現することに価値を置くようになったのでしょうか。「こんな僕だけど、実は財務省にいます・・・・」なんてね。

 

自立した個人と自分らしさは、全然関係ないとは言いませんが、同じものでは決してないでしょう。たしかパスツールだったと思いますが、こんな言葉があります。

「流れに従い、流れを制す」

 

流れに従うということは、ペルソナをかぶりそれに徹するということに通じます。そして、その結果自分の思うような結果を獲得する。後世に名をなす人の共通点かもしれません。振り返ってみれば、自分らしい人生だったのでしょう。

洋画家中川一政は、大好きな画家のひとりです。彼が世に出た最初は、歌人としてでした。だから、彼の随筆はとても深く面白いのです。また、書も大変味わい深く、見ていて飽きません。

 

真鶴に中川一政美術館があります。真鶴という土地も、美術館もとても素晴らしく、何度も訪れました。最初に訪れたとき、見つけたのが、「われはでくなり」の絵です。

我は木偶なり.jpg 

「でく」とは木偶であり、人形のことです。その絵に書かれている文字も、なぜか気に入りました。

 

「われはでくなり。つかはれて踊るなり」

 

 

最初は、中川のように強い意志をもって、絵を描き続けてきた画家が、木偶とか使われるとか、受け身の言葉を書くことに、違和感を覚えたのです。

 

ところが、最近私もこの言葉が好きになってきました。

 

「主体的意思を持って、判断し行動するのが立派な人間である。他人に使われるのではなく、使わなければならない。そのために、長期的ゴールを設定し、現状の自分とのギャップを埋めるべく、日夜努力すべきだ」

 

というパラダイムに、これまで無意識に縛られていたように感じます。しかし、そういうふうに考えことは、傲慢なことではないかと思うようになってきました。

 

「所詮、小さな人間が考えることなんて知れている。自分が、自分が、と思っても、より大きな世界から見れば、当たり前のことが行われ、当たり前の結果が起こっているに過ぎない。謙虚に、天に遣われるがごとく、自分の役割を粛々と演じ、踊り続ければいい。」

 

そんな、ことを中川は言いたかったのでは、と思うようになったのです。

 

先日、神保町の古本屋で、中川の画集を手に入れました。それに、一枚銅版画が附録としてついていたのですが、それが「われはでくなり」の版画だったのです。

 

今も背後から、木偶の目が「お前も木偶だ」と言いながら、私を見続けています。

企業の中で営業に関わる仕事をしていない方は、それほどいないのではないでしょうか。必ずしも営業部門でなくても、社内外問わず、相手に対して説得して購入や活用していただくことは、ビジネスの基本中の基本ですね。

 

ということは、ほとんどの方は営業される立場にも立つわけです。営業されるほう(買い手)は、何らかの目的があり、それを達成することに役立つモノや知恵を探しています。営業する方(売り手)は、それにドンピシャのモノを提示できれば、契約成立です。

 

買い手は、売り手が持つモノ(能力含め)が果たして自分にとってどれだけ役立つものなのかを想像しなければなりません。当然、売り手も買い手が欲するモノが、何なのか、そして自分が持つモノが買い手にとってどういう形で役立つかを想像しなければなりません。

 

お互い長い付き合いで、良く知っているもの同士であれば、それほど難しくないかもしれません。だから、長期的関係はビジネスにとって重要です。(取引コストが安い)

 

ところが、知ったもの同士だけであれば、新しい状況にはなかなか適応することが難しい。特に近頃はそうです。

 

そうなると、常に新しい相手とのやり取りが欠かせません。だから、想像力が重要なのです。

 

私のこれまでの経験では、優秀なビジネスパーソンは、この想像力に長けています。買い手の場合、直近の課題には有効でなくても、いずれ来るであろう将来の課題に役立つモノはないか、という眼で売り手の先にあるモノを探ろうとします。同様に売り手も、そのような先を想像しながらコミュニケーションを進めるわけです。

 

こういった、空間(今のあらゆる課題)と時間(将来の課題)の両面からの想像力を持つ人が、仕事ができる人といわれるのでしょう。もっと、もっと想像力を鍛えなければなりません。

 

先日、ある英会話教室を展開している会社の前社長とお話しする機会がありました。

 

その方曰く、「英語は読む・書く・話すことで修得するのが一般的だが、そこに見る、を加えるべきだと思う。」

 

有名なキング牧師の演説を映像で見て、アメリカや英語が好きになった人は多いのではないでしょうか。また、先日のオバマ大統領の就任演説を見て、やはり英語に関心を深めた方も多いと思います。実際に、演説を収録したDVDや本も多数出版されています。

オバマ.jpg 

このように、見ることで、学ぶきっかけをつくり、また見ることで学ぶ力は、やはり相当大きいと思います。

 

「何を言ったかよりも、誰が言ったかが大切」という言葉もあります。それは発話者の権威や権力によるということだけでなく、発話者の持つエネルギーやパワーを、コンテクストとして受け入れることの有効性を語っているのではないでしょうか。

 

スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での講演や、ランディ・パウシュの「最後の授業」は、YouTube等で世界中に配信され、大きな影響力を与えたと思います。

 

見ることに代表される五感をふる活用して、対象(講演者や講師、師匠など)が発するコンテクストを受容し、自分が持つコンテクストを擦り合わせ、そして自分のコンテクストを拡大していく、それが学習なのかもしれません。

 

知識や情報、データに代表されるコンテンツは、客観的事実かもしれませんが、それだけでは、ヒトに影響を及ぼしません。及ぼすのは、他者や社会との相互作用(インタラクション)の中で紡ぎ、意味付けしたあらたなコンテクストです。ここでのコンテクストとは、世界の観方に近いかもしれません。

 

学ぶことにおける、「本物」を見ることの重要性を、あらためて考え直してみたいと思います。

企業の人材開発で必ずあがるテーマが、コミュニケーション力です。職場でのコミュニケーション力が落ちている、若手社員のコミュニケーション力が低下しているなど、コミュニケーションの問題は、ほぼ全ての企業に共通するでしょう。

 

では、ここで問題となっているコミュニケーションとは、何を指すのでしょうか。2,3年前、KY(空気が読めない)という言葉が流行りました。流行るということは、「空気を読むことが重要だが、時にそれができない人がいる。それを、指摘し、読めるようにしてあげよう。」という共通認識があったのでしょう。

 

では、KYができる人はコミュニケーション力が低いのでしょうか。もちろん違いますね。コミュニケーション力の一部に、相手への配慮や感受性は含まれますが、それだけではもちろんダメです。

 

KYの優れている人はどこにいると思いますか?古い体質を残した大企業やオーナー企業の役員会に行くと、数多く観察できます。そこでは、グループシンクが蔓延っています。グループシンクとは、集団での同調性を重視するあまり、皆同じ意見に収束することです。和を乱さないことが最優先されるのです。(オーナー企業では、オーナーへの同調の形を取ります)

 

KYは、一方的に受け入れ同調するわけですから、片方向です。コミュニケーションとは、双方向のもののはずです。

「ダイアローグ 対話する組織」(中原淳/長岡健共著)によると、コミュニケーションは以下の二軸で整理できます。

ダイアローグ 対話する組織
中原 淳
4478005672

 

 

・「相互理解」を重視⇔「情報伝達」を重視

・「個人の主体性」を重視⇔「組織の結束力」を重視

 

KYやグループシンクは、「情報伝達」X「組織の結束力」ですね。今、どのコミュニケーションが問題なのか、を的確に認識した上で、人材開発の施策を考えるべきなのでしょう。

 

謡をここ二年ほど習っています。昨晩も稽古がありました。帰り道、稽古仲間(といっても随分年長の方です)がこう言われました。

yarai-stage.jpg 

「英語を習うにも、まず文法を勉強しますよね。謡にもいくつかのルールがあるわけだから、ただ謡うだけでなく、本に書いてある記号の意味から入ればいいと思うのに、何でですかねえ?」

 

私も、かねがねそう思っているのですが、あえて今のスタイルでやってみることを試しているところもあります。

 

明治維新後、日本の教育が西洋の進んだ学問を取り入れるべく、科学的学習法も輸入してきたのでしょう。科学的とは、一言で言えば「分ける」ことです。あえて、右と左の選択肢を用意し、どちらかを選んでいくことで再現性も実現でき、広く社会に浸透させることができます。

 

文字に落とすことは、言いたいことのうち文字に落とせる部分だけを残す作業に他なりませんから、やはり分けることです。

 

しかし、東洋では、古来分けることをよしとしませんでした。禅に「不立文字」という言葉があります。禅の教えは、経典では学べません。師との会話(一休さんの「せもさん、せっぱ」です)や修行を共にすることにより伝承されていくと考えます。だから、文字は立たないのです。

 

古典芸能には、この考えがまだ残っています。いわば文化財です。なので、せっかく残った古来の「学び」をしっかり、体験してみたいと思うのです。

 

でも、つい先生に、「以前は○○だったのに、なぜ△△なんですか?何が違うのですか?」と質問したい衝動に駆られます。それに、耐えることも修行だと言い聞かせています。

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