社会: 2011年3月アーカイブ

あの震災から18日が経ち、窓から眺める桜も開花を始めました。どんな災難を
引き起こそうとも、自然は淡々と季節を進めます。原発の不安はつきまとうもの
の、何となく平常モードに戻ろうかと思っていた矢先、知人から以下のブログを
紹介されました。


TVや新聞が伝える被災地の「公式」情報しか知らない、現実はあらゆる意味で
それらを超えているとことを思い知らされました。


わずかの募金協力と節電くらいしかできない無力さを痛感する日々ですが、
JKTSさんのブログを一人でも多くの方に読んでいただくことが何かの役に立つ
ような気がしてAdat.通信臨時号をお送りさせていただくことにしました。
(既に読まれた方はご容赦ください)


=========================================================

【被災地へ医療スタッフとして行ってきたJKTSさんの手記】
被災地へ医療スタッフとして行ってきました。短い間でしたが貴重な体験と
なました。
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing


========================================================

上記をAdat.通信(メルマガ)で配信しました。

あらためて、JKTSさんの手記がなぜこれほど心を打つのか考えてみました。

 

地震発生後、未曾有の映像(量も質も)に触れてきました。でも、そこには遺体も出てきませんし、なかなか体温を感じることができません。TVレポーターだか記者は、避難所を回っては「今一番欲しいものはなんですか?」と同じ質問を繰り返します。もちろん、不足物資をヒアリングすることは意味のあることではありますが、まるで物乞いに話を聞くような臭いをかいでしまいます。他にもっと伝えるべきことがあるのではないか?

 

私が一番心を打たれた被災者の言葉は地震翌日だったと思います。

40代くらいの眼鏡をかけたしっかりした印象の女性が、マイクにこう語りました。

 

「地震が起きた時は、自宅から離れた職場にいたから津波から逃れられた。でも、家には主人と二人の子供がいた。でも、家は流され、どこにいるのかわからない・・・。いやだよおー、一人ぼっちになっちゃう・・・・」

 

彼女は、最初は冷静に見えたのですが、「どこにいるのかわからない」と言ったあたりから震え始め、「いやだよお」と言うときは、嗚咽していました。自分が生きていても、家族が亡くなってしまえば、それは死んでいるのと同じことだと言っているように感じました。人は一人では存在しえず、つながりの中でしか存在できない。それが突然断ち切れてしまう、その無念さというか恐怖に心を動かされました。インタビュアーは、何も言葉を発せられませんでした。

 

 

TVなどの取材映像では、真実はなかなか伝わりません。なぜなら、伝える側が当事者ではなく、まさしく「メディア」であり彼らのフィルターを通さずには伝えられないからです。

 

しかし、JKTSさんは正しく当事者です。今回に大震災では被災者が携帯電話などで移した映像もたくさん公開されています。生ではありませんが、たくさんの当事者が記録し、しかもすぐに世界へ公開したという歴史上初めての災害かもしれません。もちろん既存メディアも大挙して現場へ入り報道を続けています。あらゆる情報が入り乱れ、何が本当なのか、何を受け止めればいいのか、受信する側の情報処理能力が問われているような気がします。また、それは合理的判断だけなく、感情面特に共感力、さらに想像力が重要になっているようにも思えます。

 

JKTSさんの手記は、立場や役割などを考慮することなく丸裸の感情が素直に綴られ、それが読み手の共感力に強烈に訴えるのだと思います。「伝えること」の意味を考えさせられる思いです。


311日に発生した東日本大震災の余波はまだまだ続いており、なかなか落ち着くことはできません。海外の報道では、被災者の冷静な対応への感嘆の一方で、福島第一原発事故関連では過剰とも思えるほどの警戒感をもって受け止められているようです。日本に駐在する外国人の帰国ラッシュも続いています。ある企業の人事の方は、本人の意思による帰国に人事としてどう対処すべきか困っていると述べておられました。

 

このような危機的状況の下では、その国民性が如実に表れてきます。こんな時私自身、日本人のDNAを感じます。話をシンプルにするために日本人と欧米人の比較で考えてみましょう。

 

欧米は国境を挟んでの戦争の長い歴史を持ちます。地続きの隣国がほとんどですから、彼らは他国の侵略から守るために大きな城壁で囲まれた都市国家を形成しました。さらに、戦争にならないように外交戦略を駆使したり、また仮に戦争が起こっても生き残れるようにさまざまな準備をしました。武器の開発生産はもとより、効果的な防衛組織や持って逃げられる貴金属による財産保全、あるいは親族を他国に住まわせ情報網を整備するなど、あらゆる事前対応を駆使します。一言でいえば事前準備や予防に徹底的に知恵を使うのです。そこでのキーワードは、予測と戦略思考です。そう考えれば、日本駐在する外国人が避難帰国するのは当然です。

 

一方、日本は戦国時代などの一時期を除いて戦争の歴史は長くはありません。それよりも、戦うべき相手は人間より自然でした。(だからこそ普段は自然との共存を目指すともいえます)日本は古代から地震などの天災被害を運命づけられています。天災からは誰も逃れることはできません。もちろん、堅牢な家を造るとか避難訓練を怠らないとかの準備はできます。しかし、今回の地震と津波のように、人間の予測など軽く超えてしまう天災が訪れるのです。そうなると、起きることは仕方ない。起きた後にどういち早く立ち直るかが肝心です。キーワードは、無常観と一致団結した復興です。無常観は、徒然草や方丈記を引き合いに出すまでもなく日本文化の底流に確実にあります。一致団結した復興も、敗戦後は言うに及ばす95年の阪神大震災後でも本領を発揮しました。明治維新も復興だと言えるかもしれませんし、関東大震災後も帝都復興の旗印のもと東京は新しく生まれ変わりました。こういった無常観と復興の活力が我々日本人のDNAに組み込まれているのではないでしょうか。

 

したがって、欧米人から見るとなんて日本人は冷静かつ復興のバイタリティーにあふれているんだ、となります。その反面で、東電や政府に見えるいい加減な予防策や計画性の欠如、場当たり的対応、システマチックで統合された行動の欠如、などの欠陥が目につくはずです。このような日本人の特性は鏡の裏表の関係だと思われ、どちらも好ましくすることは究極的には不可能なのかもしれません。

 

 

話は少し変わりますが、この特性は企業行動やガバナンスにも見られます。欧米企業は株価を最重視します。株価とは将来の予測に基づいている指標です。それが下がるということは、将来を暗くすることであり、それを事前に防ぐために経営者をすげ替えるという外からの圧力が加わります。また一般に戦略性の高さは日本の比ではありません。

 

翻って日本企業では、株価は経営者をすげ替えるほどの圧力にはなりません。代わりに重視するのは(会計上の)利益です。赤字が続くようですと、経営者へ(空気のような)圧力が加わります。ここで間違ってはいけないのは、利益とは過去の経営成績であり未来を予測した指標ではないことです。連続した赤字は天災のようなもので、心機一転新しい経営陣の下で一致団結して復興を図り、利益を増加させていこうという、暗黙の合意があるではないでしょうか。(米国企業は四半期決算とそれによる株価変動に右往左往する短期志向であり、一方日本企業は腰を据えて長期的投資を重視するとの見方もありますが、ここではそれには触れません)

 

欧米型の株価重視と日本型の利益重視、そのどちらがいいかはよくわかりませんが、ただ言えることは、それらは単なる経営者や投資家のスタンスの違いではなく、もっと人間深くに根ざしているということです。

 

 

今回の天災は被災者のみならず、日本人全員に対して大きなダメージを与えるものです。それは間違いありません。ただ、我々が得意とする復興によって新しい日本を創りだす好機であると考えることもできるのではないでしょうか。被災者や遺族の方々の現在のご苦労を考えれば不謹慎かもしれませんが、それが亡くなった方々へのはなむけではないでしょうか。3.11後は、そういう覚悟をもって生活していきたいと思います。

2011年311日は、1945年815日やアメリカにおける20019月11日と同じように、その前後で世の中が変わったと後世に伝えられる日になったと思います。危機的状況のもとでは、人間の本性が顕れてくることが実感としてわかりつつあるような気がします。

 

被災者の方々の姿を報道で目にするたびに、自制心、助け合いや心遣い、共感といった徳性や勇気が人間の本能なのだなあとしみじみ嬉しくなります。普段は「楽」に覆われて見えなくなっているだけなのですね。(我欲に溺れた日本人への天罰だとの石原都知事の発言はきっと、自らのことを語ったのでしょう)一方、都内のスーパーなどで、生鮮食料品の棚がガラガラとなり、人々が大きなレジ袋を抱えてそそくさと家に急ぐ姿を見ると、少し残念な思いがします。自宅近くのガソリンスタンドですら、朝から車が長い列を作り、昼過ぎには品切れなのでしょう、店じまいしています。どこからそんなに自動車があらわれてくるのか、不思議でなりません。(思いやりVS保身)

 

また政府の会見やTV報道での学者らの解説を注意深く観ていると、情報公開に関する不自然さや、まるで子供のサッカー試合のような、皆がわーっと同じポイントに集まってわいわいがやがや発言し、しばらくするとまた別の新しいポイントに一斉に移動して同じようにわいがやする、その全体感のなさに、がっかりすると同時に空恐ろしくなります。(寄らしむVS知らしむ)(ミクロVSマクロ)

 

昨日、プロ野の開幕についてパリーグは412日に延期、セリーグは予定通り今月25日開始と発表されました。選手会は延期を希望しているにも関わらず。ある選手は、この時期に試合で国民を励まそうというのは思い上がりだと、発言していました。セリーグ球団代表らは、野球選手は試合で国民に勇気を与えることが仕事だといいますが、被災者の心情だけでなく、停電におびえる関東、東北の人々に、3500世帯分以上の電力を使ってナイターを実施し与えられるという勇気とはいったいどれほどのものなのでしょうか。私は、選手会の意見のほうが遥かに常識的だと考えます。(励ますVS寄り添う)

 

このように危機では、難しいトレードオフの問題に直面せざるを得ません。福島第一原発では、現在も現場のスタッフが放射線被爆の恐怖と事態収拾の狭間でぎりぎりの判断と行動をしています。(安全VS効果)これまでは、「楽」のぬるま湯にみんなが浸かり、真剣にトレードオフに向き合ってこなかったのかもしれません。政治も企業経営も社会生活も。(年金問題はその代表でしょう。政治の役割とは、重要な国家的トレードオフに対して意思決定し、説得することです)しかし、今回起きつつある大災害で、これまでぬるま湯でいられたのはある特殊な時期だったからだとの事実に我々は気づくことでしょう。そして、それ、夢のように過ぎ去ってしまったと。

 

これは、「目覚め」のきっかけなのかもしれません。黒船が下田に現れたときや、太平洋戦争で敗北したときのように。そういう意味では、これから日本が大きな上昇サイクルに乗る可能性を秘めているといえるでしょう。ただ、それは一万人を超えるといわれる犠牲者の上に築かれることを決して忘れてはなりません。のど元過ぎれば・・・というのも日本人の特性ではありますが、しかし今回こそは我々のメンタルモデルを大胆に変えるラストチャンスだと覚悟すべきだと考えます。

このアーカイブについて

このページには、2011年3月以降に書かれたブログ記事のうち社会カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは社会: 2011年2月です。

次のアーカイブは社会: 2011年4月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1