社会: 2013年10月アーカイブ

昔は生しかなかったはずです。しかし、科学の発展とともに再生や複製を可能にする技術が進化、同時に生産性の爆発的向上をもたらし生産コストの低減を実現しました。その結果、それまで一部のお金持ちや特定階層にしか手が届かなかったものを、一般大衆にも行き渡らせることができるようになりました。印刷やラジオ、レコードといったアナログメディアや生産技術の革命。それは空間の拡大をもたらしました。そして、次に開発されたデジタル技術はそれらをさらに推し進めると同時に、情報の高速化と半永久化することに成功しました。つまり時間の拡大。

 

例えば、かつて貴族のサロンで演奏されていた音楽は、レコードに記録され、次にラジオで放送され、遂にCD録音を経てネット配信。今では、誰でもどこでもデジタル化された演奏を聴くことができます。

 

情報の民主化という意味では、行きつくところまで来た。それはいいことでしょう。しかし、その反動か、生やアナログに対する再評価も高まってきている気がします。ただでデジタル情報を配りまくり、稼ぐのは生の場(例えばライブ)で、というモデルです。

 

生、アナログ、デジタルそれぞれの価値を、あらためて考え直す必要があると思われます、

 

例えば、写真の世界。写真家の小林紀晴さんがこんなことを書いています。

 

ただ、いくつもの(銀塩)写真を目の前にして感じたことがある。存在の大きさだ。それを突き詰めて考えれば、撮られたフィルムがひとつだけしかないという点からきている気がする。(中略)だから人は銀塩写真が持つ、儚さやあやうさに惹かれるのではないか。

 

アナログ写真に特有の「あじ」があると言っているわけではありません。(LPレコードには、CDにはない「あじ」があるという人はいますが・・)それ以前の、「存在」に関わるところに価値があると言っているわけです。これは合理的には説明できない感覚でしょう。でも、絶対にある。

 

私が今仕事中に水を飲むために使っているグラスは、吹きガラスでつくったグラスです。普通のグラスは、型に溶けたガラス成分を流し込んでつくるものです。その方が均質で薄くて整った製品を、大量に安く生産できるからです。一方、私の使っているグラスは、職人がひとつずつ溶けてガラスの球に息を吹くことで形をつくるため、少々ぼてっとしていびつでもあります。しかも、少しだけ値が張る。なぜ、それを自分だけのため(他人に見せるためでなく)に使っているかといえば、それをつくった製作者の顔と汗が思い浮かぶからとしかいいようがありません。それは、見栄えや機能とは全く関係のないことです。

 

銀塩写真も吹いてつくったグラスも、理性よりも感性、しかもモノそのものよりもそれが出来上がるまでのプロセス全体への敬意といった感覚が価値の源泉になっている気がします。それを、「モノからコトへ」と表現する人もいるでしょう。

 

マクドナルドよりモスバーガーが好きなのは、カップを使い捨てにしないこともひとつの理由だと思います。効率追求のデジタルよりも、ひと手間かけたアナログに好意を感じる感覚、そう理屈ではなくあくまで感覚。

 

しかし、当たり前ですが、全てがアナログ時代に戻るべきだと考えているわけではありません。それぞれの価値を認識した上で、適材適所で使い分ける、あるいは組み合せることが大切です。つまり、1軸だけで全ての優劣を決めてしまうような偏った見方ではなく、それぞれの良さを認める懐の深さといいますか度量の広さ、これがこれからの時代にはますます重要になってくる気がするのです。

 

部屋で一人静かにCDの音を聴くのもいいですし、コンサートホールで多くの聴衆とともに生の演奏を体験し、時間と場を共有するのもいい。どちらにも、それぞれの喜びがあるということです。(なんだか、当たり前のことを書いてしまった気がします。)


ところで、教育の世界でも、MOOCの登場によってやっとデジタル化が追いついてきたようです。生とアナログとデジタルをどう組み合わせるか、面白くなりそうです。

 

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