社会: 2011年8月アーカイブ

震災直後に雑誌アエラは、防毒ガスマスクをつけた顔のアップを表紙にした「放射能がくる」という特集号(3/28号)を出しました。ご記憶の方も多いのではないでしょうか。「最悪の事態ならチェルノブイリに」

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と特集サブタイトルに書かれた本誌は、販売直後から風評被害を煽り読者にいらぬ恐怖心を与えると、一斉にパッシングが起きました。正直、私も表紙を見ただけで、不快に感じたことを覚えています。

 

そして、日本挙げてのパッシングに耐えきれず、アエラは3/20にツイッター上で謝罪しました。

 

AERA』今週号の表紙及び広告などに対して、ご批判、ご意見をいただいています。編集部に恐怖心を煽る意図はなく、福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます。
編集部では今回いただいたご意見を真摯に受け止め、今後とも、様々な角度から全力を挙げて震災報道を続けていく所存です。最後になりましたが、被災者、関係者のみなさまには心よりお見舞い申し上げます。



震災直後には炉心溶融が起きていたことを既に知った現在の私たちにとって、このアエラの報道は過剰なものとは思えません。チェルノブイリと同じ危険度と政府が公式発表していますし。

 

「危険を煽る」と「危険との警鐘を鳴らす」の差は何なのでしょうか?

「風評被害」という言葉の意味は何なのでしょうか?

 

「はてなキーワード」で「風評被害」をひいたら以下とありました。

 

災害、事故、虚偽の報道や根拠のない噂話などによって、本来は直接関係の無い他の人達までが損害を受ける事。というのは建前で、このことばが使われるとき、実際は根拠のある被害を誤摩化し、被害者への同情を、無知な人たちから集めている場合が多い。

因果関係を考えるのに疲れた人たちが使う便利な言葉。

 

うーん、なかなか味わい深い説明です。「本来は直接関係ない」ことを証明することは、限りなく難しい。一方、「実際は根拠のある」ことも同様に証明することは困難です。つまり、風評被害という言葉を使うこと自体、明らかな場合を除いては情緒的なものであるということです。さらに、情緒的とは、山本七平いうところの「空気」に流される、いや支配されることとも言えるでしょう。これがもっとも怖いことです。

 

今、冷静になってみれば、アエラの特集記事も決して危険を煽っているとはいえません。適切な警鐘を鳴らしているとすら言えると思います。しかし、当時の空気は明らかに、「アエラは恐怖心を煽って売上を稼ごうとしている」でした。風評被害にあったのはアエラのほうだったのかもしれません。


ではなぜ、そういう空気になったのか?

1.願望:大事故になってほしくなかったから

2.お上への盲信:政府の発表を信じた(信じたかった。信頼はしてなかったが・・)

3.共感:原発被災者への同情

4.横並び:みんなそう言っているから

 

これが我々日本人の特性なのです。「空気」に支配されないだけの自律心を、戦後66年を経過しても全然獲得できていない。そのことに、がっかりしてしまいます。

 

そこから抜け出すには、「水に流す」ではなく「振り返る」ことが必要だと思います。例えば、アエラの記事を再評価するというような。

 

この1ヶ月で読んだ本のうち、「『フクシマ論』 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(関沼博)と「大地の芸術際 ~現代美術がムラを変えた」(北川フラム著)の二冊が、頭の中で共鳴しました。

 

両著とも副題に「ムラ」がついていることからわかるように、どちらも貧困と過疎、そして高齢化にさらされている地方を題材にしています。「フクシマ論」は福島原発周辺地域がいかに原発を持つようになったかを、詳しく分析した学術論文をもとにしています。

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか 「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか
開沼博

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貧しさゆえに原発に依存し、そこから抜け出せなくなった構造が示されます。その時期が高度成長期と重なり、毎日東京から送られてくるTV放送が豊かさを誘い、欲望を掻き立てられたムラの姿、今となっては哀感を持って読まざるをえませんでした。欲望を刺激され、それを満たすには原発しかなかったのです。

 

そういう人々を、我々はどうして攻められるでしょうか。しかし、代償は高いものとなってしまいました。その責任を負うのは、一義的には東電であり政府なのでしょうが、それらを後押ししていたのは、欲望をベースとした経済・社会づくりに邁進していた、我々すべての日本人なのではないでしょうか。不便を我慢して節電に走るのは、そういう罪悪感が心のどこかにあるからに違いありません。

 

 

越後の山村でも、過疎や高齢化の問題は全く同じでした。ただ幸運にも、欲望を満たすための原発などには無縁で、じっくりと衰退を続けてきたのです。そんな山村で、2000年から三年ごとに現代美術の祭典が開催されています。それを主導しているのが北川フラムです。「大地の芸術際 ~現代美術がムラを変えた」では、ディレクターの立場からの経緯や思いが率直に書かれています。

大地の芸術祭 大地の芸術祭
北川 フラム

by G-Tools

 

私は2006年の第三回と2009年の第四回に訪れました。作品群はもちろんのこと、地域と一体となった取り組みに感激したその裏舞台を少しだけ知ることができました。閉鎖的なムラでなせ、これだけ村民の協力を得られたのか疑問でしたが、その理由もだいたいわかりました。とにかく、話し合うことです。

 

これには辛抱がいる。同じことを何度も説明しなければならない。明るくなくてはならない、たくさんで行っては駄目で、できる限り一人で矢面に立たねばならない。

 

ある意味、原発の誘致も似たような活動なのかもしれません。でも、決定的な違いがある。それは、土地や住民に敬意を抱いているかどうかと欲望にもとづいているかどうかの違いだと感じます。

 

 

同じような貧しい過疎の地方のムラでありながら、大きな違いとなったふたつのムラ。フクシマは避難対象区域となりいつ戻れるかどうかわからない。一方、越後妻有は、現代美術を媒介にしてムラに誇りと活気が甦りつつある。

 

両極端のふたつのムラ、時代の大きな変わり目に現れた二つのムラの物語に、これからの日本という大きなムラの未来を考えずにはおられません。

 

昨日、広島市で開かれた日本母親大会で、女優の吉永小百合さんが以下の発言をしました。

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 「原子力の平和利用という言葉がよく使われていて、私自身あいまいに受け止めていた。『もんじゅ』は恐ろしいと聞いてはいたが、普通の原子力をもっと知っておくべきだった。地震の多い日本では原子力発電所をなくしてほしい」。

 

原爆詩の朗読をライフワークとする吉永さんですが、はじめて原発について言及したそうです。人気商売の芸能人が、政治的発言をすることはリスキーです。実際俳優の山本太郎さんは、それで所属事務所をクビになったそうです。

 

しかし、吉永さんは自分自身の良心に照らし合わせて、普通に考えておかしいと思ったからにはもはや発言を抑えることはできなかったのでしょう。多くの日本人が、同じような状況にあると思います。

 

経団連会長は、脱原発に怒りを露わにしています。どこかで似たようなシーンを見たなあと思っていましたが思い出しました。震災直後に開幕を予定通り開催を決定したプロ野球セリーグのオーナーたち(特に読売)の姿です。これまでのパラダイムであれば、彼らの主張も決して非合理ではありませんでした。しかし、パラダイムが変わっていることに気づかないのは、旧パラダイムでの成功体験が大きい彼らの宿命なのでしょう。憐れといえば憐れです。

 

使用後のゴミの処理方法がないにも関わらず、ゴミの出る作業をし続けることの異常さに、多くの日本人が「普通の感覚」でおかしいと思うようになったのです。これまでは、「お上がおかしなことをするはずはない」との前提がありました。それが、3.11以後大きく崩れたのです。

 

東電が発表したこの夏の電力使用量予測も、いいかげんな数値だったことが、今朝の朝日新聞に書かれていました。いい加減とは、発表する側の東電や経産省に都合がいい数字にするための「いい加減」です。

 

これからは子供が持つような「普通の感覚」で、大きな政治的判断もしていくべきなのでしょう。「大人の判断」は、もうこりごりです。

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