社会: 2016年3月アーカイブ

集団の統合原理

| | コメント(0) | トラックバック(0)

昨日、マンションの管理組合を例に、コミュニティーの難しさについて書きました。そもそも私の問題意識は、ある集団の中でそれぞれが大事にしている様々な価値を、他者とどう認め合い、必然的に生まれる対立に折り合いをつけて統合した組織や社会、コミュニティーにしてゆけばいいのか、にあります。

 

営利目的の企業体であれば、経済的価値だけで押し通せそうですが、私たちが属するのはそうではない集団(マンションの住民から、日本国民、人類レベルまで)のほうが圧倒的に多いはずです。

 

集団を結びつける統合の原理は3つあるとポランニーは指摘しています。それぞれの集団のパターンに従って相互に扶助する「互酬」、集団の中で貨幣や財を一手に集めたうえで、それを法や慣習、権力者の決定によって構成員に配分する「再分配」、市場のもとでの可逆的な個人間・集団間での財・サービスの移動である「交換」、これら三つの統合形態を組み合わせながら社会を形成しているのです。

 

イメージするかつての日本社会は、そのバランスが取れていたのでしょう。交換を原理としている「会社」ではたらきながら、家に帰れば地域コミュニティーの一員としての役割(道路の草刈り、消防団、お祭りでの役務など)を果たす。また、古くから「無尽」と呼ばれる金融面での相互扶助の仕組みがあり、実質的には「再分配」の役割を果たしていたそうです。また、村の篤志家が貧しいが賢い子どもを援助して、学校に通わせたという話もたくさんありました。これも再分配です。

 

こういったバランスのいい統合ができていたのは、個人間の信頼がベースにあったからです。そして、信頼の源泉は、お互い顔を知っており、しかも長期的に離れがたい状況にあることでしょう。長期持続的関係になるので、個人の利害と集団の利害は一致する余地が大きい。地域の環境がよければ、そこに住み続ける自分にとっても嬉しい。

 

考えてみれば、「交換」を基盤にした「会社」も、かつては社会の相似形だったともいえそうです。自分の仕事だけをやればいいのではなく、困っている社員がいれば、できる社員が面倒をみるのは当たり前でした。そこには、自分に何かあれば助けてもらえるという「お互いさま」の精神があります。

 

また、日本企業の賃金カーブは、右肩上がりの角度が他国に比べ急と言われます。つまり、若いうちは生産価値より少なめの給料をもらい、年を取るにつれて生産価値を超えた給料をもらうようになるということです。

 

一見不公平な仕組みのようですが、「生活給」という概念で捉えれば理に適っています。家庭を持ち子供が大きくなるに従って生活費は増えます。それに合わせて給料も増やしていく。「能力給」とはまったく異なるのです。これは、相対的若手から高齢者への「再分配」です。(年金や健康保険も基本的には同じ構造です。)これが成り立つのは、長期持続的関係、すなわち終身雇用的な考え方に社員も経営者も価値をおいている場合です。かつては、能力給より生活給のほうが納得感が大きかった。

 

つまり、日本企業は、一見「交換」原理だけで成り立っている組織を、コミュニティーと同じように三つの統合原理のバランスを重視してきた。社会の相似形ともいえる組織をつくってきたのです。

 

しかし、状況は大きく変わりつつあります。会社は社会やコミュニティーではなく、労働力と賃金を交換する場のよう。さらに、本来は三原理で統合されるべき地域コミュニティーも、「交換」が幅を利かせるようになっています。(お金を払うことで消防団入りを拒否できる等)

 

マンションの住民は、そもそもコミュニティーとの意識すら抱いていないかもしれません(賃借住民が混じっていることもそれを促している)。資産価値の維持向上という交換価値のみで統合しているように見えなくもありません。

 

企業も含め社会が「交換」偏重になっていくなかで、それの歯止めになるのは「公共精神」であり、それを仕組みとして実現させるのは政治のはず。そもそも、すべての基盤にあるべきなのは相互の「信頼」。しかし、それを政治が壊しているのが、現実に起きていることなのかもしれません。

 

以下は、「経済時代の終焉」からの引用です。たまたま、マンション管理組合総会と本書を読んでいる時期が重なり刺激を受けました。

 

経済のゆたかさを「目的」から「結果」へと置き換える、そういう発想の転換が必要だ。経済は経済的な現象だけで成り立っているのではない。経済のゆたかさは、私たちが生きるに値する「善い社会」を構築する過程で派生してくる、ひとつの結果なのである。



経済の時代の終焉 (シリーズ 現代経済の展望)
井手 英策
4000287311

先日私の住むマンションの、年に一回の管理組合総会がありました。今回は、予算などの定例議題に加えて、電気代節約に関する議題が提案されていました。

 

マンションで使用する電気は、当然のことながら東京電力から各戸が購入しています。それを、オリックス電力からマンション全体で一括購入することにより、共有部分の電気代を安くできるという話です。各戸占有部分は値下げの対象になりません。しかし、専有部分の電気代もオリックス電力から購入する契約で、10年間は解約できません。近々始まる電力自由化に伴い、安い電力会社を選べるようになるかもしれませんが、オリックスと契約した時点で10年間それはできなくなります。また、この契約を結ぶには全戸承諾が必要です、また、年に一度、点検のため数分停電させる必要があります。

 

一括購入による共有部分の電気代削減額は、およそ59万円と見積もられました。これは約10%の削減にあたります。全70戸なので、一戸平均で約700円の節約。日本の二人世帯の月平均電気代は約9千円なので、7.8%の削減率です。(ちなみに我が家の月平均電気代は約5千円なので、約14%の削減効果)

 

参考までに現在公表されているENEOSでんきで我が家の節約額をシミュレーションしたところ、月平均で353円の削減と出ました。

 

さあ、どうしましょう??

 

総会での発言は、ほとんどが反対意見でした。いわく、

「停電したらタイマー設定などやり直す必要があり、年寄には無理」

「オリックス電力が事業撤退したらどうなる?」

10年間も縛られるにはいや」

「将来安い電力会社が出たときに契約できないのはいや」

「室内の配電盤の工事が必要とのことだが、今そこに大きな荷物が置いてあり、動かすのが大変」

 

結局、議決はされませんでした。一人途中退席してしまったことで、3/4の定数に一人欠けてしまったからです・・・・。

 

ところで、この件の難しさは、複数のトレードオフがあったことです。

 

・個人(専有部分)のメリット VS マンション全体(共有部分)のメリット

・将来のメリット可能性 VS 10年間の確定メリット

・個人のデメリット(手間)回避 VS 他者(契約希望者)のメリット

 

これがもし企業だったら、削減額の見積もりを判断材料に一括契約締結となる可能性が高いと思います。700円と353円の差は大きいですし、いくら今後自由化で安い新規参入が増えたとしても、今の見込みの半額が10年以内に実現される可能性は低いと考えられます。

 

しかし、マンションの管理組合は必ずしも経済合理性では動きません。マンションは営利組織ではなく、コミュニティーだからです。各戸の権利も平等です。

 

コミュニティーであるからこそ、個人の立場を超えたマンション全体の視点で忌憚なく意見交換をすべきなのですが、その難しさを感じました。

 

経済合理性に慣れ親しんでしまった私たちは、本当の意味で「公共」を理解できるのでしょうか?

 

「人間の集団」を、(経済以外の)何らかの価値を共有する「社会」あるいは「コミュニティー」に作りかえることはできるのでしょうか?

 

ある共通の価値に従って、自分が多少の損を引き受け、他者や全体の得を目指す、そういう思考でみんなが合意するためには、どうしたらいいのでしょう?

 

 

「奪いあい」から「分かちあい」へのモードチェンジは、思った以上に難しいのだなあと実感しました。しかし、ますます成熟社会になっていくわけですから、「分かちあい」の重要性は増すばかりです。

このアーカイブについて

このページには、2016年3月以降に書かれたブログ記事のうち社会カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは社会: 2015年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1