社会: 2009年3月アーカイブ

先日亡くなった加藤周一さんは、終戦時二十代半ばの医学生で、東京大空襲や広島の原爆現場での医療活動に携わったそうです。そういった体験が、その後の思想に決定的だったと言っています。他にも私の履歴書を読むと、多く方の生き方に、戦争体験が強い影響を与えてきたことがわかります。何歳で終戦を迎えたか、ほんの数年の年の差が決定的に影響しているのです。

 

80年代後半の社会人になったばかりの頃、あるドラッカーの著作で「現在のアメリカ人は、史上初めて親の世代より貧しくなりつつある。」とある部分を見つけて、驚いたことを覚えています。当時、経済は成長するのが当たり前で、親より豊かになるのを当然と考えていました。アメリカも大変なんだなあと思っただけで、まさか日本もそうなるとは予想だにしませんでしたが、今、現実となりつつあります。

 

私の世代は、戦争や学生運動のような強烈な共通体験はありません。しかし、バブルとその崩壊、そして小泉改革によるミニバブルとグローバル不況を経験しつつあります。それらを、何歳で経験したかも、その後の生き方に影響を与えることでしょう。例えば、就職時期に重なった世代はまさにそうです。生活環境のみならず、考え方へも影響を及ばさずにはいられません。

 

個人的な体験で言えば、銀行員一年目でバブルを経験し、いきなり理解不能な即物的価値観に圧倒されました(銀行では顕著でした)。 ジュリアナ3.jpg  個人としては、安月給でバブルを謳歌することはかないませんでしたが。そして、バブル崩壊。肌感覚でおかしいと感じるものは、やっぱりおかしいんだ、と妙に納得しました。最近のミニバブルでも、それを確認した思いです。同年代の人は、同じような少し冷めた感覚を持っていると思います。

 

「社会経済情勢X体験年齢」で、一つの世代を括れます。もちろん、この世代の塊も、年齢を重ねるにしたがって、年齢による影響を受けていきます。そう考えると、世代という場合、三パターンあるのではないかと思います。

     年齢に影響される世代(例:親の世代と子の世代の対立)

     純粋にデモグラフィックに定義される世代(例:団塊世代)

     「社会経済情勢X体験年齢」による世代(例:就職氷河期世代)

 

戦後、比較的安定した社会を生きてきた日本人にとって、あまり三番目の世代は重要ではなかったのでしょう。ところが、昨今これだけ不確実性が高まる社会となっては、その意味は大きくなっていくに違いありません。社会や組織の一体感を維持していく際に、その視点を忘れてはならないと思います。

今週の日月で、修善寺の温泉に行ってきました。「あさば」 という老舗の温泉宿です。サービス、食事、風景、お湯など、あらゆるものあさば.jpgが洗練されており、いつ来ても寛ぐことができます。もちろん、お値段も相応ですが。今回最も印象的だったのは、床の間の掛け軸に、大好きな松田正平の書がかかっていたことです。もちろん、宿は私の購読新聞は知っていても、好きな画家の名前までは知らないでしょう。でも、心地よい宿というものは、そういうものです。

 

一転、昨晩の夕食は、「サイゼリヤ」で食べました。経営手法には、興味はあったのですが、そのレストランには初めて入りました。噂に劣らず、その低価格とにこやかな店員の態度には、関心しました。もちろんあさばとは全く異なる料理とサービスですが、値段からすれば、悪くないと感じました。

 

それを実現するために、当社は磨き込まれた仕組みと店員教育を徹底しています。仕組みとは、簡単に言ってしまえば規模の経済性と標準化です。それらの追及により、低価格でそこそこのサービスを実現しています。サイゼリヤでは、顧客もそれを承知で食事に行くわけです。サイゼリヤに限らず、ファミリーレストランという業態そのものがそうですね。サイゼリア.jpg

 

子供の頃は、ファミリーレストランは少なくとも私の周りにはありませんでした。外食とは、美味しくないけど安い店と、気の利いた料理を出す店、美味しいが高い店の三種類でした。その後、外食産業の進化の中で、安いだけの店はなぜか残っていますが、気の利いた店はどんどん消滅していき、ファミリーレストランに代替されていったように思います。美味しいが高い店も、バブル崩壊後は、減少の一途でしょう。

 

ファミリーレストランは、気の利いた料理「もどき」を、豊富なメニューで提供する業態だと思います。気はそれほど利いていないかもしれませんが、種類は豊富です。それまでは、ハンバーグの気の利いた店、スパゲッティの気の利いた店と、メニューによって店を使い分けていたものが一か所ですむ、そういう利便性もあります。探す手間も省けます。値段は、それほど安くはありませんが。サイゼリヤは、さらに美味しくないけど安い店の領域にまで、踏み込んでいます。

 

このような現象を、産業化というのでしょうか。産業化によって、本物「もどき」の製品やサービスを、膨張する中産階級に提供する。これ自体は、庶民にとってはありがたいです。

 

ただ、「もどき」を「もどき」とわかって消費しているうちはいいのですが、それが本物だと勘違いしはしないか、その結果、本物が生き残る余地がなくなってしまいはしないか。どんな分野であっても、一部の本物が、全体の進化を導いていくのだと思います。たとえば、老舗和菓子店がお菓子の分野の進化を支えているといいます。

 

日本の社会的つよみは、ボリューム層である庶民が、本物を見る目を持っていることなのではないかと思います。手間を省くこと、効率を追求することを最大の価値とすれば、本物は失われます。日本人がもともと持っているDNAを思い出したいものです。

東大大学院教授の姜尚中さんが、「若者と職場をつなぐキーワードは『クラフトマンシップ』だ。徒弟制度で腕を磨き、顧客と情動的なやりとりをすることに日本の若者は興味を持っている。」と書いておられました。

 

その理由を推測するに、

    師匠との濃密な関係を通じて、技を獲得できるから

    自分にしかできない何かを表現できるから

    形として目に見えるモノを生みだすことができるから

    生みだしたモノを介して、社会とつながる実感を味わえる

 

といったところでしょうか。こういうものに若者が憧れるということは、それらが今の社会に欠乏しており、かつ必要としているからだと考えられます。

 

自分が生み出したモノによって社会とつながるという喜びは、意外にどんな人間でも持っていると思います。芸術家であっても、自己表現の発露としての作品を観て共感してもらいたいと思っているはずです。豆腐屋さんも、自分が作る美味しい豆腐によって、お客さんに喜んでもらいたいと思っているでしょう。

 

しかし、大企業の組織の一員として、その喜びを味わうことは、実はそれほど簡単ではありません。でも、「大人になるということは、そういうことなんだ」と自分に言い聞かせて、芸術家にも豆腐屋さんにもならず大企業に就職していく。

 

ところが、それはもうそろそろ適切な道とはいえなくなっているのじゃないか、と若者は直観的に気づいているのではないでしょうか。

 

先日、東京都美術館の「生活と芸術 アート&クラフト展」を観てきました。19世紀後半のイギリスで、行き過ぎた工業化の反動として、アート&クラフト運動が興ったそうです。

 

 

アート&クラフト展.jpg 案外、若者は炭鉱のカナリアと同じかもしれません。その鳴声を敏感に聞き取り、社会を変えていくことが、今の大人に求められているのではないでしょうか。これは、決して昔に戻ろうということではありません。21世紀にふさわしい『クラフトマンシップ』を見つけていくことだと思います。

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