社会: 2010年4月アーカイブ

MBO(目標による管理)は、今は多くの企業で取り入れられているようです。現在のレベルに対して目標を設定する。それを上司と合意し、半年とか一年後にその進捗を双方で確認するという制度ですね。

 

非常に合理的だしわかりやすく、評価にも使用されることもあるようです。しかし、実態の運用はどうなっているのでしょうか。私の個人的経験からも、ギャップを示し、それを埋めていくといういかにも合理的なプロセスが、どうもしっくりいかないのです。

 

その気持ち悪い感は、どうやら日本人の特性に根ざしているように最近思っています。課長とMBOインタビュー中の営業マンの、心の中を想像してみましょう。

 

「そんな!今期1億円の実績を上げたからって、来期いきなり1.5億円の目標はないでしょう。今期は、三年かけて仕込んだ新規大型先が受注できたから1億いったけど、そうそうそんなネタはないよ。だいたい年初から急激に景気が冷え込んでいるのは課長も知っているじゃないか。一年後どうなるかなんて、皆目わからないよ。そんな空手形切って、目標達成できなかったらボーナスカットの口実にするつもりだろ。上から振られた目標だろうけど、部下に割り振ればそれで達成した気になっているのだから、いい気なもんだ・・。」

 

こんなことを心の中で思っていても、口では「わかりました。大変とは思いますが、精一杯がんばってみます。」なんて、言ってしまうのでしょう。

 

課長のほうも、彼の心の底はよくわかっているのです。でも、仕事だからお互いMBOインタビューの席で、正しい上司と部下を演じなければならないのです。

 

 

さて、私が日本人の特性を言ったのは、この時間に対する観念です。我々にとっては、過去は水に流すべき対象であり、未来はうつろいやすく捉えられないはかないものなのです。だから、「今」に生きるしかない。

 

加藤周一が、「日本文化における時間と空間」にこう書いています。

 

無限の直線としての時間は、分割して構造化することはできない。すべての事件は神話の神々と同じように、時間直線上で、「次々に」生まれる。それぞれの事件の現在=「今」の継起が時間に他ならない。すでに過ぎ去った事件の全体が当面の「今」の意味を決定するのではなく、また来るべき事件の全体が「今」の目標になるのではない。時間の無限の流れは捉え難く、捉え得るのは「今」だけであるから、それぞれの「今」が、時間の軸における現実の中心になるだろう。そこでは人が「今」に生きる。

日本文化における時間と空間 日本文化における時間と空間

by G-Tools

 

 

このような時間に対する感覚は日本人特有のものでしょう。キリスト教の国々では、時間の始めと終わりが明確で、そこから分節して現在を把握するそうです。

 

人の時間感覚は、そう簡単に変わるものではありません。未来から逆算するのではない、「今」を重視するマネジメントを考えてみることも必要かもしれません。

 

もうひとつ、日本人の特徴はまじめで過剰適応することです。一旦目標達成を約束したら、どんな手を使ってでも約束を守ろうとする傾向があります。(もちろん美徳ともいえますが)いろいろ言われていますが、成果主義失敗の原因も、こんなところにもあるのかもしれません。

 

 

日本人は(ステレオタイプですが)、きちんと対すれば決して「今」をおろそかにはしないはずです。体質に合わない合理的経営を押し進めるのも、ほどほどにしたいものです。

 

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補足しておきますが、MBO自体は、本来の育成を目的に使用することにおいては、有効な手段と思います。目標をキーにして、上司と部下がダイアログすることは、かつてのようには、なかなか一対一でダイアログする機会が取れない現状を考えれば、なおそうでしょう。問題は、安易にMBOを評価に使用することだと思います。

この週末は信州諏訪の隣町に滞在し、地元ケーブル局による御柱祭の生中継を堪能していました。(朝8時ごろから夜7時ごろまで生中継。終了後、即座にすべてを再放送!)御柱祭とは、諏訪大社の4つの宮それぞれに建つ各4本の御柱(ご神木)を、申年と寅年に建て替える祭礼です。計16本の御柱を、山の上からそれぞれのお宮まで曳いていく役目は、町(集落)ごとに割り振られます。

 

六年ごとに巡ってくるお祭りですが、かつて祭礼の年には、祭り準備に資金を振り向けるため家の普請や婚礼が禁止されていたほど、気合いのはいったお祭なのです。住民総出といっても言い過ぎではないでしょう。

 

そのハイライトは、10トンを超えるような御柱を急斜面から引き落とす、「木落し」です。御柱の上には数人の氏子がまたがり、御柱もろとも   250px-ONBASHIRA.jpg滑走するのです。一歩間違えれば、巨木の下敷きになります。非常に危険なスリルに満ちた光景が展開します。それがこの週末に行われました。

 

多くの行動の合図は木遣りです。木遣りが、エネルギーを与え、またタイミング指示の役割をはたしています。TVでではありましたが、こちらにまで御柱を曳く氏子らの思いや一体感まで感じられたほどです。

 

 

命懸けの祭礼に、なぜ地域の人々はここまで燃えるのでしょうか?損得でないことだけは確かです。そこに「つながり」を実感できるからではないでしょうか。家族との、地域の人々との、諏訪の神様との、聖なる山との、そして町の歴史とのつながりです。

 

人は、本能的に「つながり」を求めています。ほんの数十年前までは「つながり」がなければ、物理的にも生きていけなかった。「つながり」の装置としてのお祭りが、地方には多数保存されています。

 

しかし、社会が便利(あるいは物質的に豊か)になり、「つながり」が「わずらわしさ」に感じられるようになった。そして、「つながり」と便利さがトレードオフとなり、便利さを選んだ。これは、それほど昔のことではありません。私が社会人になった頃は、相部屋の社員寮は普通でしたが、その後個室が当たり前に急速に変わりました。

 

このままいくのかと思いきや、また時代はひと回りしだしているようです。一時は絶滅に向かうかと思われた社員寮が、最近また増えだしたそうです。社内旅行や社員運動会もしかり。若い世代を中心に「つながり」を「便利さ」よりも重視する傾向が見られるようなのです。各地のお祭りも人気です。

 

 

この傾向をどう見るべきなのでしょうか?人間が本来持つ「つながり」の再評価は良いことでしょう。しかし、本来は「自律した個人」による「つながり」を目指すべきだったのに、依然「あいまいな私」による「つながり」だとしたら、単なる先祖返りではないでしょうか。会社につながりを求めるのも、昔と同じなのでしょうか。

 

SNSもツイッターも「つながり」を促す仕組みといわれていますが、その「つながり」は御柱祭に見られたような「つながり」と本質的に同じものなのでしょうか。もし、異なるものだとすれば、どのように質的に変わったのでしょうか?

 

古代から続く御柱祭の興奮を味わいながら、そんなことを考えてしましました。

 

世の中的には、本日から新年度です。今日入社した新入社員は1987年生まれが大半です。彼らは、バブル崩壊後の「失われたXX年」に人生を送ってきた人たちです。それまでの世代とは、大きく価値観が異なるのは必然なのでしょう。

 

 

ところで、昨年9月発売された三浦展著「シンプル族の反乱」を今ごろ読みました。漠然と感じてきたことを、データも使いながら示されると、やはり納得感がありました。

 シンプル族の反乱
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百貨店の大敗もユニクロや無印良品の好調も、単なる不景気のためでなく構造的なものです。本書では、そこまで言及していませんが、戦後一貫して続いてきたアメリカ絶対主義から、日本的価値観への回帰が起きていることが原因だと思います。「消費することが嬉しい」から「消費することが恥ずかしい」への一大パラダイムシフトが現在起きているのです。その変化は、バブル崩壊以降徐々に起きていますが、ここにきて大きな潮目が変わってきました。そのきっかけは、2008年のリーマンショックだったのは間違いないでしょう。

 

しかし、考えてみればアメリカがリードしてきた大量消費社会は、高度成長以降のわずか40年ちょっとのものです。その時代の空気をたっぷり吸った世代が、日本社会の中核だったわけですが、当然年を経るにしたがって主役は交代しつつあります。(ただし、政治の世界では、高齢者ほど投票率が高いため、社会の変化よりずっと遅れるでしょう)

 

 

さて、これからの日本社会の理想は、(極端な言い方ですが)江戸時代に戻ることなのかもしれません。成長より成熟を志向するということです。「もったいない」に代表されるように、自然と協調し、ホンモノを長く使うことを大切にし、身の丈にあった生活をおくる。人とつながることに価値をおき、(物質ではなく)内面の豊かさを求める、そんなくらしでしょうか。

 

資本主義が人間の物質的欲望をエンジンとして発展してきたのに対して、その欲望を否定し、「足ることを知る」ことに価値を置くわけですから、これまでの資本主義のロジックが通用しないのは明らかです。

 

そうなると、そういった国内市場をベースにした日本企業は立ち行かなくなるのではという懸念があるでしょう。しかし、そうでしょうか。私は楽観的です。

 

現在日本で起きているパラダイム転換は、地球温暖化対策の流れも受けて、世界的なトレンドになりつつあると考えます。そのトレンドを半歩先に日本は経験しているわけです。(公害問題と同じですね)ましてや、そのトレンドとは、かつての日本の得意技です。このようなある意味な特殊ですが肥沃な国内市場で鍛えられた日本企業は、グローバルでも成功する可能性を秘めています。無印良品やユニクロが、海外でも評価されつつあるのは、その萌芽だと思います。

 

あとは、日本企業がいかにパラダイム転換を認識し、それに対応した戦略を大胆に採ることができるか、その能力にかかっているのです。

 

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