今月来日して経済人や識者などと議論した韓国有力各紙の論説委員団がこう驚いていたと、今朝の日経にありました。
「誰と会っても韓国に学ばなければと言われて驚いた。五輪でキム・ヨナが真央ちゃんに買ったのでそのお愛想かと思ったが、こんなことは初めてだ。」
確かに、最近急に韓国に学べ的な論調が増えてきたように感じます。
学ぶこと自体はよいことですが、気になるには、対象を上に見るか下に見るかしかできない我々日本人の姿勢、というか癖です。80年代のバブルのころはアメリカからもう学ぶものはないという姿勢だったのが、崩壊後実際はアメリカンスタンダードをグローバルスタンダードと呼び礼賛。この構図は、戦中と戦後のアメリカとの関係の相似形のようでした。
中国との関係について、寺島実郎がこう書いています。
「日本人の中国に対する態度は、夏目漱石も語っているように、日清戦争を境にして激変したといわれる。日清戦争前の中国は、日本人にとって尊敬、信奉、敬服の対象だった。(中略)しかし、日清戦争に勝って、それが変わった。一転して中国を侮辱し始めるようになるのである。それまで、ある意味、劣等感さえ抱いてきたのが、『優越感』に反転してしまったのだ。」(「世界を知る力」)
なぜ、対等なパートナーとして対象を捉えられないのでしょうか。鳩山首相は、「日米を対等なパートナーの関係に」と言っていますが、歴史を見る限りそう簡単なことではないでしょう。
これは、最近も数多く話題となった合併交渉の破談にも共通するような気がします。成立したM&Aのほとんどが救済合併型です。対等合併はなかなか成立しませんし、成立してもうまく運営できる例はまれです。(JFEは数少ない成功事例でしょう)
合併相手を、強大な征服者か、逆に助けを求める貧弱な衰退者のどちらかで捉えてしまいがちです。これは日本人が、同じムラの中以外とは、対等な関係での付き合いの体験が少ないことが関係していると思わざるをえません。上か下しかないのです。加藤周一は、上か下か、上にもなり下にもなる関係(芸能者、白拍子など)の三パターンで捉えていました。いずれにしろ、日本の歴史や風土に根差す思考パターンであり、そう簡単には変えられないことでしょう。
こういう癖があるということを認識したうえで、他者との付き合いを深めていくしか方法はありません。
他者から学ぶことは、決して「上」から授かる/奉ることだけではありません。対等な関係だからこそ深く学べるという面も多いと思います。卑屈にならず、驕りもせず、虚心坦懐な姿勢こそが学びの極意かもしれません。