社会: 2010年3月アーカイブ

今月来日して経済人や識者などと議論した韓国有力各紙の論説委員団がこう驚いていたと、今朝の日経にありました。

 

「誰と会っても韓国に学ばなければと言われて驚いた。五輪でキム・ヨナが真央ちゃんに買ったのでそのお愛想かと思ったが、こんなことは初めてだ。」

 

確かに、最近急に韓国に学べ的な論調が増えてきたように感じます。

 

学ぶこと自体はよいことですが、気になるには、対象を上に見るか下に見るかしかできない我々日本人の姿勢、というか癖です。80年代のバブルのころはアメリカからもう学ぶものはないという姿勢だったのが、崩壊後実際はアメリカンスタンダードをグローバルスタンダードと呼び礼賛。この構図は、戦中と戦後のアメリカとの関係の相似形のようでした。

 

中国との関係について、寺島実郎がこう書いています。

 

「日本人の中国に対する態度は、夏目漱石も語っているように、日清戦争を境にして激変したといわれる。日清戦争前の中国は、日本人にとって尊敬、信奉、敬服の対象だった。(中略)しかし、日清戦争に勝って、それが変わった。一転して中国を侮辱し始めるようになるのである。それまで、ある意味、劣等感さえ抱いてきたのが、『優越感』に反転してしまったのだ。」(「世界を知る力」)

 

なぜ、対等なパートナーとして対象を捉えられないのでしょうか。鳩山首相は、「日米を対等なパートナーの関係に」と言っていますが、歴史を見る限りそう簡単なことではないでしょう。

 

 

これは、最近も数多く話題となった合併交渉の破談にも共通するような気がします。成立したM&Aのほとんどが救済合併型です。対等合併はなかなか成立しませんし、成立してもうまく運営できる例はまれです。(JFEは数少ない成功事例でしょう)

 

合併相手を、強大な征服者か、逆に助けを求める貧弱な衰退者のどちらかで捉えてしまいがちです。これは日本人が、同じムラの中以外とは、対等な関係での付き合いの体験が少ないことが関係していると思わざるをえません。上か下しかないのです。加藤周一は、上か下か、上にもなり下にもなる関係(芸能者、白拍子など)の三パターンで捉えていました。いずれにしろ、日本の歴史や風土に根差す思考パターンであり、そう簡単には変えられないことでしょう。

 

こういう癖があるということを認識したうえで、他者との付き合いを深めていくしか方法はありません。

 

 

他者から学ぶことは、決して「上」から授かる/奉ることだけではありません。対等な関係だからこそ深く学べるという面も多いと思います。卑屈にならず、驕りもせず、虚心坦懐な姿勢こそが学びの極意かもしれません。

昨晩、よくいく日帰り温泉での出来事です。サウナに一人で入っていると、突然小学校低学年くらいの男の子が入ってきて、隣に座って話しかけてきました。

 

「ねえ、マンモスがいたくらいの地球の始めのころで、どんな生き物が好き?」

 

「そうだね、恐竜かな。」

 

「どの恐竜が好き?」

 

まんまと彼の恐竜談義に誘導されてしまいました。サウナが暑くなったのでしょう。

 

「まだ、出ないの? じゃあ、ドアの外で待っているね」

 

その後、露天風呂でも彼の豊富な恐竜の知識を拝聴することができました。

 

 

小学生低学年くらいまでは、彼のように自分と他人との間の壁はあまりないでしょう。でも、社会化するということは、ある意味その壁を作ることです。中学年くらいから、自意識も芽生え、日本人の大人になるための、ウチとソトの境界を体得していきます。最近、小学校の男子トイレで、大きいほうの用をたすことができない子供が増えており、男子トイレもすべて個室に改装する学校が出てきたとの記事を読みました。日本における社会化の行き過ぎた現象かもしれません。(ソトである学校で、ウチですべき大はできない!?)

 

ウチとソトの境界は、もちろん重要です。一方で、いずれ境界を下げることも学ばなければ、適切なコミュニケーションははかれません。では、それはいつ頃起きるのでしょうか。かつては、大人として社会で生きていくと認められる時期、つまり元服がその印だったのでしょう。現代で言えば、成人式?いや、きっと社会人として独り立ちした時に相当するのでしょう。

 

しかし、自分のことを考えても、新社会人になった頃は、まだまだ境界が残っていた気がします。境界をある程度コントロールできるようになったのは、思い返せば、社会人としての自分の貢献が、第三者(社内の人間ではなく、お客さんや取引先など)のヨソの人に認めてもらったときのような気がします。(小学校中学年頃から、随分長い時間がかかったものです)

 

 

便利な時代になればなるほど、そのタイミングは遅くなっていくのかもしれません。価値観やスタイルは、世代でどんどん変わっていますが、ウチとソトの境界のような、日本人の根底に横たわった思考の枠組みは、案外変わらず、ただ、時期や現われ方に変化があるだけなのかもしれません。

 

ウチとソトは、自分自身から始まって家やムラから国家、文化圏などまでが入れ子状態になっています。グローバルな環境でもまれる昨今、あらためてウチとソトという思考枠組みについて、考えてみる必要があるように思います。

最近、GNP世界第二位の座を中国にいつ追い抜かれるか、といった記事が散見されます。また、失業率の変動にも一喜一憂しています。なんとなく、へんだなあと思っていました。

 

人口13億人の中国と一億人強の日本のGNPを比較することにどんな意味があるのか。さらに、数ポイントの失業率の変動よりも、最近とみに日中多く見かける年金受給対象の高齢者の増加、すなわち労働人口の減少のほうが、はるかに経済へのインパクトが大きいのではないかと感じていました。しかし、政府の政策目標は、GDP総額であり失業率低下にあります。

 

 

そう思っていたところ、的確な解説を発見しました。日経朝刊3/12の「大機小機」の「人口減少時代の経済目標」というコラムです。

 

人口減少社会において、一人当たり所得が不変であってもGDP総額は減少する。ところが、一人当たり所得さえ同じかまたは増えるのであれば、経済規模は縮小しても構わないのだ。問題は一人当たり所得であって、経済規模は我々の福祉水準とは無関係なのである。

 しかも、その一人当たりGDPは、08年のレベルが96年よりも低く、ドルベースで国際比較するとOECD加盟国中19位というありさまである。

 

雇用については、失業率ではなく就業率(人口に占める就業者の割合)を目標とすべきだ。(中略)この失業率が低い方が良いことは当然だが、人口減少社会において問題となるのは、「働く意思を持つ人々」がどの程度存在するかなのである。

 人口減少経済においては、放置していると少子化と高齢化の進展により就業率が低下する。すると、就業者一人当たりの付加価値生産額(生産性)が同じでも、国民一人当たりの所得は低下してしまう。

 これを防ぐには、就業者一人当たりの生産性を高めるとともに、女性や高齢者の就業率を引き上げることによって、働く意思を持った人の数を増やさなければならない。

 

 

 

中国との順位争いや、失業対策、少子化対策ばかりにかかずらわっていても、日本経済の将来像は見えてきません。今の日本が追い求めるべきなのは、規模ではなく質であり、単純な成長ではなく豊かさを実感できるための成長であるべきです。

 

マクロの環境が大きく変われば、目標とすべき指標も変えるべきです。しかし、長く、人口増加やインフレが当然だった時代を生きてきた人間にとって、その前提を変えることは至難の技なのです。

 

目標指標はトップしか変えることはできません。歴史観と批判的思考力を持ったトップこそが、将来のビジョンを示し、その到達に資するあらたな目標を設定すべきです。

 

それができない場合は、政府であろうが企業であろうが、ガバナンスを変えるしかありません。昨年の政権交代は、そういう文脈の中で実現したと理解しているのですが・・・。

 

政官とのもたれあいの中でコントロール不能になったJALと、現在の日本がだぶって仕方ありません。

ライブドア、コムスン、村上ファンド・・・。数年前からベンチャー企業への旗色は悪く、近年はあまりベンチャーという言葉自体を聞かなくなりました。それを称して、日本は保守化してイノベーションが生まれなくなってしまうとのコメントも珍しくありません。

 

本当にそうなんでしょうか。そもそもベンチャー企業とは何を指すのか。リスクを取って新たに企業を興すことを指すのであれば、ずっと昔から営々と存在しています。開業率は、80年頃以降、5%あたりで推移しています。直近で見ると91年-93年の2.7%をボトムに04年-06年の5.1%までほぼ上昇を続けています。(「中小企業白書2009年版」)

 

世の中でいうベンチャーとは、それとは少し違うニュアンスで使われているように感じます。ITやサービス業などの既存大手競合が存在しないマーケットで起業し、急成長を遂げ、短期間で上場を果たし、若手起業家として名声を得るというイメージでしょうか。上場を手段ではなく、目的と考える人たちです。

 

確かに一時期、そういう起業家像がもてはやされた時期がありました。産業構造が大きく変わる時期には、いつの時代にもそういうことが起こります。それを煽る金融機関や投資家がいるからです。しかし、いずれ変化が落ち着けば、日本経済全体が、祭りの後の債務処理に追われるわけです。それが揺り戻しです。「踊る阿呆に見る阿呆」といいますが、見るだけでは済まずお金を入れるからです。

 

近年のミニバブルでは、産業構造変化の波(インターネットの進化)に加えて、マネー資本主義の世界的ブームが重なり、波が何倍にも増幅されました。それに踊らされ、一生かかっても使えないような莫大な資産を獲得することを夢見て起業する人を、ベンチャー起業家と呼ぶなら、自然な淘汰が今起きているにすぎないといえるでしょう。イノベーションとは別の次元の問題です。

 

最近では、上場などはなから目指さず、世の中への貢献を第一に事業をする社会起業家が、日本でも増えつつあります。前の世代の「踊る阿呆」の姿を見て、別の価値観で起業する人たちです。まだまだ萌芽ですが、そこにかすかな期待を感じます。しかし、それがまたファッションになってしまわないように、注意しなければなりません。

 

 

もし、日本でイノベーションを盛んにすることが目的であれば、付焼刃の起業家支援やハイリスク市場整備ではなく、大企業のスリム化を促すことに重点を置くべきと考えます。日本経済の非効率性は中小企業にではなく、何でも抱え込む習性のある大企業に温存されています。技術や人材などがそこから解き放たれて、初めてイノベーションがそこここで起こるようになるのではないでしょうか。

 

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