あまりに有名なニーバーの祈り。
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
ラインホールド・ニーバー(大木英夫
訳)
O GOD, GIVE US
SERENITY TO
ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM
THE OTHER
「変えることのできないもの」とは、死や老、あるいは他人と完全に理解しあうのは不可能なことのように、人間として抵抗できず受け入れざるをえないものを指していると思います。そういったものには、抗うよりも受け入れることを学ぶべき。
翻訳では、最初に「変えることのできるもの(SHOULD BE CHANGED)」といっていますが、本来は、「変えるべきもの」という訳のほうがしっくりきます。(また、なぜ大木氏はあえて原文と順序を変え、「変えることのできるもの」を先に持ってきたのかは不明)
また、「変えるべきもの」に対して「変えるべきでないもの」もあるはずです。特に近年は、変えることが善であり、変えないことは悪だという、空気も大きくなりつつあるようです。
そこで、「変えるべきでないもの」のフレーズを加えたいと思っています。
変えるべきでないものについて、
それを守り続ける頑固さを与えたまえ。
以下、私なりに追加修正してみます。
神よ、
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
変えるべきものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えるべきでないものについて、
それを守り続ける頑固さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものと、変えるべきでないものを、識別する知恵を与えたまえ。
つまり、まずその是非や価値は問わず、例外なく存在する「変えることのできないもの」に言及し、次に「変えることができるもの」を「変えるべきもの」と「変えるべきでないもの」に峻別し、双方に対して言及する、こういう流れのほうが、私にはしっくりくるのです。
近頃特に、「変えるべきでないこと」は、案外忘れられている気がします。古代より舶来品や舶来思想に滅法弱い日本人ですから、「変える」ことへの志向というか憧れはDNAに染み付いていますので、別に最近だけのことではありませんが。
ただ、面白いのは、単純にそのまま日本に取り入れたものは実はあまり多くはなく、フィルターを掛けたのち、日本人に適合するように変形して取り入れていることです。例えば、律令制を中国から輸入しましたが、その根幹をなす科挙制度は採り入れませんでした。禅や仏教もそうですね。
このように日本人は、古来「変えるべきもの」(取り入れるべきもの)と「変えるべきでないもの」(取り入れないもの)を峻別する賢さを持っていたのではないでしょうか。
これこそが、日本人が「変えるべきでないもの」だと思うのですが、では「変えるべきでない」と判断する基準は何でしょうか?そこに、日本人の思想の古層あるいは原型、構造のようなものがあると思われます。
こういう時代だからこそ、それについて深く考えてみるべきではないでしょうか。